S2第五十八章:臨界点
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
観測室の扉が再び開かれた時、内部の配置は一変していた。
照明は一段階落とされ、天井灯は最奥の一列のみが点灯している。ガラスの向こう側のモニタリング台はフル稼働し、画面上のパラメータの列が冷たい水のように広がっていた。希は平板を抱えてコンソール脇に立ち、皮肉を叩きつけたいのを必死に堪えている。雨瞳は扉の外で腕を組み、その顔色は普段よりも蒼白だ。ラオガオは最も遠い位置に陣取り、口元を固く結んでいる。そして真壁 宗一郎は、温度のない鉄塊のようにガラスの前に立っていた。
雨宮 静は彼の右後方に位置し、旧案の対照ページをめくっている。紙の擦れる微かな音が、誰の声よりも耳障りに響いた。
弥生は、既に「中」にいた。
観測室の中央、半透過のガラス壁を背にして彼女は立っていた。今日は神代の人間であることを示すあの仰々しい上着は着ていない。深い色のシャツとパンツという簡素な装いで、髪を束ね、その顔を完全に晒している。それが、かえって事態を悪化させていた。彼女を保護し、あるいは定義していた装飾が削ぎ落とされたことで、彼女は鞘から抜かれ、しかし未だ振り下ろされていない「剥き出しの刀」そのものに見えたからだ。
俺は扉の外に立ち、二メートルにも満たない距離で彼女と向かい合っていたが、昨夜よりもはるか遠くに隔てられているように感じた。
真壁は振り返らず、ガラスの反射越しに口を開いた。
「始める前に、ルールを明確にしておく」
誰も答えない。
弥生は眼を上げ、ガラスの外にいる俺たちを眺めた。その視線は真壁を、雨宮を掠め、最後に俺の上で半秒だけ止まった。そして、すぐに逸らされた。
「ルールは、誰が決めるの?」
彼女が問う。声は小さく、震えてもいなかったが、ただひたすらに冷たかった。
真壁が言う。「俺が損切り(ロスカット)を決める」
雨宮が続く。「私は旧案との対照を」
弥生は二秒ほど沈黙した。今の二言が、ただの無駄口ではないことを確認するように。やがて彼女は顎を上げ、波紋ひとつない口調で告げた。
「……なら、境界線は私自身で決めるわ」
真壁が頷く。「いいだろう」
その一言が落ちた瞬間、部屋全体の空気が同時に凝固した。
雨宮はあるページで手を止め、視線を固定した。かつて起きた出来事を、目の前の彼女と一コマずつ照らし合わせているかのようだ。彼女は顔を上げないまま、問いを投げた。
「近距離定位を行うか?」
弥生は、すぐには答えなかった。
彼女は立ち尽くしていた。肩のラインは揺るぎなかったが、脇に垂らした指先が一度だけ、きつく収縮した。その動きはあまりに小さく、彼女を凝視し続けている者でなければ決して気づかないほどだった。
だが、俺は見ていた。
彼女はまだ抗っている。昨夜のような、境界線まで追い詰められて仕方なく耐えるのとは違う。自分の体内で「何か」が育っていることを自覚しながら、それを無理やり骨の奥へと押し込めようとする、執念に近い抵抗。
「……拒絶したら?」
彼女が問う。
真壁 宗一郎は淡々と返した。
「隔離観測のまま終了だ」
雨宮 静がそこへ追撃を加える。
「けれど、君のその曲線がそのまま上昇を続けるのか、あるいは単なる残響に過ぎないのか。それは永久に不明なままよ」
弥生は彼女を見ず、正面の霧化(曇り)ガラスだけを見つめていた。そこには彼女自身の輪郭と、扉の側に立つ俺の影がぼんやりと映り込んでいる。層を隔てた光の中に立つ二人は、まるでもともと別の世界に属しているかのようだった。
やがて、彼女が口を開いた。
「……やるわ」
希が針に刺されたかのように顔を上げた。
「三歩よ」
弥生は俺を見据えた。その視線はあまりに真っ直ぐだった。
「――絶対に、私に触れないで」
喉の奥が引き攣るのを感じながら、俺は頷いた。
真壁がようやく向き直り、初めて正面から俺を捉えた。
「ジョウ・シーダー、入れ」
扉に手をかけ、冷たい金属の感触が掌に伝わった瞬間、ふと思い出した。昨夜も同じ扉、同じ部屋、同じように全員が身を引き、俺たち二人だけに空間が明け渡された。
