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S2第六十一章 閉じゆく門

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

「……現時刻を以て、これはもはや『観測案件』ではない」

 真壁マカベのその言葉が落ちた後も、観測室内には奇妙な停滞が続いていた。

 何をすべきか分からないわけじゃない。ただ、これから成すべきことが、もはや数値を表に書き写したり、異常を枠内に収めたりするような「事務作業」の範疇を超えてしまったことを、全員が本能的に悟っていた。

 強化ガラスの向こう。弥生やよいの背後には、あのどす黒く、実在感に満ちた細い隙間が居座り続けている。まるで鋭利なナイフの先で、乳白色の霧をそっと切り裂いたかのような一筋の闇。それは広がることも、閉じることもなく、どんな警報音よりも残酷な沈黙を湛えてそこに立っていた。

 シキが震える手でタブレットを操作する。

重畳値オーバーラップは安定しました……。でも、『開口』が退きません」

 老高ラオガオの顔色が、泥のように沈む。

「……つまり、かんぬきは刺さったが、肝心の門が閉まってねえってことか?」

 雨宮あまみや しずかは老高を見ず、ただガラスの隙間を凝視したまま答えた。

「そうよ」

 その声はあまりに平坦で、まるで最初からこの結末を知っていたかのようだった。

「不足しているものは何だ」真壁が問う。

 雨宮静は手元の旧案を最後のページまでめくり、その視線を止めた。そこにあるのは、彼女自身も二度と目にしたくなかったはずの「正解」だ。

「定位はあくまで位置を認めさせただけ。……認めさせたからといって、封印されるわけではないわ」

 彼女は顔を上げ、視線を弥生から俺の手へ、そしてゆっくりと俺の全身へと移した。

「形を得てしまった『開口』は、次に――正位アライメントを求める」

 廊下の空気が、さらに一段階凍りついた。

「『正位』だと? また神楽の連中が好きそうなオカルト用語かよ」

 老高が苛立たしげに吐き捨てる。

かんぬきは傍らにあるのではなく、門そのものにあるのだと、奴に理解させるのよ」

 その言葉の意味を理解した瞬間、シキの呼吸が乱れた。彼女は一瞬だけ俺を見やり、すぐに視線をモニターへと戻した。顔を上げなければ、これはまだ単なる「データ上の問題」で済むと自分に言い聞かせているようだった。

