S2第五十七章:神代の本家
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
神代の代理人が入室した瞬間、空気そのものがアイロンをかけられたかのように平伏した。
神楽のような「何を奪うか確信している静謐さ」とも、霊務局(BEA)のような「通信越しに漂う紙の計算臭」とも違う。神代の人間が踏み込んできた時、最初に感じる不快感。それは、彼らの足音があまりにも整然としすぎていることだ。この世のあらゆる汚濁も、彼らの礼節と家規というフィルターを通せば、すべて「本分」に変換されてしまうかのような、あの薄気味悪さ。
先に現れたのは一人の女だった。
年齢は五十前後。髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、濃紺の和服に黒い羽織。襟合わせは硬く、手に携えた黒漆の細傘は、雨を凌ぐためではなく、内と外を隔てる境界線として機能している。後ろには背広姿の若い男が一人。資料を抱え、表情を消している。家名の代弁者としてのみ存在し、思考することを放棄したかのような佇まいだ。
女は机の三歩手前で足を止め、まず密封箱を、次に広げられた封存鏈を検分し、最後に――弥生へと視線を向けた。
「神代 清枝」彼女が口を開く。声は高くないが、塵さえも道を譲るような平坦な威厳を帯びていた。「家主の名において、神楽の旧案優先権に対し、正式な異議を申し立てます」
隣に立つ希が、あからさまに白目を剥いた。
「へぇ、来たわね」 彼女はタブレットを抱えたまま、全員に聞こえるような声で皮肉を飛ばした。「切り捨てたあとで『金になる』と分かって、ようやく回収しに来たわけ?」
神代 清枝は眉一つ動かさない。希を、返答を返すに値する存在としてすら認識していないのだ。
雨宮 静が、先に薄く笑った。
「清枝さん。私の予想より少し遅かったですね」 彼女は机の反対側に立ち、ハードケースを広げたまま応じる。「神代家なら、『後継判読者』という六文字を見た瞬間に、もっと早く動くものだと思っていました」
清枝がようやく、雨宮へと視線を移した。
「神楽が旧案を盾に家系の権利へ侵入しようとしているのです。そう簡単に動けるはずもありません」 彼女は一通の公文書を机に置き、真壁へと押し出した。「神代 弥生は家系としての対外権限を一時停止されていますが、正式な除籍はなされていない。今なお神代の本家系譜に連なる者です。旧案優先権が血統の監護権を凌駕することは許されません。神楽による随伴観測、および接収の資格を撤回してください」
当直室が静まり返る。
その言い分が斬新だったからではない。あまりにも「神代らしい」身勝手さに、言葉を失ったのだ。
必要となれば「一族の者」として扱い、切り捨てる時は「本人の自己責任」とする。そして他者が奪いに来れば、再び「血統の監護」を盾に所有権を主張する。
真壁はその公文書を手に取り、一瞥して机に戻した。
「筆跡は実に見事だ」 彼は淡々と告げる。「だが、俺が認めるのは二つだけだ。程序、そして『誰が先に刃を入れたか』だ」
清枝は表情を変えず、真壁を見据える。
「真壁さん。神代は今日、感情を語りに来たのではありません。自分たちが刻んだ『刀傷』を認めに来たのです」
横で聞いていた俺は、吹き出しそうになった。
大層な物言いだ。だが、言葉が巧みな奴ほど、自身の「後ろめたさ」の在処を熟知しているものだ。
雨宮は俺よりもさらに容赦なく、大湊港の修正書を清枝の前へ突き出し、指先でその小文字を叩いた。
「認めに来た、ですって?」 彼女の声は依然として平坦だが、鋭い。「なら、まずはこれを認めていただきましょうか。『同型の替位者が再出現した場合、神代家を介さず、優先的に神楽本部へ通知すること』……。この一文は、私が今日書き加えたものではありませんよ」
清枝は修正書に視線を落としたが、驚くほど動揺の色を見せなかった。
「……承知しています」
その一言に、室内にいた数名が同時に顔を上げた。
通信機の向こうの山口さえも、息を呑む気配がした。
真壁の眼が、ついに本物の興味を帯びて彼女を捉えた。
