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第七章:霧の深淵(しんえん) ―― 古き神の呼び声

老いぼれたベンツが文化三路へと切り込んだ瞬間、林口リンコウの霧が襲いかかってきた。

早朝の山岳地帯に漂うような軟弱な霧じゃない。視界が数百メートル落ちる程度の代物でもない。――これは「動く」霧だ。フロントガラスにへばりつき、内部へ押し入ろうと蠢いている。ワイパーが狂ったように左右に振れるが、弾き飛ばしているのは水滴などではなかった。厚みがあり、ヌルついていて、生臭い塩気を帯びた透明な粘液。まるで巨大な生物の体液がガラスにこびり付いたかのように、ワイパーによって広げられ、また集まり、広げられ、また集まる。

俺は車を止めなかった。

星曜之巔スター・ピーク」の最上階は、とっくに白濁とした虚無の中へと消えている。林口最高峰を謳うこの高級タワーマンションも、今や綿の中に突き立てられた一本のマッチ棒だ。上半身を飲み込まれ、下半身だけで辛うじて立っている。地下駐車場へ滑り込むと、エンジンの残響がコンクリートの壁に虚しく反響した。

助手席の葉綺安イェ・キアンに動きはない。

馬三娘マー・サンニャンは降神術の後、完全に脱力していた。あとに残されたのは、座席に崩れ落ちた「依代よりしろ」という名の抜け殻だ。電池を抜かれた展示用モデルのように、呼吸すら、まだ生きているのか不安になるほど浅い。

車を停め、後部座席でうわ言を漏らし続ける林雨瞳リン・ユートン)を背負う。もう片方の手には、いまだに青白い煙を細く吐き出している魔法瓶をぶら下げ、黄金色に輝くエレベーターに乗り込んだ。

管理人はカウンターの奥で、うつむいたままスマホを眺めていた。親指が機械的に、上へ、上へ、上へとスクロールを繰り返す。彼は一度も顔を上げなかった。

彼の背後でエレベーターの扉が閉まる。

彼は知らないのだ。たった今、その箱に何が詰め込まれたのかを。――意識を失いかけた女を背負うやつれた男。空っぽのアイドルの殻。そして、真空魔法瓶の中に押し込められた地府の二柱の鬼差。

上昇。四十一階。

最上階の私邸。

扉が開いた瞬間、俺は魔法瓶を床に落としそうになった。

疲労のせいじゃない。

正面の掃き出し窓からは、林口台地の縁が一望できるはずだった。――いや、正確には「一望できるはず」だった場所だ。今、窓の外には何もなかった。ただ「白」があるだけだ。濃霧がのたくっている。それは気象現象というより、ガラスの外側で緩慢に呼吸する有機体のようだった。その起伏のひとつひとつに、理屈では説明のつかない不気味な律動が宿っている。

然後我看見了霧裡的東西。

ジョウ)……周士達ジョウ・シーダー)……」

ユートンの指が、俺の服の裾を死に物狂いで頑なに掴んでいた。指関節が震えているのが伝わってくる。「あそこを見て」

見たくなんてなかった。

だが、俺はガラスに顔を寄せた。

霧の深淵に、青紫色の円弧がぼんやりと浮かび上がっていた。表面には巨大な吸盤が密集し、その縁が緩やかに、リズミカルに開閉している。呼吸しているようでもあり、何かを味わっているようでもあった。やがて「それ」が動いた。素早い動きではない。急ぐ必要など微塵も感じさせない、圧倒的な質量による移動だ。そして、横長の黄色い瞳孔が姿を露わにした。

このタワーマンションよりも巨大な「目」だ。

感情などない。そんなものは必要ないのだ。それはただそこに在り、ガラス一枚を隔てて、一切の情緒を含まない眼差しでこの建築物を見下ろしていた。――その中にいる、存在すら認識に値しない羽虫どもを見下ろしていた。

手のひらが嫌な汗で濡れている。

「見るな」

魔法瓶の中から牛小琴ニウ・シャオチンの声が響いた。微かだが、彼女からは一度も聞いたことのない響きが混じっている。恐怖ではない。もっと最悪なものだ。――「理解」だ。「それが何であるかを知っており、ゆえに自分たちがいかに矮小であるかを知っている」者の絶望。

