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番外「残り香」

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。



神代弥生は、あの夜、一睡もできなかった。

休憩室の明かりはとうに消え、ドアの隙間から細い冷たい光が一筋だけ差し込んでいる。それはまるで、誰かがナイフで床をそっと切り裂いた痕跡のようだった。彼女はドアに背を向け、可笑しいほど狭いシングルベッドの上で横たわっていた。瞳を閉じ、呼吸を整える。その静かな佇まいは、端から見れば眠りについているように見えただろう。

けれど、彼女は自分の意識がこれ以上ないほど冴え渡っていることを自覚していた。

あまりに、鮮明すぎた。

掛け布団がふくらはぎを擦る感触さえ煩わしく、枕の布地の質感までもが、今夜起きた出来事を執拗に思い出させようとしてくる。

彼女は布団を引き上げ、顎の下まで潜り込んだ。そうして閉じ込めてしまえば、すべてを無かったことにできるとでも思うかのように。

だが、無駄だった。

一度知ってしまったことは、二度と「知らなかった」頃には戻れない。

かつて、そんな話を聞いたことはあった。男女の間に起きること、初めての経験、情欲、そして身体が一度開花いてしまえば、その感覚を刻印のように記憶してしまうという話を。これまでの彼女にとって、そんな話は自分とは無縁な場所にある、誰かの醜聞や失態、あるいは自制心の足りない者の軟弱な言い訳に過ぎなかった。自分だけは、そんな濁流に呑まれることはないと、頑ななまでに確信していたのだ。

けれど今、彼女は理解してしまった。

理解したどころではない。あまりに克明に、思い知らされてしまったのだ。

目を閉じれば、真っ先に浮かび上がるのは監視モニターの映像でも、黒い隙間でも、あの冷徹な「固定栓位:成立」というシステムメッセージでもなかった。

――あの時、周士達は決して乱暴に動かなかった。

彼はただそこに立ち、彼女の命じた通り、一歩も踏み越えてはこなかった。

最後に距離を詰め、彼にすがり付いたのは、他ならぬ自分自身。

彼を掴んだのは、自分の手。

言葉を紡いだのも、自分。

そこまで思い至り、弥生は弾かれたように目を見開いた。起き上がろうとして、結局は枕に顔を埋めて耐える。耳の付け根から首筋にかけて、焼きつくような熱が駆け巡った。

……無様ぶざまね。

痛みがあったからではない。誰かに見られたからでもない。ましてや、あの行為そのものへの嫌悪でもない。

何よりも屈辱的だったのは――それが、自分自身が「望んだこと」だったという事実だ。

この事象の最も忌むべき点は、そこにある。

もし強要されたのであれば、憤怒を向ける場所があった。

もし事故であったなら、言い訳を探すことができた。

もし失控パニックのせいだと言えるなら、あの「門」にすべての責任を転嫁できただろう。

けれど、そのどれもが当てはまらない。

思い出すたびに、認めざるをえないのだ。あの一歩を踏み出したのは、自分の意志だったのだと。

弥生は寝返りを打ち、天井を凝視した。休憩室の静寂は、耳に障るほど重苦しい。静かであればあるほど、決して忘れてはならないはずの細部が、鮮烈に蘇ってくる。――彼の掌がどこで止まったか。その呼吸がどれほど安定していたか。彼自身も張り詰めていたはずなのに、決して自分をより無様な場所へと突き落とそうとはしなかったこと。

そして、何よりも許しがたい一点。

彼の傍らで、自分の内側が、本当に「なぎ」を迎えてしまったこと。

その安定感は、羞恥心よりも深く、毒のように全身に回っていく。

もし単なる羞恥であれば、耐えることができた。

もし単なる苦痛であれば、やり過ごすことができた。

けれど、あの安らぎは、あまりに致命的だった。張り詰めすぎていた自分の中の琴線に、誰かがようやく正しい力加減で触れたような感覚。それは軽薄な快楽でも、意識を奪うような痺れでもなかった。もっと深く、確かで、逃れようのない「充足」。震える床に立ち続けていた自分が、今夜初めて、沈むことのない大地を踏みしめたのだと知ってしまったのだ。

彼女は、その感覚を憎悪した。

覚えてしまっている自分を。

それを反芻してしまっている自分を。

そして何より、これが致命的なまでに危険なことだと知りながら、心の隅で小さな声が囁くのを止められない自分を。

――「ああ、こういうことだったのね」と。

乱れるだけではない。

そこには、熱があった。

そこには、確かな安定があった。

自分という存在が一度バラバラに解体され、再構築されるような感覚。そしてその再構築された自分は、以前よりもずっと、完全な「人間」に近い形をしているのだという、皮慮なまでの実感。

