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第八章:恐怖の総和(きょうふのそうわ)

声明しょうみょうの響きが、いつの間にか変質していた。

唐突な変化ではない。緩やかに、少しずつ――誰かが音量のツマミを一段ずつ絞り、超度(浄化)の音節を一つ、また一つと「別の何か」に差し替えていくような。ソファで半睡半醒の状態にあった俺の意識が完全に沈み込む直前、その音はテレビの中から這い出し、通風管を伝って壁の隙間へと染み込んでいった。それは湿り気を帯びた、緩慢に蠢く圧搾音となり、コンクリートの中で自らの道を探し求めていた。

窓の外では豪雨が叩きつけている。

霧は、まだそこにある。

俺は沈んでいった。

夢の中には色がなかった。ただ、灰白色の世界。

見渡す限りのあしの茂み。風が吹き抜けても音はなく、ただ葦の茎が互いに擦れ合う細かな感覚だけがある。遠くで誰かが低く囁いているようだが、決して聞き取ることはできない。

彼女がそこにいた。

花柄のワンピース。俺はその服を知っている――母が毎年、清明節(墓参りの日)に着ていたものだ。着慣れているから、と彼女は言っていた。彼女は地面にしゃがみ込み、両手で必死に泥を掘り返していた。指の間から泥が溢れ出しても、彼女は休むことなく掘り続け、掘り続けている。何かが下に埋まっていて、ある期限が来る前に見つけ出さなければならないかのように。

「母さん……?」

叫ぼうとしたが、喉に冷え固まったアスファルトを流し込まれたように、掠れた吐息が漏れるだけだった。その声は、彼女の背中に届くことすらない。

彼女の動きが止まった。

その場に硬直し、両手は泥の中に埋まったまま、丸二秒間静止した――それは一時停止ボタンを押したかのような、不自然な静止だった。

そして、彼女はゆっくりと振り向いた。

それは母の顔だったが、同時に母ではなかった。本来五官があるべき場所は、誰かが消しゴムで中心から擦り取ったかのように何も残っておらず、ただ滑らかで暗い空白が広がっている。その中心には、底知れぬ「穴」が開いていた。まるで、どこか別の場所へと通じる入り口のように。

「……士達シタツ……」

声は口からではなく、その穴から発せられていた。鼓膜を、脳を迂回し、直接脊髄を震わせて、より深い場所で残響する。

「士達……逃げて……」

「母さん――!」

「見てはダメ、」彼女は言った。声が砕け始め、何らかの干渉――信号が何者かによって遮断されたかのようなノイズが混ざる。「あの方が、扉を叩いている……あの方は――を使って――」

ノイズ。

「――叩いている……」

彼女の姿が中心から裂けた。砕けるのではない、裂けたのだ――紙が裏側から突き破られるように。裂け目から暗紫色の触手が噴き出し、速く、大量に、灰白色の空を胃が痙攣するような深紫色に染め上げ、蔓延し、拡散し、あしの茂みすべてを飲み込んでいく――。

「……何を夢見ていた……?」

問いではない。確認だ――自分が本当に何も思い出せないことへの確認。

夢の中に何かがいた。分かっているが、目を開けた瞬間にその記憶は霧散した。林口リンコウの霧が記憶からそれを引き抜き、跡形もなく消し去ったかのように。

だが、俺の体は覚えていた。

産毛が逆立ち、神経が張り詰め、首筋には言いようのない寒気が走る。エアコンの冷気ではない。どこかがおかしい、どこかに危険が潜んでいるという本能の警報が、静かに、執拗に、脳内で鳴り響いている。

寝室のドアが開いた。

葉綺安(イェ・キアン)がそこに立っていた。顔色は死人のように青白く、寝る前にあったわずかな血色は消え失せている。彼女の視線は俺を通り越し、玄関へと釘付けになっていた。指先が微かに震えている。

周士達ジョウ・シーダー、」彼女が声を潜めた。「聞こえる……?」

俺は起き上がり、彼女の視線を追って防火扉を見据えた。

「コン、コン、コン。」

リズムは緩やかだ。催促ではない、何かの儀式のようだ。一打ずつの間隔は不快なほど正確で、誰かがドアの外で秒数を数えているかのようだった。

そして、声が届いた。

ドアの隙間から、あの薄い隙間から、幽霊のように染み込んできた――。

阿達アター……私よ……開けてちょうだい……」

俺の呼吸が半秒止まった。

それは、母の声だった。

似ているのではない、少し近いのでもない――あの声そのものだ。俺を小名(幼名)で呼ぶあの頻率、これまでの人生で数千回と耳にし、今はもう二度と聞くことのできないはずのあの声が、ドアの隙間から這い入り、リビングの空気に、俺の鼓膜に落ちた。正確で、懐かしく、立ち上がってドアを開けたくなるような、そんな声。

