S2第六十二章 弥生の決断
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
彼女が放ったその一言で、俺は悟った。もはやこれまでのような「自欺」は通用しないのだと。
少し近づくだけ、手をどこに置くだけ。ガラスの外側で数値を眺めながら「これはまだ観測の範疇だ」と決め込むフェーズは、もう終わった。彼女自身が、その行為に明確な「定義」を与えてしまったのだから。
これは、定位ではない。
封門だ。
室内には、俺たちの呼吸音と、時折漏れる機材のノイズだけが響いている。弥生の掌は俺の腰に添えられたままだ。その力は、相手を掴むというよりは、自分という存在をその位置に「釘付け」にするための、必死な抵抗のようだった。
「……『開口』は存続。ですが、エッジが収束しています」
外側で、希が震える声で報告を上げる。
俺は振り返らない。
彼女の背後に刻まれたあの「隙間」は、俺の眼前に、誰よりも鮮明に映っていた。
ナイフで裂いたようだったあの闇は、確かに押し戻されつつある。だが、完全には閉じていない。門が誰かの手によって強引に押さえつけられている一方で、内側の「風」が、虎視眈々とその隙間から溢れ出ようと抗っているのが分かる。
弥生は額を俺の肩に預けたまま、呼吸を細く整えていた。まるで一息吸うごとに、体内の何かを削り取られているかのように。
「……まだ、漏れているわ」
俺は喉を鳴らし、低く問い返した。
「……どこからだ?」
彼女はすぐには答えなかった。
自分の内側を――どの骨が、どの筋肉が、どの意識の断片が、異象の圧力に屈して風を漏らしているのかを探っているようだった。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見つめた。その瞳は冷たく、そして冴え渡っていた。
「……背中よ」
その時、部屋の隅にある魔法瓶が、カタカタと不気味に震えた。
牛 小琴の声が、金属越しに苛立ちを含んだ冷静さで響く。
『当たり前さ。裂け目はガラスに描いてあるんじゃない。ガラスはただ、映し出しているだけなんだからね』
『本当に漏れているのは、彼女の身体に走る「受力線」だよ』
「……もっと分かりやすく言ってくれ」
老高が掠れた声で割り込む。
『端的に言えばね』ニウ・シャオチンが鼻で笑った。
『さっきの接触で門板を押し戻すことはできた。だが、門の隙間を平すには至っていない』
『……あんたたち、最後の「一押し」が足りないんだよ』
「それは、どの程度の力だ」
真壁が即座に反応する。
一瞬の間を置いて、ニウ・シャオチンが冷徹に告げた。
『……彼女を「浮かせたまま」にするんじゃないよ』
『腰、背中、肩。それだけじゃ点に過ぎない。足りないのは、中線すべてを正対させるための力だ』
『指先で裂け目の端を抑えているだけじゃ、内側の圧格差にいずれ弾き飛ばされる。……構造的に「密閉」しちまうのさ』
観測室内が、再び凍りついた。
俺にも理解できた。外側にいる連中も、そして誰よりも、弥生自身がその意味を理解していた。
彼女の瞳が、微かに揺らぐ。その「センターラインの密閉」という言葉が、先ほどのどの動作よりも彼女を追い詰めた。だが、彼女は逃げなかった。肩を微かに震わせ、それを自らの意志でねじ伏せる。
「……どうすればいい」
俺の問いに、彼女は応じない。
外側では、シキがモニターを凝視したまま呼吸を乱し、真壁は沈黙のまま、決定権を残酷なまでに彼女へと委ね続けていた。雨宮 静も動かない。ここで誰かが助言をすれば、それはこの「儀式」を汚すことになるのを分かっているのだ。
弥生は自分自身と戦うように、その場に立ち尽くしていた。
やがて、彼女は震える手で俺の襟元を掴み、半寸だけ自分の方へと引き寄せた。
「……抱きしめて」
その三文字が放たれた瞬間、ガラスの向こうの影が、一斉に硬直したのが分かった。
それは愛の告白でも、救いの希求でもなかった。
あまりにも、鋭利で、残酷な言葉。
彼女は、誰かに優しくされることを望んだのではない。
目撃者たちが立ち並ぶこの「現場」で、自分という事故を収束させるための、最後の手順を自ら宣告したのだ。
俺は二度と言わせなかった。
一歩踏み込み、彼女の身体を、その魂ごと力強く腕の中に抱き込んだ。
彼女は、想像していたよりもずっと軽かった。
それは体重の問題ではない。掌に伝わるその感触が、あまりにも空虚なのだ。まるで自分を支えるためのすべてを「門」を抑え込むために使い果たし、俺に預けられたのは、極限まで張り詰め、凍てついたように硬直した肉体の抜け殻だけであるかのように。