ただ、昨夜の彼女は背中を押されてここに来た。今日は、自分自身で頷いた。
たったそれだけの違いが、この場の空気を全く別の異質なものに変えていた。
扉を開け、中へ踏み込む。
背後で扉が閉まった時の音は軽かったが、それと同時に観測室内の空気は、鉛のように重く沈み込んだ。
俺は足を止めた。距離は正確に三歩。
一般人からすれば安全な距離だ。だが、彼女と、俺と、そして昨夜俺たちの間に残された「何か」を合算すれば、この三歩は極限まで引き絞られた鋼線に等しい。いつ断裂してもおかしくない緊張。
弥生の視線は俺の肩のあたりに落ちていた。俺の目を見ようとはしない。
俺もそれ以上、距離を詰めなかった。
コンソール側から短い電子音が響く。
希がタブレットを覗き込み、顔色を変えた。
「――上がった」
真壁が問う。「どちらだ」
「……両方よ。両方が動いてる」
希が、ガラスの内外から見えるようにタブレットを掲げた。
詳細な数値までは見えないが、本来離れていたはずの二本の線が確認できた。一本は細く鋭く、底から這い上がるような主線。もう一本は、何かに牽引されるように隣で震えている随伴線。それらはまだ重なってはいない。だが、見えない力に手繰り寄せられる二条の水流のように、じわじわと間隔を狭めていく。
雨宮が半歩近づき、モニターを凝視した。
「彼女の方が主線ね」
希が、乾いた喉を鳴らして頷く。
「シーダーさん側は……付随しているみたい」
「『みたい』だと?」
背後で老高が眉をひそめる。
希は言い返さなかった。断定などできるはずがない。二本の曲線は現時点では主従に見えるが、弥生の呼吸が変わるたびに互いに微動し、俺が肩に力を入れれば、隣の線も弾けるように跳ねるのだ。
単なる同期じゃない。まるで双方が、同じ一つの「特異点」を掴み取ろうとしているような。
弥生は直立不動のまま、呼吸を極限まで遅くしていた。
リラックスしているのではない。彼女は「収めて」いるのだ。胸から、腹の底から、あるいは背骨の深淵から上浮してくる何かを、力ずくで内側に閉じ込めようとしている。
彼女のその切迫した拒絶が、三歩離れた俺の肌にまで伝わり、俺の身体までもが強張っていく。
真壁が静かに彼女へ問いかけた。
「不快感はあるか?」
弥生は答えない。
二秒の空白の後、彼女はようやく声を絞り出した。
「……脹らんでる」
彼女は一度言葉を切り、他人に誤解されるのを忌むように、無理やり続きを補完した。
「――痛みは、ないわ」
二秒の沈黙の後、彼女はようやく声を絞り出した。
「……脹らんでる」
彼女は一度言葉を切り、他人に誤解されるのを忌むように、無理やり続きを補完した。
「――痛みは、ないわ」
雨宮 静はその回答を無機質に記録する。
「ストレス源は外部接触によるものではないわね」
真壁が言った。「まずは彼女自身で制御できるか見極める」
それ以上、誰も口を開かなかった。
俺は三歩外の境界線に立ち、彼女が一寸ごとに自らをその場へ釘付けにする様を見つめていた。顔色は血の気が引き、唇さえも白磁のように色を失っている。だが、その瞳の奥には異様な「光」が宿っていた。熱に浮かされているのでも、怒りに燃えているのでもない。もっと別の「何か」が彼女の内で覚醒し、目に見えない脈動を伝って這い上がってきているような、そんな光だ。
俺は、なぜあの名簿の第七枠が空白だったのかを、唐突に理解した。
当時の人間が重要ではなかったからじゃない。
あのような「格」に一度でも立ってしまえば、もはや人間はただの名前ではいられなくなるからだ。
ガラスの向こうで、希が短く息を呑んだ。
「曲線が……寄ってる」
俺は目を向けた。
タブレット上の二本の曲線が、いつの間にか距離を縮めていた。俺が動いたわけでも、彼女が動いたわけでもない。まるで二本の金属弦が、不可視の磁石に引き寄せられるように自発的に中心へと収束していく。
弥生がようやく顔を上げ、俺を見た。
その一瞥に、俺は射すくめられた。
