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S2第五十三章 夜明けの偽りなき告白

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

天が明けると、真壁マカベはより真壁マカベらしくなっていた。――その存在は、夜よりもさらに苛立たしく、胸の悪くなるような純度を増していた。

夜の闇の中で人間を崖っぷちまで追い詰め、その反応を無慈悲に書き留めていたあの冷酷さは、朝日と共に整然とした事務処理へと姿を変えていた。彼は昨夜の記録板、熱曲線のプリントアウト、安全密封盒セーフティ・ケースの封印番号といった資料を、当直室の長机に一枚一枚並べていく。その動作は緩慢だが、配置には一片の狂いもない。窓の外から差し込む白々とした光が、全員の顔に刻まれた疲労を洗い流していくが、机の上に並んだ「記録」の重みだけは、一向に薄れる気配がなかった。

銀灰色のケースは、依然としてそこにある。

昨夜、俺たちを飲み込もうとしたあの暴力的な共鳴も、今や数行の文字列と、いくつかの時間、そして無機質なグラフの頂点へと「整理」されていた。

真壁マカベが赤ペンを手に取り、一頁の余白に円を描く。

「三時四十七分、第一次非接触接近」

「三時五十一分、二歩以内での同期振動」

「三時五十四分、最低限度の接触確認」

「三時五十五分から五十六分、熱ピークの下降、封印の安定を確認」

彼は淡々と読み上げる。その声は、まるで倉庫の在庫目録を確認しているかのように平坦だった。

俺はデスクの対面に立ち、昨夜無理やり引き摺り出された胸の内の熱を反芻していた。熱はまだ、完全には引いていない。痛みというよりは、抜き損ねた棘が刺さったままのような違和感だ。動かなければ気にならないが、昨夜のことを考えた瞬間に、その存在を確かに主張してくる。

神代じんだい 弥生やよいは、俺の左隣に立っていた。

夜の時よりも、その姿は整えられている。乱れていた髪は再び滑らかに整えられ、襟元は厳格に閉じられ、袖口も平らだ。その顔もまた、いつものように感情を一切読み取らせない、冷たい仮面へと戻っていた。ただ、目元に滲んだ淡い隈だけが、彼女が昨夜失ったものを無理やり内側に押し込んだ結果、溢れ出してしまった残滓のように見えた。

壁際ではシキがタブレットを抱え、ストローを噛んでは離し、何か言いたげな表情を浮かべている。窓際のリン・ユートンは、新しく淹れたはずの熱い茶が冷めるのも構わず、ただ冷徹な眼差しで机上の紙を凝視していた。「実際に起きたこと」が「管理可能な資料」へと書き換えられていく様を、蔑むように見つめているのだ。

一番潔いのはラオガオで、椅子を強引に引き寄せて座り込み、腕を組んで不快そうに顔を歪めていた。

全員が理解していたのだ。夜明けと共にこの部屋に流れ込んできたのは光などではなく、逃れようのない「カルマ」だということを。

午前六時七分。外線が繋がった。

静寂に支配されていた当直室に山口ヤマグチの声が響いた瞬間、部屋中の空気がざらついた砂紙で撫で回されたかのような不快感に満たされた。

真壁マカベさん、初歩的な記録は受け取ったよ』

山口ヤマグチの口調は夜よりも丁寧で、それゆえに反吐が出るほど傲慢だった。

『おめでとう。第六媒介が単なる封存物ではなく、人位補正じんいほせいに反応する活性媒介であることを証明してみせたね。……さて。これほどの事実が揃った以上、もはや小規模な観測に留めておく理由はなくなったはずだ』

