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S2第五十九章 テスト

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

その夜、フロア全体が、まるで心臓を抜き取られたかのように静まり返った。

 外門が完全に封鎖された後、人の気配は潮が引くように消え、残されたのは精密機器の低い駆動音と、時折思い出したように点滅しては消えるレシーバーのインジケーターだけになった。観測室の照明は限界まで落とされ、強化ガラスの向こう側には、監視コンソールと弥生やよいの頭上を照らす冷徹なサークルライトだけが浮き上がっている。彼女は座ることも、奥へ退くこともせず、ただそこに立ち尽くしていた。まるで鞘に収まりきらず、抜き身のまま固定された一振りの刀のように。

 俺は向かいの休憩室にいた。ドアは完全には閉めていない。

 彼女を監視するためじゃない。今、このフロアで最も侵してはならない禁忌は、ドアの隙間、距離、そして角度の狂いだ。俺自身の些細な動作のどれが、あのラインを再び狂わせる引き金になるのか、誰にも分からなかった。

 シキはコンソールの前に座り、タブレットと二枚のメインモニターを同時に睨みつけている。その目の隈は、短時間で見るに堪えないほど濃くなっていた。二時間が経過しても数値は爆発せず、かといって底を打つこともない。あの「校正」された残値は、中段のグリッドにぶら下がったまま微動だにしない。まるで肉の中に深々と打ち込まれた、細い釘のように。

 最悪なのは、それが異常なまでに安定していることだ。

 もはや、それは「余波」などという生温い呼び名が似合う代物ではなかった。

 廊下の隅で冷え切ったおにぎりを頬張っていた老高ラオガオが、半分ほど噛み砕いたところで低く毒づいた。

「……いっそ、跳ねてくれたほうがマシだぜ」

 誰も答えなかった。

 全員が理解していたからだ。

 乱高下しているうちは、まだ「事故」の範疇だ。だが、この不気味な安定は、その異象が「本来あるべき場所」に定着してしまったことを示唆していた。

 真壁マカベは立ち去ろうとしなかった。監視台の傍らで微動だにせず立ち続けるその姿は、床に突き立てられた鉄杭そのものだ。雨宮あまみや しずかは旧案の資料を、気が遠くなるほどゆっくりとした手つきでめくっている。情報を探しているというよりは、特定のページが自ら浮き上がってくるのを待っているかのようだった。

 ラインの外側では、リンさんが壁に背を預け、腕を組んだまま沈黙を守っている。今夜の彼女は一言も発しない。ただ、俺がわずかでも動くたびに、その視線が鋭く俺を射抜く。まるで俺が何センチ正解から逸脱したかを、その網膜に刻み込もうとしているかのように。