 真壁の判断は、相変わらずマシンのように速い。

「……どこに触れればいい」

 雨宮静は表情を崩さず、短く返した。

「彼女自身が選ぶわ」

 全員の視線が、ガラスの向こうの弥生へと集中した。

 その時だった。

 部屋の隅に置かれていた真空魔法瓶が、カタカタと微かに、けれど明確に震え始めた。

 その小さな音が、観測室の死線を切り裂く。

『……いつまでグダグダと法事の説法みたいな話を続けるつもりだい、あんたたちは』

 魔法瓶の中から、牛 小琴ニウ・シャオチンの冷徹で、極限まで不機嫌さを煮詰めたような声が響いた。

 シキが弾かれたように飛び起き、老高も驚愕の表情で魔法瓶を凝視する。

『神楽の言う「正位」とやらも間違いじゃないが、言い回しが回りくどいんだよ』

『端的に言えば、彼女の身体にある「陰陽の縫い目」が開いちまったんだ』

 誰も口を挟めなかった。雨宮静でさえ、わずかに目を細めて沈黙を守っている。

『……これは中邪(取り憑き)なんて生温いもんじゃない。彼女は何かを招き入れたんじゃない、彼女自身が「通路アパーチャー」そのものになっちまったんだ』

『いいかい、周 士達ジョウ・シーダー。あんたは鍵でもなければ、見物用の観測機器でもない』

『あんたは今、その裂け目を無理やり押さえつけている「定位ピン(ダボ)」なんだよ』

「定位ピン……?」老高が呟く。

『そうさ』ニウ・シャオチンの声が続く。

『壁にヒビが入れば釘を打つ。堤防に穴が開きゃ杭を打ち込む。あんたたちが今やってるのは開門の儀式じゃない。「止裂クラックストップ」だ』

『ピンが刺さっているうちは裂け目も縮まるが、それを抜いてごらん。門は大人しく閉じるどころか、周囲を巻き込んでズタズタに裂け広がるよ』

 観測室には、精密機器の駆動音だけが空虚に響いていた。

 シキが手元のタブレットを見つめる。先ほどまでの無機質な数値が、今の言葉によって血の通った「呪い」へと変質していく。

『それから、彼女をただの検体サンプル扱いするのはやめな。彼女は今、事故に遭ったんじゃない。彼女自身が「事故現場そのもの」なんだよ』

『これ以上もたつくと、その裂け目は土地や人、場所に「根」を下ろし始める。そうなったら、もうおしまいだね』

 老高の顔色が一層どす黒くなる。

 真壁は数秒の沈黙の後、淡々と問いかけた。

「……結論を」

『結論? 決まってるじゃないか。外側から眺めて寸法を測る段階は終わったんだ』

『とっとと嵌め込むか、さもなくば異象が外側まで食い破ってくるのを待つか。……夜明けまで観測ごっこを続けたいなら、精々あとの掃除の心配でもしておくんだね』

 吐き捨てるようにそう告げると、魔法瓶は再び元の沈黙へと戻った。

その数言は、まるで釘打機ネイルガンで壁に打ち込まれたかのように、俺たちの脳裏に深く突き刺さって抜けなかった。

 今まで専門用語の海に漂っていたあやふやな概念が、一気に現実という名の地面に叩きつけられたのだ。

 ただの「正位アライメント」じゃない。

 これは「止裂クラックストップ」だ。

 「圧縫プレッシング」だ。

 釘を抜けば、その裂け目は自ら獲物を探して、この世界を無慈悲に引き裂く。

 どんな罵倒よりも耳障りで、それでいて、吐き気がするほど明快な事実だった。

 真壁マカベはもはや無駄口を叩かなかった。ただ、弥生やよいを静かに見据える。

「……人員を下げさせるか?」

 その問いは、これまでのどの命令よりも重かった。

 真壁がようやく、彼女に「選択権」という名のハンドルを戻したからだ。

 弥生はすぐには答えなかった。

 まずガラスの向こう側にいる面々——シキ老高ラオガオ、林 雨瞳リン・ユートン雨宮あまみや しずか——を一人ずつ見やる。誰の顔も、酷い有様だった。

 ここまで来れば、これが下世話な好奇心の対象などではなく、冷徹な「処置」であり、逃げ場のない「封門」であることは全員が理解している。だが、理解していることと、その場に立ち会うことは別問題だ。

 数秒の沈黙の後、弥生が口を開いた。

「……観測に必要な人間以外、全員出して」

 老高は何も言わず、即座に踵を返して去った。シキはタブレットを抱えたまま、自分は見なくてもいいと言いたげな、けれど自分の役割がそれを許さないという絶望に満ちた表情で、外側の監視台へと退いた。

 ラインの外側にいたユートンは、幽霊のように青ざめた顔で立ち尽くしていたが、強硬に居座ることはしなかった。ただ、背を向ける直前、弥生に短い視線を送る。それは評価でも同情でもなく、「最終決断はお前に任せる」という、友としての最後の境界線だった。

 雨宮静は旧案を閉じ、ドアへと向かう。

 すれ違いざま、彼女は俺にだけ聞こえる声で釘を刺した。

「……嵌まらなければ止めなさい。無理は禁物よ」

 真壁だけが動かずにいた。

 弥生が彼を射抜く。

「……貴方も、出ていって」

 真壁は微かに眉をひそめた。

「現場の統制コントロールが必要だ」

「貴方がここにいても、統制にはならないわ」弥生は冷たく言い放つ。「ただの『観覧』よ」

 その言葉は、冷徹な真壁の急所を正確に突いた。

 彼は二秒間、彼女を見つめ返したが、反論も怒りも見せなかった。ただ、外のシキに向かって短く手を挙げる。

「……数値に跳ね(スパイク)が出れば、即座に報じろ」

 そう言い残し、彼は部屋を後にした。

 観測室の重厚なドアが背後で滑らかに閉まる。残されたのは、ガラス越しのぼやけた人影と、無機質な計器の光だけだ。野次馬の視線という名の「固定」が消え、空間の濃度が劇的に変化した。

