S2第六十三章 初落
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
門の外にいる連中は、すぐには入ってこなかった。
自動記録装置だけが、無機質に作動し続けている。サブモニターの数値が一筆、また一筆と、諦念を含んだような足取りで下降していく。主線は基線のわずか半格上で停滞し、伴随線はもはや試行を止め、死噛みするようにそこに張り付いていた。一度咬み合ってしまえば、二度と清浄な状態には戻せない金属の接合面のように。
弥生は、長い間俺に寄りかかっていた。
あまりの長さに、彼女が疲弊して動けないのか、それともこの接触を断つことを拒んでいるのか、判別がつかなくなる。呼吸は依然として乱れていたが、先ほどのような激しい戦慄は収まり、今は時折、背中から幽かな震えが伝わってくるだけだ。門は閉じたが、その余震が彼女の骨の髄をいまだに駆け抜けているのだ。
外は、死に絶えたように静かだった。
ドアを叩く音も、数値を読み上げる声も、レシーバーの明滅もない。その不自然なまでの静寂こそが、真壁という男の流儀だった。一度場を清めた(クリアした)以上、最後の瞬間に俗なノイズでそこを汚すような真似はしない。
壁のサブモニターには、冷徹な白いログが刻まれたままだ。
【固定栓位:成立】
【主線回帰:制限】
【残留基値:上書き完了】
弥生はその文字列を、吸い込まれるような眼差しで見つめ続けていた。顔色は蒼白で、唇からも血の気が失せている。だが、その瞳に宿る硬質な光だけは消えていなかった。どれほどの苦痛と恐怖を代償にしても、一度踏み出したこの一歩を、誰にも、自分自身にさえも、否定させるつもりはないのだ。
「……立っていられるか?」俺は低く訊ねた。
彼女は顔を上げず、ただ幽かな、消え入りそうな肯定を返した。
それは、鋭利な刃の切っ先からようやく生還した者の声だった。
やがて、外側で最初の動。
人の声ではない。電子錠が解除される、あの無機質なビープ音だ。二重の重厚な隔壁を隔てて届いたその音は、遠い弔いの鐘のように響いた。
弥生の身体が、一瞬だけ強張るのを掌に感じた。
俺は動かず、ただ彼女が再び自分を律するのを待った。彼女は一度だけ瞼を閉じ、逃げ出そうとする気力を強引に繋ぎ止める。再び目を開いた時、その顔には冷酷なまでの硬質さが戻っていた。剥き出しの狼狽は、蒼白な肌の裏側に深く隠匿された。
第一の門が開く。
だが、誰も入ってこない。
数秒の後、第二の門の向こうから、慎重すぎる足音が近づいてきた。多人数がなだれ込む喧騒ではない。そこにいる全員が、中で何が「完了」してしまったのかを察し、その神域を乱すことを恐れているかのような、忍び足。
さらに二秒。ようやく第二の門が解錠された。
ドアがスライドした瞬間、外側にいた連中は、中から溢れ出した冷気に圧されるように足を止めた。
彼らが最初に目にしたのは、俺でも、弥生でもなかった。
――ガラスだ。
強化ガラスの裏側にあったあの黒い隙間は消えていた。正確には、極限まで押し潰された灰色の「傷痕」へと変貌していた。引き潮の後に残された水線のように、あるいは透明なパネルに爪を立てて引いた跡のように。細く、目を凝らさなければ見えないほどのそれは、しかしそこに決定的な「異物」が穿たれたことを証明していた。
そして、視線は俺たちへと移る。
弥生は立っていた。だが、その重心のほとんどは俺に預けられている。崩れ落ちることなく、かろうじて矜持を保ってはいるが、顔色の悪さは尋常ではなく、額に張り付いた髪と、俺の袖を掴んで離さない指先が、その過酷さを物語っていた。それは無様な依存ではない。自分の骨の髄まで門板を押し込んだ者が、自分を支える唯一の「楔」を放せずにいる、切実な物理現象だった。