彼女の胸元が俺に触れた瞬間、その身体が大きく跳ねた。頸椎から尾椎まで一本の鋼線を通し、その中段を強引に指で弾いたような、鋭い戦慄。
希の叫びが通信機から弾け飛ぶ。
『……収束!』
弥生の背後の黒い隙間が、一気に半分まで縮小した。
じわじわと退いたのではない。乳白色の霧に刻まれていたあの闇が、背後から何者かに引きずり戻されるように、明確な後退を見せたのだ。だが同時に、彼女の身体が俺の腕の中でさらに深く硬直した。喉の奥から、押し殺したような、微かな気音が漏れる。
俺は彼女を覗き込んだ。
「……痛むか?」
彼女は目を閉じたまま、額に薄い汗を浮かべて首を振った。
「……痛みじゃないわ」
その声は、砂を噛んだように掠れている。
「……内側から、押し潰されそうなの」
『……当たり前さね』
魔法瓶の中から、牛 小琴の冷徹な追撃が飛ぶ。
『封印ってのは、元から不快なもんだよ。裂け目を埋めるのが、マッサージか何かに見えるかい?』
老高が低く毒づくが、誰もそれに応じる余裕はなかった。
俺はさらに腕に力を込め、彼女の背のラインを、より深く俺の胸へと密着させた。額を肩に預けていた彼女は、今や顔を俺の胸元に埋めるようにして、浅く、急ぎ足の呼吸を繰り返している。内側の嵐を、俺たち二人の質量で無理やり押し返しているような、そんな感覚だ。
『……中段の重畳値、なおも上昇! ですが暴走ではありません。完璧に咬み合っています(シンクロナイズド)!』
シキの声は、今にも千切れそうな弦のように張り詰めていた。
『黒い線、残り三分の一』
雨宮 静が、氷のような観察眼で現状を射抜く。
『……まだ、底までは届いていないわ』
『彼女の下部が、まだ「空」よ』
背筋に冷たいものが走った。
彼女の言葉が、俺の掌に伝わる感覚と完璧に一致したからだ。上半身は固定された。肩も、背も、腰も咬み合った。だが、彼女の身体のどこか一箇所だけが、まだ実感を伴わずに宙に浮いている。
門板の上半分は溝に嵌まったが、下半分が最後の一押しを拒んで、宙ぶらりんになっているのだ。
弥生自身も、それを悟っていた。
俺の衣類を掴む彼女の指先が白く透け、骨が皮膚を突き破らんばかりに突き出る。二秒の沈黙の後、彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、自分一人のためだけに呟いた。
「……もっと、下を」
俺は問い返さず、掌を滑らせた。後腰のさらに下方。彼女の重心を支える最後の一節をがっしりと掴み、彼女の全身を俺の肉体へと強引に「校正」する。
その瞬間、彼女は今日一番の激しい震えを見せた。浮いていた最後の受力点が、ついに実存する「楔」に触れたのだ。膝が砕けそうになるのを、俺の腕が強引に支え抜く。
『……正対!』
シキの悲鳴のような叫び。
ガラスの黒い隙間が、猛烈な勢いで縮小した。
ゆっくりと退くのではない。見えない手が内側から一気に「ジッパー」を閉めたかのように、闇は中央の一点へと収束し、頑固なトゲのようにそこへ居座った。
同時に、霧のかかったガラスの四隅に白い霜が降り、監視台の照明が瞬いた。フロア全体のエネルギーが、その一点の「咬み合わせ」に吸い取られたかのような、異常な電力の揺らぎ。
弥生の身体が、俺の腕の中で限界まで強張った。それは硬直ではなく、押し返そうとする内側の圧格差と、それを封じようとする俺たちの力が、狭い一点で激突している衝撃だ。
彼女は歯を食いしばり、俺の鎖骨のあたりに額を押し当てている。乱れた呼吸を、一欠片も外に漏らすまいとする意地。
「……耐えられるか?」
俺の問いに、二秒を置いて、掠れた「……ええ」という肯定が返ってきた。
今にも折れてしまいそうなほど細い返答。だが、彼女は一歩も引かなかった。
掌から伝わる彼女の震え。それは恐怖によるものではなく、門板を無理やり門枠へと押し込む際、軋むヒンジが奏でる悲鳴に似ていた。
彼女は今、俺に抱かれているのではない。
全身の重みを、魂のすべてを投げ打って、この「封門」の一撃を完遂させようとしていたのだ。
魔法瓶の中、牛 小琴の声が、今度は低く響いた。まるで、今この瞬間の危ういリズムを乱すことを恐れるかのように。
『……焦って畳みかけようとしなさんな』
『ただ抑えておきな。まずは「そこが自分の場所だ」と、奴に覚え込ませるんだ』
『封門ってのは叩き潰すことじゃない。奴を強引に「溝」へ認めさせることなんだよ』