「あれは『使徒』だ」彼女は言った。「林口という場所は……旧支配者の領地だったんだ」

キアンの体がソファから跳ね起きた。馬三娘が制御しているのだ。彼女はテーブルのミネラルウォーターを掴むと、魔法瓶の口へ猛烈な勢いで注ぎ込んだ。水が床に激しく飛び散る。

「カーテンだ。今すぐ、全部閉めな」彼女の声は、何かを押し殺したように低かった。「こいつはとんだお笑い草だね。事態は最悪だよ」

俺は動かなかった。

まだ、あの瞳孔を見つめていた。

向こうも、俺を見つめていた。

……いや、違う。あいつは俺なんて見ていない。俺はただ、あいつの視界の端にたまたま立っていただけだ。歩道に佇む一匹のアリが、人間から注視されていると勘違いしているようなものだ。実際には、人間は足元すら見ていないというのに。

俺は手を伸ばし、カーテンを引いた。

「おい、待ってくれ」

カーテンを閉めきり、振り返る。自分の声が、喉に砂紙を詰め込んだみたいに乾いているのが分かった。

「……これ、マトリョーシカか何かか?」

誰も答えない。

「『偽人』の次は『城隍爺』、今度は窓の外に林口を半分占領する巨大目玉かよ」俺は手元の魔法瓶を見つめ、それからソファに倒れ込んでいるイェ・キアンを見た。「三流のラノベ作家でもこんなプロット書かねえぞ。編集の第一関門でボツ確定だ」

「落ち着け」

馬三娘は葉綺安の手を借りて口角に飛び散った水を拭うと、俺を見上げた。その声に慰めの色など微塵もなく、ただ事実だけを陳列していく。

「その土地の神はその土地の水土が育む。それが規矩だ。だが、この台湾って場所は昔から一度だって規矩に従ったことなんてない」彼女は一度言葉を切った。複雑怪奇な事象を、どうすれば凡人に理解できる言葉へ噛み砕けるか探っているようだった。「あんた、この島が数百年もの間、どれだけのものを飲み込んできたか知ってるかい? 先住民の霊、漢人が持ち込んだ神、日本人が残した怨念、西洋人が放り込んだ信仰――それら全てがごちゃ混ぜになり、同じ土地で数百年かけて精錬された。炉が十分に大きけりゃ、何だって溶け込んじまうのさ」

彼女の視線がカーテンの方を向いた。

「さっきあんたが見たのは、その熔炉の縁から溢れ出したものさ。ただの残渣だよ」

魔法瓶の蓋が自ずと僅かに開き、牛小琴の霊体がゆっくりと這い出してきた。水に浸された紙のように薄く、今にも千切れそうなほど透明だ。だが、その声には芯があった。

「真実を知る者にできることは一つだけ」彼女は言った。「何も知らない連中を、土に還るその日まで平穏無事に生き永らえさせることよ」

彼女がカーテンへと向けた眼差しは、言いようのない感情を俺に想起させた。恐怖ではない。もっと古くからある感情――例えば、泳げもしない人間が海辺に立ち、その深さを知りながらも、なおそこに留まり続けなければならない時の諦念に似た何かだ。

「ここはもう、あたしたちの縄張りじゃない」彼女は続ける。「あいつらは侵食してきてる。台北に戻らなきゃ」

「台北に?」俺は聞き返した。「どうやって? あそこから逃げ出してきたばかりだろ」

馬三娘は答えず、俺の腰にあるソルトガンを指さした。その口角に浮かんだのは、苦笑とも自嘲ともつかない歪な弧だ。

「信仰なんてものはね、重さがあるんだよ。信じる者が多ければ、あたしたちの権能も重くなる。だが今は信じる奴が減り、あたしたちはどんどん軽くなっていく」彼女は溜息混じりに言った。「最後には、あんたら凡人の道具を借りなきゃ形を保てないほどにね」