 今、この密室には俺と彼女。

 そして、彼女の背後で口を開けたままの「裂け目」だけが実在している。

 俺は立ち止まったまま、すぐには近づかなかった。

 臆しているわけじゃない。今ここでの半歩が、もはや俺一人の意志で完結するものではないと分かっていたからだ。

 弥生が俺を見つめる。その瞳は、深淵のように静かだった。

「……もっと、近くへ」

 俺は半歩、踏み込んだ。

 通信機からシキの押し殺した声が漏れる。

『……ラインが収束しています』

 弥生の背後の黒い隙間は消えていない。だが、周囲を覆っていた乳白色の霧が、指の幅ほど内側に縮まった。門が閉まったわけではないが、吹き荒れていた「風」の勢いが、目に見えて弱まったのが分かる。

 彼女は視線を伏せ、自分の中に生じている「物理的な変化」を確かめるように沈黙した。

 二秒。彼女は再び、俺を促した。

「……まだ、足りないわ」

 俺は無言で、さらに距離を詰めた。

 俺たちの間には、もはや半歩の距離しか残されていなかった。

 あまりの近さに、彼女の目の下に浮かぶ淡いくまや、頸側に浮き出た細い筋、そして、必死に抑え込んでいるはずの震えのすべてが、残酷なほどの解像度で俺の網膜に焼き付く。彼女は震えていないんじゃない。全身の筋肉を鋼のように硬直させ、その震えを内側へと押し込めているだけなのだ。

 ガラスの向こうで、シキの呼吸音が劇的に変化した。

『……主線、なおも下降中。ですが、「開口」が閉じません!』

 弥生やよいが一度だけ、深く瞼を閉じた。

 再びその瞳が開かれた時、そこには逃げ場を断った者の、冷徹なまでの決意が宿っていた。

「……を」

 俺は迷わず、両手を上げた。

 彼女は一瞬だけ躊躇した。自分の手を、そして俺の手を見つめるその仕草は、鋭利な刃で自らの肌を裂くよりも苦渋に満ちているように見えた。だが、彼女は震える掌を俺の手へと重ね、そのまま強引に引き寄せて、自分の側腰へと押し当てた。

 その瞬間、俺の思考はコンクリートのように固まった。

 身体が触れ合ったからではない。彼女の体温が、あまりにも異常だったからだ。

 それは、生きている人間が発する熱ではない。内側の熱源をすべて深淵に吸い取られ、外側に残された皮肉なほどの冷気と、張り詰めた皮肉な質感。まるで、精巧に作られた氷の彫像に触れているかのような錯覚に陥る。

 彼女は衣類越しに俺の手を腰に押し付け、決して離そうとしなかった。

 直後、タブレットから短く鋭いアラートが響く。

『……反応あり!』

 弥生の呼吸が、初めて乱れた。

 喘いでいるのではない。胸の奥に溜まった空気が、物理的な圧力によってせき止められたような、苦悶に満ちた一拍。彼女の背後の「隙間」が、内側から何者かに引き戻されるように、一ミリだけその口を窄めた。

 俺は彼女を覗き込み、声を絞り出す。

「……これでいいのか?」

 彼女は答えない。ただ、指先にさらなる力を込め、俺を、そして自分自身をその場所へと繋ぎ止めた。

 ガラスの向こう側は、死後の世界のように静まり返っていた。シキでさえ、この異常な光景に言葉を失っている。時折モニターが明滅し、これが現実の「変質」であることを冷酷に告げるだけだ。

 弥生は直立したまま、視線を伏せている。だが、俺の手のひらを通して、彼女の全身が極限まで軋んでいるのが伝わってくる。俺がこの手を離した瞬間、彼女の背後の闇は、堰を切ったように溢れ出すだろう。