彼女の瞳が語っていた。――境界を守ろうと必死に抗いながらも、自分一人では浮上を止められないという残酷な自覚。そして、目の前に立つ俺という存在が、認めたくないはずの、しかし否定し得ない「定位点」になっているという事実。
真壁もその予兆を察した。
「……中断するか?」
弥生は即答しなかった。
喉が微かに動き、何かを飲み込む。数秒の後、彼女はひどく低い声で問いかけた。
「……もし、あと一歩近づけば、どうなるの?」
その問いは俺ではなく、ガラスの向こうの「観測者」たちへ向けられたものだった。
雨宮がタブレットを凝視したまま、沈痛な声で答える。「安定する可能性があるわ」
老高が冷徹に継いだ。「そのまま限界を突き破る(オーバーラン)可能性もあるがな」
「拒絶してもいいのよ」雨瞳の声が、扉の外から少しかすれて届いた。「誰にも、あなたにそれを強いる権利なんてない」
弥生はそれを聞いたはずだが、応じなかった。
彼女は、ただ俺を見つめていた。
その瞬間、俺は確信した。今、他人が彼女に何を言っても無意味だ。神代、神楽、霊務局(BEA)、あるいは真壁。誰の言葉も届かない。この境界線を越えるかどうかを決めるのは、彼女自身でしかないのだ。
俺は足を止めたまま、進みも退きもせず、ただ静かに言った。
「……あんたが決めろ」
彼女の呼吸が、明らかに乱れた。
たったその一拍の乱れに反応し、タブレット上の主線が跳ね上がる。
希が罵声を飲み込むように唇を噛み、押し殺した声で警告を発した。「上がってる……!」
弥生は一度、瞳を閉じた。
再び開かれたその眼からは動揺が消え、代わりに頭皮が粟立つような静謐なまでの冷徹さが宿っていた。事態が好転したわけじゃない。もう、退路がないことを悟ったのだ。
「……入ってきて」
その二文字が放たれた瞬間、観測室内の空気は、機材の駆動音さえ遠ざかるほどの静寂に包み込まれた。
俺は、一歩踏み出した。
たった一歩だ。
それだけで、タブレットが激しく震えた。
希は画面に吸い込まれんばかりに身を乗り出す。それまで別個に震えていた二本の曲線が、互いを見出したかのように中心へと収束し、ある一点で短く「噛み合った」かと思うと、一気に上方の領域へと突き抜けた。
「……っ、クソ」
希が今度は堪えきれずに漏らした。続く言葉は、かろうじて喉の奥で飲み込まれたが。
雨宮 静は二つの波形が重なる点を凝視し、その表情を初めて真実に沈めた。
「随伴じゃないわ」
誰も答えなかった。
答えなど、その場にいる全員が「視て」いたからだ。
一本の線がもう一本を引っ張っているわけでも、どちらかが一方的に影響を与えているわけでもない。あの瞬間は、両者が同じ接合点を探し求め、俺が一歩踏み込んだ瞬間に、ガチリと「噛み合った」のだ。
雨宮が、絞り出すように次の一句を吐く。
「……楔が、打ち込まれたわね」
立ち尽くす俺の胸の奥に、内側から太い杭を打ち込まれたような衝撃が走った。
ようやく理解できた。彼女の言いたいことが。
神代 弥生は単に何らかの力で押し上げられているんじゃない。彼女は自分自身で「育ち」始めていて、俺はその成長過程に組み込まれた、ただの固定具なのだ。まだ完成しきっていない「門」が、形を成すために無理やり嵌め込んだ、歪な閂――それが今の俺だ。
テスト(対照実験)でもなければ、昨夜のような偶発的な暴走の再現でもない。
俺はもう、その「場所」の構成部品になってしまったのだ。
ガラスの向こうで、高 國城の顔色が最悪なまでに歪んだ。
「……畜生め」 地を這うような罵声が漏れる。「火を付けたんじゃねえ、『杭』を打ちやがったんだ」
希は、今度は反論しなかった。
林 雨瞳は扉の外で、己の腕をさらに強く抱きしめていた。ガラス越しに弥生を射抜くその瞳には、語るべき言葉が溢れているように見えたが、結局、彼女が唇を割ることはなかった。
真壁 宗一郎はずっと沈黙を守っていた。
モニター上で食い合う二本の波形を、ただ長い間見つめ続けていた。あまりに長い沈黙に、このまま放置すれば、次の瞬間には別の「何か」がこの部屋に芽吹いてしまうのではないかと、誰もが予感し始めたその時。
「……そこまでだ」
真壁がようやく口を開いた。
俺は動かなかった。
