番外 「バックプレッシャー」
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
その夜、神代弥生は自分自身の胎內から込み上げる衝動に、無理やり引き摺り起こされた。
外の物音ではない。警報でもない。誰かがドアを叩いたわけでもない。
ただ、目が覚めた瞬間に、胸の奥にある「境界線」の違和感に気づいてしまったのだ。
痛みではない。初めての時のように張り裂けそうな浮遊感でもない。もっと細く、遅く、そして理不尽なまでの還流。まるで縫い合わせたはずの傷口の底から、誰かが爪の先でじわじわと外側へ押し広げようとしているような感覚。力は弱いが、それゆえに意識は鮮明になり、二度寝など許してはくれない。横たわっているほどに、その淫らな感触は輪郭を増していく。
それは身体の深淵に空いた空洞が、少しずつ広がっていくような感覚だった。胸元ではない、もっと下――小腹の奥にある、最も柔らかく秘められた場所。そこを見えない指先で愛撫され、掘り起こされているような、膝から力が抜けていく疼き。その空虚感は、容赦なく彼女に突きつける。
――足りない。それを埋める何かが、どうしても必要だと。
弥生はベッドの上で、暗闇をじっと見つめていた。
よろしい──。
最初の思考は「無視すればいい」。
次の思考は「もう少し耐えなさい」。
そして三番目の思考が、彼女を決定的に苛立たせた。
(……今、周士達がここにいれば、こんなものは収まるはずなのに)
その思考がよぎった瞬間、肢体が即座に反応した。胸元、下腹部、そして太腿の内側までが、見えない手に撫で回されたかのように細かな戦慄に支配される。彼女は「感じて」しまった。彼の掌の温度――自分をねじ伏せるような、あの暴力的なまでの熱が、今最も安らぎを求めている場所へ押し当てられる幻を。肉体は脳よりも誠実に、あの感触を記憶し、渇望していた。
彼女は弾かれたように目を閉じた。そうすれば、この下卑た妄想を圧し殺せると信じて。
だが、無駄だった。
あの還流は、依然としてそこにある。微弱だが、確かだ。まるで彼女に思い出させているようだった。一度刻まれたものは封印したところで消えはしない。それは必ず戻ってくる。特におひとり様の夜に。最も思い出したくないと拒絶を張っている時に。
弥生は寝返りを打ち、眠りに戻ろうと試みる。
三分後、彼女は再び寝返りを打った。
毛布の中は酷く蒸れ、熱くもないはずなのに全身の肌が火照っている。シルクのネグリジェは滑らかであるはずなのに、今の彼女にはまるで紙やすりのように乳頭を擦り、苛ませる。寝返りを打つたびに、敏感になった突起が布地と擦れ、凌辱されているような錯覚に陥る。さらに最悪なことに、股間に濡れそぼるような違和感が滲み始めていた。身体はすでに、受容準備を整えてしまっている。
さらに二分後、彼女はついに起き上がった。額を押さえ、自分自身を罵倒するように顔を歪める。
「……意気地なし」
低く吐き捨てられた言葉が、この衝動に向けられたものか、自分自身に向けられたものかは分からない。
ただ、理解していた。最も厄介なのは、この不安定な状態ではない。
どうすればこれを「最短」で解決できるか、知ってしまっていることだ。
一度知ってしまえば、人間は無意識に比較を始めてしまう。「耐えること」と「彼の元へ行くこと」、どちらがより苦しいかを。
その比較は、あまりに恥辱に満ちている。
そして、あまりに正確だった。