彼女は手を上げて目を覆った。自分のてのひらさえも、今は熱に焼かれているようで疎ましかった。

知らなかった。羞恥という感情に、これほどの餘溫があるなんて。

そして、その熱は、恐ろしいほどに引きが遅い。

長く横たわっていれば、いつか消え去るものだと思っていたのに。

結局、熱は引かなかった。

時間が経てば経つほど、身体が静まれば静まるほど、脳裏に刻まれた断片フラグメントは鮮明さを増していく。空調が送風するリズムさえも判別でき、自らの呼吸のひとつひとつに含まれる「心虚」を数え上げることさえできた。ある瞬間、彼女は極めて荒唐無稽な衝動に駆られた。――ベッドを降り、ドアを開け、周士達もまだ起きているのかを確かめに行きたいという、熱病のような衝動に。

その思考に至った瞬間、彼女は即座に眉をひそめた。

……何の権利があって。

行ってどうするというのか。

眠れたかと問うのか?

覚えているかと問うのか?

それとも、あの時の私が、実は無様に震えていたことをあんたも知っていたのかと、確認でもするつもりか?

その光景を想像するだけで、あまりの羞恥に自分を床板の中へ押し込めたくなった。

けれど、拒絶すればするほど、思考はあちら側へと吸い寄せられていく。

彼が自分の名を呼んだ、あの掠れた声。

彼は問うことができたはずなのに、あえて沈黙を守ってくれたこと。

そして自分自身が、「あんたが私を突き落としたんじゃない。私自身の意志で、ここへ入ったのよ」と言い放った時の、胸の奥を焼きごてで貫かれたような熱い感覚。

弥生は目を閉じ、結局はベッドの上に起き上がった。

床に足を下ろした瞬間、底冷えする冷たさに身体がすくむ。彼女は慌ててスリッパを履いた。その無駄に素早い動きは、自らの行動が微塵も論理的ではないことを誤魔化そうとするかのようだった。外套を羽織る動作さえも、空気にさえ自分の行き先を悟られぬよう、細心の注意を払って。

ドアノブに手をかけたとき、指先が強張った。

これを回せば、外へ出られる。

廊下は短い。

その先に、彼がいる。

脳内では、すでに幾つもの無様な言い訳が用意されていた。

数値が不安定だったから。

残留圧が引いていないから。

ただの確認。

ただ、彼がそこにいるかを見たかっただけ。

けれど、分かっていた。それらすべてが、卑俗な虚飾であることは。

彼女はドアの前に立ち、ノブを握ったまま、十数秒間静止した。廊下は静まり返り、誰も通りかからない。今ここで外に出ても、自分が数値を案じていたのではなく、ただ――。

ただ、彼に近づきたかっただけだということを、知る者は誰もいない。

あの「なぎ」が、まだそこにあるのかを確かめたかっただけなのだ。

その自覚が芽生えた瞬間、顔が再び焼きつくように熱くなった。

「……狂ってるわ」

彼女は低く毒づいた。ドアに向けた言葉か、自分自身に向けたものか。

結局、彼女は手を離した。

行きたくなかったからではない。

あまりに行きたすぎて、これ以上進めば自分という器が完全に崩壊してしまうことを本能が察知し、無理やり引き戻させたのだ。

弥生はドアに背を預けて立ち尽くし、耳元で鳴り響く自分の鼓動を聞いていた。まるで滑稽な喜劇だ。かつては研ぎ澄まされた刃のように生きてきた自分が、真夜中にドアの前で立ち往生し、一人の男に会いたいという衝動に震えている。

あまりに、無様で。

ベッドに戻り、腰を下ろすとスプリングが小さく軋音を上げた。まるで自分を嘲笑っているかのようだった。彼女はベッドの縁を睨みつけ、最後には両手で顔を覆って、そのまま身体を丸めた。

行かない。

少なくとも、今夜は。

けれど、一度芽生えた衝動は退いたところで消え去るものではなく、形を変えて身体の内側におりのように沈殿していった。潮が引いても床が濡れているように、ドアを閉めても枠組みだけはそこに残るように。彼女はベッドの上で縮こまり、耳の付け根が脈打つのを感じながら、情けないほどに考え続けていた。――もし彼も、今の今まで起きていたとしたら?

もし彼も、私と同じことを考えていたとしたら?