弥生もまた、動かなかった。
次の命令が下るのを待っていたのか、あるいは動けなかったのか。だが真壁はそれ以上何も命じなかった。彼はただ顔を上げ、室内の面々をゆっくりと見渡し、最後に弥生へと視線を据えた。
「……厄介な問題の正体が、ようやく判明したな」
その口調は、まるで淡々と事務報告を読み上げるかのように平坦だった。だが、その平坦さこそが、背筋に氷を這わせるような戦慄を呼び起こす。
「彼女は、誰かに背中を押されるのを待っているわけではない」
希が平板を見つめる唇を白く噛み締める。
真壁は続けた。
「彼女は……自分自身で、『こちら側』へ這い上がってくる」
観測室の静寂は、もはや呼吸音さえもが不快なノイズに感じられるほどに深まっていた。
雨宮が、手にしていた旧案の対照資料をゆっくりと閉じるのが見えた。心のどこかで抱いていた僅かな「希望的観測」が、今この瞬間、完全に潰え去ったことを認めるかのように。
弥生は伏せ目がちに立ち尽くし、何も語らなかった。
しかし、そこに佇む彼女の姿そのものが、どんな肯定の言葉よりも残酷に、その事実を証明していた。
真壁が最後の一句を放った時、反論する者は一人としていなかった。
「今この時より、問題は『誰が彼女に触れるか』ではない」
彼は一度言葉を切り、死神のような冷徹さで宣告した。
「――いかにして、彼女自身が『門』を開くのを防ぐかだ」
その言葉が落ちた後、誰も、指一本動かすことができなかった。
小希がまず警告音を一つ切った。あの無機質な機械音に、これ以上部屋中を突き刺させたくないという拒絶のようだった。老高は顔を背け、重い溜息を吐き出す。林 雨瞳は壁に預けていた背筋を伸ばし、中へ入ろうとして――しかし、思い止まった。雨宮 静は再び旧案の資料を開き、最後の方のページをめくっている。その眼差しは、とうの昔に埋められた死者の名簿を検分する時のように冷徹だった。
そして、弥生から二歩の距離に立ち尽くす俺は、唐突に、しかし明確に理解した。
もう、後戻りはできないのだと。
彼女が昨夜、どの境界線を越えたからではない。
今日この時、彼女の内にある「門」は、もはや誰の助けも必要としなくなってしまったからだ。
それは、自ら出口を探し始めている。
弥生がようやく顔を上げ、俺と視線を合わせた。
その瞳はひどく淡く、感情の色彩を完全に失っているように見えた。だが、その深淵の底に沈む「何か」を、俺は見逃さなかった。――それは救いを求める弱さでも、依存でも、ましてや諦念でもない。
「自覚」だ。
彼女は知ったのだ。そして、俺も知っているということを。
これから先、俺たち二人の間にある問題は、「近づくべきか否か」などという生温い次元ではない。互いの存在を感じ取れる場所にいる限り、ある種の事象が勝手に、互いの魂に「楔」を打ち込み合ってしまうのだということを。
真壁 宗一郎が手を挙げ、ガラスを一度叩いた。
「……まずは、ここまでだ」
俺はその声に促され、ゆっくりと元の位置まで退いた。
俺が距離を取っても、二本の曲線はすぐには離れなかった。重なり合った部分は粘りつくように引き延ばされ、先ほどの「噛み合い」が決定的な痕跡を残したことを示している。希はその残留値を見つめ、いよいよ顔色を悪くした。
「……残ってるわ」 彼女が掠れた声で言う。
ラオガオが低く尋ねる。「いつ消える?」
「分からない」
希は顔を上げ、絞り出すように言葉を繋いだ。
「すぐには……消えそうにないわ」
観測室が、再び沈黙に沈んだ。
真壁はそれ以上語らず、ただ顎で俺に合図を送った。
俺は背を向け、扉を開けに走った。
ドアノブを握った瞬間、掌が汗でびっしょりと濡れていることに気づく。扉が開くと同時に外の冷えた空気が流れ込み、ようやくまともに肺が動いた気がした。
部屋を出る直前、俺はもう一度だけ振り返った。
弥生はまだそこに立ち尽くしていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、何一つ乱れていないかのように。ただ、脇に垂らした指先だけが、微かな収縮を維持していた。
それは恐怖によるものではない。