真壁マカベは顔を上げず、ただページをめくった。

「望みを言え。単刀直入にな」

山口ヤマグチが、微かに、そして愉悦を孕んで笑った。

『至極単純な話だ。接管テイクオーバーの拡大だよ。

 第六媒介は局内の甲級隔離層へ移送。

 周 士達ジョウ・シーダーは高リスク関連人と見なし、接触制限対象へ格上げ。

 神代じんだい 弥生やよいに代替性があるというなら、一括して臨時保安対象に列する。

 既存の五枚の高リスク媒介も、第六媒介と共に正式に帰建《回収》させる』

シキが顔を上げ、ストローが口からこぼれそうになった。

ラオガオは堪らず罵声を叩きつけた。「ふざけんじゃねえぞ。接管だと? 整碗端走《まるごと盗み去る》って言いてえんだろ!」

山口ヤマグチは耳を貸さず、淡々と続けた。

『昨夜のデータは実に美しかったよ、真壁マカベさん。君が「単なる現場判讀だ」と強弁できる範囲をとうに超えているほどにな。分かっているはずだ、今は保守的であるべき段階ではない。誰がこの案件を「実体」として握り込むかの勝負だよ』

俺はデスク上の安全密封盒セーフティ・ケースを眺め、不意に失笑したくなった。

こういう手合いはいつもそうだ。夜の間は遠くから賽を振っている振りをしながら、夜が明けて局面が固まったと見るや、厚顔無恥にテーブルへ手を伸ばしてくる。昨夜の俺たちの呼吸も、震えも、失策も、死守も——そのすべてが、奴にとっては自分の道を開くための舗装に過ぎなかったというわけだ。

真壁マカベがようやく顔を上げた。

「……貴様が欲しているのは案件であって、人命ではないな」

山口ヤマグチの語調は揺るがない。

『案件を掌握できん者に、人命を救う価値などないよ』

その一言が落ちた瞬間、当直室で辛うじて理性を保っていた面々の顔色が変わった。

俺が、先に口を開いた。

山口ヤマグチ。そういうセリフを吐くときは、せめて少しは装ったらどうだ?」

通信の向こう側が一秒ほど沈黙した。俺がそこにいることを、今思い出したかのように。

『……ジョウさん。君は今、発言を控えた方が賢明だ。

 君の立ち位置は、もはや昨夜のような「協力的な観測者」ではないのだからな』

「そうかよ」俺は言った。「じゃあ俺は今、何なんだ? 『貨物』か?」

シキが吹き出しそうになり、必死に堪えた。

山口ヤマグチは彼女を無視し、真壁マカベに最後通牒を突きつけた。

『繰り返す。直ちに拡大接管を起動しろ。特に神代じんだい 弥生やよいだ。彼女が単なる判讀者ではなく「構造上の条件」の一部であると証明された以上、彼女を元の単位、元の動線に留め置くことは重大なリスクだ』

弥生やよいは、最初から最後まで一言も発していなかった。

だが、この一言に至って、彼女はゆっくりと瞳を上げた。

その眼差しは、酷く静かだった。

感情の一切が削ぎ落とされた、死の淵のような静寂。

「……言い終えましたか?」

山口ヤマグチが微かに言葉を詰まらせた。彼女がこれほどまでに平坦に応じるとは予想外だったのだろう。

『……当面はな』

弥生やよいは外線スピーカーを見つめたまま、一糸乱れぬ声で、震え一つ見せずに告げた。

「では、こちらの番です。昨夜の接触確認は現場判讀における必要上の処置であり、貴方に保安格上げを授権したものではありません。

 第六媒介は未だ未開封であり、いわゆる『代替性』は暫定的な推論に過ぎず、既判事項ではない。

 私は移送書類に一切署名しておらず、階層を超えた拘束にも同意していません」

山口ヤマグチが笑った。

神代じんだいさん。今の君に、まだ「同意していない」などと言う資格が残っているのかね?』

その言葉は、昨夜の真壁マカベによる制度的な重圧よりも、遥かに陰湿に、そして深く彼女を抉った。

歩み寄れと強いたわけではない。認めろと迫ったわけでもない。

ただ、直球で問いかけたのだ。——お前は今、一体「誰のもの」だと思っている、と。

弥生やよいの下顎のラインが、一瞬で強張った。

真壁マカベは彼女の返答を待たず、別の書類を無造作にデスクの中央へ押し出した。

「資格はある」彼は言った。「その問いには、神代じんだい家が先ほど回答を寄越した」

全員の視線が、その一枚の紙に吸い寄せられた。

それは昨夜のような、煮え切らない三項目の声明ではない。

正式な回答文書。

白地に黒々と記された文字、そして神代家の公印。

滑稽なほど短く、そして完璧なまでに冷酷な内容だった。

第一条:神代じんだい 弥生やよいによる本事件における現場判讀、接触確認、意見表明は、すべて本人による即時行為であり、神代本家の正式な立場を代表するものではない。

第二条:本状の送達を以て、神代じんだい 弥生やよいの家系における対外判讀権限、護持調達権限、および名義使用資格を一時停止する。その後の判断および結果については、すべて本人が自負するものとする。