 しばらくの後、彼女の掠れた声が耳に届いた。

「……もう片方も」

 俺はもう一方の手を上げ、彼女の促すままに、その背後——後腰へと回した。

 その瞬間、衝撃が走った。

 俺の掌の下で、彼女の背筋が激しく震えた。それは、限界まで張り詰められた弦が、指先で弾かれた時のような鋭い振動。彼女は俺に寄りかかろうとはしなかった。だが、その硬直はわずかに解け、内側から溢れ出ようとする「何か」を、俺というくさびを使って強引に食い止めているのが分かった。

『……「開口」が縮小しています!』

 シキの震える声が、遠くで響く。

 俺は振り返らない。手足の感覚を通して、その変化を直接「知って」いたからだ。

 弥生は凍てついた鉄の塊から、ゆっくりと、その重みを俺へと預け始めていた。

 彼女がようやく目を上げ、俺を見た。

 至近距離で交わされたその視線。そこには、彼女が今まで誰にも見せなかった、剥き出しの「真実」が横たわっていた。

 羞恥ではない。恐怖でもない。

 それは、承認アクセプトだ。

 自分という存在を維持するために、今、目の前のこの男を「道具」として、あるいは「栓」として必要としているという、残酷な事実の受け入れ。

「……少しは、マシになったか?」

 俺の問いに、彼女は長い沈黙の後、幽かな吐息のような肯定を返した。

 だが、安堵は許されなかった。

 直後、彼女の背後の黒い隙間が、まるで獲物を逃すまいとする獣のように不気味に震えた。門が閉じようとする圧力と、それを拒む内側の「風」が、激しく衝突している。

重畳値オーバーラップは安定! ですが……封鎖完了まで、あと一歩が足りません!』

 弥生の瞳が、微かに揺れた。動揺ではない。自分でも制御できない領域の「不足」を、彼女は誰よりも早く察知していた。

 彼女は俺の手を離さない。それどころか、静寂の二秒を置いて、その額を俺の肩口へと、そっと預けた。

 その重みに、俺の全身に緊張が走った。

 それは愛着などではない。彼女は自分というパズルを、この位置に、この角度で、完璧に「校正キャリブレーション」しようとしていた。額、肩、腰、背。四つの接点が、目に見えないスロットへとカチリと嵌まっていく。彼女の呼吸は極限まで細くなり、内側の嵐を一点に凝縮して、その「隙間」を押し返そうとしていた。

『……収束しました!』

 シキの悲鳴に近い報告。

 ガラスの上のあの黒い線が、目に見えてその口を閉じ始めた。

 その時、弥生が短く、鋭く息を吸い込んだ。

 彼女の瞳は閉じられ、睫毛が激しく震えている。門が強引に閉じられる衝撃が、彼女の魂の深層を無慈悲に引き裂いているかのような、そんな痛み。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、砂を噛んだような、酷く掠れた声で俺の名を呼んだ。

「……周士達(ジョウ・シーダー)

「……ええ」

 彼女はすぐには言葉を継がなかった。

 あまりに長い沈黙。胸の奥で一度、その言葉を反芻し、覚悟を形にするのを待ってから、彼女はようやく極限まで声を絞り出した。

「もし……これでも足りないというのなら……」

 言葉が途切れる。

 喉が微かに動いた。その後半部分を口にすることが、これまでのどんな処置よりも過酷であるかのように。

 俺は急かさなかった。

 やがて彼女は意を決したように目を見開き、俺を真っ直ぐに射抜いた。顔色は刃のように白く凍てついているのに、その耳根には、抑えきれない微かな赤みが差している。

「……ここで、立ち止まらないで」

 観測室の外が、一瞬で真空になったかのように静まり返った。

 振り返らなくとも分かる。強化ガラスの向こう側にいる連中が、今の言葉の意味をすべて理解したことが。

 それでも、弥生やよいは視線を逸らさなかった。

 自分を守るための最後の殻さえも、自らの手で引き裂いたかのような、低く平坦な、けれど引き返せない響き。

「今回は、ただの定位ポジショニングじゃないわ」

 彼女は腰に添えた俺の手を、さらに強く押し付けた。俺が退くのを恐れるように、あるいは、自分自身が逃げ出すのを禁じるように。

「……『封門ロックダウン』よ」


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