「知っていたのか?」
「ええ」 清枝は傘を背後の若い男に預け、両手を空にした。これから語る言葉に、何の障壁も置かないという意思表示だ。「あの刀は、もともと神代の敷居に振り下ろされたものなのですから」
空気が変わった。
弁明でも否定でもない。彼女は、そこに「刃」が存在したことを正面から認めたのだ。
真壁は椅子の背にもたれかかり、ようやく手応えを感じたような顔をした。
「……続けろ」
清枝は弥生を見ようともせず、ただ机の上の旧案資料と封存鏈を視界に収めていた。
「大湊港のあの一件。神代家は事後報告で知ったわけではありません。第七の枠が現場へ投入される四分前、我々は中継の問い合わせを受けていました。内容は簡潔なものです」 彼女の声は家訓を唱えるように無機質だった。「――『門の適性者』が現場にいる。神代家はこれを引き受けるか、と」
希が眉をひそめる。
「……それで、あんたたちは『要らない』って答えたの?」
神代 清枝は、希に視線すら向けず、事も無げに答えた。
「――ええ、その通りです」
その瞬間、当直室の空気が、まるで机ごと叩き割られたかのような衝撃に包まれた。
老高が真っ先に吠える。
「……クソが」
窓際に立つ林さんが、冷酷な響きを帯びた言葉を吐き出した。
「ようやく認めたわね」
俺は横目で弥生を見た。
神代 清枝が入室してからずっと沈黙を守っていた彼女だが、その顔色はいよいよ、真実なまでの蒼白さに染まっていた。傷ついたからではない。彼女は予感していたのだ。自分自身の存在が、とうの昔に切り捨てられていたことを。それを今、目の前で突きつけられただけなのだ。
だが、清枝は彼女の動揺を歯牙にもかけず、淡々と続けた。
「神代家は、『門の中の者』を収容しません。これは特定の個人に対する審判ではなく、代々受け継がれてきた止血法なのです。一度でも門に書き込まれた者は、元の姓が何であろうと、本家の娘であろうと、二度と神代の判読体系に戻ることは許されない。大湊港のあの女もそうでした。……弥生、あなたがそうなったとしても、扱いは同じです」
雨宮 静が、ようやく口を開く。
「つまり、あなたは今日、彼女を家へ連れ戻しに来たのではない。ただ『処理権』を奪い合いに来たというわけですか」
清枝は静かに頷いた。
「左様です」
この女の最も恐ろしいところはここだ。
偽りの慈悲も、見せかけの羞恥も持ち合わせていない。ただ、最も醜悪な真実を、事務的に机の上に並べてみせる。「我が家は潔白ではない。ただ、規儀に従うだけだ。規儀が汚れているなら、その汚れごと受け入れる」と、そう言っているのだ。
真壁 宗一郎が、ペンで机を二度、軽く叩いた。
「ならば、疑問が残るな。神代家が『門の適性者』の存在をとうに把握していたというなら、なぜ今朝、あの切割の回答書を送ってきた? そしてなぜ今になって、神楽の優先権を排除しようと躍起になっているんだ?」
清枝は、ここでようやく弥生へと視線を向けた。
「――夜明け前までは、まだ『手違い』で済んでいたからです。ですが夜明けを過ぎ、彼女は『前例』に酷似し始めた」
その言葉は、どんな罵倒よりも残酷だった。
「堕落した」とも「恥さらし」とも言わない。ただ、「お前は前例に似ている」とだけ告げたのだ。
連れ去られ、抹消され、リストの空白へと消えた、あの「第七の枠」に。
弥生の瞳に冷たい光が宿り、ついに言葉を紡いだ。
「……つまり、あなたたちが私を切り捨てたのは、昨夜の私の行動のせいじゃないのね」
声は決して大きくなかったが、凍りついた氷原が割れるような鋭さがあった。
「私が『あの姿』に変質する可能性に気づいたから――そうでしょう?」
清枝は視線を逸らさず、肯定した。
「――左様です」
「なら、今更来て何をするつもり?」 弥生は彼女を凝視する。「私を連れ帰って監禁し、本当に門の中へ堕ちたと確信した瞬間に、自分たちの手で処分するため? それとも神代家にとって、この『刃』は他人に譲れないほど価値があるものなの?」
彼女の唇が微かに震えた。笑いではない。極限まで煮詰まった憤怒が、逆に平坦な冷徹さへと昇華したような、歪な動き。
