S2第五十八章:定点観測
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
希がタブレットをこちらへ向けた瞬間、当直室全体が誰かに水底へと押し込まれたかのような沈黙に包まれた。
第六ではない。
セーフティ・エンクロージャーでもない。
ましてや、俺と弥生の間に昨夜無理やり引きずり出され、今日になって連中に値踏みされた「距離の曲線」でもなかった。
彼女自身だ。
本来なら背景ノイズに紛れて消えてしまうほど細く薄い一本の線が、タブレットの右端に沿って、ひどく緩やかに、そして確かな足取りで上昇を始めていた。昨夜のような急激な熱峰もなければ、衝突後の反動もない。封印匣が作動する際に見られる鋸歯状のノイズさえ皆無だ。それはただ浮上していた。水底にあった何かが、もう沈んでいることに飽き足らず、自ら光を求めて伸びていくかのように。
希の声が、先に枯れた。
「これ、第六に重なってるんじゃない……」 彼女は指先を白くさせながら、タブレットの縁を強く握りしめた。「独立した音源よ」
老高は門禁の処理に向かおうとしていた体を、無理やり引き止めた。
「独立音源だと? どういう意味だ」
希は生唾を飲み込んだ。理解はしているが、それを口にするのを本能が拒んでいるような顔だ。
「つまり……」 彼女は弥生を一瞥し、声をさらに低くした。「彼女が門に反応してるんじゃない。門が、彼女の『内側』で勝手に育ち始めてるのよ」
当直室の誰もが、言葉を失った。
山口側の回線さえも二秒ほど沈黙した。先ほど神代 清枝が去り際に残していった冷え切った空気が、ここで完全に変質した。机の上では三つの勢力が刀を認め、値を付け、奪い合っていた。だが今、刀はもはや机の上にはない。それは一人の人間の骨を伝って、内側から浮上し始めていた。
俺はまず、セーフティ・エンクロージャーに目をやった。
動いていない。
銀灰色の筐体は沈黙を守ったままだ。さっきまで連中がああだこうだと言葉を尽くして議論していたというのに、結局、真に厄介な代物はエンクロージャーの中にはいなかったのだ。
真壁 宗一郎もそれに気づいていた。
彼はタブレットの前まで歩み寄り、表示された数値を二、三度走査すると、顔を上げて弥生を見据えた。
「今の感覚は?」
弥生は机の傍らに、凛として立っていた。
つい先ほど、『人を認めず、ただ刀を認む』と記された受領証を引き裂いたばかりの指先には、今も細かな紙屑が残っている。蛍光灯の白い光に照らされた彼女は、極寒の地から歩んできたばかりのように蒼白だった。
だが、口を開いたその声は、驚くほど安定していた。
「外圧はありません」 彼女は言った。「昨夜のような、中心に向かって引き絞られる感覚とも違う」 彼女はわずかに眉をひそめた。自分自身でも認めたくない何かが、体内の奥深くでパズルのように噛み合っていくのを感じているようだ。「もっと……内側から何かがせり上がってくるような、そんな感じ」
雨宮 静が、真っ先に食いついた。
「どこから始まっている?」
弥生は彼女を一瞥した。その瞳には依然として冷たさが宿っていたが、先ほどのようにすべての言葉を刃で弾き返すような拒絶はなかった。
「胸の、ずっと下の方」 彼女は続ける。「心臓じゃない。もっと深い場所から、押し殺していたものが勝手に浮かび上がってくるような……」
山口側の回線から、即座に紙を捲る音が響いた。
白石の、あの死体のような平坦な声が割り込む。
「確認事項。非接触、非同期、非関聯。これが事実なら、神代 弥生の分級は再定義が必要だ」
俺の腹の底で、再び怒りが火を噴いた。
「てめえの脳内には、分級以外に何も詰まってねえのか?」
「今分けないのは、失控した後のコストを払いたくないからだ」 白石の返しに躊躇はない。
老高が床に唾を吐き捨てた。
「……へっ、どいつもこいつも商売人かよ」
真壁が手を挙げ、雑音を封じる。
「希、大湊港の第七枠の事後波形を出せ。昨夜のデータも重ねろ」
希が即座に応じ、指先を走らせた。壁面の投影が切り替わり、三本の曲線が浮かび上がる。
一本目は、大湊港の名もなき第七枠が「暫定的安定」を見せた後の終盤曲線。