第三条:霊務局(BEA)が当該異常媒介、関連人員、または関与者に対し、臨時保安、強制隔離、または拡大接管の手続きを起動する場合、神代本家は手続き上の異議を申し立てない。

当直室ナイトウォッチ・ルームの中は、呼吸の音さえ際立つほどの静寂に包まれた。

これこそが、正式な「切り捨て《トカゲの尻尾切り》」だ。

怒鳴り合うわけでも、罵倒するわけでも、門を閉ざして「帰ってから説明しろ」と言うわけでもない。

ただ、彼女が泥沼に引き摺り込まれ、昨夜のあの一歩があまりに鮮明であったのを見るや、即座に扉を閉ざし、外から鍵を掛け、「それから先の死活など知らぬ」という紙を一枚貼り出したのだ。

俺は横に立つ弥生やよいを盗み見た。

彼女の表情には、驚くほど変化がなかった。

いや、先ほどよりもさらに平坦だ。

だが、俺には分かっていた。それが「無傷」などではないことを。あまりに深く斬られた傷口は、最初の数秒、痛みすら感じさせず、ただ「虚無」だけを突きつけるものだ。

「……反吐が出るわね」

シキが堪えきれずに呟いた。静まり返った室内では、その一言は全員の鼓膜を等しく震わせた。「昨夜はあれだけ判讀しろって彼女を担ぎ出しといて、夜が明けたら『うちの人間じゃない』なんてよく言えるわよ」

リン・ユートンが鼻で笑う。

「名門だの何だのと謳う連中に限って、いざとなれば皆こうよ」

ラオガオは床に唾を吐き捨てる真似をした。行儀は悪いが、今のこの部屋の空気を最も正確に表現していた。

真壁マカベはその回状を平らにならした。声に起伏はない。

「……書類は受理した。程序プロトコル上、これが証明する事実は一つだ。——神代じんだい 弥生やよいには、現在バックアップが存在しない」

『違うな』山口ヤマグチが即座に割り込んだ。『二つのことを証明している。二つ目はこうだ。――真壁マカベさん、君が彼女をそこに留め置く理由は、もはや完全に消滅したということだよ』

彼は、この一撃が急所を外さないよう、さらに念入りに言葉を重ねた。

『家系の担保がなく、代替性を持ち、接触確認を終え、あまつさえ高リスク関連人と同室で夜を明かした。……真壁マカベさん。これで保安レベルを引き上げないというなら、不祥事が起きた際に誰が責任を負うのかね?』

真壁マカベが、ついにペンを置いた。

俺はこの動作を嫌というほど知っている。

反論を諦めたわけじゃない。切り捨ての準備に入ったのだ。

「……貴様には背負えんからこそ、全員を自分の懐へ運び込もうと必死なのだろう」真壁マカベが淡々と告げた。「私は背負える。だが、それは貴様の算盤通りに動くという意味ではない」

「第六媒介は、依然として封印。五枚の釘の帰還《回収》も認めない」

「ジョウ・シーダーは移送させん」

真壁マカベの宣告が室内に響く。

神代じんだい 弥生やよいの保安権限も、外部へは委譲させない」

(まるで、競り市の家畜だな。俺たちはあいつらの厚顔無恥な価格交渉の間で、ただ品定めされているだけだ)