「神代の刃は、神代の手で振り下ろすべきだと……そう言いたいの?」
清枝は一秒の沈黙ののち、今夜最も「神代らしい」言葉を口にした。
「――神代の刃は、神代が収めるべきなのです」
室内の温度が、一気に絶対零度まで引き下げられたような錯覚に陥った。
希が思わず罵声を上げた。「……あんたらの家、病気じゃないの!?」
老高も顔を険しく歪める。
「霊務局(BEA)も大概だと思ってたが、あんたらも負けてねえな」
雨宮 静だけは驚く風もなく、淡々と付け加えた。
「だから言ったのです。神代に預けるべきではない、と」
山口からの通信が再び割り込む。
「神代 清枝さん。確認させてもらう。神代家の主張は、血統監護に基づくものか、あるいは門内危機の処分権に基づくものか?」
清枝の返答は速かった。「その双方です」
「それは傑作だな」 真壁が追撃する。
「あんたたちが今朝送ってきた回答書にはこうある。『霊務局が保全、隔離、あるいは接収プログラムを起動した場合、神代家は手続き上の異議を申し立てない』とな」
彼はその回答書を引き出し、清枝の持参した異議申し立て書と並べた。
「それが、神楽が旧案を盾に現れた途端、『血統の優先』を言い出す。……あんたたちが認めているのは『刃の重み』か? それとも、ただ『獲物』を奪われたくないだけか?」
清枝の目が二枚の書類に落ち、初めて、その視線がわずかに長く留まった。
これこそが、彼女が今日晒した最も醜悪な綻びだった。
何も知らなかったなら、ただ対応が遅れた家系を演じられた。だが彼女は認めてしまった。門の適性者のことも、大湊港の末路も、すべてを把握していたと。
今朝の切り捨ては自保ではなく、弥生に「一太刀浴びせる価値」があるかを見極めるための、冷酷な観察だったのだ。
清枝は真壁の問いには答えず、代わりに雨宮 静へと視線を向けた。
「神楽が旧案を盾にバックドアを仕掛けるのも、決して潔いやり方とは言えませんわね。……あの大湊で第七の枠を連れ去ったあと、あなた方はどの家系にも事後報告をなさっていない。今になってその空白を切り札に圧力をかけるのは、それこそ『獲物の横取り』ではありませんか?」
雨宮が頷く。
「ええ。その通りです」 彼女はあっさりと認めた。「だから私は今日、道徳的な非難をしに来たのではありません。あなたたちが再びその刃を振るい、切り口を歪めるのを阻止しに来たのです」
このテーブルで最も恐ろしいのは、こういう連中だ。
一方は「切除」を認め、一方は「強奪」を認める。通信機の向こうでは一人が「値踏み」を続けている。誰もが汚れ、誰もがそれを自覚していながら、隣の奴よりはマシだという面をしてのけている。
真壁 宗一郎は、泥沼の罵り合いに発展するのを許さなかった。彼は先ほどの大湊港の認領申請書を清枝の前へと突きつける。
「ここに明記されている。『神代家による先行受領を禁ず』と。神楽の優先権を撤回したいなら、まずは俺に答えろ。神楽にこれを書かせたのは、どこのどいつだ?」
神代 清枝は行を見つめたまま、すぐには答えなかった。
当直室には、通信機から漏れる微かなノイズだけが響いている。
俺は彼女を見ながら、直感した。この女は答えを知らないわけじゃない。ただ、それを口にした瞬間、神代家に残されたわずかな体面がどれほど損なわれるかを、必死に計算を弾いているのだ。
やがて、彼女は重い口を開いた。
「……先代の家主です」
老高が鼻で笑った。
「ほう、死人に口なしか(死人に責任を被せるか)」
清枝が彼を射抜くような眼で見る。
「責任の転嫁ではありません。――署名をしたと言っているのです」
真壁が即座に追撃する。
「何を署名した?」
「二つの事項です」 清枝の声は揺るがない。「一、大湊港の当該人員は神代へ戻さぬこと。二、万が一、第二の例が現れた場合、神楽が優先的に門内適性の処理を行い、神代家は事後確認権を留保するに留める。先行的な監護権は主張しない、と」
その一言が出た瞬間、通信機の向こうの山口さえも沈黙した。
この奪い合いという茶番の、一番醜悪な裏面が剥がされたからだ。
神代家は、今日初めて神楽に手を突っ込まれたのではない。かつて自らそのルールに署名し、神楽に先んじて連れ去る許可を与えていたのだ。