そこまで考えて、彼女は再びその思考を扼殺した。

……考えちゃダメ。

恥知らずにもほどがあるわ。

けれど人間とは皮肉なものだ。禁じれば禁じるほど、その想いは隙間から芽吹いてしまう。

ようやく微かな微睡まどろみが訪れた頃には、夜は白み始めていた。

翌朝、彼女はノックの音で意識を呼び戻された。

叩くというよりは、規律正しい二回の響き。目覚めた瞬間、彼女を襲ったのは睡魔でも倦怠でもなく、致命的なまでの羞恥だった。――私は、本当に眠ってしまったのだ。それも最後は、何かに守られるように深く、深く。まるで何かが正しい場所に収まった後のように、意識そのものが崩落するように眠りこけてしまった。

彼女は起き上がり、乱れた髪をそのままに、まだ眠り足りない蒼白な顔を上げ――けれど耳の付け根だけは、一足早く真っ赤に上気していた。

「誰?」

ドア越しに一秒の沈黙があり、それから老高の、あのおよそ空気を読まない無骨な声が響いた。

「生きてりゃいい。真壁さんが十分後に出ろってよ」

弥生はそっと目を閉じた。

良かった。周士達ではない。

安堵しているのか、それとも失望しているのか。自分でも判然としないまま、胸の奥を通り抜けた空虚な風が、無性に癪に障った。彼女はベッドを降りて身なりを整え始める。その動作はいつもより素早く、まるで手を動かし続けていれば、この後あいつに出会ってしまうかもしれないという予感から逃げられると信じているかのようだった。

だが、現実は残酷だ。

休憩室を出たとき、外の灯りはすべて灯っていた。廊下は夜よりもずっと白く、冷たく、まるで何事も起きなかったかのような静謐を装っている。けれど弥生は知っていた。なかったことになど、できるはずがない。自分の中に残る、いまだに引き切らない微かな痠さや、あいつのことを考えた瞬間に耳の付け根へと駆け上がる熱。それこそが、昨夜が夢ではなかったことの何よりの証拠だ。

シキがタブレットを抱えて外に立っていた。彼女は弥生の姿を見るなり、一瞬だけ瞳を輝かせ、けれどすぐに何かを思い出したように視線を泳がせた。

「お、おはよ」

弥生は無表情に彼女を一瞥した。「……何をどもっているの」

「別に?」シキの反応は、あまりに白々しかった。「吃ってなんかないよ」

嘘だ。

弥生はそれを追及する気力もなく、歩き出した。彼女には分かっていた。シキが何を盗み見ようとしているのかを。――顔色でも、服装でもない。歩き方に「異変」がないかを探っているのだ。そう気づくと、彼女の表情は一層冷たくなったが、歩調は逆に、より確かなものへと変わった。

誰にも悟らせるわけにはいかない。

少なくとも、これ以上は。

角を曲がったところで、林雨瞳に出会った。

ユートンは壁に背を預け、手にした紙コップを眺めていた。彼女が姿を現すと、淡々と視線を上げただけだった。その瞳には詮索も、好奇の色もない。けれど、そのあまりの平穏さが、かえってすべてを見透かしているかのように感じられた。

「……眠れた?」ユートンが問う。

弥生は足を止めた。

「……あなたには関係ないことよ」

「眠れなかった、ってことね」

「……」

ユートンは紙コップを差し出した。「お湯よ」

弥生はそれを受け取った。指先がコップに触れた瞬間、暖かな熱が肌を伝う。断るつもりだったが、結局は黙ってそれを受容した。彼女は確かに冷えていたのだ。外気のせいではなく、徹夜明けの身体の深部から湧き上がってくる、あの空虚な冷たさに。

「あいつ、中にいるわよ」ユートンが不意に言った。

紙コップを握る弥生の手が、僅かに止まった。

「……誰のこと?」

ユートンは、何を今さら、と言いたげな眼差しを向けた。

「誰か、なんて分かってるはずでしょ」

弥生は答えなかった。

彼女は俯いて湯を一口啜った。熱くはないはずなのに、喉の奥が焼きつくように締まる。

実際、彼女は部屋を出た瞬間から「それ」を探していた。視線ではなく、もっと煩わしく、理屈の通じない直感のようなもので。本能が自分よりも先に、あの男の気配を察知しようとしていた。その事実に反吐が出るほど苛立ち、けれど苛立てば苛立つほど、それが真実であることを痛感させられた。

もう少し、時間を稼ぎたかった。

けれど次の瞬間、周士達が前方のドアから姿を現した。

ただの、ありふれた光景だった。髪は少し乱れ、彼もまた十分に眠れなかったことを窺わせる。手には誰かに押し付けられたのであろう朝食の紙袋。けれど、その何気ない一幕が、弥生の全身を石のように硬直させた。