彼女はソルトガンを見つめる。

「これを世間じゃ転換昇進って呼ぶんだろ?」

言い終えると、彼女は葉綺安の目を閉じさせた。鼻腔から細い青煙が漏れ出し、ゆっくりと魔法瓶の中へ吸い込まれていく。蓋は意志を持つかのように、ひとりでに締まった。

リビングに静寂が戻る。

残されたのはテレビの冷たい光と、カーテンの向こう側に確実に存在する「それ」を、どう足掻いても無視できないという事実だけだ。

魔法瓶が締まる音が消えてから、三秒。

キアンが動いた。

緩やかに意識を取り戻すといった風情ではない。まるで切れていた電源を強引に叩き込んだかのように――彼女は猛然と息を吸い込んで目を見開くと、すぐさま自分の脇の匂いを大袈裟に嗅ぎ、顔を歪めた。

「臭っ!」先ほどまでの死線を彷徨う空気感を、文字通り台無しにする大声で彼女は宣言した。「汗びっしょりなんだけど」

彼女は顔を上げ、俺に視線を向ける。その口調は不満から脅迫へと、継ぎ目なく移行した。「周士達、あんたにそんな度胸があるとは思えないけど――もしシャワーを覗こうなんて考えたら、この世から消してあげるから」

「安心しろ」俺はスマホを充電器に差し込み、振り返りもせずに答えた。「発育不全のガキには一ミリも興味がない」

「へえ、そう?」彼女の声が急にワントーン柔らかくなり、作為的な挑釁の色を帯びた。「……じゃあ、もし私が歓迎すると言ったら?」

俺は彼女を振り返る。

彼女は退屈と試行錯誤の入り混じったような瞳で、こちらを上目遣いに見ていた。ルールさえ定かではないゲームを愉しんでいる子供のような目だ。

「お前」俺は吐き捨てた。「歩く人格障害だな」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

深く息を吸い、俺はこの話題を放棄することに決めた。この女がまともなロジックで動くのは、馬三娘が憑依している時だけだ。それ以外の時間の彼女の思考回路は、俺にとっては完全に別種の生物のそれである。俺はキッチンへ向かい、水を飲むフリをしてこの場をやり過ごそうとした――。

「いいご身分ね、周士達。」

背後から届いた声は、氷室の扉をこじ開けたかのように冷え切っていた。

俺の身体は、その場に縫い付けられた。

ゆっくりと、振り返る。

林雨瞳が寝室のドア枠に寄りかかって立っていた。髪は乱れ、顔色は相変わらず病的なまでに蒼白だが、その瞳だけは冴え渡っている。――単なる覚醒ではない。それは「火眼金睛」が目覚めた直後の、すべてを見透かし、何ひとつ隠し通せないほどに研ぎ澄まされた清冽な眼差しだ。彼女の視線は俺と葉綺安の間を往復し、最後に俺の顔で止まった。沈黙。窓外の巨大な黄色い瞳孔よりも、俺の背筋を凍らせる眼差しで、彼女は俺を見ていた。

その目は知っている。

付き合っていた三年の間に、何度も見てきた。

そして、その後の展開がろくなものではなかったことも。

「俺たちは……もう別れたはずだろ」

疑問形ではない。陳述だ。自分の声が、独り言のように頼りなく響く。窓の外で蠢く白霧すら、返事をするのを億劫がるほどに。

「ユートン」、俺は言った。「お互いに距離を置こう」

彼女は俺を凝視したまま、一言も発しない。

だが、その瞳が雄弁に語っていた。

一瞬だけ、何かが過った。――それが「傷つき」だったのかは分からない。あまりに一瞬で、俺が確かめる前に彼女がそれを押し殺してしまったからだ。やがて、その眼差しは硬く、冷たく、俺のよく知る「それ」へと変質した。

「そうね、距離を置くわね」、彼女は言った。「もっと若い女を引っ掛けるために」

怒りは湧かなかった。

自分でも意外だった。

今夜の出来事を経て、怒りという感情はどこかへ搾り取られてしまったらしい。心の底を浚っても、欠片すら残っていなかった。俺はただ、驚くほど冷静だった。自分ではない誰かが、俺の中にある激しい感情の周波数をすべて絞り込んだかのように。

「頼むよ、林雨瞳」、俺は言った。「俺とあいつの年齢差を見てくれ。俺はもうすぐ四十だ。あいつは二十歳。この年齢差で、俺に年の差恋愛なんて楽しむ体力が残ってると思うか?」