俺の手首に残る、彼女が爪を立てた半月状の痕。
彼女の耳根から引かない、熱を持った薄紅。
それが、単なる観測の結果ではないことを、誰もが悟らざるを得なかった。
廊下側は、沈黙に支配されていた。
先頭に立つ老高は、いつもの毒舌を完全に封じられたように立ち尽くしている。真壁の背後に立つ希は、モニターと弥生、そして俺を交互に見やり、右下のログを確認した瞬間、息を詰まらせた。雨宮 静だけが、結末を予見していたかのような沈んだ眼差しで、その「汚された現実」を見つめていた。
ユートンは、一歩も前に出なかった。
ドアの傍らに立ち、弥生の顔を一瞬だけ見た後、彼女が俺の袖を掴んでいるその手に視線を移す。彼女は何も言わなかったが、その場にいる誰よりも早く、言葉にしてはならない「不可逆の領域」を感じ取っているようだった。
沈黙を破ったのは、外側の人間ではない。
弥生だった。
彼女はゆっくりと背筋を伸ばしたが、俺の傍から離れようとはしなかった。袖を掴む力をわずかに緩め、けれど俺を繋ぎ止めたまま、掠れた、けれど芯の通った声で宣告した。
「……それ以上、来ないで」
門前にいた全員の足が、その一言で縫い付けられた。
その声は決して大きくはなかったが、この部屋の「権限」が誰にあるのかを、再定義するには十分だった。彼女は自らの意志でこの深淵に入り、そして今、誰が聖域に触れて良いかを、自ら決定したのだ。
真壁が彼女を見つめる。その視線は顔からモニターへ、そして最後に俺へと移った。
二番目に口を開いたのは、彼だった。
「……安定して、どれくらい経った?」
希は、ようやく噤んでいた口を解かれたかのように、即座にログを遡った。先ほどのように数値を捲し立てることはせず、極めて簡潔に、乾いた響きで報告する。
「……越閾後、十分間継続。二次浮上の兆候なし。圧格差はセンターに固定、残留基値に変動なし。主線が別の位置を試す挙動も、消失しました」
言い終えた後、自分の口調が早すぎたことに気づいたのか、彼女は喉を一度鳴らし、祈るような一節を付け加えた。
「……もう、開きません」
その一言は、いかなるデータよりも重い「終結」の響きを伴っていた。
真壁は短く頷いた。称賛も安堵も見せず、彼は一歩前へ踏み出す。だが、その足は弥生が先ほど引いた見えない境界線の外側で止まった。彼女の「それ以上来ないで」という宣告が、今なお有効であることを認めるかのように。
彼はモニターの右下に並ぶ文字列を見つめ、氷のように冷徹なトーンで命じた。
「……記録を封印しろ」
「封門プロトコルの成立を認める」
「周 士達を『固定栓位』として登録。暫定的な移動を禁ずる」
老高が、耐えきれずに低く息を吸い込んだ。真壁がその言葉を公に口にした瞬間、それが「単なる仮説」ではなく、全員の頭上に振り下ろされた決定的な「判決」となったからだ。
シキは無意識に俺の方へ目を向けようとし、しかしそれを強引に押し殺してパネルを凝視した。その指先は、自分でも気づかないほど強く握り締められている。雨宮 静は旧案を語ることもなく、ただガラスに刻まれたあの灰色の傷痕を見つめていた。まるで自分の内側にある、もっと古い記憶の断片をそこに重ね合わせているかのように。
その時、ユートンが口を開いた。
声は小さかったが、誰よりも揺るぎなかった。
「……彼女を、先に座らせなさい」
それは命令ではなく、剥き出しの「事実」の指摘だった。
弥生はその言葉を聞き、まだ意地を張ろうとしていたようだが、限界を越えた肉体は嘘をつけなかった。膝が微かに揺れる。俺が慌てて支えると、彼女は拒むことなく、ただ不甲斐ない自分に憤るように、一瞬だけ眉をひそめた。
「……大丈夫よ」
