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第六章:ドッペルゲンガーの軍勢(ぐんぜい)

周士達ジョウ・シーダー、この薄情者……おえっ……」

目の前に立っていたのは、俺の元カノ、林雨瞳リン・ユートンだった。

かつて俺の胸をときめかせたその顔は、今や雨と粘液、そして正體不明の何かが混ざり合い、無残に崩れていた。彼女は爆発寸前のボストンバッグを必死に抱え、白くなった指節でしがみついている。それが彼女に残された最後の尊嚴であるかのように。

異常なのは、彼女の腹部だ。

本來は細身だった小腹が病的なまでに膨れ上がり、安物のレースのワンピースを押し広げている。皮膚の下では青紫色の静脈が密に蠢き、何かがその中で暴れているのが分かった。それは赤ん坊ではない。狂おしく拍動する「黒い心臓」だ。

「雨瞳、お前――」

言いかけた言葉は、彼女の背後から噴き出したカビ臭い寒気によって、喉の奥で凍りついた。

牛小琴ニウ・シャオチン

だが、様子がおかしい。彼女が寄生しているのは、あの頑強な肉體を持つ大姉御ではなかった。

今の牛小琴は、すべての骨を折り畳んだような歪な姿勢で、雨瞳の背後に「縮んで」いた。その霊体は、何度も揉みくちゃにされたティッシュのように薄く、ボロボロで、今にも風に書き消されそうだ。これは憑依ではない。もっと無残な「寄生」だ。彼女は自らの霊核コアを、林雨瞳の子宮へと強引に捩じ込み、隠れていたのだ。

「悪いね周士達……ヘマを、踏んじまった……」

その声は、砂紙でガラスを擦るような、崩壊寸前の響きだった。あの閻羅殿ですら一目を置く「牛頭」が、ここまで打ちのめされるとは。

俺は迷わず、馬三娘マー・サンニャンに教わった通りに彼女の後頭部へ陽気を吹き込み、命を繋ぎ止めた。

「ピキリッ――」

その時、背後で骨が軋む乾いた音が響いた。

振り返ると、葉綺安イェ・キアンがゆっくりと西瓜刀ナタを掲げていた。充血した瞳は甘い顔立ちを歪ませ、その視線は雨瞳の膨らんだ腹部に釘付けになっている。

「士達……あなたの子供なら、中がどうなっているか、切り開いて見てみましょうよ?」

「あんたら、前は俺のこと大嫌いだっただろ!」

「退屈だねえ! 私は血の雨が見たいんだよ!」

神卓しんたくの下で、馬三娘が自分の位牌を抱えながら、ポップコーンでも食べていそうな見物人の面構えでニヤついていた。

「あんたの同僚が空気になりかけてんだぞ! 高みの見物してる場合かよ!」

俺の怒鳴り声に、馬三娘はようやくそのふざけた態度を収め、懐から黒光りする丸薬を取り出した。

済公さいこう師匠の『伸腿瞪眼丸しんたいとうがんがん』さ。鬼が食えば霊気を練り、魂を繋ぎ止める霊薬だよ。」

牛小琴は薬を飲み込み、ようやく人心地ついたようだった。

「悪いな、周士達。正体不明の野郎に闇討ちされてね。雨瞳を見かけて、咄嗟にその腹の中に『避難』させてもらったんだ。」

「分かった。発狂するのは後回しにする。」

その時。

「ピンポーン――」

静寂を切り裂くチャイムの音が、リビングに響き渡った。


「誰だ。」俺は腰を浮かさず、声を極限まで低くした。

『お、恐れ入ります……す、す、周士達さん……で、で、ですか……?』

声がおかしい。録音データを切り刻んで繋ぎ合わせたような、不自然なグリッチが混ざっている。

『私は……中山区の……警察官です……騒音の、苦情が……』

「絶対に開けるな!」牛小琴が飛び起きた。「そいつだ、さっき路地裏で私をハメたのは!」

馬三娘は何も言わなかった。

彼女はゆっくりと神卓の下から立ち上がる。葉綺安の甘い顔立ちは、冷徹な静寂に塗り替えられていた。

「下がってな、周士達。……『偽人フェイク』が来たよ。」

俺は雑物の中から、あの保冷ボトルを掴み取った。「現代真空技術による霊体収容効率の向上」なんて論文を書いている暇はない。牛小琴をボトルの中に収容し、俺は雨瞳のバッグから車の鍵を奪い取った。

