番外「意地っ張り」
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
神代弥生の様子が確実におかしくなっていると確信したのは、三日目のことだった。
最初の二日間は、単に全員が寝不足なのだと言い訳もできた。フロア全体に低気圧が垂れ込め、誰が口を開いてもカミソリの刃を呑み込んだような刺々しさだったからだ。だが三日目になると、他人はせいぜい疲労している程度だったが、彼女は違った。明らかに火の粉を俺の方へと飛ばしてきている。
しかも、その焼き方が実に執拗だった。
老高が「よく眠れたか?」と尋ねれば、「貴方に関係ないわ」という一言で彼を壁に釘付けにした。
希が彼女を二度見すれば、「タブレットがそんなに珍しいの?」と冷たく言い放つ。
真壁や雨宮静といった面々に対しては、むしろ正常といえた。せいぜい語気がいつもより硬い程度だ。
だが、俺に対してだけは、彼女は別の範疇に突入していた。
単に凶暴なわけではない。
驚くほど的確に、俺に難癖をつけてくるのだ。
「これ、やり直し」
「あの箱、あっちに運んで」
「封印のシールを貼り直して」
「近すぎるわ」
「遠すぎる」
「今、振り返った?」
「……いや、してない」
「じゃあ、なんで今立ち止まったの?」
この問いには、今でもどう答えるべきか分からない。
俺はただ足を止めただけだ。彼女が廊下の真ん中で、何か言いたげに氷のような表情で立っていたから。結局、彼女は二秒ほど俺を凝視した後、こう吐き捨てた。
「なんでもない。邪魔よ」
両脇をマイクロバスが通れるほど広い廊下を一瞥し、俺は考えた末、黙り込むことにした。
別に彼女が怖いわけじゃない。
ただ、彼女の今の「おかしさ」が、俺に関係しているということくらいは、多少なりとも自覚していたから。
厄介なのは、そこだった。
その件に関して言えば、俺も彼女のことを笑える立場ではない。
あの夜以来、俺はまず気まずい空気が流れるだろうと予想していた。顔を合わせれば赤面し、言葉が詰まり、互いに視線のやり場に困る――そんな風に。だが現実は違った。表面上はむしろ上手くいっていた。少なくとも俺は、普段通りに物を渡し、受け答えし、地雷を踏まずに彼女の隣に立っていられる程度には装えていた。
本当に厄介なのは、別のものだ。
彼女の接近を感じるだけで、脳よりも先に肉体が反応してしまうのだ。
決して、下卑た反応ではない。
それはもっと、本能に直接書き込まれてしまった刷り込みに近い。
彼女が背後を通り過ぎれば、肩が先にそれを察知する。
彼女が入口で足を止めれば、顔を上げるより先に、俺の呼吸が一目盛り分だけ浅くなる。
彼女が隣で黙って立っていれば、何かを刺激するのを恐れるように、無意識に動作を殺してしまう。
どれも意識してやっていることじゃない。
それなのに、彼女もそれを察しているようだった。
だから彼女は近づくたびに、自分自身に腹を立てているように見える。
歩み寄り、言いがかりをつけ、毒を吐き、そして足早に去っていく。
慣れ親しんだ匂いを嗅ぎつけながらも、精一杯威嚇して毛を逆立てている猫のようだ。
もちろん、そんなことは面と向かっては言えない。
俺だって、まだ死にたくはないから。
その日の午後、彼女が三度目に俺のデスクの横を通り過ぎた。
一度目は、並べ方が間違っていると言った。
二度目は、表紙が歪んでいると言った。
そして三度目。彼女は俺の隣に立ち、手元のリストを三秒間見つめた。その表情は、俺が次の瞬間にでも殉職するかのように厳粛だった。
俺は、彼女が口を開くのを待った。
彼女は最後に一言だけ、こう吐き捨てた。
「その弁当箱、どかしなさい」
俺はデスクの隅にある、朝食の紙袋を見やった。
「これ、朝飯の残りだろ?」
弥生の顔が硬直する。
正直に言おう。その瞬間、吹き出しそうになった。彼女の失態を笑ったわけじゃない。ただ、その言葉があまりに神代らしくないミスだったからだ。普段の彼女の言葉選びは鋼板を切り裂くほどに鋭利だ。それが今や「お弁当箱」なんてレベルの言い間違いで俺に難癖をつけてくる。もはや調子が悪いなんてレベルじゃない。彼女の意識は、完全に宙に浮いている。
彼女もおそらく、自分の言い間違いに気づいたのだろう。その瞳に宿る冷徹さが一段と深まった。
「……邪魔だと言っているのよ。中身が何かはどうでもいいわ」
「ああ」
「『ああ』じゃないわよ」
「分かった」
彼女は俺を睨みつけるが、耳の付け根がその意志を裏切るように、じわりと赤く染まっていく。
その刹那、俺はあることに気づいた。