自分の中で育ち始めた「何か」を、残された最後の力で必死に押さえ込んでいるのだ。
扉が俺の背後で、ゆっくりと閉まった。
ガラスが彼女を隔て、まだ消えやらぬあの曲線を隔てた。
だが、分かっていた。隔てられたのは視線だけであり、その「位」ではない。
楔は、もう打ち込まれてしまった。
誰もが、それを見ていた。
そしてもう、誰も見て見ぬふりはできない。
第六十三章 検証
俺の手がドアノブに掛かったままで、小希のほうが先に息を呑んだ。
さっきの曲線が噛み合った時のような、感嘆の入り混じった吐息じゃない。もっと短く、硬い——誰かが彼女の喉の奥を爪でガリリと引っ掻いたような、不吉な音だった。
「……待ってください」
観測室内の空気が、一瞬でコンクリートのように凝固した。
振り返ると、シキはタブレットを抱え込み、指先が白くなるほどフレームを強く握りしめている。その視線は画面に縫い付けられていた。
俺が後退したことで、一度は扣合したはずの二本のライン。本来なら物理法則に従って離れ、減衰していくはずのそれらが、なぜか落ちてこない。
ラインの間には、冷たく発光する「残値」が、引き延ばされた金属線のように粘り強く居座っている。細く、今にも千切れそうなのに、決して断絶しない。
神代 弥生の主線は、基線よりわずか半格高い位置で、ピタリと静止していた。
それは「安定」などという生温い状態じゃない。
どちらかと言えば——機械の歯車に異物が挟まり、強引に「固着」したような、不気味な静止だ。
「……チッ、冗談だろ」
沈黙を切り裂くように、老高が低く毒づいた。
「……まだ、繋がっているのか?」
希は顔を上げない。その喉は砂を噛んだように乾ききっていた。
「繋がっている……というより、引き延ばされている感じです」
彼女が差し出したタブレットの画面には、異常な光景が映し出されていた。
減衰するはずの残値は回帰せず、俺がドアの傍に立つのに合わせて、ゆっくりと細く収束していく。まるで目に見えない巨大な手が、最も「収まりの良いライン」を探して角度を微調整しているかのようだ。
雨宮 静が数秒その光景を凝視し、氷のような声で告げた。
「追跡しているわけじゃないわ」
彼女は手元の古い案件資料をめくり、無慈悲な追記を添える。
「……固定できる位置を探しているのよ」
その言葉が終わる前に、真壁 宗一郎が鋭く手を挙げた。
「外門を封鎖しろ。二重隔壁を同時に閉鎖。このフロアを一時凍結させる」
「……隔離するつもりか?」
老高が呆然と問い返す。
「隔離ではない」真壁は事務的に訂正した。「封鎖だ」
その口調には微塵の躊躇もなかった。机の上のプランをそのままゴミ箱へ放り込み、振り返る価値すら認めていない。
直後、レシーバーから短い電子音が二回。廊下の向こうから重厚な金属門が滑る摩擦音が響き渡る。一つ、また一つ。まるでこのフロア全体の「骨」が強引に嵌め込まれていくような、不吉な音が連続した。
立ち尽くす俺に、真壁の冷徹な視線が突き刺さる。
「半歩、戻れ」
指示に従い、足を戻す。
シキの呼吸が止まった。その顔色は、先ほどよりもさらに土気色へと沈んでいく。
「……安定しました」
「退けないのか?」老高が眉をひそめる。
「退けません」シキが声を絞り出す。「ただ……『より適切な位置』を見つけた、という反応です」
「暴走」よりも性質が悪い。
暴走ならまだ事故だと言い張れる。だが「位置を見つけた」という響きには、その異象が最初からそこを目指していたかのような、意志を伴う不気味さが宿っていた。
強化ガラスの向こうで、神代 弥生が血の気のない顔で真壁を睨みつけた。
「……何を封鎖すると言った?」
「条件だ」
「説明しなさい」
「現時刻を以て、個別の処理を凍結する」
真壁の言葉は、まるでテーブルにナイフを突き立てるように短く、鋭い。
「動線の変更、シフトの再編、接近半径の再計算。私の許可なく、このラインへの立ち入りは一切禁ずる」
シキが即座にタブレットを操作し、データを上書きしていく。
「現状、二十メートルを超えると波形が不安定化。十から十五メートルの間が相対的に安定、それ以上接近すれば……侵食が始まります」