「一分で荷物をまとめろ! ここにはもう戻れないぞ!」

「望むところだよ!」

馬三娘は神主牌をバックパックに押し込み、不敵に笑った。彼女が手にした西瓜刀は、妖異な紫紅色の光を放ち、見る間に一振りの長槍へと変貌した。

俺は雨瞳を背負った。彼女は驚くほど軽く、そして焼けるように熱かった。

「頼んだぞ、道を切り開け!」

馬三娘が防犯扉を蹴り飛ばす。数十キロの鉄塊が廊下を転がり、激突音を上げた。

扉の向こうには、「壊れた警官」どころではない異様な光景が広がっていた。天井から逆さまに吊り下がる奴ら、肉塊のように絡まり合った奴ら。崩れた顔の下から、スパムのような桃色の組織が覗いている。

『ジョ、ジョウ……シーダー……残って……会議を……しよう……』

「会議だと? 冗談じゃねえ。」

黄金の光が炸裂した。彼女の背後に、廊下を埋め尽くさんばかりの巨大な栗毛の軍馬の幻影が立ち昇る。

「振り返るな、走り抜けろ!」

彼女の声は、もはや人間のそれではない。もっと古く、巨大な「神性」の咆哮だ。

黄金の稲妻と化した長槍が、偽人の肉の山を貫く。

俺は雨瞳を抱き寄せ、その光の中へと飛び込んだ。

偽人フェイクの集団が、決壊した堤防のように闇の奥底から溢れ出した。

その光景は、人間の視覚に対する直接的な冒涜ぼうとくだった。肢体を歪ませた肉塊どもが、ありえない角度で壁や地面を高速移動し、俺たちという「動く祭壇」を目指して殺到する。奴らはもはや隠そうともしない。同胞の頭を踏みつけ、腐敗した悪臭を撒き散らしながら迫りくる。

だが、こちらには馬三娘マー・サンニャンがいる。

今の彼女は、全身から刺すような金光を放っていた。まるで霊圧を液状化し、人間の形に流し込んだかのようだ。彼女が妖異な長槍を振るうたび、鋭い風切り音と共に十歩以内に踏み込んだ偽人が黒い塵へと変わっていく。

「これは結界だ、幻影に惑わされるな!」

血の臭いの中で彼女が咆哮する。アイドル・葉綺安イェ・キアンの顔に宿る神聖さと狂気。どちらが恐ろしいのか、今の俺には判断がつかない。

「モタモタするな、周士達ジョウ・シーダー神降術(しんこうじゅつ)は肉体への負担がデカい。早く車を出せ!」

俺は血のような月光に浸食された中庭を見渡した。世界は、赤インクをぶちまけたように染まり、蒸發することさえ拒んでいる。その不気味なあかの中に、俺は漆黒のメルセデス・ベンツW124を見つけた。俺と雨瞳ユートンが一年以上かけて貯金し、中古車屋から奪い取るようにして手に入れた、俺たちのノアの箱舟だ。

俺は朦朧とする雨瞳を後部座席に押し込み、キーを回した。エンジンが咆哮を上げ、眠りから覚める。車を強引に道路へと躍り出させ、クラクションを長く鳴らした。

「三娘――! 乗れッ!!」

ドォォン!