二本目は、昨夜の観測室で弥生が接触を確認した後の、熱峰の減衰データ。
三本目は、今まさに自発的に上昇を続けている、この細い線だ。
三本が並んだ瞬間、データの専門家ではない俺の目にも、その「異常」は明らかだった。
大湊港のデータは、安定から八分後に極めて微細な上昇(浮上)を見せている。昨夜のデータは、減衰後にそのままフラットな線を保ち、反応が終息したことを示している。
そして今、目の前の曲線は――大湊港のあの線と、書き出しが完全に一致していた。ただ、より安定し、より緩やかに。
当直室は、全員が死刑宣告の書状を回し読みしているかのような静寂に包まれた。
雨宮 静は三本の線を見つめ、ついに核心を口にした。
「……浮上が始まったわね」
希が顔を上げる。「浮上って何よ?」
雨宮は彼女を見ず、ただ曲線を凝視し続けていた。
「大湊港の第七枠は、その場で壊れたわけではない。補位を完遂し、一度は安定した。……そのあとで、『門内性』が自発的に浮き上がってきた。最初は扉を閉める手伝いをしていたつもりが、最後には――」 彼女は半秒ほど間を置いた。「――彼女自身の内側に、『門の隙間』が残されたのよ」
その一言に、俺の背筋を冷たいものが走り抜けた。
昨夜までの弥生なら、まだ無理やりこの事案に引きずり込まれただけだと言い張れた。今日、三つの勢力に値を付けられても、それは外側の連中が勝手にやっていることだと言えた。
だが、この線が自ら浮き上がり始めた以上、それはもはや外部の条件などではない。
門は、確実に彼女の身体に「傷痕」を刻み込んでいたのだ。
真壁は雨宮の言葉にすぐには反応せず、一歩踏み出して弥生を見据えた。
「そのまま動くな」
彼はそう言うと、俺を背後へ押しやった。
力任せではないが、拒絶を許さない明確な意志。
「周 士達。半歩下がっていろ」
俺は、その指示に従った。
俺が聞き分けのいい優等生になったわけじゃない。真壁が何を見ようとしているのか、察しがついたからだ。
俺が下がると、室内の全員が平板を凝視した。
あの細い線は、落ちなかった。
微動だにせず、震えもしない。ただ平然と、確固たる意志を持って上昇を続けている。
希が、短く息を呑んだ。
「……周兄貴とは、もう直接の関係はないわ」
真壁 宗一郎の眼光がさらに鋭くなる。
「もっと退がれ」
俺はさらに半歩後退した。これで弥生との距離は二歩半を超え、昨夜真壁が厳命した「三歩」の境界線に近づく。
それでも、曲線は微塵も揺るがない。
山口側の回線から、白石の、いつもより心なしか早まった声が響く。
「確認事項。關聯者との距離は現在の主因ではない。……人格条件の『内因性変質』が開始されている」
今度は山口さえも、その不吉な指摘を遮らなかった。
意味はあまりにも単純で、あまりにも致命的だ。
弥生の「浮上」には、もう俺という引き金さえ必要ないということだ。
立ち尽くす俺の胸に、空虚な空白が広がった。
喪失感でもなければ、安堵でもない。ただ、ひどく座りの悪い理解だけがそこにあった。昨夜、俺たち二人の間に走ったあの火花は、もはや「俺たち」だけの問題ではなくなったのだ。それは彼女の中に何らかの種を遺し、今、その種が自らの力で芽吹こうとしている。
雨宮 静が突如、一歩前へ出た。
「もう一度尋ねます」 彼女は弥生を凝視する。「今、何か『音』が聞こえていますか?」
弥生は即答しなかった。
直立したその姿勢に変化はないが、呼吸の拍動が明らかに変わっていた。乱れているのではない。遅くなっているのだ。まるでこの当直室の空気を吸っているのではなく、ここよりもずっと深く、遠い場所の律動に耳を澄ませているかのように。
二秒の沈黙ののち、彼女は答えた。
「……ええ」
希が、無意識に肩をすくめる。
「どんな音なの?」
弥生は、何かを峻別するように眉をひそめた。
「人の声じゃないわ。あの封印匣のノイズとも違う」 彼女は一瞬だけ、虚空を見つめるような仕草を見せたが、すぐにその意識をこちら側へと引き戻した。「……潮が引いていく音よ。満ちてくるんじゃない、退いていくの。幾重にも重なった層が、遠くへ、遠くへと、遠ざかっていく」
雨宮の表情が、初めて決定的に変わった。