俺は動かなかった。

ドアを凝視したまま、喉仏を動かして何かを飲み込んだ。

「あれは……誰?」

影の中に縮こまった葉綺安の声は、消え入りそうなほど細い。

「母さんだ、」俺は言った。

一秒置いて、続けた。

「だが、母さんはもう何年も前に他界している。」

俺は無理やり脳を現実に引き戻した。

「それに……この声には、生臭い『なまぐささ』が混じっている。」

外からの呼びかけは続いていた。粘り気を帯びた周波数は、声の表皮を剥ぎ取れば、中から流れ出すものは声とは全く別物であることを示唆していた――それは、古く、飢えた何かが、拾い上げた「都合の良い顔」を被って喋っているだけなのだ。

電灯が、明滅した。

電圧が不安定な時の明滅ではない。何かが光に触れ、それに条件反射で震えたかのような瞬き――点き、消え、また点き、そして安定した。だが、安定した後の光は先ほどより一段階暗くなっていた。あの一瞬の隙に何かが入り込み、光源の中の「何か」を喰らってしまったかのように。

林雨瞳(リン・ユートン)が寝室から飛び出してきた。

彼女は両手で保冷ボトルと神主牌を必死に抱え、胸元に押し抱いている。その表情は恐怖ではない――「これが何であるかを知り、ゆえにその深刻さを理解している」者のそれであり、恐怖よりも凄惨なものだった。

「ドアを開けてはダメ。」

彼女の声は低かったが、はっきりとしていた。自らその違反の結果を目撃したことのある「規則」を陳述するかのように。

そこで俺はようやく、あることに気づいた――。

雨音が消えていた。

いつからだろうか。先ほどまで窓の外で激しく叩きつけていた豪雨は、密やかに退場していた。代わりに聞こえてくるのは、どこから発せられているのかも分からない「ザワザワ」という音だ。重苦しく、執拗で、無数の巨大な何かが建物の外壁を這い回り、入り口を、隙間を探り当てようと試行錯誤しているような音。

「外を、」雨瞳が言った。「あなたたちは見てはダメ。」

そう言いながら、彼女自身がカーテンの端を少しだけ撥ね上げた。

俺は歩み寄り、一瞥した。

後に、その行動を激しく後悔することになる。

林口リンコウの街並みが消えていた。

霧に隠されたのではない。それらはもう、そこには存在しないのだ――街灯も、看板も、コンビニの冷光も、深夜に走るタクシーも、すべてが消失していた。代わりに広がっていたのは、固体かと思えるほど濃密な暗紫色の霧だ。それは地面から湧き上がり、通りを飲み込み、何も残してはいない。街灯の光だけは残っていたが、光そのものが歪み、巨大な冷光を放つ球体へと膨張していた。それらは霧の中に整然と並び、俺の知らない何かの「眼」のように、幾列にも渡ってこの建物を静かに見下ろしている。

国道へと続く方向では、空間が裂けていた。

道が断たれたのではない、橋が崩れたのでもない――あの方向の空間そのものに「亀裂」が入っていた。誰かが現実の表面を引き裂き、見せてはならない中身を露呈させた後、その開口部を無理やり封じ込めたかのような、視線を留めることすら拒絶する不自然な断絶。

俺はカーテンを下ろした。

「路が絶たれたわ、」葉綺安(イェ・キアン)の声が背後から聞こえた。顔色は鉄青だが、その平静さは無理に繕ったものだ。「通信も遮断されている。」

俺は数秒間その場に立ち尽くし、今見た光景を脳内で反芻した。そして、その意味を深く考えることを一時的に放棄することに決めた。

現在の問題はただ一つ。俺たちはここに閉じ込められた、ということだ。

馬三娘マー・サンニャン牛小琴ニウ・シャオチンは保冷ボトルの中で眠り、二人とも使い物にならない。青い煙一筋さえ出す余裕もないだろう。林雨瞳の「黒い心臓」は今も彼女を消耗させ続け、葉綺安は昨夜の涙の跡が引いていない。戦えるのは俺だけだ。手元にある唯一の武器は、牛小琴の装備バッグ。中に何が入っているかさえ、まだ知らない。