ルーフに衝撃が走り、W124のサスペンションが悲鳴を上げる。続いて二度、三度と鋼板を蹴る音が響いた。行け、という合図だ。

俺は迷わずギアを叩き込み、アクセルを床まで踏み抜いた。

偽人たちが俺たちを見送るはずもない。

奴らは道路を、壁を、特技俳優が肉体を間違えて使っているかのような歪なフォームで追撃してくる。俺はハンドルを死に物狂いで握り、屋根に向かって叫んだ。

「三娘! どこへ行く! 台北市内をぐるぐる回るわけにはいかないぞ!」

「高速に入り、南へ飛ばせ!」

屋根の上で、飛びかかってきた偽人を長槍で貫きながら彼女が叫び返す。

「一箇所に集めて、一気に掃除してやる!」

黒いベンツが黒煙を吹き上げながらインターチェンジを駆け上がる。

普段なら絶望的な渋滯に捕まる五股ウーグーインターが、今は舞台装置のように静まり返っていた。台北中の人間が、この瞬間に一斉にミュートされたかのような静寂。残っているのは、俺たちの車と、背後に迫る肉色の波だけだ。


「周士達、しっかり掴まってな!」

三娘の号令と共に、空気中に重苦しい雷圧が立ち込める。それは、世界のどこかで何かが弾け飛ぶ予兆だった。

「これこそは閻魔えんまより賜りし神物――名を、千里追魂・一丈紅塵せんりついこん・いちじょうこうじん。」

彼女の声は静かに、儀式めいた重みで紡がれる。

「……妖物ども、控えおろう!」

その神性なる一喝が国道に響き渡ったが、後方の肉色の津波は躊躇なく押し寄せる。彼女は、悲哀すら感じさせる溜息をついた。

執迷不悟しゅうめいふごか……救いようのない連中だ。」

そして、彼女は沈黙した。

葉綺安イェ・キアンの瞳が閉じられ、ルーフを叩く風が止まった。いや、何かに「吸い込まれた」のだ。鼓膜が内側に凹むような、真空の圧迫感。追兵たちの動きが、初めてその衝動を鈍らせた。

彼女の体の中から、遼遠りょうえんなる軍馬のいななきが響く。蹄音ていおんの振動が車体を伝い、俺の手の平、歯茎、そして胸腔へと響き渡る。

瞳を開けたとき、そこには縦に裂けた黄金のまなこがあった。

もはや、彼女はアイドルでも、馬三娘でもない。三千年の重みを背負った、地獄の番人そのものだ。彼女は高速走行する車の上で不動の姿勢を取り、その長槍が「白よりも白い火」を宿す。

彼女の喉の奥から、いにしえの咆哮がほとばしった。

「|(ガロッ)(ピング・)之緋(クリムゾン:)不可抵達之(アンリィチャブル)終焉(・エンド)――!!」

長槍が放たれた。それは投擲というより、光そのものが意思を持って疾走したかのようだった。

極彩色の紅い閃光が夜を焼き尽くし、国道を天際まで同色に染め上げる。爆発も、音すらない。ただ、真空のような静寂の中で、追兵たちは消しゴムでなぞられたかのように、その痕跡すら残さず消滅した。

「……なんだよ、あのチート……。」

俺はバックミラーに映る、もぬけの殻となった国道を見て、三秒間、ただ呆然と立ち尽くした。


黄金の光が消えた後、葉綺安の顔色はどす黒い紫色に染まっていた。肺の中を焼き尽くされたかのように、彼女はただ激しく喘ぎ、俺に一言だけ告げた。

「……力尽きた。……林口リンコウへ。あそこに、隠れ家がある。」

俺は何も言わず、ただ深くアクセルを踏み込んだ。

ノイズが消えたラジオから、DJの優しい声が響く。

「最後はこの曲でお別れです。カンザスの名曲をどうぞ――」

"Carry on my wayward son…"(行け、我が儘な息子よ。)

"There'll be peace when you are done…"(すべてを終えた時、お前に平穏が訪れるだろう。)

俺はギアを入れ直した。

二人の女と、保冷ボトルに閉じ込められた鬼差を乗せて、俺たちは林口の深い霧の奥底へと車を走らせ

た。





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