だとすれば、今朝の切り捨て回答も、今の異議申し立て書も、ひどく滑稽に見えてくる。あらかじめルールを定めておきながら、いざ「二人目」が現れると、惜しくなって反故にしようとしているのだから。
真壁が薄く笑った。
「なるほどな。あんたたちは優先権を撤回しに来たのではない。……前言を撤回しに来たわけだ」
清枝の顔に、初めて揺らぎが生じた。
失態ではない。だが、正鵠を射抜かれ、どれだけ取り繕っても隠しきれない綻びがその隙間に見えた。
「先代は当時、大湊のあの女は神代から遠すぎると判断されたのです。ですが、弥生は違う」
「何が違うというのです?」 雨宮が問う。
清枝は迷いなく答えた。
「彼女はもともと、神代の判読線上に座していた。彼女が門の中へ堕ちれば、それは単なる一個人の喪失ではない。神代の『眼』そのものが、深淵へと引きずり込まれることになるのです」
静寂が部屋を支配した。
理解した。
彼女が重要だからじゃない。彼女が「近い」からだ。
あの名もなき第七の枠は、おそらく神代の主流からは外れた「借り物」に過ぎなかった。だから神代家は冷淡にそれを見捨てることができた。だが、弥生は違う。彼女は神代の「正当な眼」であり、体系の核に近すぎた。彼女が「門内者」になれば、それは一人の欠員ではなく、神代というシステムの根幹を刃で切り裂かれるに等しい。
これが「切り欠き(ノッチ)」の正体だ。
人ではなく、体形に刻まれた傷。
林さんが、重い沈黙を破った。
「要するに、彼女の死を恐れているのではないのね」 彼女は窓辺に寄りかかったまま、冷え切った声を出す。「恐れているのは、彼女が生き続け――それも『前例』として生き続けること。そうでしょう?」
清枝は反論しなかった。
沈黙は、肯定よりも雄弁にその醜悪さを物語っていた。
弥生が机の側に立ち、極限まで張り詰め、今にも弾けそうな弓のように静止していた。
やがて、彼女はゆっくりと、しかし断固とした口調で尋ねた。
「……一つ、教えて」
清枝が彼女を見た。
「大湊港のあの女は――神代から出た人間だったの?」
その問いが放たれた瞬間、当直室は死後の世界のような静寂に包み込まれた。
希までもが、一瞬で凍りついた。
これは単なる手続きの確認ではない。「血」そのものの在処を問うているのだ。
あの名もなき第七の枠。――『神代の者に知らせないで』と願ったあの女は、やはり神代の血を引く者だったのか。
神代 清枝は、まる三秒の間、沈黙を守った。
やがて、彼女は重い口を開く。
「――傍系です。本家ではありませんが、神代の血を引く者でした」
俺は、胃の底に鉛を流し込まれたような感覚に襲われた。
なるほどな。
あの大湊での『神代には知らせないで』という歪な願いの正体。見知らぬ他者を避けていたのではない。彼女は神代という家が門内者をどう扱うかを熟知していたからこそ、家族に触れられるくらいなら、神楽に連れ去られる方を選んだのだ。
弥生 はその答えを聞き、すぐには何も言わなかった。
ただ清枝を見つめるその眼差しは、先ほどまでの冷たさとは異なっていた。ずっと胸に抱いていた、しかし認めたくなかった最悪の推測が、正面から突きつけられた者の眼だ。
彼女は、ふっと笑みを漏らした。
微かな笑い。
だがそれは、絶叫よりも毛骨を凍らせる響きを帯びていた。
「……じゃあ、今の私は何なの?」 声は、残酷なまでに平坦だった。「傍系の後例? 本家のアップグレード版? それとも、自分の番になってようやく、先代の家主が振り下ろしたあの刃が『不完全だった』ことに気づいたわけ?」
清枝は即座には答えられなかった。
弥生の言葉が、家系の根幹という最も急所に、深く突き刺さったからだ。
真壁 宗一郎が、その沈黙を切り裂くように最後の一枚を抜き取った。
それは神楽の資料でも、局(BEA)のファイルでもない。黒箱の第三層、あの封印袋の底に隠されていた、古びた受領証だった。
紙は変色し、朱肉の色も褪せている。だが、そこに押された印影はあまりにも鮮明だった。
――【神代家・収受印】。
その下に記された一文は、あまりにも短く、あまりにも非道だった。