山口ヤマグチの声が一段と冷え切った。

『……何に拠って、そう断じる』

真壁マカベが目を上げ、回線の向こう側と、電流越しに視線を交差させる。

「昨夜、あらゆる反応が起きたのはここだ。私の目の前でな」

均衡バランスはまだ崩れていない」

「そして——君が求めているのは完全なる掌握であって、事態の安定ではないからだ」

山口ヤマグチは二秒ほど沈黙し、不意に、妥協の姿勢を見せた。

『……いいだろう。ならば一歩退こうじゃないか』

山口ヤマグチのその、いかにも「譲歩してやった」と言わんばかりの屈辱的な声音が、俺の胃袋を逆流させる)

『即時の移送は要求しない。だが、制限の拡大を要求する』

『第一。周 士達ジョウ・シーダー神代じんだい 弥生やよいを同列の観測対象とし、行動半径を指定区域内に制限すること』

『第二。第六媒介と五枚の釘を、安全距離以上に引き離すことを禁ずる』

『第三。あらゆる接触、会話、反応を二十四時間体制で記録すること』

『第四。神代家、神楽機関、および未登録人員を含むすべての外部接触を凍結すること』

『第五。再び熱ピークの異常が確認された場合、直ちに我々が接管テイクオーバーの序列に割り込むこと』

奴め、今度は賢く立ち回ったらしい。

一口で呑み込めないなら、まずは傷口を大きく抉っておこうというわけだ。

真壁マカベは即座には反論しなかった。

その五項目のうち、少なくとも三つは彼自身も実行するつもりだったからだ。問題は、誰がそれを言い出すか——それによって、どちらが「局を握っているか」という体裁が変わる。

俺はデスクの上に置かれた神代家の回状を見つめ、不意にすべてが滑稽に思えてきた。

昨夜、弥生やよいがあの一歩を踏み出したのは、自らを犠牲にして決壊を食い止めるためだった。だというのに、今このテーブルを囲む連中が論じているのは、塞ぎ終えた後の穴の所有権、誰を虜囚とし、誰が責任のサインをするか。ただそれだけだ。

これが「後果シーケンス」というやつか。

一線を越えた後に、世界が劇的にロマンチックに変わるなんてことはない。

一度でも境界を跨げば、お前を切り分けようとするハイエナたちが一斉に群がってくるだけだ。

弥生やよいが、ついに口を開いた。

その声は凪いだ水面のように平坦で、どこまでも軽かった。

「……真壁マカベさん。一つ、伺いたいことがあります」

「何だ」

「……もし私が今、現場判読からの離脱を要求したとしたら、どうなりますか?」

その問いに、室内の全員が彼女に視線を集中させた。

それは弱気な逃避などではない。

最後の境界線を問うているのだ。——自分にはまだ、自分の意志で「降りる」という選択肢が残されているのか、と。

真壁マカベは彼女を一瞥した。

「……構わない」彼は言った。「だが、離脱した瞬間、君の肩書きは『現場判読者』から『高風險涉入者《ハイリスク関与者》』へと書き換えられる」

通信の向こう側で、山口ヤマグチが低く、愉悦を隠さずに笑った。

答えは、あまりに明白だった。

降りることはできる。

だがそれは、岸に戻ることではない。そのまま底なしの淵へ墜ちることを意味する。

弥生やよいはデスクに視線を落とした。まるですでに書き込まれてしまった自分の運命を読み取ろうとするかのように。数秒の後、彼女は再び顔を上げた。その表情から、迷いという名の空白が完全に削ぎ落とされていた。