大きな動作をしたわけではない。

ただ、肩に力が入り、指先が微かに蜷局を巻き、紙コップを握る力加減が変わっただけ。

彼女が最初に選んだ反応は、彼を見ることではなかった。

――逃げ出したい。

彼女は即座に視線を逸らした。あまりに露骨で、あまりに不自然なその拒絶は、傍らにいたシキにさえ一瞬で伝わった。シキはタブレットを抱えたまま視線を泳がせ、気まずさに耐えかねたように、わざとらしい空咳を一つ漏らした。この煙が出るほどに滑稽で息苦しい朝の空気を、どうにか誤魔化そうとするかのように。

周士達も、明らかに彼女に気づいた。

その足が、ぴたりと止まった。

ほんの一瞬──(・ ・ ・)

弥生(やよい)はそのわずかな刹那(せつな)すらも、あろうことか鮮明に感じ取ってしまった。耳の付け根がカッと熱くなるほどに、あまりに、あまりに明晰(めいせき)に。

彼女はそんな自分の反応を(のろ)った。昨夜の失態を思い出すより先に、あの安定感(ホールド)、あの熱、あの受け止められた感触(フィードバック)を思い出してしまう己の肢体(からだ)が、恨めしくて仕方がない。

情けないにもほどがある。

彼女は壁の消防標識を、まるでそれが生身の人間よりも研究価値があるかのように凝視(みつ)めた。

「おはよう」

周士達(ジョウ・シーダー)が口にしたのは、結局その一言だけだった。

あまりに普通。

昨夜のことなど何もなかったかのように、あまりに平穏(フラット)

だが、その平穏(フラット)さゆえに、弥生(やよい)はどう返すべきか分からなくなった。

冷たく突き放すように返そうとしたはずが、漏れ出た声は思いのほか(かす)れていた。

「……ん」

わずか一音。それだけで、もう十分に屈辱(くつじょく)だった。

隣では(のぞみ)がタブレットを落としそうになっている。弥生(やよい)老周(ジョウ)に対して、これほど「殊勝(すしょう)」に近い声音を出すのを初めて聞いたのだろう。雨瞳(ユートン)だけは落ち着き払っており、あらかじめ結末を知っている芝居でも観劇するように、静かに水を一口含んでいた。

弥生(やよい)の表情はさらに凍りつく。

だが、どれほど()てつく態度を装おうとも、肉体(からだ)は先に底を見せていた。

周士達(ジョウ・シーダー)がこちらへ半歩近づいただけで、強張っていた彼女の肩の力が、ふっと弛緩(しかん)したのだ。まるで()よりも肉体(からだ)の方が誠実に、自分を(やす)らげてくれる居場所を先に認識(わか)ってしまったかのように。

自分でもそれを自覚し、即座に眉を寄せる。

恥ずかしくて死にそうだ。

さらに(みじ)めなのは、彼を正視することすらできないくせに、両手で包んだ白湯のコップが、さっきよりも安定して保持されていることだ。まるで体温(ねつ)の寄せ場を、その指先(ゆび)が熟知しているみたいに。

周士達(ジョウ・シーダー)は彼女の目前まで歩み寄った。

決して近すぎず、だが、明らかに彼女の聖域(パーソナルスペース)へと踏み込んだ、絶妙な距離。

「具合は、どうだ?」

その問いかけに、弥生(やよい)はようやく彼を見上げた。

ほんの一瞬。

それからすぐに、視線を()らした。

「絶好調よ」と突き放すつもりだった。だが、その四文字は喉の奥に(よど)み、吐き出されたのは全く別の言葉だった。

「……そんな、何もなかったみたいな顔で話しかけないで」

周士達(ジョウ・シーダー)(きょ)を突かれたように動きを止める。

傍らでは(シキ)の瞳が爛々と輝きだした。今の台詞はあまりに扇情的(センセーショナル)だ。まるで『あんなことがあったのに、私はこんなに引きずっているのよ』と裏返しに叫んでいるようなものだった。雨瞳(ユートン)は顔を背けたが、こらえきれないといった様子で口元を微かに震わせている。