俺は、リビングをぐるりと見渡した。

四人の人間、二柱の使い物にならない鬼差、そして今も何かが母の声で叩き続けているドア。

「いいか、」俺は言った。「計画は単純だ。夜明けまで耐え、駐車場へ降り、車でここを離れる。」

誰も反対しなかった。

おそらく、これ以上の選択肢など存在しないからだ。

ドアの外の「母」の声が、突如として止んだ。

次第に静かになったのではない、瞬時に切断されたのだ――その声は、どこかで電源を引き抜かれたかのように、余韻すら残さず綺麗に消え失せた。

リビングには沈黙が流れる。

俺はドアを凝視し、待った。

三秒。五秒。十秒。

何も起きない。

もしかすると、あいつは業を煮やして立ち去ったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。

後になって自分に言い聞かせた。あの瞬間なら、まともな人間なら誰だってそう思うはずだ、と。

「ドンッ――!」

鋼鉄のドアが激しく震えた。

ノックではない、衝突だ――全身を叩きつけるような衝撃。ドア枠のネジが唸りを上げ、床からは微かな振動が伝わってくる。俺は無意識に半歩後退った。

「ドンッ! ドンッ――!」

そして、声が響いた。

先ほどまでの声とは、全く違う。

さっきまでの声は柔らかく、粘り気があり、母の周波数で俺の幼名を呼んでいた。だが、この声は違う。台湾で育った者なら誰もが、ある週末の朝に耳にしたことのあるような声だ。鋭く、硬く、理由なき「天然の権威」を帯びた響き。まるでその声には最初からそう話す資格があり、一度として己を疑ったことのないような――。

葉綺安(イェ・キアン)、このアマ……! 帰ってきたなら挨拶くらいしなさいよ! 下の警備員から連絡がなきゃ、戻ってるなんて知らなかったわよ!」

俺は葉綺安を振り返った。

彼女は悲鳴を上げず、泣きもしなかった。

ただそこに立ち尽くし、一瞬だけ呼吸を止めた。その声が聞こえた瞬間、彼女の体がある「モード」に自動的に切り替わったかのようだった。逃げるのでも、抗うのでもない。それは「縮小」だ。自分を極限まで小さくし、その声が通り過ぎる時に見つからないように祈るような、そんな姿。

彼女の手が、無意識に袖口の中へと縮こまるのを、俺は見た。

俺は何も言わず、再びドアに向き直った。

「うわあ……」俺は呆れて呟いた。「開口一番それかよ。今日はえらく威勢がいいな。」

「ドォォン!!」

「男!? 男の声なの!?」

ドアの向こうの声が一オクターブ跳ね上がった。その周波数には聞き覚えがある。台湾の母親が「説得モード」から「戦争モード」へと切り替わる直前の、あの独特のトーン。速く、正確で、相手に反論の隙を与えない。

「男ですって!? いいわ……この泥棒猫! 外で男を飼うなんて! 私にこの二フロア分を買い与えて、ATM扱いすれば済むと思ってるの!? 私はここで家を守って、あんたを心配してあげてるのに、帰ってきても挨拶一つなし! あんたの目に母親は映ってないの!? 一日中何をしてるんだか。学校にも行かず、仕事もまともにせず、挙句の果てには男を囲うなんて――お父さんに顔向けできると思ってるの!?」

一息だ。句読点すらない。すべての言葉が次の言葉の踏み台となり、積み重なり、積み重なり、こちらが口を挟む隙間さえ見当たらない。

俺は振り返り、ドアを指差した。あまりの馬鹿馬鹿しさに、顔が引き攣っているのが自分でも分かった。「……誰だ、あれ?」

葉綺安(イェ・キアン)の唇が微かに動いた。その答えは彼女の喉に長くつかえていたせいで、角が取れて丸くなってしまったかのようだった。

「……お母さんよ。」彼女は言った。「上の階に住んでるの。」

一秒の沈黙。

「ずっと、そこにいたわ。」

その言葉の響きは、「今日はいい天気ね」と言うのと同じくらい平坦だった。平坦すぎて、その言葉自体が彼女に何の感情も抱かせなくなったのだと感じさせた――受け入れたのではない。それ以上の何かだ。ある出来事があまりに何度も繰り返されたせいで、それを感じる能力すら摩耗してしまったのだ。