老高の口元が動いた。「とてもそうは見えねえがな」と言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。彼女の「大丈夫」が他者を安心させるためのものではなく、自分を無理やり立たせておくための「呪文」であることを、その場の全員が理解していた。
真壁は彼女を二秒間凝視し、シキに向き直った。
「自録ファイルを封印しろ」
「現時刻を以て、本フロアの権限を『封鎖観測』へ移行する」
「すべての入退室、接触、距離制限を再定義しろ」
彼はそこで言葉を切った。
部屋全体が、次の一句を待って息を止める。
再び紡がれた真壁の声は、抑揚こそなかったが、先ほどよりもさらに深く、逃れようのない「断罪」のように響いた。
「――これはもはや、暫定的な処置ではない」
「『固定運用』とする」
誰も答えなかった。
この段階に至っては、どんな抗議も空虚なノイズでしかないことを、毒舌の老高でさえ悟っていたからだ。
弥生の瞳が、微かに揺れた。激昂することも反論することもなく、彼女はゆっくりと視線を俺へと移した。その言葉が落とされた後も、俺が依然として「同じ位置」に立っていることを確認するように。
俺は視線を逸らさず、彼女を見つめ返した。
彼女の唇が、幽かに動いた。笑みとも自嘲ともつかない、微かな震え。
「……全部、聞いたでしょう」
「ああ、聞いた」
「なら、覚えておきなさい」彼女の声は掠れていたが、かつての鋭利さを僅かに取り戻していた。「……貴方のせいじゃないわ」
老高が驚いたように眉を跳ねさせ、シキは慌てて顔を伏せてファイル整理のふりをした。雨宮静だけは微動だにせず、その光景を見守っていた。その言葉が本来、周囲の誰に向けられたものでもないことを理解しているかのように。
「……分かった」俺は短く答えた。
彼女は、俺の袖を掴んでいた手を、ようやく完全に離した。
だが、その指先は、いまだに止めることのできない戦慄を刻み続けていた。
ユートンが半歩、踏み出す。弥生の劃した境界線の手前で止まり、淡々と訊ねた。
「……自分で歩ける?」
弥生は二秒の沈黙の後、短く答えた。
「ええ」
だが、彼女はすぐには一歩を踏み出さなかった。
その「ええ」という言葉の中に、どれほどの虚勢が混じっているのか。
それを、自分自身が一番よく分かっていたからだ。
真壁はその虚勢を挫くような真似はせず、ただ一言、「休め」とだけ告げた。
老高がようやく自分を取り戻したように、「ちっ、ようやく閉じやがったか」と低く吐き捨てた。その声は、フロア全体がこの一晩中ずっと止めていた呼吸を、半分だけ吐き出させる合図のように響いた。希はタブレットを抱えたままログを追っていたが、その耳根は次第に赤く染まっていく。それが徹夜のせいなのか、あるいは、記録されたあの数行の白字があまりにも「露骨」だったせいなのかは、誰にも分からない。
雨宮 静は背を向ける直前、ガラスに刻まれたあの灰色の傷痕へ最後の一瞥をくれ、淡々と告げた。
「痕跡があるからといって、開いているとは限らないわ」
「……けれど、それは奴が『覚えた』ということよ」
その言葉が落ちた瞬間、室内は再び静まり返った。
彼女が言及しているのが、単なるガラス表面の異常ではないことなど、その場の全員が理解していたからだ。
弥生もまた、それを理解していた。彼女の眼睫が幽かに震えたが、反論はせず、ただ一歩前へと踏み出した。その足取りは、生まれたての獣が自分の脚で立つ術を学び直しているかのように、あまりにも危うい。二歩目で身体が大きく揺らぎ、俺が咄嗟にその身体を支える。
彼女は拒絶しなかった。ただ、俺の肩に顔を近づけ、掠れた声で呪詛のように呟いた。
「……言ったはずよ。これで私を笑ったら、許さないって」
俺は危うく苦笑しそうになった。
「……今日だけで、もう何度も聞いたよ」
彼女は俺を睨みつけた。力のない、けれど他人を寄せ付けないための、彼女なりの最後の「凶相」だ。