劇的な変化ではない。ただ、常に平坦だったその眼の奥に、さらに深い闇の階層が一段加わったような変化だ。
「……第七の枠(彼女)も、最後に同じことを言っていたわ」
老高が、地を這うような声で毒づく。
「クソが。台本通りに進んでるって言いたいのかよ」
「旧案のデータと完全に一致しています」 雨宮が断じる。
「いいえ」 弥生が遮った。
声は低かったが、鉄のような硬さがあった。
「違うわ」
雨宮が問い返す。「何が違うというのです?」
白い光の下で、弥生はさらに蒼白さを増していた。だが、その唇は体内の奥底からせり上がってくる熱に押し出されるように、ひどく薄く、鋭く尖っている。彼女は身の側に垂らしていた指先を微かに動かした。今この瞬間、ようやく自分を蝕む違和感の正体を掴んだかのように。
「あの方は、補位を終えたあとで『門の内側』を聞いた。……でも私は、見定められるより先に、浮上が始まった」
彼女は視線を上げ、机の上の比對表と二枚の写真を冷徹に射抜いた。
「あなたたちは皆、前例(過去)を見ている。……けれど、今回は前例が戻ってきたんじゃない」
彼女の声が、さらに沈み込む。
「……私が『認めた』ことを、あちら(門)が理解したのよ」
当直室が、凍りついたように静まり返った。
理解した。
先ほどの『認刀』のやり取り。多方勢力が値を付け、血筋を主張する中で、彼女はあの受領証を引き裂いた。あれは単なる絶縁宣言でも、自尊心の誇示でもなかったのだ。
彼女は、ある種の覚悟を完了させてしまった。
誰にも定義させない代わりに、その『位』に自分が立っていることを、自分自身で認めてしまったのだ。
そして、浮上が始まった。
誰かに背中を押されたからではない。彼女がその場所に、自らの足で踏み止まったからだ。
真壁も同じ結論に達したのだろう。その顔色は、かつてないほどに険しく沈んでいた。
「希、時間をマークしろ。……『認刀』の完了から浮上の起点まで、どれほどの空白があった?」
希は震える指でタイムラインを操作し、顔を上げた。
「弥生さんが、あの紙を破いてから……最初の明確な上昇まで……」
彼女は生唾を飲み込んだ。
「……二十七秒よ」
真壁の眼は変わらなかったが、放つ気配は絶対零度まで冷え切っていた。
「接触誘発ではない。封印匣の共鳴でもない。……『認知の定着』か」
白石が即座に追撃する。
「極めて危険だ。資産が自己定義を経て独立した浮上を開始したならば、今後の変動はもはや外部条件による拘束を一切受けなくなる」
「次、それを資産って呼んでみろ。そのクソ汚ねえ口、物理的に粉砕してやるからな」
俺は通信機に向かって、一切の加減なしに言い放った。
山口が慌てて白石を制する。
「……現場を刺激するな」
笑わせる。
散々ランクを付けて値踏みしておいて、今更「刺激するな」だと?
だが、あいつと口論している暇はなかった。今の弥生の「静けさ」は、あまりにも異常だったからだ。
彼女はただそこに立ち、全身全霊で「退潮の音」に聞き入っている。
俺が一歩踏み出そうとすると、真壁が鋭く手を制した。
「動くな」
「彼女の顔色を見てみろ、まともじゃねえぞ」
「分かっている」 真壁は平板を凝視したまま動かない。「今、不用意に近づけば、その刺激がこの線をさらに加速させる恐れがある」
雨宮 静が、深く、静かに息を吸い込んだ。
「彼女をこの机から引き離すべきだわ。ここは明るすぎ、騒がしすぎ、そして視線が多すぎる」
「あんたの言うような『白い部屋』へ移せとでも?」林さんが冷ややかに吐き捨てる。
雨宮 静は答えず、ただ真壁を見据えた。
「白い部屋である必要はありません。ですが、三方向から値踏みされる中心に彼女を立たせておくべきではないわ」 彼女は一拍置いた。「門内性の浮上で最も忌むべきは、闇ではなく――『観照』よ」
その一言を聞いた瞬間、俺の胸の奥にあった刺が、明確な形を結んだ。
昨夜、弥生があれほどまで強靭に耐え抜いたのは、ある意味、あの連中の目の前で無様に崩れたくなかったからだ。今、その線が彼女の内側で勝手に育とうとしているのに、当直室は人で溢れ、壁には曲線が踊り、通信の向こうでは一団のハイエナが凝視している。これで浮上が加速しないわけがない。