――彼女は単に機嫌が悪いわけじゃない。
「意識なんてしていない」と自分に言い聞かせるために、全身全霊で抗っているのだ。
その事実に思い至った瞬間、午後の残りの時間は彼女を刺激しないよう細心の注意を払った。
勝ち誇った気分になったからじゃない。
あまりに危険すぎたからだ。
いいか。普段から自分を完璧に律している人間が、これほどの綻びを見せ始めた時、それは決して「可愛げ」には直結しない。まずは猛烈に凶暴になるのだ。その凶暴さの後に、ようやく可愛らしさがやってくる。だが、その「凶暴な段階」での立ち回りを一歩間違えれば、文字通り命はない。
希も、明らかにそれを察知していた。
その日、彼女はコンソールでタブレットを抱えながら、俺と弥生の間を何度となく視線で行き来させていた。しまいには、どこか慈愛に満ちたような眼差しを俺に向けてくる。背筋が寒くなるような視線だ。
俺は彼女のそばへ行き、小声で尋ねた。
「なんだよ、その目は」
希は即座に視線を落とす。「……別に」
「絶対何かあるだろ」
「本当になんでもないですよ。ただ……周さん、最近大変だなって」
俺が黙り込むと、彼女はさらに言葉を添えた。
「……それに、重要ですよ」
その一言が、さらに怪しい。
「笑いたきゃ笑えよ。臓器提供に行くドナーみたいな言い方すんな」
「ぷっ……!」
彼女は吹き出し、慌てて口を塞いだが、肩は故障した機械のように激しく震えていた。隣の林雨瞳が顔を上げ、淡々と告げる。
「……少しは慎みなさい」
希は必死に頷くが、顔に張り付いた笑みは全く消えていない。
俺はいよいよ不信感を募らせた。「お前ら、陰で俺の噂でもしてんのか?」
雨瞳は資料のページをめくり、視線も上げずに答えた。
「貴方のことじゃないわ」
「じゃあ誰だよ」
「彼女よ」
その「彼女」が誰を指すのか、名前を出すまでもなく理解できた。
胸の奥が微かに騒ぎ出す。
「……あいつがどうかしたのか?」
雨瞳はようやく顔を上げ、俺を一瞥した。その瞳はひどく煩わしげだ。すべてを見通していながら、それを言語化するのを億劫がっている、そんな眼差し。
「別に、どうもしないわよ」彼女は言った。「ただ――肉体が言葉よりも誠実なだけ」
一瞬、言葉の意味を咀嚼しきれなかった。
隣では希が笑いを堪えすぎて呼吸困難に陥りかけている。
俺はその場で立ち尽くし、その言葉を脳内で反芻して、ようやく遅滞を伴って理解した。
理解したところで、返す言葉が見つからない。
いかにも彼女らしいと、そう思ったからだ。
彼女は、棘を飛ばす。
言いがかりをつける。
冷淡に振る舞う。
わざと俺を顎で使い、振り回す。
だが、そのすべての理由が、ただ自分自身の制御不能な状態をどう扱えばいいか分からないからだとしたら――いかにも、彼女らしい。
そしてそれは、ひどく致命的なほどに俺を揺さぶる。
俺は手元にある、彼女に三度も直された書類を見つめた。ふと笑いが込み上げそうになり、だが同時に、笑うのが恐ろしくなった。
雨瞳はそれを見透かしたように、淡く言葉を添える。
「……彼女の前では、笑わない方が身のためよ」
「俺がそんなに死にたがりに見えるか?」
「いいえ」彼女は言った。「もう半分、賽の河原に足を突っ込んでいるように見えるわ」
希が今度こそ声を上げて笑い、慌てて口を塞いで咳払いで誤魔化す。
俺は相手にするのをやめ、書類をめくって作業に戻った。
だが、仕事を進めるうちに、胸の奥にある妙な感覚は色濃くなっていく。
それは優越感ではない。
ましてや、快感でもない。
もっと言いようのない、胸が締め付けられるような柔らかな感覚だ。
ふと気づいてしまったからだ。弥生が俺に難癖をつける時、それは決して彼女が持ち合わせている「本物の凶暴さ」ではない。言葉は氷のように冷たくとも、彼女はいつも、必要とされる距離よりも一秒だけ長く、その場に留まっている。一瞥もしたくないという顔をしながら、話し終えた後の視線はわずかに俺の上に残り、まるで俺が確かにそこにいるかを確認しているかのようだ。
それが最も顕著だったのは、あの廊下での出来事だ。
彼女が資料室から出てきた時、俺の姿を認めて、その肢体が微かに硬直った。直後、彼女は表情を凍りつかせ、邪魔だと吐き捨てる。俺が道を譲ると、彼女は背後に幽霊でも引き連れているかのような早足で通り過ぎていった。だが、曲がり角に差し掛かった瞬間、彼女は極めて細かな刹那だけ、その歩調を緩めたのだ。
ほんの、半拍。
他人なら見逃しただろうが、俺には分かった。
その停滞は、あまりに「待っている」ように見えたから。