「つまり、近すぎても遠すぎても駄目ってことかよ?」
老高が顔を歪めた。
「そういうことだ」
真壁の顎が、観測室の向かい側にある内勤休憩室を指した。
「周 士達、貴様はあそこに入れ」
視線の先にあるのは、普段は備品やガラクタが放り込まれ、誰も寝たがらない折り畳みベッドが一つあるだけの狭い部屋だ。
そこはもう「休憩室」ではない。
俺というパーツを嵌め込むための、スロット(槽位)だ。
弥生の瞳に、鋭い拒絶の色が宿る。
「……彼をそこに固定するつもり?」
真壁は否定しなかった。
「今の貴様には『門栓』が必要だ」
その三文字が落ちた瞬間、室内の精密機器の駆動音さえも遠のいた気がした。
胸の奥に鉛のような不快感が広がる。だが、俺は反論しなかった。ここで言葉を返せば、その「門栓」という役割を事実として認めてしまう気がしたからだ。
「……人間を機材扱いするのは、認められないわ」
弥生の声は、あまりの怒りに平坦な響きを帯びていた。
「機材に対して謝罪する暇はない」真壁が切り捨てる。「貴様が今夜、勝手に『開いて』しまえば、このフロアの人間は誰一人として足りなくなる」
シキの口元が引き攣ったが、声を出す勇気はなかったようだ。
雨宮静は依然として冷酷なまでに冷静な手つきで、旧案のページをめくっている。
「前回の事例でも、引き離せば済むと考えていた者たちがいたわ。結果は『後退』ではなく、ただの『固定点の変更』。人間が不用意に動けば、ラインは次の獲物を探し始める」
老高が弾かれたように彼女を見た。「……次の獲物だと?」
「ええ。まずは伴走し、やがて入れ替わる。ラインが試行を始めたら、次が誰になるかは神様にしか分からないわ」
その言葉に、外で動いていた職員たちの動きが、一瞬だけ目に見えて鈍った。
ドアの左側で腕を組んで立っている林 雨瞳の顔は、幽霊のように真っ白だ。彼女は何も言わず、ただ弥生を凝視している。
真壁が沈黙を切り裂く。
「老高、両端を封じろ。今夜はこのフロアの交代を禁ずる。シキ、警戒半径は彼女の波動を基準に算出。雨宮、替位と封門のページを抜き出しておけ。山口にはまだ知らせるな」
「……あいつに隠し通せると思ってるのか?」老高が驚愕する。
「あいつの耳に入るのが早すぎれば、開口一番『検品』ができるかどうかを問うてくるだけだ」
その露骨すぎる物言いに、空気そのものが汚濁したように感じられた。
俺が休憩室に向かって二歩踏み出した時、ガラスの向こうから、幽かな――本当に幽かな電子音が響いた。
警報じゃない。それは、機械そのものが恐怖に身を震わせたような、短い異音だった。
希が弾かれたように顔を上げる。
「……待って」
だが、遅かった。
俺が踏み出した二歩が床に落ちた瞬間、観測室の照明が一段階暗く沈み、強化ガラスの内側に薄い霧が立ち込めた。まるで、向こう側にいる何者かがガラスに息を吹きかけたかのように。
弥生は直立したまま動いていない。それなのに、モニター上の主線だけが、意志を持つ生き物のようにスルスルと跳ね上がった。
誰も彼女に触れていない。
俺さえも、まだ指定された位置に辿り着いていないというのに。
「……クソが」
老高の顔が、一気に苦虫を噛み潰したように歪む。
シキの指先は小刻みに震えていたが、その視線は画面に釘付けのままだ。
「……上振れじゃない。これは『較正』です。奴が、角度を合わせようとしている……」
言葉が終わるのと同時、観測台の傍らにあった温度計が「パキリ」と乾いた音を立てた。粉々に砕けたわけじゃない。ただ、透明なガラスの表面に、あまりにも真っ直ぐな亀裂が一本、不自然に走った。
林さんが無意識に半歩身を乗り出し、そして、金縛りにあったように足を止める。
雨宮 静はその亀裂を、感情の失せた瞳で見つめていた。
「封鎖で時間は稼げるけれど、奴を欺くことはできないわ」
真壁の冷徹な声が、凍りついた空気を切り裂く。
「周 士達、入位しろ。今すぐにだ」
俺は二の句を継がず、目の前の休憩室へと踏み込んだ。
ドアを開けた瞬間、段ボールと除湿機、そして古びた消毒液の混じり合った、喉の奥が苦くなるような乾いた臭いが鼻を突く。