ドアの外の声が、突然周波数を変えた。

鋭利な響きから、何の前触れもなく、スイッチを入れたように優しい声へと切り替わる。

安安アンアン……お母さんは怒ってるんじゃないのよ……ただ心配なだけなの……ドアを開けて、顔を見せてくれない? あんたの好きなものを持ってきてあげたから……」

葉綺安のまぶたがピクリと跳ねた。

ほんの一瞬だ。

だが、俺は見逃さなかった。

「彼女、ただ怯えてるだけじゃない。」林雨瞳(リン・ユートン)が俺の傍らで囁いた。俺にしか聞こえないほどの小声だ。「あの声、彼女が子供の頃からずっと聞き続けてきたものよ。」

分かっている。

俺は葉綺安を見た。彼女の視線は床の一点に落ち、指先はまだ袖口の中に縮こまっていた。昨夜、スマホを叩き壊し、鉄パイプを狂ったように振り回していたあの葉綺安が、今はもっと小さな、見たこともない形へと萎縮している――遠い昔に覚えた姿勢を、今もなお忘れられずにいるかのように。

「それで、」俺は努めて冷静に聞いた。「あれはお前の母親本人か? それとも、母親の殻を被った『何か』か?」

葉綺安はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。

重苦しい一秒が流れる。

「……違いなんて、ある?」

その声はあまりに平らで。

俺は答える言葉を失った。

ドアの向こうが、再び鋭利なモードへと切り替わる。一切の淀みなく、一文字も引き摺らない。

葉綺安(イェ・キアン)――! お母さんを入れなさい――! 三つ数えるわよ――!」

「いーち!」

「にーい!」

「雨瞳、」俺は振り向かずに尋ねた。「何が見える?」

再会して以来、ずっと感じていた。林雨瞳は変わった。性格でも容姿でもない、その瞳の奥にあるものが変わったのだ。彼女の腹部で三ヶ月も拍動し続けた「黒い心臓」は、彼女の体のどこかに「窓」を開け、本来見えるはずのないものを見せるようになったらしい。彼女はドアの向こう、鋼鉄の板の先にある何かを識別しようと、眉間に深い皺を寄せていた。

「霞んでいるわ、」彼女が言った。「さっきの奴とは気配が違う。さっきのは偽物、殻を被って喋っていただけ。……でも、ドアの外にいるのは……生きている人間に見える。ただ、より高次な変装である可能性は否定できないわ。」

「そんなの当たり前でしょ。」

葉綺安が鼻で笑った。強がりの不敵さだが、声の末端が僅かに震えている。本人も気づかないほどの、微かな震え。

「……このビルの上二つのフロアは、私が買い取ったのよ。」彼女は言った。

俺は絶句した。

上二つのフロア。

それも林口リンコウの。

俺は脳内で素早くその金額を換算し、そして無理やりその思考を押し殺した――ドアの外の「それ」が今も数え続けているからであり、今は不動産価格を計算している場合ではないからだ。そして、今ここでその感想を口にしてしまえば、この状況下であまりにも情けない男に見えてしまうからだった。

「……おい」俺は喉を鳴らした。「とにかく、慎重にいこう」

 俺は腰を屈め、牛小琴(ニウ・シャオチン)の装備バッグを引き寄せると、その中に手を突っ込んだ。

 何かまともな武器を期待していた。雷撃木剣(らいげきぼくけん)とか、霊能ピストルとか……せめて開眼済みのフォールディングナイフくらいはあってほしかった。だが、指先に触れたのは、ずっしりと重く、冷たい木製の柄だった。引き抜いてみると――。

 原住民番刀タイヤル・ブッシュナイフ

 刃渡り五十センチ。厚みのある刀身。薄暗いリビングの灯りを反射するその刃は、山を切り開き、木を伐採し、ついでに巨大な山猪を解体するのに適した「ガチ」の仕様だった。

 俺は三秒間、それを凝視した。

「牛小琴」俺は極めて冷静なトーンで言った。「俺に林口(リンコ)の裏山でも開墾させるつもりか?」

 魔法瓶(シロクマ印)からの返答はない。

 だが、素手よりはマシだ。俺は自分にそう言い聞かせ、番刀を握り直した。掌に沈み込む木製の柄の重量感を確認し、立ち上がって、あの「扉」へと歩み寄る。

 ドアパネルは今も震動を続けていた。

「葉ママ」の声は、いつの間にか数えるのをやめ、流暢な罵倒モードへと移行していた。リズミカルで、淀みがない。まるで何年も口の中で練り上げられ、いつでも引き出せるようにストックされていたかのような――終わりのない呪詛。