林雨瞳の口角が微かに動き、何かを言いかけた――。

「それって、最近流行りの『パパ活』ってやつじゃない――」

彼女は最後まで言わなかった。

言えなかったのではない。自分から止めたのだ。――途中で急に、何の意味もないことに気づいて、残りの言葉を飲み込んだようだった。彼女はドア枠に寄りかかったまま、数秒間沈黙して俺を見つめた。その瞳の鋭さが徐々に鈍り、より痛ましい何かへと変わっていく。

「……いいわ」、彼女は静かに言った。「どのみち、私に何かを言う資格なんてないもの」

彼女はうつむき、自分の手を見つめた。

青紫色の脈絡が先ほどよりも濃くなっている。指の付け根から手の甲へと、インクが皮膚の下でじわりと滲むように広がっていた。彼女は軽く指を動かし、おそらくとうに悟っていたであろう事実を再確認すると、手を下ろして再び俺を見上げた。

彼女は笑った。

小さく、短く、自嘲と、表現しがたい何かを湛えた笑み。――俺に向けられたものではなく、彼女自身へ向けたような笑みだった。

「シーダー」、彼女は言った。「あんたは……大丈夫?」

俺は絶句した。

今夜これだけのことが起きた後で、よりによって彼女の口からその問いが出てくるとは。

瞳が白濁し、膝の力が抜ける。彼女の身体が、そのまま床へと崩れ落ちた。

俺の答えを、彼女が待つことはなかった。

葉綺安の高級マンションは、呆れるほどに広かった。

四つの寝室があり、そのすべてに独立したバスルームが備わっている。リビングに至っては、彼女が普段この空間を使い切れているのか疑わしくなるほどの広さだ。この広さは、居住性の良さからくるものではない。あまりの余白に、自分が孤独であることを嫌でも自覚させられる類のものだ。

俺は適当に窓際の一室を選び、ユートンを寝かせた。薄い掛け布団をかけ、呼吸が安定しているのを確かめてから、足音を殺して部屋を後にし、ドアを閉めた。

廊下に出た瞬間、浴室のドアを開けた葉綺安とはち合わせた。

蒸気が溢れ出し、白霧の中に彼女が立っていた。バスローブの襟元は几帳面に整えられ、濡れた髪、顔には何もない。――化粧も、表情も、彼女がいつも纏っているあの底の知れない笑みすらも。髪の先から水滴が滴り、一滴、また一滴と静かに床を叩く。

その刹那、彼女はただの、どこにでもいる疲れ果てた少女に見えた。

そして、彼女が俺に気づく。

その表情が、瞬時に戻った。――一気に戻ったのではない。引き出しから「仮面」を取り出し、ゆっくりと装着していくかのように。目、鼻、口がそれぞれの位置に収まり、最後に口角が吊り上がる。俺が何度も目にしてきた、あの読めない弧を描いて。

俺たちは二秒ほど見つめ合った。

「エロ親父」、彼女は言った。天気を語るような軽い口調で。「廊下で風呂上がりを待ち伏せするなんて、古典的な手口ね」

「リビングに戻る途中だ」

「そうでしょうね」、彼女は言った。「あんたみたいな人種は、みんなそう言うわ」

「あんたみたいな人種は」と言った彼女の瞳に、何かが過った。――俺に向けられたものではない。もっと古い何かだ。まるでその台詞を、これまでに何度も、別々の相手に繰り返してきたかのような。それを口にするたびに心が晴れるわけでもないのに、彼女はそれを使い続ける。それが、彼女が知る唯一の武器だからだ。

俺は言い返さなかった。

彼女は俺を避けるように横切り、すれ違いざまに足を止めた。顔を背けたまま、さらに声を落とす。

「分かってるわよ。あんたがそんなことしないくらい」彼女は言った。「……ただ、まだ『反応』があるか確かめたかっただけ」

そして彼女は自分の部屋に入り、ドアを閉めた。

乱暴に叩きつけるのではなく、そっと。――その静寂は、ドアを激しく閉められるよりも重く、心に圧し掛かった。

廊下に取り残された俺は、そのドアに向かって三秒ほど呆然とした。

「まだ反応があるか確かめたかっただけ」。

心の中でその言葉をなぞってみたが、自分を納得させられるようなマシな解釈は見つからなかった。

心の中で念じる。俺は大人だ。ガキの相手をしてどうする。

古人は「一時の忍耐が平穏をもたらす」と言ったが、その古人は葉綺安に出会ったことがなかったに違いない。

リビングでは、音を消したテレビが深夜番組を無機質に映し出していた。

冷たい光の中で画面が明滅する。司会者がカメラに向かって喋り、口を開閉させているが、その声はすべてミュートボタンに飲み込まれていた。残されたのは、どんな事態が起きようとも維持し続けなければならない、職業的な作り笑顔だけだ。