『――知悉。若し同型再び現るれば、人を認めず、ただ刀を認む』
それを読んだ瞬間、俺の背筋に冷たい戦慄が走った。
もはや推測の余地はない。神代家が知っていたかどうかも、先代が何に署名したのかを疑う必要もない。
白日の下に晒された、動かぬ証拠。
――「人を認めず、ただ刀を認む」。
これこそが、今夜剥き出しになった、最も醜悪で完成された真実だ。
清枝の視線がその受領証に落ち、初めてその鉄の仮面が揺らいだ。それを奪い取ろうとするかのような鋭い眼光を放ったが、真壁の手が既にそれを冷徹に押さえ込んでいる。
「……さて、これで話し合い(ネゴシエーション)の土台が整ったな」
真壁が言った。
「神代は人を守りに来たのではない、刀を認めに来たのだ。神楽は人を救いに来たのではない、刀を接収しに来たのだ。そして霊務局(BEA)は人を管理しに来たのではない、刀の値を付けに来たのだ」
彼は立ち上がり、テーブルを囲む者たちを順に射抜く。
「全員が本音を晒した以上、これ以上『家名』だの『プログラム』だの『人道』だのといった薄汚い遮蔽物で、この場を飾るのはやめにしよう」
山口が苦々しく問う。
「……それで、どう決着させるつもりだ?」
真壁は受領証から手を離し、静かに、しかし断固として告げた。
「単純な話だ。刃が完全に振り下ろされていない以上、勝手に死人扱い(デッド・ストック)にすることは許さん。今この瞬間より、神楽には随伴観測権を、神代には知る権利を認める。だが、連れ出しも、拘束も、処分の権利も、いずれの組織にも与えない。そして霊務局(BEA)も、独断での二次検証を禁ずる。そして弥生――」
彼は彼女に向き直った。
「お前は彼らの『刀の鞘』ではない。現場に留まれ。だが、お前自身が頷かない限り、次の一歩は誰にも踏ませない」
山口が真っ先に異議を唱えた。
「真壁! それは核心的な意思決定権を当事者に委ねるということだぞ!」
「そうだ」 真壁は通信機を冷たく見据えた。「貴様らだけで決めさせれば、必ず『壊す』ことになる。大湊の結果が、それを証明しているだろう」
雨宮 静は反対せず、ただ微かに頷いた。
清枝は、弥生をじっと見つめた。その口調は、もはや公文書のような冷徹さではなかった。
「……本当に、ここに残るというのですか?」
弥生は彼女を見返した。
「本当に、私が今更神代へ戻って、『人間』として扱われると思っているの?」
清枝の唇が、かすかに震えた。
「……少なくとも神代は、己が手で刀を収めます」
弥生が笑った。
今度は、本物の笑みだった。温かみも柔らかさもない、研ぎ澄まされた刃を月光にかざした時のような、鋭い笑いだ。
「あなたたちは刀を収めようとしているんじゃないわ。……その刃が自分たちの方を向くのが、ただ怖いだけでしょう?」
その痛烈な一撃に、林さんが満足げに息を吐くのが聞こえた。ようやく、この部屋で最も語られるべき真実が口にされたのだ。
清枝はそれ以上、言葉を重ねなかった。
彼女は長く、弥生を凝視していた。やがて視線を落とし、机の上のあの忌まわしい受領証を視界に収める。
「……あなたが戻らぬというなら、それでいいでしょう」
彼女の声は、再び平坦な事務処理のそれへと戻った。
「ならば神代の代理として、一点だけ確認させていただきます。本日より、神代 弥生が門の内側へ一歩でも踏み出したなら、その結果も、立ち位置も、刻まれる切痕も、神代は一切を負いません。――ですが、その名を持って神代を辱める者が現れるならば、我々も座視はしません」
老高が鼻を鳴らした。
「……結局、家門の不始末は身内で始末するってか。反吐が出るぜ」
真壁はその皮肉を無視し、頷いた。
「いいだろう。少なくとも、自分の手で『柄』を握る意思だけは確認できた」
神代 清枝は立ち去るべく、踵を返した。
扉の際で彼女は足を止め、振り返ることなく、最後の一句を遺した。
「弥生。先代の家主が『人を認めず、ただ刀を認む』と記したのは、慈悲がなかったからではありません。――門の中の者が一度でも家族を振り返れば、その家ごと深淵に裂かれることを、あの御方は知っていたのです」