俺が中に入り、まだ体勢を整えきる前だというのに、ガラスの向こうの霧がすっと半寸ほど引いていった。
その時、弥生が口を開いた。
「待ちなさい」
全員の視線が彼女に集まる。
ガラスの向こうで、彼女は細い鋼筋でも背骨に叩き込まれたかのように、痛々しいほど真っ直ぐに立っていた。顔色は死人のように悪い。だが、その瞳は混濁することなく、残酷なほどに冴え渡っていた。
彼女は真壁を無視し、まず俺を見た。
そして、宣告するように言葉を放つ。
「今後、このラインの内側に、誰も立ち入らせないで」
真壁は答えない。彼女が本当に言おうとしている「続き」を待っている。
弥生の喉が微かに動き、その奥にある淡い羞恥心が、鉄の意志で飲み込まれるのを俺は見た。再び開かれた彼女の声は、先ほどよりもさらに平坦で、無機質だった。
「……もし、私が再び『浮上』しかけたら、議論なんて無用よ」
観測室を支配するのは、精密機器が発する微弱な電流音だけだ。
彼女は俺を見つめ、最後の一節を絞り出した。
「直接、彼を中に入れなさい」
シキが息を呑み、毒舌な老高でさえも言葉を失った。
それが、色っぽい誘い文句などではないことは、その場にいる全員が理解していた。
あまりにも、無惨な言葉だった。
彼女は誰かに寄り添ってほしいと願ったわけでも、決断を他人に委ねたわけでもない。ただ、大勢の面前で、自分という「異常存在」を処理するための手順を、自ら定義してみせたのだ。
彼女は理解している。自分の中に「門」があることを。
そして、それを留める「栓」がどこにあるのかを。
真壁が数秒間、彼女を凝視した。
「……承知した。今の言葉、条件として記録する」
弥生はそれ以上、何も言わなかった。
視線を俺から逸らしたその瞬間、彼女を支えていた気力がごっそりと削げ落ちたように見えた。それでも彼女は倒れず、震える右の指先を、何かを骨の中に押し込めるように強く握りしめていた。
シキが乾いた声でデータを読み上げる。
「……残値、半格低下。いえ、これは低下じゃありません。収束しているんです」
振り返り、画面を見る。
先ほどまで危うく揺れていた残値のラインが、俺の立っている位置に合わせるように、より鮮明で「綺麗」な直線へと変貌していた。
消えたわけでも、暴発したわけでもない。ただ、ぴったりと適合するカチリという音が聞こえてきそうなほど、正確なスロットに収まったのだ。
「……繋がっているのは、人間じゃねえな」
老高が低く吐き捨てた。
誰も否定できなかった。
真壁がコンソールへと歩み寄り、校正されたラインを冷徹に見つめる。それは、組み上がってしまった「何か」を、忌々しげに承認する視線だった。
「今夜は解かない」真壁が言った。
廊下の突き当たりで、最後の一枚の防壁が滑り落ちる。磁気ロックが「カチリ」と噛み合う音が、背筋を這い上がってくるような寒気を運んできた。
休憩室のドアの内側に立ち、二枚のドアと廊下、そして霧に包まれたガラスを隔てた先に、彼女を感じる。
呼吸でも、体温でもない。
それは「位置」の感覚だ。
フロア全体が、まだ未完成な「門」へと変質していく中で、俺はその中心に楔として打ち込まれ、引き抜くことのできないパーツに成り下がっていた。
俺がドアを閉めようとしたその時、ガラスの向こうから再び彼女の声が届いた。
小さく、けれど俺の耳のすぐ後ろで囁かれたかのような、異常な解像度を伴って。
「……士達」
顔を上げると、霧の向こうで彼女がこちらを見つめていた。その瞳は冷たく白い。研ぎ澄まされた刃が、水面から引き上げられた時のような鋭利な光を宿して。
「半歩、右にずれているわ」
観測室内が、死のような静寂に包まれた。
俺は何も言わず、右足をわずかに横へずらす。
その瞬間、シキが凍りついた。
「……正対しました」
もはや、誰も口を開かなかった。
「たかが計器の故障だ」という最後の甘い逃げ道さえも、今、完全に断たれたのだから。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