俺はバッグから魔法瓶を取り出し、ダイニングテーブルの上に恭しく置いた。それからリュックから牌位を取り出し、その傍らに供える。少し考えてから、キッチンの引き出しを漁り、誰が残したものか分からない二本の線香を見つけ、火を灯した。

ライターは三度目でようやく火を吹いた。

俺は二筋の青煙の前に立ち、それがエアコンの風に流され、霧散していくのを眺めていた。

「お疲れさん」俺は言った。魔法瓶の中にいる連中に聞こえるか分からないほどの、小さな声で。「……ゆっくり休め」

誰も答えない。

俺はソファに腰を下ろした。

イェ・キアンはL字型ソファの端に丸まり、膝を抱えていた。スマホの画面から放たれる冷たい光が彼女の顔を青白く照らし、まるで皮膚の下で何かが落ち着きなく蠢いているかのようだ。彼女の親指は、画面を上へ、上へ、上へとスクロールし続けている。その速度は、内容を読んでいるとは到底思えないほどに速く、ただその動作だけを必要としているようだった。

やがて、彼女の呟きが耳に届いた。

極めて低く、細い。独り言のようでもあり、あるいは呪詛のようでもあった。

「うざい……マジでうざい……死ねばいいのに……みんなまとめて死ねばいいのに……」

俺の足は、彼女の二歩手前で止まった。

年長者らしく彼女の隣に座り、「大丈夫か」とか「何か温かいものでも飲むか」といった言葉をかけるつもりだった。その思考は、俺の脳内に三秒間、明確に存在していた。

だが、彼女の言葉をはっきりと聞き取った瞬間、その考えは音もなく消火された。

俺は立ち尽くし、動けなかった。

テレビ画面では、あの司会者がまだ笑っている。窓の外では霧がのたくっている。イェ・キアンはスクロールを止めず、自分でもいつ覚えたのか分からない歌を口遊むかのように、呪いの言葉を繰り返している。

不意に、さっき林雨瞳が倒れる直前に俺に問いかけた言葉を思い出した。

――シーダー、あんたは大丈夫?

彼女は自分が限界だというのに、俺の心配をしていた。

一方でこの少女は、最高級マンションのL字ソファに座り、画面の中のコメントに向けて全員死ねと呪い続けている。

この二つの光景を並べられ、俺は言葉を失った。

俺はソファの反対側の端に座った。近づくことも、離れることもせず。

彼女がいつから「壊れて」いたのかは分からない。

俺が隣に座った瞬間だったのかもしれない。あるいは、もっと前か。スマホを手に取った瞬間から、すでに崩壊は始まっていたのかもしれない。ただ、それが地面に落ちて形を成すためには、誰か一人の「観測者」が必要だっただけなのだ。

スマホを握る彼女の指には、ますます力が籠もっていった。指関節は白く浮き上がり、爪が画面の縁を死に物狂いでひっかいている。微かで、執拗な摩擦音が響く。まるでその動作で、より極端な衝動を必死に抑え込んでいるかのようだった。

だが、堰き止められなかった。

「死んじゃえばいいのに……みんな死ね……あのコメント……あの酸民ども……」

掠れた声。それは喉から出ているというより、もっと深く、暗い場所から削り出されてきたようだった。一語一語が、使い古され、摩耗しきった質感を引きずっている。

そして、彼女はスマホを投げつけた。

手から滑り落ちたのではない。明確な殺意を込めて、何かを排除しようとする動作――スマホは大理石の床に叩きつけられ、「ゴン」という鈍い音を立てた。画面はひび割れ、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。その隙間から漏れ出した冷たい光が、床の一角を無機質に照らし出した。