彼女はベッドの縁に腰掛け、シーツを固く握りしめた。指関節が白く浮き出るほどに。脳裏にはあの夜の光景が鮮明に浮かび上がる。彼の指先、彼の体温、近づいた時に意識を飛ばしそうになったあの匂い。何より屈辱なのは、その時の自分の反応までもが、昨日のことのように蘇ることだ。呼吸が乱れ、鼓動が暴走し、声さえも抑えきれなくなったあの――羞恥に満ちた快楽。その記憶は毒のように彼女の全身を巡り、身体を飢えさせる。支配され、見透かされることに魅了されてしまった自分自身が、堪らなく憎い。
静寂に包まれた休息室で、彼女の荒い吐息だけが響く。彼女はすぐに立ち上がらず、ただ伏せ目がちに座り続けていた。理不尽な要求を突きつけてくる、もう一人の自分と対峙するように。
行かなくてもいい。本当に行かなくても。夜明けまで耐え抜くことなど、造作もないはずだ。
だが、問題はそこではない。
「朝まで耐える」という選択肢よりも、「彼がいれば今すぐ救われる」という誘惑が、彼女の理性を塗り潰していく。
(……浅ましいわね)
骨抜きにされたような、無節操な自分。この数日間の意地も、冷徹な仮面も、すべては一つの醜悪な事実を隠すための欺瞞に過ぎなかった。
――彼女の肉体は、すでに帰るべき場所を知っているのだ。
弥生は十数秒の間をおいて、ようやく立ち上がった。
敗北を認めたわけではない。これ以上ここにいても、思考が乱れ、自分が壊れていくだけだと確信したからだ。
彼女は上着を羽織り、ドアへと歩み寄る。ドアノブに手をかけ、一瞬だけ動きを止めた。
ほんの、一瞬。
あいつに鉢合わせた時に放つべき「言い訳」なら、すでに用意してある。
還流の確認。例行的な措置。残留基値の追跡調査。
どの言い訳も惨めなほどに稚拙だった。自分自身ですら、これっぽっちも信じられないほどに。
ドアを開けると、廊下の冷気が正面から叩きつけてきた。その冷たさに、弥生の意識はわずかに覚醒する。灯りは落とされ、壁灯が最低限の視界を確保しているだけだ。廊下全体が冷水に浸かっているかのように静まり返り、この時間に誰かが現れることなど許されない、そんな静寂が支配していた。
それなのに、彼女は出てきてしまった。
足音は、幽かか。
一歩進むごとに、あの空虚感は色濃さを増していく。外套の襟元から冷気が滑り込むが、身体の深淵で燃え盛る焦燥を冷ますには至らない。それどころか、歩くたびに太腿の内側が擦れ、あの湿った熱感はより鮮明にその存在を主張し始める。一歩一歩が、彼女に突きつける――貴方の肢体はもう準備を終えている。何を渇望し、誰にこの空洞を埋めてほしいのか、分かっているはずだと。
彼女はわずかに両脚を窄めるようにして歩かざるをえなかった。その無様な歩調が、自分をまるで盛りのついた小動物のように思わせ、屈辱に唇を噛む。
弥生はひどく緩慢に歩いた。一歩ごとに、引き返すための最後の理由を探し続けているかのように。角に差し掛かり、足を止める。その先は、周士達の領域だ。
短い廊下を二秒間凝視した。その時、胸の奥の細い還流が、あろうことか再び内側から突き上げてきた。重くはない、だが正確だ。まるで彼女を急かすように、急所を射抜いてくる。
彼女は深く息を吸い込み、踏み出した。
彼の部屋に近づくほど、空気には彼女が厭うほどに熟知した気配が満ちていく。香水などではない。体温、吐息、そしてわずかな硫黄の匂いが混じり合った、雄の匂いだ。その香りが生き物のように鼻腔をくぐり抜け、呼吸をするたびに下腹部の奥がキュンと収縮する。あの夜、この気配が頸筋や鎖骨をなぞりながら、自分を包み込んでいった時の窒息しそうな感覚が蘇る。
近づくにつれ、あの煩わしい不快感は、不思議と少しずつ収まっていった。完全に消えたわけではないが、明らかに軽くなっている。その反応に安堵すると同時に、自分を叩き伏せたいほどの自己嫌悪が湧き上がった。