言い終えると、彼女は立ち去った。
扉が閉まる音は決して重くはなかった。だが、当直室全体が、その微かな振動に共鳴したかのように震えた。
彼女の気場に圧されたのではない。あの一句が、神代という家系が吐き出したあまりにも純度の高い「本音」だったからだ。吐き気を催すほど醜悪で、しかし否定しきれない真実。
雨宮 静は微動だにせず立ち尽くし、山口も回線を切ろうとはしなかった。
全員の視線が、弥生に集まる。
白い光の下で、彼女の顔色は凍てつくように蒼白だった。背筋を伸ばし、凛と立ってはいるが、支えている芯のどこかが、既に決定的な悲鳴を上げているのを俺は知っていた。かつての古い受領証を突きつけられ、残酷な鏡を見せられたのだ。
お前は最初の一人ではない。これは何かの間違いでもない。研ぎ澄まされた一振りの刃が、予定されていた順序に従って、ようやく本家の肉にまで届いたに過ぎないのだと。
真壁 宗一郎は、あの受領証、神楽の優先権、大湊の比對表、そして神代の異議申し立て書を、一枚、また一枚と静かに重ねた。
「いいだろう」彼は淡々と告げる。「刀の出処はすべて認められた。……次は、その刃がどこを切り裂くかを見届ける番だ」
雨宮がようやくハードケースを収めた。
「私は残ります。傍聴し、この眼で見届ける。もし、あなたたちが『二度目』をテーブルに乗せるというなら、その場に立ち会わせてもらうわ」
山口が即座に追従する。
「私もだ。すべてのデータを完全に同期させろ」
真壁が頷く。
「許可しよう。だが、忘れるな。次があるかどうかを決めるのは、観測者ではない」
彼は俺を、そして弥生を見た。
「彼ら二人が、再びあの場所に立つ意志があるかどうか。すべてはそこにかかっている」
希がタブレットを抱え、小さく息を呑んだ。
老高は門禁の確認に回り、これから訪れる平穏が、嵐の前の静けさに過ぎないことを悟ったような顔をしている。林さんは傍らで、その鋭い眼差しを俺へと向けた。
『いい、すべての刃が、今あなたたち二人に向かって合わさろうとしているのよ』
その視線が、無言でそう告げていた。
分かっている。
神代の人間が踏み込んできたあの瞬間から、誰も「過去」の話などしていなかったのだ。
連中が語っていたのは――「二度目」を、やるか、やらないか。その一点だけだ。
弥生はずっと沈黙していた。
神代 清枝が去ってから長い時間が経ち、彼女はようやく手を伸ばした。
『人を認めず、ただ刀を認む』と記された、あの受領証を。
二秒ほどそれを見つめると、彼女は全員の目の前で、それを二つに折った。
さらに、もう一度。
そして最後には、それを真っ二つに引き裂いた。
紙の裂ける音は小さかったが、ひどく乾いた響きだった。
当直室の誰も、彼女を止めなかった。
彼女はその紙片を机に戻した。声は微かだったが、鋭いナイフのように全員の鼓膜を切り裂いた。
「――なら、私を認めないで」
彼女は言った。
「……誰にも、私の代わりに認めさせたりはしない」
その瞬間、俺は確信した。この章で真に「認められた」のは、神代の刀などではない。
弥生という、彼女自身だ。
彼女はついに受け入れたのだ。己に刻まれた傷の存在を。そして同時に、それを「運命」や「規儀」や「処分」といった他人の言葉で定義させることを、明確に拒絶した。
その時、室外のインターホンが再び鳴り響いた。
三短一長ではない。
――急き立てるような、二回の短音。
希が慌ててタブレットに目を落とし、顔色を変えた。
「熱曲線が動いてる!」
真壁が鋭く問い返す。「どの個体だ?」
希が顔を上げる。その声は乾ききっていた。
「第六じゃない……」
彼女はタブレットの画面を、机の中央へと向けた。
「――弥生さんよ」
室内の全員が、同時にそれを覗き込んだ。
画面上、背景に沈んでいたはずの一本の細い線が、緩やかに、しかし揺るぎない足取りで上昇を始めていた。
それは暴走の類ではない。
まるで、誰かが刀を認めた瞬間、刀の側もまた、その主を認め始めたかのような――静謐なまでの、共鳴。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