直後、あらゆる音が消失した。

葉綺安はソファの隅で膝を抱えてうずくまり、顔を埋めて、泣いた。

そんなたぐいの泣き方じゃない。インタビューで、授賞式で、あるいはカメラのあるあらゆる場所で見せてきたものとは違う――あんなものは演技だ。これは、そうじゃない。乾いていて、喘ぐような、涙が枯れ果ててもなお止まらない慟哭。身体の奥底から何かを無理やり搾り出され、空になってもなお搾られ続けているような、そんな泣き声だった。

俺は数秒間、その場に立ち尽くした。

やがて腰を上げ、キッチンで熱い茶を淹れると、戻ってきて彼女の前のテーブルに置いた。

抱きしめもしない。背中を叩きもしない。ただの、茶だ。

「おい」、俺は努めて平坦な声を出した。「偶像様」

彼女は顔を上げない。

「外にいるあのクトゥルフもどきのデカ目玉は、画面の中のコメントより数百倍デカい。あんた、さっきは瞬き一つしなかっただろ?」俺は言った。「たかが数行の文字の羅列に、命をくれてやる必要がどこにある」

沈黙。

「酸民どもの攻撃力なんて、さっきの偽人の指一本にも及ばない」俺は続けた。「あんたが今こうして生きてること自体が、あいつらへの最大の報復だ」

彼女は泣き止んだが、その瞼は赤く腫れていた。

化粧もなく、一切の虚飾を剥ぎ取られた姿で――彼女は俺を真っ直ぐに見上げた。泣き腫らした顔と風呂の熱気のせいで、肌は薄赤く上気している。頬に張り付いた濡れた髪を払おうともせず、そのままにしていた。

その顔は、画面の中の「シャイニング・スター 葉綺安」とは何の関係もなかった。

「周士達」、彼女の声はまだ掠れていた。「あんた、どうして……いっそ……」

彼女はその言葉を最後まで口にしなかった。

代わりに、身体をこちらへ寄せてきた。

唐突ではない。緩やかだ――俺が彼女の意図を察し、身を引くべきだと自分に言い聞かせるには十分すぎるほどの、緩慢な動作。彼女の手が俺の肩に置かれる。あまりに軽く、俺が実在しているのかを確かめているかのようだった。風呂上がりの湿り気が、言いようのない熱を帯びて漂ってくる。さっきよりも近く、さらに近く――。

彼女の瞳の中で、何かが燃えていた。

情欲、というわけではない。あるいは、それだけではない。深い闇の中に長く居すぎた者が、不意に光を見つけ、その光が手を焼くほど熱いかどうかも構わず、まずは掴み取ろうとする――そんな切実な燃焼。絶望と、自壊と、そして俺が無視することのできない、本物の「脆弱さ」がそこにはあった。

俺の脳は、この瞬間に極めて誠実な警告を発した。

――お前はもうすぐ四十だ。盲目なわけでもないだろう。

そして別の声が言う。

――だが、これが間違いだってことは分かってるはずだ。

二つの声が同時に、最大音量で響き渡り、どちらも譲ろうとしない。

彼女の顔が間近に迫る。呼吸の熱を感じるほどに、濡れた髪の匂いが大気に混じり合うほどに。俺の手がいつの間にか微かに持ち上がり、突き放すべきか、それとも――その境界線で静止していた。

「コホン」

ダイニングテーブルの上の魔法瓶が、激しく揺れ動いた。

振動などという生易しいものではない。中にいる何かが、力任せに内壁を押し広げようとしているような――そんな悶えだ。ボトルの蓋がわずかに開き、その隙間から陰鬱な青煙が猛然と噴き出した。煙はキッチンの入り口で瞬時に形を成し、馬三娘の冷徹な顔へと変貌する。彼女は、俺と葉綺安の間に立ち塞がった。

彼女はすぐには口を開かなかった。

まずは一秒、俺たちを観察した。

その眼差しは、あまりに多くの修羅場を潜り抜けてきた者が、「案の定こうなったか」という呆れ混じりの確信を抱いた時のものだった。

「ブレーキの踏み込みだけは一丁前だね」、彼女は言った。冷凍庫に放置された生鉄のように冷ややかな声だった。「死にたくないっていう本能だけは、まだ機能してるらしい」

俺とキアンは、同時に硬直した。

俺は咳払いをして、持ち上げていた手を下ろした。「……大姐、見ての通りだ。彼女の情緒が不安定で、俺はただ――」

「避けたのは正解だよ」

彼女は俺の言葉を遮り、イェ・キアンを冷たく一瞥してから、再び俺に視線を戻した。語気が変わる。憤怒でも脅迫でもない。もっと不快な、事実の羅列。まるで医師が深刻な診断結果を、極めて冷静かつ正確な言葉で説明するかのような響きだ。