老高は今度こそ、あからさまに顔を背けた。シキは見てはいけないものを見ている気分になったのか、慌ててタブレットを抱え直して後退する。ユートンだけは笑わず、ただ安堵を含んだ溜息を漏らした。
門は閉じられた。そして、彼女はまだ、立っている。その事実だけを、彼女は確認したのだ。
真壁が最後に背を向けた。
去り際、彼は監視画面を冷徹に見つめ、今夜の狂乱じみた、それでいて精密な処置のすべてに、決定的な烙印を押した。
「……今夜の記録を封印しろ」
「案件名は変更なし」
「だが、現時刻を以て――神代 弥生と周 士達は、同一のライン上で運用する」
今度は、弥生さえも反論しなかった。
彼女はそこに立ち、蒼白な横顔で前を見据えていた。背筋だけは依然として真っ直ぐに伸ばされている。それは強引に鞘へ押し戻された直後の、熱を帯びた刀身のようだった。その熱は表面には現れず、ただ瞳の奥に、羞恥と疲労、そして自分でも認めがたい「刻印」を、深い光として沈めていた。
廊下の照明は、室内よりも酷く明るかった。
外へと歩き出す彼女は、二度とあの灰色の傷痕を振り返ることはなかった。
だが俺には分かっていた。彼女が今夜という時間を、決して「なかったこと」にはできないということを。
そして、俺も同じだ。
サブモニターの記録は、最後のページで静止していた。白い文字が、暗がりの中で冷たく発光している。
【固定栓位:成立】
それは、決して撤回されることのない判決。
そして、この一夜が誰の空想でもなく、二人の間に確かに打ち込まれた「門栓」であるという、無機質な証明だった。
封印が完了したからといって、厄介事が霧散したわけではなかった。
真のトラブルというやつは、得てして事故のような派手な外見をしていないものだ。それはもう強化ガラスに黒い亀裂を走らせることもなければ、真夜中のフロアを病的なまでの白光で塗り潰すことも、希にタブレットを抱えさせながら「また上浮した!」と悲鳴を上げさせることもない。
ただ、引き切れない水跡のように、基線のわずか半格上に静かに居座り、こう告げているだけだ――門は閉じた。だが、門枠はそこに在るのだと。
翌朝、真壁は全員をメインコンソールの前に招集した。
サブモニターに映し出されているのは、昨夜の「封門」以降の全自動記録だ。主線は健在で、伴随線は死噛みするようにそこに張り付いている。右下の数行の白字は、どんな罵倒よりも無機質で、残酷だった。
【固定栓位:成立】
【主線回帰:制限】
【残留基値:上書き完了】
老高は最後尾に立ち、聞き取れないほどの声で低く毒づいた。シキはタブレットを抱え、その数行のログを何度も視線で往復させている。まるで、決して印刷してはならない禁忌の病名でも目撃してしまったかのように。雨宮 静は封印された昨夜の記録を一頁ずつ、凄まじい速さでめくっていた。彼女が確認したいのは結果などではない。その結果が、いかなる「格付け」の成立を意味しているかだ。
真壁は、前置きという名の無駄を一切省いて切り出した。
「昨夜、封門プロトコルは成立した。固定栓位は、現時刻を以て有効となる」
誰も、言葉を返さない。
「本日より、神代 弥生と周 士達は、同一のライン上で管理する。動線、距離、臨場接触、夜間警備――そのすべてを、新たな規定の下に再編しろ」
老高が即座に眉をひそめた。「同一ラインで管理だと? その言い方は少し――」
「少し何だ?」真壁は彼を見ようともせず、言葉を被せる。「事実として、正確すぎるか?」
老高は後半の反論を飲み込むしかなかった。
真壁の指先がモニターの縁を軽く叩く。その音は、鉄板をナイフで削ったかのような平坦な響きを伴っていた。
「誰かの自由を制限するのが目的ではない。彼女が再び『別の位置』を探索するのを防ぐためだ」