これでは、まるで。
自分はただの人体検知器か。それとも、発情った猫か。
弥生は彼のドアの前で立ち止まった。
今回は、掴めるドアノブなどない。ただ冷え切ったドアの板と、今にも肋骨を突き破りそうなほど激しい鼓動があるだけだ。
ドクン、ドクン、ドクン――。
耳の奥で鳴り響く鼓動は、雷鳴のように激しい。それ以外に聞こえるのは、自分の乱れた呼吸音と、体内を駆け巡る血液の奔流。埋められたい、宥められたいと疼く肉体の騒めき。さらに恐ろしいことに、ドアの向こう側から、かすかな呼吸の気配が聞こえるような気がした。すぐそこに、手を伸ばせば触れられる距離に、彼がいる。
ノックをしようとした。上げた手は宙で止まり、強引に引き戻される。
もし彼が寝ていたら? もしドアを開けた彼に、どうしたのかと問われたら? もし彼が、ごく普通に自分を見つめ、「何か用か?」と尋ねてきたら――。
想像しただけで、耳の付け根が燃えるように熱くなった。
あまりに、格好が悪すぎる。
真夜中に押し掛けておいて、「眠れないの、身体が貴方を求めているから」なんて、言えるはずがない。
そんなことを口にするくらいなら、死んだ方がマシだ。
脳内の妄想は、もはや制御不能だった。ドアが開いた後の光景が溢れ出す。彼はどんな目で自分を見るだろう。この昂ぶりを、一目で見抜くだろうか。太腿の間の蜜を、胸元に突き出した尖を、そして顔に書いてあるような渇望を。
何より恐ろしいのは、彼にすべてを見透かされることを、どこかで期待してしまっていることだ。暴かれ、晒される羞恥の中でこそ、自分は抵抗を放棄する言い訳を得られるのだから。
弥生はドアの前で立ち尽くし、表情を険しくさせた。還流はまだそこにある。だが、先ほどより明らかに弱まっている。それが最悪だった。ここに立っているだけで「効果」があるという事実は、もはや言い逃れのできない物証だった。
馬鹿げている。まるで怪談だ。
彼女はドアを見つめ、奥歯を噛み締め、結局ノックはしなかった。
したくないのではない。あまりに「したい」からこそ、できなかったのだ。
このドアが開いてしまったら、もう二度と、自分を元の場所へは連れ戻せないことを、本能が悟っていた。これは単なる還流ではない、数値でもない、封鎖の副作用でもない。そこには、認めがたい、けれど確かな何かが芽生えていた。
彼に、会いたい。
機能としてではなく、彼という個人を、求めている。
その自覚は、どんな副作用よりも残酷に彼女を打ちのめした。
弥生はしばらく立ち尽くした後、ゆっくりと手を下ろし、背を向けた。
だが、一歩踏み出そうとした瞬間。
背後から、ごく微かな門扉の軋みが聞こえた。
──カチャリ。
その小さな音がスイッチとなった。彼女の肢体は激しく震え、膝から力が抜け、危うくその場に崩れ落ちそうになる。抑え込んでいた熱が奔流となって溢れ出し、下着を容赦なく汚した。それは恐怖ではなく、期待が裏切られた瞬間の、あまりに唐突な充足。彼が来た、と肉体が理解した瞬間、すべての防波堤が瓦解したのだ。
彼女は硬直した。
直後、ドアが開く。
周士達がそこに立っていた。髪は少し乱れ、今しがた目覚めたばかりのような風体だが、その眼差しは彼女の予想よりも遥かに清明だった。
彼の視線が、弥生に突き刺さる。それは物理的な質量を持って、彼女の外套を、ネグリジェを、剥ぎ取っていく。震え、火照り、無残なまでに濡れそぼった肢体を、そのまま射抜くように。情欲などではない。だが、どんな情欲よりも羞恥を煽る眼差し。
彼は見抜いていた。彼女の渇望を。真夜中に訪れた本当の理由を。そして今、彼女がどれほど彼に触れられ、満たされ、蹂躙されることを望んでいるかを。