周士達(ジョウ・シーダー)は彼女を見つめ、二秒ほどの沈黙の後、馬鹿が付くほど正直に問い返した。

「……じゃあ、どんな語気で話せばいい?」

弥生(やよい)は言葉に詰まった。

唇を強く噛み締め、長い沈黙の末、ようやく冷徹を装った声を絞り出す。

「……とにかく、そんなんじゃないわ」

口にした瞬間に後悔が押し寄せた。

今の「ん」という生返事よりも最悪だ。

まるで拗ねているみたいで。

まるで撒嬌(あま)えているみたいで。

まるで――昨夜からずっと、貴方のことばかり考えていたと告白(しらじょう)しているみたいで。

顔がまた一気に熱を帯びる。今度は紙コップを保持することすら危うくなり、彼女は逃げるように背を向けた。

だが、一歩踏み出した瞬間、肢体(からだ)が残酷なほど誠実に告げてきた。

――周士達(ジョウ・シーダー)が、ついてきていない。

その刹那、彼女の足が、あろうことかコンマ数秒だけ停止した。

そのわずかな停滞(ラグ)だけで、もう十分すぎるほどに無様(ぶざま)だった。

自分自身に、怒り混じりの笑いが込み上げてくる。

どうしてこんな風になってしまったのか。

かつての自分なら思考の端にすら上らなかった反応が、今は次から次へと溢れ出し、隠すことさえままならない。

結局、彼女は振り返ることなく、氷のように冷淡な言葉を投げ捨てた。

「朝食、よこしなさい」

廊下に一瞬の静寂が流れ、(シキ)までもが呆然と固まる。

周士達(ジョウ・シーダー)は手元の紙袋を見つめ、彼女がこんな形で妥協点(おとしどころ)を探るとは思わなかったのか、最後には合わせるように「……ああ」と短く応じた。

彼が紙袋を差し出す。

弥生(やよい)がそれを受け取ろうとした時、指先(ゆび)がかすかに彼の甲に触れた。ほんの一瞬の接触(ふれあい)にすぎないのに、彼女の耳の付け根は再び火照りだす。表情は凍りついたままだが、動作だけが普段より半拍早く、まるで熱せられた鉄にでも触れたかのように跳ねた。

忌々しい。

何より忌々しいのは、その微熱(ねつ)を、まだ鮮明に覚えていることだ。

後ろに控える(シキ)は、笑いを堪えるあまり目尻に涙を浮かべていたが、声を出す勇気はなくタブレットを抱えて必死に装っている。雨瞳(ユートン)がようやく、淡い声で小さく笑った。

「……どうやら、本当に寝不足みたいね」

弥生(やよい)は紙袋を掴み、彼女を鋭く睨みつける。

だがその視線に殺気はなく、むしろ羞恥を暴かれた後の、最後の足掻(あが)きのような険しさだった。雨瞳(ユートン)は怯む様子もなく、慈悲深くさえある追撃を放つ。

「先に食べなさい。顔色が白すぎるわよ」

弥生(やよい)は無視を決め込んだが、反論もしなかった。

自分がいかに「らしくない」か、本人が一番よく理解していたから。

心が軟化したわけでも、魂が抜けたわけでもない。ただ、初めて知ってしまったのだ。

人の内側が()けている時、表面をどれほど冷やしたところで、熱は耳の付け根から、指先から、視線から、そして一瞬の躊躇(ためらい)から、一滴ずつ漏れ出してしまうのだと。

以前の彼女は知らなかった。

今は、知っている。

そしてその理解は、ひどく不本意なものだった。

彼女は朝食を提げて前へと歩き出す。歩調は乱さず、背筋も凛と伸ばしたまま。昨夜の出来事で、自分という硬質な刃(やいば)が折れたわけではないと示すように。

けれど、その刀身の内側には、消し去ることのできない薄く醜い熱の痕(あと)が刻まれてしまった。普段は見えずとも、特定の誰かが近づくたびに、それは自ずと浮き上がってくる。

周士達(ジョウ・シーダー)は、つかず離れずの距離で後に続いた。

(シキ)は二人の間に横たわる、空間はあるのに何かが密接に繋がってしまったかのような距離感を盗み見て、ついに心の声が漏れそうになる。

(やばい……弥生さん、マジで思春(さかり)が来てる)

もちろん、弥生(やよい)にその思考を知る由はない。

たとえ知ったとしても、彼女は決して認めないだろう。

ただ冷ややかな表情を崩さず、朝食の紙袋を少しだけ強く握りしめ、角を曲がる瞬間にだけ、極めて(・ ・ ・)極めて(・ ・ ・)密やかに歩を緩めた。

背後の足音が、まだ自分についてきているかを確認するように。

――聞こえる。

彼女の口角が微かに動いたが、すぐさまそれを押し殺した。

そして、何事もなかったかのように装い、歩みを進めた。



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