「これより本件は、観測案件の継続ではない。処置の維持に移行する」
「――すべての臨場判断において、ロマンチシズムを排除しろ」
最後の一節が投げ落とされた瞬間、コントロールエリアの空気は一気に氷点下へと沈んだ。
シキは俯き、必死にデータの整理に没頭するふりをした。壁際に立つ林さんは、動かず、笑わず、ただ手の中の冷めきったコーヒーをテーブルに戻した。雨宮静は資料を閉じ、淡々と追撃を加える。
「……偶発的な接触ではないわ。定位の段階は、もう過ぎたのよ」
弥生は、最初から最後まで沈黙を守っていた。
彼女は最も端に立ち、顔色はいつもより僅かに蒼白だ。けれど背筋だけは異様なまでに真っ直ぐで、それは鞘に収まってなお、火に焼かれた余熱を宿したままの一振りの刀に見えた。
真壁が俺という存在を正式に彼女の「ルール」へと書き換えていくのを、彼女は微動だにせず聞き届けていた。その眼差しは、自分の身に起きたことではなく、どこか遠い他人の報告書を眺めているかのようだった。
真壁が説明を終えた時、彼女はようやく口を開いた。その声は幽かに掠れ、ひどく静かだった。
「……私を、設備のように記述するのは、やめて」
真壁は彼女を見つめ、眉ひとつ動かさずに言い放った。
「手遅れだ」
抑揚のないその一言は、どんな慰めよりも残忍だった。
俺は立ち尽くしたまま、言葉を返せなかった。返す言葉が見つからないのは、それが紛れもない事実だからだ。昨夜、あの数行のログが跳ねた瞬間から、俺は「人間」であることを半分ほど剥奪された。少なくとも、自分の意志で居場所を選べる存在ではなくなった。俺は彼女の『門』が残した金属部品であり、彼女と外部の境界に嵌まった、無骨で取り外しのきかない固定具に成り果てたのだ。
会議が解散し、フロア全体が新たな規定に従って動き出す。
すると、神代 弥生が俺に「嫌がらせ」を始めた。
机をひっくり返すような派手なトラブルじゃない。もっと細かく、粘りつき、逃げ場のない類のものだ。彼女は突然、俺の立ち位置、書類の扱い、移動経路のすべてに逐一難癖をつけ始めた。しかもその指摘は、嫌になるほど精緻だった。
「その箱、あっちへ運んで」
「その封印、貼り直し」
「……近すぎ」
俺が半歩下がると、彼女は冷徹な眼差しを向けてくる。
「そこまで離れろとは言っていないわ」
俺は彼女を二秒間凝視し、「じゃあどこに立てばいいんだ」という問いを飲み込んだ。ここで訊けば、間違いなく死ぬ。
ここ数日の彼女の言葉は以前より短く、その怒りは薄氷のように鋭く冷えていた。一見平坦に見えて、踏み込めば足元から粉々に砕け散るような危うさ。老高が最初の犠牲者になった。昼過ぎ、新しい封鎖動線表を持って彼女に確認を求めた際、つい余計な一言を漏らしたのだ。「昨夜はよく眠れたか?」と。
弥生は視線すら上げなかった。
「……貴方に関係あること?」
老高は絶句し、口角を二度ほど引き攣らせた末に沈黙を選んだ。傍らにいた希の肩が激しく震える。怯えているのかと思いきや、彼女は必死に笑いを堪えていた。
今の弥生が最も恐ろしいのは、機嫌の悪さではない。俺が「彼女の視界内にいるかどうか」に対して、異常なまでに神経質になっている点だ。
近くてもダメ。
遠すぎてもダメ。
俺が資料室へ行けば、二分後には適当な理由をつけて呼び戻される。
メインコンソールの前に少しでも長く立てば、邪魔だと言い放つ。
指示通りに角を曲がって退避すれば、冷ややかな顔で「どこへ行っていたの?」と詰問してくる。
その問いがあまりに自然だったせいで、彼女自身も直後に硬直した。次の瞬間、慌てて付け加える。「人員を配置しているの。貴方に報告を求めているわけじゃないわ」
俺は渡された予定表に目を落とした。俺の欄は綺麗に空白で、配置など一文字も書かれていない。