真壁が即座にその言葉を引き継ぎ、圧をかける。
「周 士達、動くな。神代 弥生、呼吸を維持しろ。希、全データを連続記録しろ。一画面たりとも切らすな」
「記録中!」
シキの声は悲鳴に近いが、その指先は止まらない。
雨宮 静はガラスに残された最後の一筋の闇を凝視し、幽かな声で呟いた。
「……第七格が、合致していく」
老高の顔から血の気が引く。
「……合致するって、どういう意味だ?」
雨宮は彼を見ず、ただその黒い点を見つめ続けている。
「もともと空虚だった場所を、彼女自身が『校正』し直しているのよ」
その言葉が落ちた瞬間、観測室内の冷気が一層その重みを増した。
俺には「第七格」がどうのなんて考える余裕はなかった。腕の中のこの女は、今この瞬間に全存在を賭けている。俺の背中に食い込む彼女の指先、一回ごとに短くなっていく呼吸。まるで、閉じようとする門の隙間から、残された空気を無理やり絞り出しているかのようだ。
ニウ・シャオチンが言った「事故現場そのもの」という言葉の意味が、ようやく腑に落ちた。
彼女は傍らで被害に遭っているのではない。
彼女の肉体そのものが、異象の圧力を受け止める「受力面」と化しているのだ。
数秒の後、ガラスの上の最後の一筋が、ついに動き出した。
広がるのではない。エッジが白く滲み、中央の闇がじわじわと削り取られていく。シキがモニターを睨みつけ、その瞳は充血していた。
「封口値、ボーダーを越える……あと一跳ね、あと一回……!」
真壁の声が、机に押し付けられた鉄尺のように低く、鋭く響く。
「――堪えろ」
弥生は俺の腕の中で目を閉じ、極めて細く、慎重に息を吸い込んだ。
そして不意に、俺の背に回していた手を上へと滑らせ、俺の後頸部を掴んだ。そのまま、俺の身体を自分の方へとさらに深く引き寄せる。
その動作は大きくはないが、戦慄するほど正確だった。中線を完璧に正対させるための、一ミリの妥協も許さない最終調整。
彼女は俺の耳元で、吐息のような、消え入りそうな声で囁いた。
「……私を、緩ませないで」
その言葉は、これまでのどんな命令よりも俺の神経を逆撫でした。
彼女はもはや「何をすべきか」を語っているのではない。自分という存在のすべてを、この残酷な「咬み合わせ」に委ねたのだ。信頼でも依存でもない、もっと無機質で、逃げ場のない関係。彼女が緩めば、門もまた緩む。その事実を、彼女は俺の鼓膜に直接叩き込んだ。
俺は答えず、ただ彼女をさらに強く、圧し潰さんばかりに抱きしめた。
次の瞬間、タブレットとメインモニターが同時に、臨界突破を告げるインジケーターを点灯させた。
短く、あまりにも鮮やかな電子音。
一晩中張り詰めていた鋼線が、ついにあるべき溝へとカチリと嵌まった音だ。
「封鎖完了!」
シキが叫んだ。
ガラスの上の黒い隙間は、瞬時に髪の毛ほどの細さまで縮小し、そこで停止した。
完全に消えたわけではない。
だが、そこから吹き抜けていた「風」は、もう止んでいた。
部屋全体を支配していた、皮膚を削るような陰冷な気配が、潮が引くように一歩後退する。事態が終わったのではない。ただ、あの門が枠の中に力ずくで押し込まれ、一時的な沈黙を強いられたに過ぎない。
弥生は全身の力を失ったかのように見えたが、倒れはしなかった。
俺の腕の中に顔を埋め、呼吸をゆっくりと、一段階ずつ整えていく。それは平穏への回帰ではなく、極限の負荷に耐え抜いた肉体が、遅れてやってくる「代償」を一つずつ清算しているような、痛々しい呼吸だった。
俺は彼女を覗き込み、低い声で呼んだ。
「……弥生」
彼女は応じない。
二秒の後、磨り潰された氷のような、掠れた肯定が返ってきた。
「……ええ」
強化ガラスの向こう側、誰もすぐには入ってこなかった。
真壁はメインモニターを凝視したまま、長い沈黙に身を浸していた。やがて彼は、先ほどまでの冷徹さをさらに研ぎ澄ませた、重く、硬い声で宣告した。
「……『封門』の完了を記録しろ」
「現時刻を以て、周 士達を付き添い(アテンド)の対象から外す」
「……これより、彼を『固定栓位』として定義する」
観測室の誰一人として、反論する者はいなかった。
それが単なる結論などではなく、逃れようのない「判決」であることを、全員が理解していたからだ。
俺の腕の中にいる彼女は、その言葉を聞いた瞬間、指先を微かに震わせ、俺の背中の衣類をぎゅっと握り締めた。
けれど、拒絶の言葉を口にすることはなかった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