 深夜を過ぎた頃、シキが唐突に顔を上げた。

「……彼女、眠っていません」

 俺はドアの縁に寄りかかったまま、ガラスの向こうを見た。

 弥生は、依然としてそこに立っていた。

「どうして分かる?」老高が訊ねる。

 シキがモニター上の一本の細い波形を指差した。

「呼吸が安定しすぎています。普通の人間がこれほど長く立っていて、これほど波形が乱れないなんて、あり得ません」

 真壁が振り返ることなく、声を投げた。

「弥生」

 ガラスの向こうの影が、二秒の空白を置いて応じる。

「……ええ」

「『上浮リサーフェス』の感覚はあるか?」

 彼女はしばし沈黙した。あまりに不快で、言葉にするのも憚られる感覚の適切な表現を探しているようだった。やがて、短く、一言だけを返した。

「……少し、からな感じがするわ」

 その二文字が発せられた瞬間、廊下全体の温度がさらに一度下がった気がした。

 熱いわけでも、膨張しているわけでも、ましてや痛みがあるわけでもない。

 「から」なのだ。

 雨宮静がようやくページをめくり、淡々と口を開いた。

「彼女の内側から何かが育とうとしているわけではないわ」

「なら、何だってんだ?」老高が眉をひそめる。

「門の向こう側に『欠落くうはく』があり、それが自分を埋めるためのパズルのピースを探しているのよ」

 俺は入り口に立ったまま、何も言わなかった。

 だが、彼女の言わんとしていることは理解できた。

 神楽の難解な専門用語を理解したからじゃない。俺自身がそれを「感じて」いたからだ。

 階段を降りる時、次の一歩があるはずの場所が不意に消えていたような、あの足の裏がすくむ感覚。

 今の俺にとって「位置」は単なる座標ではない。俺がわずかでも軸をずらせば、対面にあるあの「欠落」もまた、俺を求めて不気味に蠢くのだ。

壁の時計に目をやる。

 午前二時十七分。

 俺はこのドア枠から二時間以上も離れていなかった。

 真壁マカベが俺の機微を読み取ったように口を開く。

「トイレに行くなら先に言え」

 老高ラオガオが吹き出しそうになったが、その瞳に笑いはなかった。

「クソが。今じゃ小便するのにも報告書が必要ってわけかよ」

「そうだ」真壁は短く断じた。

 廊下の先にある洗面所に目を向ける。直線距離にしてわずか。普段なら十秒とかからない距離が、今は地獄の最下層まで殴り込みに行くより面倒に思えた。

 シキが即座に数本のデータをコンソールに展開する。

「……右側の壁に張り付いて移動すれば、距離の変化を最小限に抑えられます」

 老高がおにぎりの最後の一口を咀嚼しながら、顔を歪めた。

「お前ら、今度は弾道計算でも手伝ってるつもりか?」

「弾道より厄介だ」真壁が言う。「弾道は勝手に標的を探して曲がったりはしない」

 俺は小さく息を吸い、ドアを少し押し開けた。

「……行ってくる」

 誰も止めなかった。人間である以上、完全に静止し続けることなど不可能だからだ。

士達シーダー、右の壁だ。ゆっくり動いて」

 シキの声は、弦がはち切れんばかりに張り詰めていた。

 俺は指示に従う。

 第一歩は問題なかった。

 だが、二歩目を踏み出した瞬間、あの冷徹に安定していた残値が微かに震えた。跳ね上がったのではない。「ズレた」のだ。完璧に調整された照準を、誰かの指先がコンマ数ミリほど弾いたかのように。

「……偏差零点三ポイント・スリー

 シキが低く報じる。

 俺は止まらず、歩を進めた。

 三歩目に差し掛かった時、観測室の内側のガラスに、先ほどよりさらに濃い霧が沸き立った。全面に広がるのではない。弥生やよいの目の前の一点から、まるで彼女が吐き出した息が急激に凍結し、ガラスがその冷たさを拒絶しきれなくなったかのように。

 老高が弾かれたように立ち上がる。

「また来やがった」

 シキの指先が白くなる。

「主線が上昇……いえ、これは爆走オーバーランじゃない。彼女が『角度』を追っています!」

 振り返ると、弥生は依然として立ち尽くしていたが、その手は傍らの金属製の椅子を強く掴んでいた。崩れ落ちるわけでも、取り乱すわけでもない。ただ、その背筋は異常なまでに真っ直ぐで、もはや人間というよりは精巧な「装置」のようだった。顔色は死人の如く蒼白だが、見開かれた瞳だけが、彼女にしか見えない「何か」を冷徹に射抜いている。

 真壁が半歩踏み出した。

「弥生、状況を報告しろ」

 彼女の喉が微かに上下し、掠れた声が漏れ出す。

「……テスしているわ」

 廊下にいた全員が息を呑んだ。

 その言葉は、あまりにも正確で、そして救いようがないほどにおぞましかった。

 彼女が失走しているのではない。

 あの「門」が試行錯誤を始めているのだ。

 俺の今の位置はどうか。俺が去った後の別のアングルはどうか。このフロアに、他に代わりとなる「くさび」はないか。異象そのものが、自分を固定するための新たな接続点を探して蠢いている。

 雨宮あまみや しずかが目を上げ、診断を下す。

伴走チェイスでも、単純な共鳴でもないわ」

 彼女は旧案の資料を半分閉じ、視線を弥生へと固定した。

「『替位連鎖スロット・チェーン』による補完が始まっている」

 シキの呼吸が乱れる。「補完……何を?」

「欠落した一格スロットよ」

 老高の顔色がどす黒く沈んだ。

 俺は前進を断念し、すぐさま元の位置へと後退した。

 俺の踵が休憩室の入り口に触れたのとほぼ同時。ガラスの霧が引き、主線の上昇が止まった。ズレかけていた残値が、まるで噛み合わなかった歯車が正しく押し戻されたかのように、再び一直線へと収束していく。

 シキがモニターを凝視したまま、絞り出すように言った。

「……彼女が人間を追っているんじゃない。奴が、どの位置なら自分を『補完』できるかを探っているんです」

 真壁が俺を振り返り、最初の一言を投げつけた。

ジョウ、今夜は二度とそこを動くな」

 俺は黙って頷いた。議論の余地などなかった。

 今の十秒間で十分すぎるほど理解した。これは「誰かがいなくなって寂しい」という次元の話じゃない。俺が動けば、この建物に埋め込まれた見えない構造体が、自分を支えるための新たなカチリという「嵌め込み」を強制的に開始してしまうのだ。