俺がまだ、そこにいるかどうか。
俺が、ついてきているかどうか。
その時、俺はその場に立ち尽くし、指一本動かせなくなった。
からかってやろうと思ったわけじゃない。
もし今、俺が本当に彼女の後を追ってしまったら、彼女がその場で瓦解してしまうのではないかと、それが怖かったんだ。
そんな状態が四日目の夜まで続き、ついに真壁が見かねて口を開いた。
その日、俺を外に連れ出した彼は、開口一番にこう言った。
「……最近、よく付き合ってやっているな」
褒め言葉には聞こえなかった。
案の定、真壁はこう続けた。
「彼女は今、お前を中心に堂々巡りをしている。自覚は持っておけ」
二秒の沈黙の後、俺は「……なんとなくは」とだけ返した。
「なんとなく、か?」
「……七、八割方は」
真壁は、俺の鈍感さが救いようのないレベルかどうかを推し量るような目をした。最後には、ただ淡々と告げる。
「彼女は、お前に仕事をさせたいわけじゃない」
「じゃあ、何を求めてるんだ?」
真壁はすぐには答えなかった。
その溜めは、単純な答えを本人に悟らせようとする、ひどく煩わしい沈黙だった。
「……お前を、自分の視界の届く場所に置いておきたいだけだ」
俺はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。
その言葉は、予想していたよりもずっと直接的だった。
あまりの直球に、一瞬だけ胸の奥がキュッと収縮する。緊張すべきか、喜ぶべきかさえ判然としない。
真壁は相変わらず冷徹な語気で、釘を刺すように言った。
「……これをただの幸運だなんて思うなよ」
「思ってないさ」
「ならいい。……あいつは今、必死に意地を張っている最中だ。下手に化けの皮を剥ごうとすれば、その前に八裂きにされるぞ」
それについては、痛いほど信じられた。
真壁が去った後、俺は一人で廊下に立ち尽くした。天井から冷気が降り注いでいるというのに、なぜか耳の付け根が熱い。見透かされたからでも、真壁の言葉に含みがあったからでもない。その一言によって、今までバラバラだった断片が、パズルのように噛み合ったからだ。
なぜ彼女は、俺ばかりを呼びつけるのか。
なぜ避けているはずなのに、必ず俺の元へ戻ってくるのか。
なぜ刺々しく振る舞いながら、俺をその視界に繋ぎ止めておくのか。
彼女は――必死に意地を張っているのだ。
それも、痛々しいほどに。
そう思うと、不意に愛おしさが込み上げてきた。
同時に、少しだけ笑いたくなった。
最悪なのは、この二つの感情が混ざり合うと、無意識のうちに従順になってしまうことだ。
だからその後、彼女が本来俺の担当ではない書類を机に叩きつけた時も、俺は問い詰めることさえせず、ただ一言「分かった」とだけ返した。
弥生は俺を一瞥する。おそらく次の反論を待ち構えていたのだろうが、俺が素直に応じたせいで、彼女は拍子抜けしたように動きを止めた。
「……今日は、随分と聞き分けがいいのね」
俺は手元の書類を整理しながら答える。
「あんたが言ったことだからな」
彼女の表情が凍り付いた。
刹那、彼女の耳の付け根が赤く染まる。
本当に、ほんのわずかな、淡い紅潮。
だが、俺は確かにそれを見た。
俺は即座に視線を落とし、見ていないふりをした。
こういう時に最も重要なのは誠実さではない。生存本能だ。
彼女はその場に立ち尽くし、返すべき言葉を見失ったようだった。結局、吐き捨てるように冷たい一言を投げ残す。
「……自惚れないことね」
そう言って、彼女は背を向けた。
去っていく背中を見送る。出口に差し掛かったところで彼女の歩調が半拍ほど緩み、何かを思い出したように再び速度を上げた。その背筋は相変わらず凛としていて、冷徹なままだ。だが、俺にはもう分かっている。その内側では、何かが決定的に変わってしまったのだと。
刃が鈍ったわけではない。
刃が熱を帯び始めたのだ。
そして彼女自身、もうそれを抑え込めなくなりつつある。
机の上の書類を見つめながら、俺は確信した。この「意地っぱり」な期間は、そう長くは続かないだろう。
平然を装おうとすればするほど、その肢体が先に底を割ってしまう。
俺を遠ざけようとすればするほど、理由を見つけては俺を繋ぎ止めてしまう。
いつか、どうしても耐えきれなくなる夜がやってくる。
そして俺は、今この瞬間から、ある一つのことを学ばなければならない。
――この場所から動かずに、待つこと。
彼女が自ら、こちらへ歩み寄ってくるのを。
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