彼は彼女を見つめ、二秒ほどの静寂を置いた。
最初の一言は「どうした?」ではなく、予見していた確信。
「……外にいるのは、分かってた」
弥生の思考が真っ白に染まった。
それは呆然とした空白ではない。用意していたすべての言い訳が、喉の奥で一斉に死に絶えた衝撃だ。
「貴方──」
口を開くが、声は酷く掠れていた。その声音は隠しようもなく情欲を孕み、まるでたった今、激しく愛し抜かれた直後のような甘い尾を引いている。真夜中の静寂において、その声は「欲しい」という三文字を顔に書いて晒しているのと同じだった。
「……起きて、いたの?」
「寝かけてたんだけどな」
周士達はドアに背を預け、声を低めた。その低音は耳元で囁かれているような錯覚を抱かせ、寝起きの掠れ具合が羽毛のように彼女の神経を撫でていく。弥生は鼓動がまた一段と乱れるのを感じた。下腹部の奥の収縮は、もはや膝から崩れ落ちる寸前の臨界点に達している。
「外に、誰かがずっと立っている気がしてさ」
致命的な一言だった。
弥生の顔が瞬時に火照る。
彼が「来たこと」だけでなく、「来たのにノックもできず立ち尽くしていたこと」まで見抜いていたことを意味するからだ。その醜態は、もはや『例行的な確認』などという言葉では誤魔化しようがない。
彼女は冷徹な仮面を必死に保ち、その熱を押し殺そうとした。
「……貴方に用があって来たわけじゃないわ」
周士達が彼女を見る。
「ああ、そうか」
その「ああ」が、あまりに扇情的だった。含み笑いのような挑逗。彼はあえて化けの皮を剥がそうとはせず、ただすべてを見透かした眼差しで、彼女の強張った太腿や微かに震える指先をなぞっていく。
その瞬間、弥生は自分が完全に剥き出しにされたような羞恥と、それ以上の渇望に支配された。肉体は完全に主人を裏切っている。股間の濡れは重さを増し、上着の下で尖りきった乳頭が痛むほどに主張し、呼吸は情欲の震えを隠せない。
(いっそ、今すぐ私を中に引き摺り込んで、この意地っ張りな口を塞いでしまえばいいのに──)
彼女は彼を睨みつけ、ようやく「人間らしい」理由を絞り出した。
「……少し、還流があるの」
今度は、周士達も茶化さなかった。
彼は一度だけ彼女を見つめ、それから身を引いて道を譲る。
「……入るか?」
日常的な、二文字。
ただ知人を部屋に招くような、あまりに平坦な響き。
だが、ドアの前に立つ弥生の胸は、キュッと切なく収縮した。部屋を、あるいは彼を恐れているのではない。この境界を一歩跨いでしまえば、この数日間必死に守り抜いてきた「形」が、決定的に崩れ去ることを理解していたからだ。
その敷居は、理性のこちら側と、雄の気配が立ち込める「巣」を分かつ境界線。ドア越しに漂ってくる硫黄と体温、そして男特有の濃密な匂いが、生き物のように彼女の鼻腔をくぐり、脳の深淵にある野生の交配本能を直接刺激する。下腹部の空虚感は十倍にも膨れ上がり、雌としての本能が叫ぶ。
――ここに、貴方が求めるものがあるのだと。
二秒の沈黙の後、彼女は中に入った。
大股ではない。ひどく緩慢に、静かに敷居を跨ぐその動作は、ずっと引き延ばしてきた「真実」を認める儀式のようだった。
ドアが閉まった瞬間、彼の気配が彼女を完全に包囲した。
温水のように四方八方から押し寄せ、毛穴、肺葉、血液にまで染み込んでいく。フェロモンで満たされた密室に放り込まれたかのように、呼吸をするたびに「彼の欠片」を体内に取り込んでしまう。肢体は制御不能な熱を帯び、下着の中の湿った粘り気が、はっきりと意識に上る。