 弥生が椅子の背からゆっくりと手を離した。指関節は紙のように白く、血の気が引いている。彼女は視線を落としてしばらく静止した後、再び顔を上げた。

 今度は真壁ではなく、俺を真っ直ぐに見た。

 ガラス、廊下、半開きのドア。その幾重もの障壁を越えて、俺には彼女の眼差しの意味が痛いほど伝わってきた。

 責めているのではない。

 「確認」だ。

 自分の錯覚でも、機材の故障でもない。自分の中に生まれたあの「空虚」が、俺の移動に呼応して確かに蠢いたという事実を、彼女は俺の瞳の中に確認したのだ。

 その時、廊下の突き当たりにあるレシーバーが不意に明滅した。

 当直のオペレーターが声を潜めた、緊張した報告が響く。

「――山口ヤマグチさんが下に来ています」

 老高ラオガオがその場で盛大な毒を吐いた。

「チッ、血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のお出ましってわけかよ」

 真壁マカベはレシーバーに手を伸ばし、叩き切るようにボタンを押した。

「会わん」

「……本人は既にデータの上昇リサーフェスを把握していると。リアルタイムの観測権限を要求しています」

 オペレーターの困惑した声が響く。真壁の声には、もはや抑揚すら存在しなかった。

「伝えろ。今夜はいかなるデータの外部送信も、リアルタイム映像も、現場への立ち入りも許可しないと」

 沈黙が二秒。

「……山口さんは、これは貴方一人が抱え込める案件ではないと言っています」

「分かっている」

 真壁はそこで言葉を切り、次の台詞をゆっくりと、重石を載せるように押し出した。

「だからこそ、今あいつを上げるわけにはいかないんだ」

 その言葉に、老高さえも口を閉ざした。

 全員が理解していた。山口が求めているのは、事態の収束ではない。この「現象」が兵器として、あるいは資産としてどれほどの価値があるか。価格交渉のテーブルに載せられる代物かどうかを「検品」しに来るのだ。彼をここに入れれば、今夜の封鎖はただの「商談」へと成り下がる。

 雨宮あまみや しずかが旧案の最後数ページをめくり、淡々と追撃を加えた。

「……過去の事例でも、真っ先にリアルタイム権限を求めた人間は、その後に『接収命令書』にサインしているわ」

「だから、会わんと言った」真壁が短く応じる。

「……もし、あいつが強引に上がってきたら?」

 シキの喉は、既に限界まで乾ききっていた。

 老高が冷酷な笑みを浮かべ、口角を吊り上げる。

「その時は、生きてる人間がお見舞いに来る場所じゃねえってことを、身体で分からせてやるまでさ」

 外の気配が再び途絶えた。

 俺はドアの縁に背を預け、動かずにいた。時間は一分一秒と削り取られ、午前三時を回る頃には、死のような静寂が人々の神経を極限まで細く磨り減らしていた。シキの報告は短くなり、老高は毒を吐く気力すら失い、林 雨瞳リン・ユートンは壁に寄りかかったまま、体力を温存するように瞳を閉じていた。

 ただ一人、弥生やよいだけが、覚醒し続けていた。

 言葉を発さず、座ることもせず、冷たい光の下で立ち尽くす。彼女の身体の中で、何かが骨に沿ってゆっくりと、だが確実に根を張っている。あまりにも静かな、けれど逃れようのない成長を、彼女は呼吸を殺して抑え込んでいるようだった。

 どれほどの時間が過ぎたのか。彼女が不意に口を開いた。

「……真壁」

「言え」

 彼女はモニターを見ることもなく、ただ眼前の霧がかったガラスを見つめていた。その語気は、抜き身の刀の背のように冷たく、平坦だった。

「二度と、別の位置スロットを試そうとしないで」

 老高が眉をひそめる。「……誰が試したって?」

 弥生は彼を無視し、ただその一文を完遂させるために言葉を継いだ。

「……面倒だから言っているんじゃないわ」

 一瞬の沈黙。それは先ほどのどんな上昇リサーフェスよりも過酷な一秒に見えた。再び開かれた声からは、微かな震えすらも鉄の意志で削ぎ落とされていた。

「……私には、『分かってしまう』からよ」

 廊下の空気が、目に見えない何かに喉元を締め上げられたかのように凝固した。

 シキが顔を上げ、手にしたペンを動かすことさえ忘れている。

 弥生はゆっくりと身体を転じ、俺が立っている場所へと視線を向けた。ガラスと壁に隔たれているはずなのに、その眼差しは正確に俺の足元へと突き刺さる。

「……さっきの三歩目。左にズレたわね」

 背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。

 彼女の指摘は正確だった。およそ、ではない。その「一步」の揺らぎを、彼女はピンポイントで指摘してみせたのだ。

 シキが震える手で記録を遡り、顔を蒼白にする。

「……はい。三歩目、正確に四十センチの偏差を記録しています」

 誰も、言葉を発することができなかった。

 もはやこれは「観測」の域を超えていた。

 彼女自身が「感知」してしまっているのだ。視覚でも聴覚でもない。自分という「門」を繋ぎ止める「かんぬき」がどこにあり、どれほど歪み、どれほどの時間その場所を離れたのかを。その自覚は、いかなる数値よりも残酷に、彼女と俺の境界を侵食していた。

 弥生は視線を戻し、最後の一節を投げ出した。

「……次からは、別の位置で私を試さないで」

 その小さな声は、今夜のすべてを決定的な事実として、このフロアの深奥に釘付けにした。

 勝手に動くな、という意味ではない。

 ミスをするな、という意味でもない。

 ――「試すな」という警告だ。

 「門」は既に、自ら適合する位置を探し始めてしまった。

 そして彼女は、その悍ましい「咬み合わせ」の感触を、自らの内側に確かに刻まれてしまったのだ。


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