真壁も、その道理を理解していた。
「外線をミュートにしろ」 彼は即座に命じた。「山口、貴様と白石の傍聴は許可するが、記録は一方行のみだ。二度と口を挟むな」
山口が反論しようとする気配を感じ、真壁がそれを力ずくでねじ伏せる。
「文句があるなら、貴様がここへ来て彼女の前に立ってみろ」
通信の向こうは二秒ほど沈黙し、やがて微かなノイズだけが残された。
希が黙ってプロジェクターの輝度を下げた。老高は背を向け、半分側のブラインドを閉じる。林さんは近づこうとはせず、ただ右側へと位置を変え、当直室が彼女を包囲するような陣形にならないよう配慮した。
真壁が、改めて弥生を正面から捉えた。
「……まだ、立っていられるか?」
弥生は一度、瞼を閉じた。
再び目を開いた時、その瞳には先ほどのような空虚な混濁は消えていた。
「……ええ」
「吐き気は?」
「ないわ」
「眩暈は?」
「……しない」
「痛みは?」
彼女は言葉を止めた。
「痛みとは、少し違う」 彼女の声は、一段と低くなった。「もっと……」 彼女はその言葉を使うのをひどく躊躇っているようだったが、最後にはそれを口にした。「……『張る(スウェル)』感じがする」
希が思わず尋ねた。「どこが張るの?」
弥生は即答しなかった。
今の彼女にとって、自身の感覚を一つひとつ報告用のパーツに解体されることが、どれほど屈辱的なことかは分かっている。だが、彼女は最後には答えた。今ここで口を閉ざせば、後で連中がさらに十倍の醜悪な言葉で補完することを知っているからだ。
「内側よ」 彼女は言った。「何かがずっと上へと浮き上がってこようとして、胸の下あたりで止まってる。詰まっているんじゃないわ。……まだ『育ちきっていない』の」
その一言に、老高の顔色が目に見えて険しくなった。
これは通常の異常反応ではない。
異常とは本来、衝動、灼熱、亀裂、あるいは鳴動を伴うものだ。だが彼女が今口にしたのは――「育つ(グロウ)」という概念だった。
「育つ」という言葉が介在した瞬間、事態の性質は一変する。
それは嵐ではない。寄生だ。
門に衝突しているのではない。門の隙間そのものが、人間という土壌に根を下ろし始めているのだ。
雨宮 静が、押し殺した声で告げた。
「定位を行うべきだわ」
真壁が彼女を射抜く。
「どうやる?」
「彼女がいま『門に向かっている(トワード)』のか、それとも『門を連れている(ウィズ)』のかを切り分ける」
「……違いは?」
「その後に、何人死ぬかの違いよ」
この女の物言いに婉曲という概念はない。だが、そのあまりの直球さに、当直室は再び死の沈黙に包まれた。
希がタブレットを握る指を白くさせている。
「……あんた、もう少し人間の言葉を使えないの?」
雨宮は壁面の三本の曲線を見つめたまま、淡々と返した。
「『向かっている(トワード)』なら、彼女はまだ引き摺られているだけ。……でも『連れている(ウィズ)』なら、門は既に彼女を介して外側へと根を伸ばし始めている。前者ならまだ、安定させる余地はあるわ。……けれど後者で、もし『次』を強行すれば――」 彼女は言葉を濁した。
その先を口にする必要はなかった。
それが単なる二度目の再確認で済まないことなど、ここにいる全員が察していた。盤面そのものが、根底から覆る。
真壁の思考は、冷徹なまでに速かった。
「定位の方法は?」
「二つあります」 雨宮が答える。
「一、あらゆる外部条件を遮断し、それでも曲線が自発的に浮上を続けるかを見極める」
「二、彼女の立ち位置に唯一影響を及ぼしうる人物を近づけ、曲線が安定するか、あるいは加速するかを確認する」
室内の全員の視線が、同時に俺へと突き刺さった。
俺は立ち尽くしたまま、動けなかった。
弥生もまた、俺へと眼を向けた。
その視線は短かったが、どんなデータよりも俺の胸を強く締め付けた。救いを求めているのではない。拒絶しているわけでもない。ただ、自分がこれからどう使われ、どう見られ、どう定義されるかを理解した上で、自ら「頷く」かどうかの決断を迫られている者の眼差し。
真壁は即座に命令を下すことはしなかった。
彼はただ、彼女を見つめていた。