「……ああ、そうか」
彼女の顔色が一気に険しくなる。「……何よ、その生返事は」
「分かったよ」
「……分かったような顔をしないで」
言い捨てると、彼女は背を向け、背後から幽霊にでも追われているかのような速さで立ち去った。廊下の角に消えていく彼女を見送りながら、俺は一つの結論に達した。この女、怒っているんじゃない。――必死に「抑え込んで」いるのだ。
その事実はシキも気づいていた。
その日の午後、コンソールに並ぶ再編されたデータを眺めながら、彼女は声を潜めてユートンに訊ねた。「……神代さん、最近少し静かじゃないですか?」
壁に背を預けた林さんは、顔を上げずに答えた。
「静かなんじゃないわ」
「え?」
「……『乱れていない』だけよ」
シキが呆然とし、主線の傍らで寄り添うように走る、あのほとんど不可視に近い微細な浮動に目を向けた瞬間、彼女の耳根が真っ赤に染まった。今にも吹き出しそうな顔をするシキに、ユートンが淡々と釘を刺す。
「笑い声を漏らしたら、彼女に殺されるわよ」
シキは即座に、唇を縫い合わせたかのように固く閉ざした。
真壁の観察は、より本質を突いていた。
夕刻、彼は弥生が三度も書き直した動線計画表をテーブルに放り出し、一瞥して言い放った。
「貴女が今やっているのは『封鎖』か? それとも――特定の個人を『周回』させているだけか?」
コントロールエリアの空気が、一瞬で凍りついた。
真壁は彼女を凝視した。その瞳に慈悲の色はない。
「……遅すぎたな」
その一言は、いかなる処置よりも残忍に彼女の逃げ道を断った。
俺は立ち尽くしたまま、言葉を返せなかった。返す言葉が見つからないのは、それが紛れもない事実だからだ。昨夜、あの数行のログが跳ねた瞬間から、俺は一人の「人間」であることを半分ほど剥奪された。俺は彼女の『門』が残した、取り外しのきかない固定栓位に成り果てたのだ。
会議が解散し、フロア全体が新たな規定に従って動き出す。
それと同時に、神代 弥生が俺に「嫌がらせ」を始めた。
それは机をひっくり返すような派手なものではない。もっと細かく、粘りつき、逃げ場のない類のものだ。彼女は突然、俺の立ち位置や移動経路のすべてに、異常なまでのこだわりを見せ始めた。
「その箱、東側へ運んで」
「その封印、貼り直し」
「……近すぎ」
俺が半歩下がると、彼女は冷徹な眼差しを向けてくる。
「……そこまで離れろとは言っていないわ」
俺は彼女を二秒間凝視し、「じゃあどこに立てばいいんだ」という問いを飲み込んだ。ここで口を開けば、間違いなく死ぬ。
今の彼女は薄氷のような危うさを湛えていた。踏み込めば、足元から粉々に砕け散るような冷たい怒り。
「昨夜はよく眠れたか?」
無邪気に問いかけた老高に、彼女は視線すら上げずに言い放った。
「……貴方に関係あること?」
老高は絶句し、沈黙を選んだ。傍らにいた希の肩が激しく震える。怯えているのかと思いきや、彼女は必死に笑いを堪えていた。
今の弥生が最も恐ろしいのは、機嫌の悪さではない。俺が「彼女の視界内にいるかどうか」に対して、生理的なレベルで神経質になっている点だ。
近ければ邪魔だといい、遠ければどこへ行っていたと詰問する。
俺が資料室へ行けば、二分後には適当な理由をつけて呼び戻される。
予定表には俺の配置など一文字も書かれていないのに、彼女は当然のように俺の動きを把握しようとする。
「……ああ、そうか」
俺が投げやりな返事をすると、彼女の顔色がさらに冷え込む。
「……何よ、その生返事は」
「分かったよ」
「……分かったような顔をしないで」
言い捨てると、彼女は幽霊にでも追われているかのような速さで立ち去った。廊下の角に消えていく彼女を見送りながら、俺は確信した。この女、怒っているんじゃない。――必死に「抑え込んで」いるのだ。