部屋は暗く、枕元の小さなランプが灯っているだけだ。その光量は、互いの存在を確認できるが細部までは暴かない、絶妙な朧さ。それがわずかな救いだった。少なくとも、自分の顔がどれほど赤く染まっているかを悟られずに済む。
だが、その暗闇は両刃の剣でもあった。顔の紅潮は隠せても、身体の反応までは隠せない。この曖昧な光の中、彼女はむしろ自分自身の勃ち上がった乳頭、急いた呼吸、そして全身から漏れ出す渇望を、より鮮烈に自覚させられる。
彼がこの光の中で、どんな眼差しで自分を見ているのか。服に隠された筋肉の躍動や、自分を狂わせるあの掌を想像するだけで、意識が遠のきそうになる。
周士達はドアを閉めた。鍵はかけず、近寄ることもせず、ただ問いかける。
「……かなり、しんどいのか?」
弥生は立ったまま、彼を見ようとはしなかった。
「……別に」
「……『別に』じゃないだろ、それは」
「……貴方、本当に、煩わしいわ」
「ああ、知ってるよ」
密室に響く彼の声は、一段と低く重厚だった。各々の単語が胸腔の奥から押し出される低周波の振動となって、空気を通じて彼女の骨に、血液に、抗いがたい共鳴を引き起こす。自分の鼓動が彼の声の旋律と同期し、下腹部の奥がそのリズムに合わせて密やかに収縮く。肢体が本能的に、彼に「合わせて」いく。
本来なら、逃げ出したくなるような会話のはずだった。
だが不思議なことに、彼がこうして淡々と言葉を繋いでいくほどに、胸の内の還流は凪いでいく。まるで、荒れ狂っていた熱が、あるべき場所へと静かに還り始めたかのように。
その「落下」感覚は、あまりに真実だった。胸元を締め付けていた圧迫感は、彼の存在を感じた瞬間に滾るような熱流へと変貌し、脊椎を伝って一気に駆け下りる。そしてすべてが下腹部の深淵へと集い、羞恥にまみれた湿熱へと変わる。身体が蜜を分泌しているのが、自分でもはっきりと分かった。大腿の内側を伝う粘りのある感触が、彼女に強引に脚を窄めさせる。その生物学的な反応を、彼に悟られるわけにはいかない。
彼女は床に視線を落としたまま、ようやく声を絞り出した。
「……外に立っていただけで、少し、良くなったわ」
言葉にした瞬間、舌を噛み切りたくなった。
あまりに、露骨すぎる。
それは、彼が近くにいるだけで「効く」と認めたも同然だった。
――貴方は私の薬よ。貴方の匂いを嗅ぐだけで、私は発情ってしまうの。
その告白は、どんな愛の言葉よりも淫らで屈辱だった。自らの原始的な生物本能を、無防備に晒してしまったのだから。彼女の肢体はすでに彼を番いとして刻み込み、接近に対して条件反射的な生理準備を始めてしまっている。耳の付け根が火傷しそうなほどに熱く、股間の濡れは羞恥心に煽られて、さらにその重みを増していく。
周士達は、案の定、短く沈黙した。
弥生は慌てて言葉を継ぎ足す。
「……別に、他意はないわ」
「ああ」
「変な想像もしないで」
「分かってる」
「……勝ち誇ったような顔もしないことね」
「……そうだな」
ようやく、彼女は彼を見上げた。
「……今、間があったわね」
周士達は馬鹿正直に答えた。
「勝ち誇ってなんかない。ただ、あんたがドアの外でいつまで立ち往生するつもりか、それを考えてただけだ」
弥生は二の句が継げなくなった。
怒るべきだった。だが、彼の言葉があまりに急所を射抜いていたせいで、怒りさえ形にならず、ただ顔の火照りだけが加速する。
彼の一言は透視のように、彼女の虚勢をすべて暴いてしまった。外での躊躇いも、ノックしようとして引っ込めた手も、内側の激しい葛藤も――彼はすべてを察していた。見透かされているという事実は羞恥を煽るが、同時に、強烈な刺激となって彼女を撃つ。彼が自分を注視し、この欲求不満に塗れた姿を想像していたかもしれないと思うだけで、下腹部の奥が狂おしいほどに収縮いた。