「……お前が選べ」
今度は、誰も彼女の代わりに口を出さなかった。
神代の監護も、神楽の優先権も、山口のランク付けも、ここにはない。
ただ、彼女自身の意志があるだけだ。
弥生は立ち尽くし、その呼吸はさらに深く、遅くなっていく。あの細い線は、今も苛立たしいほど着実に上昇を続けている。
数秒の後、彼女は問うた。
「……もし、私が『隔離』を選んだら?」
雨宮が答える。
「『向かっている(トワード)』なら、曲線は緩やかになるでしょう。『連れている(ウィズ)』なら、上昇は止まらないわ」
「……もし、彼を近づけることを選んだら?」
今度は、真壁が彼女に答えた。
「もし君が彼を借りて安定を保てるなら、それは君がまだ独りで深淵へ堕ちてはいない証拠だ。だが、彼が近づいて加速するようなら……」 真壁は言葉を切った。「……昨夜遺されたものは、君一人の中だけに留まってはいないということだ」
その一言が、この場に残っていた最後の欺瞞を剥ぎ取った。
昨夜のあの瞬間は、もはや「一線を越えた」という感傷で片付けられる代物ではない。
それは明確な後遺症を遺した。しかも、双方向の。
俺は弥生を見た。
彼女もまた、俺を見つめ返している。
上昇を続ける細い線は、希の平板の上で、一刻みずつ確実に上へと這い上がっていく。誰かが極細のメスを握り、俺たちが昨夜語り残し、今朝格付けされ、先ほど三者に認められたあの「何か」を、誰の目にも明らかな形へと刻み込んでいるかのようだ。
長い沈黙ののち、彼女は口を開いた。
「……先に、隔離を」
真壁は頷き、迅速に動いた。
「いいだろう」 彼は背後の面々へ指示を飛ばす。「老高、外周をクリアにしろ。希、タブレット一台とサーマルセンサー一つを残し、他はすべて撤収だ。雨宮、旧案に詳しいというなら俺と共に観測室へ来い。――林さん、貴女は扉の外、第一線で待機を」
そして、最後に俺を見た。
「お前はまだ入るな」
俺は眉をひそめた。
「彼女が今、自分で選んだんだぞ……」
「分かっている」 真壁が俺の言葉を遮った。「だからこそ、お前から離れた状態でこの線がどう動くかを見極める必要がある。お前が『安定剤』なのか、それとも『点火源』なのかを切り分けるためだ」
耳障りな正論だ。
俺は動かずに立ち尽くすしかなかった。
老高が手際よく人を払い、希が慌ただしく機材を片付ける傍らで、弥生の横顔を盗み見る。林さんは誰よりも静かに、彼女の側を通り過ぎる瞬間にだけ、微かな声を落とした。
「……折れるまで、無理をしないで」
弥生は答えず、観測室へと足を向けた。
彼女が一歩踏み出すたびに、希のタブレットが反応を示す。
一歩目、曲線は止まらない。二歩目、依然として上昇。三歩目、彼女が長机のエリアを離れ、廊下のわずかに暗い空間へと足を踏み入れた瞬間――曲線は落ちるどころか、さらに滑らかに加速した。
希の顔から血の気が引く。
「……嘘でしょ」 彼女の声が乾ききっている。「外部の視線が減った途端、浮上が安定し始めた」
雨宮 静は驚く風もなく、低く呟いた。
「彼女は門を恐れているのではない。……自分自身が『育つ』ための場所を探しているのよ」
俺は立ち尽くしたまま、遠ざかる彼女の背中を見つめていた。奇妙な感覚だった。
昨夜は、誰もが彼女をそこへ押し込もうとしていた。
だが今日は違う。
彼女がある一線(覚悟)を認めた瞬間、その事象は自ら居場所を求め始め、彼女はただ、それが最も美しく、あるいは醜く咲き誇れる場所を選んでいるように見えた。
真壁と雨宮が中へ入り、扉は完全には閉められず、わずかな隙間を残した。この数章の間、あの「門」が誰一人として内と外を明確に分かつことを許さなかったように。
俺と林さんは外に立ち、希は機材車の影でタブレットを抱え、老高は角の門禁を固める。通信の向こうでは山口と白石が、沈黙のまま「資産」を凝視している。
観測室の照明が一段階落とされた。
弥生は狭いベッドの傍らに立ち、手すりを軽く握っている。誰にも悟られないよう、微かに力を込めているのが見て取れた。真壁は彼女から二歩の距離に立ち、雨宮はさらに遠く、扉の際で数値を追っている。
希が平板を見つめ、報告の声は次第に囁きへと変わっていった。