「あたしゃ凡人の発情期に口出しするほど暇じゃない。だがね、これだけは肝に銘じておきな」

彼女が顔を近づけてくる。

「この小娘は生まれついての純陰体だ。あたしが降神できるのは、こいつの体内の元陰がこの肉体を繋ぎ止めてるからさ。いわば万トンプレスの安全弁だよ。もしその『封印』が解かれちまったら、あたしが体内に残した霊圧が一気に暴走する」彼女は一度言葉を切り、俺が理解しやすい言葉を選んだ。「そうなれば、この肉体は内側から――物理的に粉砕するよ」

手のひらが、急速に冷えていく。

「あんたが抱いてるのは、温かな女の身体なんかじゃない」、彼女は淡々と、だが神経を逆撫でするような調子で続けた。「砕けた骨と内臓が混じり合った血肉の塊だよ。あんたは頭のてっぺんからつま先まで、そいつを浴びることになる。『物理的な腹上死』ってやつを、その身で検証してみたいかい?」

足の裏から突き上げるような悪寒が走った。

あまりに具体的すぎる。具体的すぎて、脳内に残っていた未練がましい雑念が、この瞬間に綺麗さっぱり、一片の迷いもなく蒸発した。

「それにさ」、馬三娘は一歩下がり、廊下の奥を顎で示した。「あんたの元カノは、今やそういう事柄への感応が本能レベルになってる。目が覚めた瞬間、すべてを悟るだろうね。もしあんたが余計な真似をしてみな、彼女は真っ先にあんたを塵も残さず焼き尽くすよ」

彼女は俺を見つめ、口角を歪めた。

「命が惜しけりゃ、今夜は大人しくしてな。……さっさとソファで寝るんだね」

青煙が「プシュッ」と音を立てて魔法瓶に収まり、蓋は自ずと締まった。ダイニングテーブルに鎮座するそれは、陽気なホッキョクグマが描かれた、どこにでもある真空魔法瓶に戻っていた。まるで、最初から何も起きていなかったかのように。

俺は一人で立ち尽くし、五秒ほど呆然としていた。

やがてリモコンを手に取ると、音を消していた深夜番組を「佛光山法会チャンネル」に切り替えた。朗々とした読経の声が、瞬く間にリビングを満たしていく。

俺は水の入ったコップを葉綺安の前へ押し出した。

彼女は顔を上げた。瞼は赤く、髪は乱れたまま。その顔には、もはや何の防御壁も存在していなかった。

「……聞いたろ」、俺は努めてまともな人間の声を出した。「あんたが物理的に爆発しないため、そして俺が血だるまにならないためだ。あんたは部屋で寝ろ。俺はここで見張りをする」

イェ・キアンは複雑な表情で俺を見つめていた。

「ほら、行け」、俺は言った。「お師匠様の読経でも聴いて、心を清めるんだな」

彼女は何も言わなかった。だが、立ち上がり、寝室へと向かった。ドアの前で一度足を止めたが、振り返ることはなく、静かに扉を閉めた。

やはり、あの、そっと閉じるような音だった。

俺はソファに倒れ込み、リモコンを胸に抱いたまま天井を凝視した。幾重にも重なり合う梵唱の響きがリビングに満ちていく。窓の外では白霧がいまだにのたくっており、ダイニングテーブルの上の魔法瓶は静かに光を放っていた。雨瞳は廊下の突き当たりの部屋で眠り、葉綺安もまた、別の扉の向こうで眠りについたのだろうか。

この高級マンションは、背筋が寒くなるほどに広い。

だが今、この空間には四人の人間と、二柱の鬼、そして窓の外に居座り続ける「霧」が詰め込まれている。

俺は目を閉じ、降り注ぐ梵唱に身を任せた。残された雑念が、ひとつ、またひとつと洗い流されていく。

霧が晴れることはなかった。


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