「家を買ったからって偉いと思ってるの? そのお金はどこから出たのよ? 結局は顔だけでしょ? 顔がいつまで保つと思ってるの? 見なさいよ自分を、二十歳過ぎて定職にも就かず、外でふらふらして――。母親が少し注意しただけでこれだもの。あんたっていう子は、本当に、本当にママを失望させるわね……」

 その言葉を聞きながら、番刀を握る俺は、葉綺安(イェ・キアン)がこれまでの人生でこのセリフを何回聞かされてきたのか、勝手に脳内で推計値を出してみた。

 ……吐き気がするような数字だ。

 俺は彼女たちに下がるよう合図し、深く息を吸い込む。ドアノブに手をかけた。

 冷たい。

「……三――」

 一気に、重厚なドアロックを旋回させた。

「入れなさいよォォォ――!!」

 ドアの隙間が開いた瞬間、そいつは部屋の中へと躍り込んできた。

それは扉を押し開けるのでもなく、割り込むのでもなかった。――「躍り込んできた」のだ。

 自身の身体構造など微塵も顧みない、肉の弾丸。頭部が先行し、頸椎は人間には不可能な角度にねじ曲がっている。肩が扉の隙間に食い込み、それでも退くことなく強引に潜り込んでくる。皮膚の下では、湿った木棒をへし折るような不気味な音が絶え間なく響いていた。

 その、顔。

 俺は彼女の母親に会ったことはない。だが、確信した。あれは葉ママ(はは)の顔だ。――なぜなら、それを見た瞬間の葉綺安(イェ・キアン)が、言葉にできない声を漏らしたからだ。悲鳴ではない。魂の最深部から無理やり絞り出されたような、制御不能な気音。この世で最も見たくないものが、最悪の形で目の前に現れた時の拒絶反応。

 その顔はデフォルメされたように歪み、口は異常なほどに大きく裂け、その淵からは何か別のものが這い出そうとしていた。

 迷っている暇はない。

 俺は原住民番刀(ブッシュナイフ)を振り抜き、門の隙間に挟まったその異形を全力で叩き切った。

「ギャアァァァァッ――!!」

 それは人の声ではなかった。表面だけを人の叫びでコーティングし、その裏側で金属の摩擦音と、湿った有機的なノイズが重なり合っている。二層の声が鼓膜を突き刺し、奥歯を浮かせた。

 怪異が、外へと引き下がった。

 俺は反射的に扉を蹴り閉め、背中でドアを押さえつける。荒い呼吸のたびに、冷や汗で滑りそうになる柄を握り直した。

 床には、何かが残されていた。

 腸のようでもあり、触手のようでもある肉塊。切断面からは紫黒色の体液が滴り、それ自体がまだ生きていた。磁器の床の上で激しくのたうち回り、本体を求めて蠢くその姿には、明確な「殺意」が宿っている。

 俺は三秒ほどそれを見つめた。

「……おい」俺は言った。「お前の母ちゃん、マジで凶暴ヤバすぎだろ」

 葉綺安は答えなかった。

 俺がその肉塊を処理するよりも早く、彼女は動いた。

 どこから見つけてきたのか、工事の残骸か何かの鉄パイプをひっつかみ、彼女はのたうつ触手の前へ立ちはだかった。そして、それを高く振り上げ、渾身の力で叩きつける。

「死ねッ――!」

「葉綺安!」

「死ね! 死ね! 死ねぇッ!!」

 彼女には俺の声など届いていなかった。

 鉄パイプが振り下ろされるたびに、鈍い音が部屋に響く。それは脅威を排除する動きというより、もっと古い、もっと深い、決して殺しきれなかった「何か」を解体しようとする執念そのものだった。