「……まだ浮上中。加速なし、ピークの暴走もなし。……まるで、『定型』されているみたい」
真壁が内側から問いかけた。
「……今は、どうだ?」
弥生はすぐには答えなかった。
門の隙間から見える彼女の横顔は、目を閉じ、遠い遠い場所の旋律を拾っているかのようだった。やがて、彼女は低く、掠れた声を絞り出す。
「……引き潮の音が、さらに鮮明になったわ」
「画面は見えるか?」
彼女は二秒ほど沈黙した。
「いいえ。……でも、『位置』だけは分かる」
雨宮が即座に反応する。「位置? どこにあるの?」
弥生はゆっくりと目を開け、何もない虚空を見つめた。
「……まるで」 彼女は言葉を止めた。「……背後に一枚の扉を置かれたみたい。私に開けろと言っているんじゃない。……ただ、そこにあることを、私に認めさせているの」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たい粟立ちが走った。
抽象的な比喩じゃない。あまりにも具体的で、生理的な感覚。
彼女の背後に扉がある。それは外部のエンクロージャーでも、大湊港の物理的な扉でもない。
彼女に「随伴」して現れた、彼女自身の門だ。
希が顔を上げ、真壁へ気音を飛ばす。
「これ……トワード(向かっている)なの? それともウィズ(連れている)なの?」
雨宮は数値を凝視したまま、重い沈黙を破った。
「……中間よ。まだ完全には定着していないけれど、もはや単なる受動的な牽引ではない」
真壁は表情を変えず、さらに乾いた言葉を投げた。
「つまり、次の対応を一つでも間違えれば、彼女は完全に後者へと滑り落ちるということだな」
雨宮が頷く。「ええ」
部屋の内外が、再び静まり返った。
俺は半開きの扉越しに、その残酷な光景を眺めていた。
もはや神代が認めるか、神楽が奪うか、霊務局(BEA)が評級するかなど、どうでもいい次元に達していた。
彼女は、自分自身の内側で「育ち」始めてしまったのだ。
これまでの切割や値踏みは他人の刃に過ぎなかったが、この上浮曲線だけは、彼女自身のものだ。
真壁が、ついに最も厄介な問いを突きつけた。
「次だ。近距離定位を行うか?」
その一言が落とされた瞬間、観測室の内外で空気が一斉に引き絞られた。
雨宮 静は沈黙を保ち、希は息を止める。老高が俺に投げた視線は、『ついに来たか』と告げていた。
近距離定位。
平たく言えば、俺をあの中へ入れろということだ。
昨夜のような、追い詰められた末の接触確認ではない。彼女の「門内性」が自発的に芽吹き始めたことを確信した上で、あえて俺を近づける。それが彼女をこの世へ繋ぎ止める錨になるのか、あるいは、その上昇曲線を深淵の底へと加速させる「重り」になるのかを見極めるために。
観測室の中で、弥生は手すりを握ったまま立ち尽くしていた。こちらを振り返りはしなかったが、彼女がその問いを正確に受け取ったことは分かった。
長い沈黙ののち、彼女は問うた。
「……もし、やらなければ?」
真壁の答えは、冷酷なまでに平坦だった。
「お前の『浮上』が始まったことは分かっても、それがまだ引き戻せるものなのかどうかは、分からぬままだ」
その言葉は、それまでの認刀や値踏み、評級といった茶番よりも、はるかに残酷で直接的だった。
価値の話ではない。彼女がまだ「人間」としてこちら側へ戻ってこられるかどうかの、瀬戸際の話なのだ。
雨宮が、その後に続く絶望を補足した。
「今やらなければ、いずれやらざるを得なくなるわ。……ただその時、君が支払わされる代償は、昨夜のような『立ち位置』程度では済まないでしょうね」
観測室が、不気味な静寂に支配された。
俺の位置からは、弥生の表情は窺えない。ただ、彼女の背中のラインが強張っており、一節一節の骨が折れそうなほどに力を込めていることだけが伝わってきた。
彼女は、すぐには選ばなかった。
だが、希の平板の上で、あの一本の線は容赦なく、一刻みずつ上へと這い上がっていく。
まるで、時間はもう彼女を待つつもりなどないのだと、冷たく告げるかのように。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