彼女はついに、冷淡を装って言い放つ。
「……もう、帰るわ」
周士達は彼女を見つめ、頷いた。
「いいよ」
その「いいよ」という全肯定に、彼女は逆に動けなくなった。
部屋は静まり返っている。還流の不快感は、すでにほとんど退いていた。本来なら喜ぶべきことなのに、その場に立ち尽くす彼女の心には、底知れぬ「空虚」が広がっていく。
不快感は消えた。だが、その代わりに、もっと恐ろしい怪物が目を覚ました。
――純粋なまでの肉体的飢餓。
深淵で目覚めた暗い穴が、狂おしく叫んでいる。ただ「近く」にいるだけでは足りない。埋められたい、占有されたい、無残に刻印されたい。その原始的な交配への渇望は、どんな理性よりも強固で、解薬を目の前にしながら「必要ない」と強弁する自分を、まるで哀れな中毒者のように貶めていた。
分かっていたのだ。今夜、本当に耐えがたかったのは、副作用などではない。
暗闇に独り横たわり、解決策を知りながら、そこに近づくまいと拒絶を張り続ける自分自身の欺瞞に、耐えられなかったのだ。
強がりは、もう限界だった。
彼女が動かずにいると、周士達も急かすことはせず、ただ静かに彼女の傍らに留まっていた。まるで、彼女が戻るべき「場所」を空けて待っているかのように。
触れ合うほどではないが、彼の体温が放射熱となって、大気を通じて彼女の肌をじりじりと焼く。直接的な接触がないゆえに、その熱は無数の見えない指となって彼女の全身を愛撫る。肌の産毛が逆立ち、ブラジャーの中で屹立たった乳頭が、摩擦を求めて痛むほどに疼く。この「触れられない」もどかしさが、何よりも彼女を苛ませた。
沈黙を破ったのは、やはり弥生の方だった。
その声は、消え入りそうなほどに低い。
「……あまり、遠くに行かないで」
口にした瞬間、彼女の全身が激しく震えた。寒さではない。羞恥の極致に至った果ての生理反応だ。帰ると言いながら、自分から「側にいて」と乞う矛盾。それは偽装の完全な崩壊だった。何より、声そのものが甘えを含み、求愛の響きを帯びてしまっている。股間の濡れは一段と重くなり、太腿を伝って滴り落ちるのではないかと、彼女は戦慄した。
周士達が、彼女を見る。
彼女は顔を上げられない。だが耳の付け根の紅潮は、それが今夜の彼女に許された精一杯の告白であることを物語っていた。
彼は何も言わず、ただ一歩、彼女の方へと距離を詰めた。
一歩、踏み出す。
多くはない。僅か一歩。
だが、その絶妙な距離感は、何よりも致命的だった。
弥生は即座に、全身の強張りがゆっくりと解けていくのを感じた。大袈裟に脱力したわけではない。ただ、ずっと張り詰めていた「何か」が、ようやく退くことを許されたのだ。彼女は立ったまま、視線は床に縫い付けられたままで、だがその指先がごく微かに動いた。耐えているのか、それとも試行しているのか。
指先の震えは、彼女の渇望のすべてを露呈していた。彼に触れたくて、触れたくて堪らないのに、理性が最後の抵抗を試みている。触れたい、けれど怖い――その相克が、指を無意識に窄めさせ、開かせ、そのたびに下腹部の奥をキュンと疼かせる。想像せずにはいられない。もし今、彼に触れたなら。その体温は自分を灼き尽くすほど熱いだろうか。その肌は、記憶の中にあるように中毒的な快楽を自分に与えるだろうか。
二秒の後。彼女は自ら手を伸ばし、彼の袖口を掴んだ。
ごく軽く。けれど、離さなかった。