その事実はシキも気づいていた。
彼女は声を潜めてユートンに訊ねた。「……神代さん、最近少し静かじゃないですか?」
壁に背を預けた林 雨瞳は、顔を上げずに答えた。
「静かなんじゃないわ」
「え?」
「……『乱れていない』だけよ」
シキが主線の傍らで寄り添うように走る、あのほとんど不可視に近い微細な浮動に目を向けた瞬間、彼女の耳根が真っ赤に染まった。
「笑い声を漏らしたら、彼女に殺されるわよ」と、ユートンが淡々と釘を刺す。
真壁の観察は、より本質を突いていた。
夕刻、彼は弥生が三度も書き直した動線計画表をテーブルに放り出し、一瞥して言い放った。
「貴女が今やっているのは『封鎖』か? それとも――特定の個人を『周回』させているだけか?」
コントロールエリアの空気が、一瞬で凍りついた。
「……それと、その朝食をどけて」
彼女は俺の「分かった」という返答に一瞬たじろぎ、二秒置いてから追撃するように命じた。
「俺のなんだが」
「今の私には、それが邪魔なのよ」
希は危うくタブレットを落としそうになり、慌てて画面を乱打してチェック作業のふりをした。壁際の林 雨瞳は、ようやく幽かな笑みを漏らした。それはナイフの刃に反射した光のように鋭く、一瞬で消える笑みだった。
俺は紙袋を掴み、彼女に訊ねる。「……どこに置けばいい?」
彼女はようやく、俺に視線を向けた。
たった一瞬。
視線が合った瞬間に彼女は顔を背け、無理に力を込めた冷たい声で言い放つ。
「……勝手にしなさい」
言い捨てて背を向ける。
彼女はいつもより半歩早く歩き出したが、角を曲がる寸前、その足取りがわずかに緩んだ。それは何かを待っているかのような、奇妙な「溜め」だった。俺が呼び止めるのを待っているのではない。自分自身も認めたくない何かが、確かに自分の背後に存在し続けていることを確認しようとする、本能的な停滯。
俺は立ち尽くしたまま、追いかけなかった。
今ここで追えば、彼女は間違いなくその場で爆発するだろう。
だが、俺は理解していた。昨夜の残留値などよりも、もっと厄介な事態が起きている。彼女は自分自身で気づいてしまったのだ――自分が、どこへ帰るべきなのかを。
午後。真壁は昨夜の自動記録を見終えた後、二分間もの沈黙を貫いた。
シキは呼吸を殺して傍らに立ち、老高はこの沈黙の意味が分からず、ただ周囲の異様な静けさに毒づくことも忘れていた。雨宮 静は対照資料を閉じ、何も語らなかった。
沈黙を破ったのは、やはり真壁だった。
「彼女は、失走しているわけではない」
誰も答えられない。
彼はタブレットをシキに返し、氷のように冷徹な結論を口にした。
「……彼女は、自ら『栓位』を見出す術を学んでいる」
コントロールエリアの空気が、再び凍りついた。
シキは俯いたまま動けない。
老高は眉をひそめ、その言葉の意味を理解した瞬間に、理解したことを後悔したような顔をした。
ユートンだけが、感情の読めない瞳で弥生を一瞥した。驚きはない。ただ、こうなることを予見しつつも、彼女を助けてやるつもりもないという、残酷なまでの平穏。
弥生はそこに立ち尽くし、顔色は冷たく白いままだが、袖口の中で指先を微かに動かした。
たった一瞬の、収縮。
目に見えない場所で、小さな釘がさらに深く、彼女の肉体へと打ち込まれたかのような。
そして俺は、突如として理解してしまった。
「固定栓位」が成立したことの真のトラブルは、制度やリスク、報告書の手順などではない。
真に厄介なのは――彼女が、真夜中にふと目を覚ました時、自分の足がどこへ向かうべきかを知ってしまったことだ。
そして、俺もまた、それを知っているということだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