 彼女の目は赤く充血していた。悲しみの色ではない。長年溜め込んできた毒素が、ようやく出口を見つけた時の、燃え盛るような狂喜の赤だ。

 内側から点火された彼女の熱量が、リビングの冷気を焼き払っていた。

その触手は、二度の打撃に耐えた。

 だが、三度目の鉄パイプが振り下ろされた瞬間、それは無残に爆裂した。

「おい、クソッ! 葉綺安(イェ・キアン)、滅茶苦茶に叩くんじゃねえ!」

 紫黒色の液体が四方八方へ飛散した。腐敗したなまぐさい臭い――いや、それは深淵の底で数億年放置されたヘドロのような、理性を削り取る悪臭だ。それが壁、床、そして俺の顔を汚染する。口の中にまで入り込んだ「星の屑」のような不快な味に、俺は半歩飛び退いたが、すでに手遅れだった。

「葉綺安! お前の『お袋さん』が俺にかかっただろうが!」

「あんなの……私のお母さんじゃない!」

 葉綺安の声が悲鳴のように裂けた。怒りではない。喉の奥で何かが砕け散るような、純粋な拒絶の音だ。「彼女」の形を借りているだけの、旧き支配者(クトゥルフ)の末端。

「あんなの、お母さんなんかじゃない……! 違う、絶対に違う……!」

 鉄パイプはなおも空を切り、すでに原型を留めていない使徒(アポストル)の残骸を叩き続けている。それは彼女の記憶をハッキングし、最も柔らかい部分を喰らおうとした「宇宙の寄生体」だ。鉄パイプが床を叩く鈍い音が、静まり返ったリビングに規則正しく、残酷に響き渡る。一回、また一回と。

 やがて、彼女は動きを止めた。

 疲れたからではない。叩くべき対象が、もはや跡形もなく消え去ったからだ。彼女は力なく立ち尽くし、俯いたまま荒い呼吸を繰り返す。鉄パイプを握る指の関節は、白く強張っていた。

 リビングは静寂に包まれた。

 残されたのは、鼻を突く宇宙の腐臭と、彼女の喘ぎだけだ。

 俺は彼女の傍らに立ち、顔の液体を拭うことも忘れてその惨狀を見つめていた。脳裏に一つの思考が過る。

(この化け物は、よりによってあいつの母親の顔を選んだ。記憶の深層から「母親」という概念を抽出し、最も彼女を縛り付ける呪いのフレーズを再生したんだ……)

 旧き支配者の使徒(アポストル)は、単なる模倣者ではない。

 それは対象の意識に直接干渉し、最も抗えない、最も深い傷を抉る「形」を強制的に受肉させる。最も恐ろしい形ではない。最も「馴染み深い」形だ。

 人によっては、その二つは同じ意味を持つ。

 俺はそれを言葉にはしなかった。袖で顔の汚れを乱暴に拭い、煤けた紫黒色の跡を眺めてから、深く息を吸い込む。

「……最悪だ」俺は言った。「お前の母親の臭いが全身に染み付いちまった」

 葉綺安がゆっくりと顔を上げた。赤く充血した瞳の端に、拭い切れなかった使徒の残滓が数滴。彼女は二秒ほど黙って俺を見つめていた。

 それから、彼女は微かに笑った。

 短く、消え入りそうな笑みだ。面白いから笑ったのではない。魂の深淵が裂けた後でも、人間として踏み止まるために絞り出されたような、痛々しい笑みだった。

「……ごめん。汚しちゃって」

「気にするな。今夜は散々ぶっかけられてるから、もう慣れっこだ」

 それから数時間、俺たちは膠着状態に陥った。

 外の使徒は直接扉を破ろうとはしなかったが、去りもしなかった。時折、鈍い衝撃音が響き、ある時は猫撫で声で名を呼び、ある時はヒステリックな罵倒へと切り替わる。どれが最も早く、中の人間の精神を崩壊クラッシュさせられるか、侵蝕の周波数をテストしているようだった。

 リビングには宇宙的な不気味さが漂い、不毛な時間が過ぎていく。

 ソファに座り、天井を仰ぎ見る。ドアの向こうからは「お母さんを裏切るの?」だの「ママは心配してるだけなのよ」といった呪詛が交互に聞こえてくる。このままでは夜が明ける前に、俺たちはあの「声」に狂わされるだろう。

 あれが化け物の模倣だからではない。語られる言葉の一つ一つが、あまりに彼女のトラウマを精緻にトレースしているからだ。

 窓の外、林口(リンコ)の霧は一向に晴れる気配がない。

 門外の「それ」は、なおも言葉を紡ぎ続ける。

「……お母さん、三つ数えるわよ――」


「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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