指先が布地に触れた瞬間、脳天まで突き抜けるような電撃が走り、そのまま背徳的な熱となって最深部へと突き抜けた。身体が激しく戦慄き、膝から力が抜けそうになる。さらに最悪なことに、その接触が生物学的なスイッチを入れたのか、股間からさらに蜜が溢れ出した。粘つく不快なはずの感触が、今は羞恥と悦楽を伴って彼女を追い詰める。それでも、彼女は手を離せなかった。溺れる者が唯一の藁に縋りつくように、本能で指に力を込める。
周士達は視線を落としたが、何も言わなかった。
その沈黙は、どんな慰めよりも危険だった。
否定するための最後の一片まで、彼女自身の決定に委ねられたことを意味するからだ。
彼の沈黙は鏡のように、今の彼女の姿を克明に映し出す。袖を掴んで離さない姿、滴るほどに赤い顔、情事の後のように乱れた呼吸、そして――無惨に濡れそぼった肢体。無言の審判が彼女を苛む。
――認めなさい。どれほど抱かれたいか。どれほど撫で回され、乱暴に満たされたいと思っているか。
弥生が袖を掴んだまま耐えていると、胸の内の還流はようやく完全に凪いでいった。代わりに、もっと厄介な熱が耳の付け根からじわじわと全身へ浸食していく。自分が今、どれほど無様で、どれほど破廉恥か、本人が一番理解していた。真夜中に自ら押し掛け、部屋に入り、「側にいて」と乞い、今はこうして縋りついている。
もはや「意地」など、どこにも残っていない。
これは、陥落だ。
長い沈黙の末、彼女はようやく掠れた声を絞り出した。
「……明日は、今夜ここへ来たことなんて、なかったことにするわ」
周士達が低く「ああ」と応じる。
「……貴方も、口にしないで」
「分かってる」
「誰にも、言わないこと」
「ああ」
ようやく、彼女は彼を見上げた。
「……もし笑ったりしたら、絶対に許さないから」
ついに、周士達は堪えきれなくなったのか、口角をごく僅かに動かした。
しまった。
弥生は即座に手を離し、背を向けて逃げようとする。だが半歩も行かないうちに、手首をふわりと触れられた。
掴むのではない。ただそこに留めるような、柔らかな接触。――帰ってもいい。けれど、逃げる必要はない。そう告げているかのような指先。
触れられた瞬間、彼女の肢体は雷撃に打たれたように硬直した。その体温は、あまりに懐かしく、熱く、そして中毒的だった。手首の内側の敏感な肌を、彼の熱が灼き、電流となって全身を駆け巡る。膝が笑い、その場に跪きそうになる。股間の湿熱は今や制御不能で、滴り落ちる寸前の臨界点を超えていた。理性が、本能に完全に蹂躙されたことを悟った。
彼女は、足を止める。
数秒の静止。結局、彼女は動かなかった。
今夜、ここまで来てしまった以上、どれほど強がっても無意味だと思い知ったから。肉体が先に、真実を告白してしまったのだから。副作用を鎮めるためだけに来たのではない。少なくとも、それがすべてではない。
――会いたかった。彼に。
その自覚に至った瞬間、彼女の瞳からは羞恥の涙が滲み、紅潮は首筋まで広がった。けれど同時に、この数日間張り詰めていた何かが、初めて真に弛緩した。
ずっと硬く突っ張っていた意地という名の刃が、ようやくその熱に折れ、溶かされることを受け入れたのだ。
彼女は、低く呻くように吐き捨てた。
「……うるさいわね、もう」
その怨嗟は水のように甘く、重い鼻音と、抑えきれない吐息を孕んでいた。それはもはや罵倒ではない。甘えであり、求愛の声。
「もう耐えられない、早く私をどうにかして」
そう顔に書いて晒しているのと、同じだった。
それが彼に向けた言葉なのか、自分自身への呪いなのかは、もはや判然としない。
周士達は彼女の前に立ち、静かに返した。
「……分かってるよ」
今度は、彼女も彼を拒まなかった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