「……ならば、降りません」

声は、静かだった。

だが、どんな虚勢よりも硬く、鋭い響きを伴っていた。

シキが彼女を見つめ、その瞳に痛ましげな色が混じる。リン・ユートンはこうなることを予見していたかのように、冷めた茶を一口で飲み干した。

俺は何も言わなかった。

彼女のその言葉の意味を、痛いほど理解していたからだ。

降りないのは、神代じんだいの本家を信じているからでも、突然正義感に目覚めたからでもない。

彼女はすでに、すべてを切り離されたのだ。

今、彼女の手に残されているのは「退路」などではない。ただ、自分がどこに立っているかという、剥き出しの「座標」だけなのだ。

真壁マカベは頷き、彼女の回答をシステムの一部として受理した。

そして、山口ヤマグチが突きつけた五つの要求を、即座に自らの格式フォーマットへと再構築し始めた。

「第一。周 士達ジョウ・シーダー神代じんだい 弥生やよいを共同観測対象とするが、共同拘束は行わない」

「第二。第六媒介は封印を維持し、既存五枚との対照業務は本地階層ローカルが主導する。帰還《回収》は認めない」

「第三。二十四時間体制の記録を開始するが、対象は異常反応および接触必要事項に限定する。拡張的な人格プロファイリングは禁止だ」

「第四。外部接触は凍結。神代家も例外リストには含めない」

「第五。再び熱ピークの異常が確認された場合、優先権は現場判読者に与えられる。……それが失敗した段階で、初めて山口ヤマグチの序列へ通知する」

通信の向こう側が、沈黙に沈んだ。

山口ヤマグチは不快感を露わにしていたが、即座に食ってかかるための「程序上の隙」を見つけられずにいた。真壁マカベは拒絶したのではない。奴の要求を解体し、薄く削ぎ、報告書としての体裁だけを残して、中身の主導権をすべて自分の手元に留めたのだ。

『……真壁マカベさん』山口ヤマグチが、這いずるような声で言った。『君は、随分と人間を囲い込むのが上手いらしい』

真壁マカベの返答は、それ以上に冷ややかだった。

「……貴様が死体を回収するのが上手いのと同じことだ」

その一言が、回線を三秒間完全に凍結させた。

やがて、山口ヤマグチが笑った。喜びではなく、執念深く相手の顔を記憶に刻むような、そんな笑いだ。

『よかろう。当面は君のバージョンで進めるとしよう。……だが、忠告しておく。現時刻を以て、誰もが「単なる協力だ」などと嘯くことは許されん。……記録が、それを許さないからな』

通信が切断された。

当直室ナイトウォッチ・ルームに、再び静寂が戻る。

真壁マカベは記録板を閉じ、このラウンドの程序をすべて完了させた。彼は俺を見ようとはせず、まず弥生やよいへと視線を向けた。

「二つの選択肢を提示する」

真壁マカベは淡々と告げた。

「一つ、今の配置のまま留まるか。二つ、関与者として再定義し、別の個室へ移るか」

それは選択の形を借りた、残酷な通告だった。

個室といえば聞こえはいいが、実態はただの隔離だ。ここに留まれば、少なくとも盤面の上に居座り、発言権を維持できる。

神代じんだい 弥生やよいは、迷わなかった。

「……ここに留まります」

真壁マカベは、その答えを予見していたかのように頷いた。

「では現時刻を以て、君は神代の何者でもない。ここにいるのは、ただの君自身だ」

事務的な通知に過ぎないはずのその言葉に、弥生やよいの睫毛が微かに、だが確かに震えるのを俺は見逃さなかった。

彼女は長い年月をかけて自分を磨き上げ、家系に、戒律に、そして秩序に認められる「形」を作り上げてきたはずだ。だというのに、真に事態が決壊した瞬間、それらすべてが剥ぎ取られ、残されたのは「自分自身」という剥き出しの個体だけ。

そしてこの世の多くの人間にとって、最も頼りにならないものこそが、自分自身なのだ。

俺は不意に手を伸ばし、デスクの端にあった神代家からの正式回状をひったくった。

真壁マカベは一瞥しただけで、止めようとはしなかった。

俺は一通り目を通し、鼻で笑った。

「……いい文体だ。実に見事に切り捨てやがる」

「……気が済んだなら、置きなさい」弥生やよいが冷淡に言い放つ。

「いや、あんたの家が底なしの破廉恥だってことを再確認しただけさ」

今度はシキも堪えきれずに吹き出し、慌てて口を塞いだ。ラオガオは深く頷く。

「……今のセリフ、記録に残していいぜ」

弥生やよいは俺を射殺さんばかりに睨みつけた。その眼差しは凍てついていたが、先ほどのような空虚さは消え、僅かながらに「火」が宿っていた。追い詰められた人間が最初に取り戻すのは、生きる力ではなく、腹の底から湧き上がる怒りなのだ。

俺は紙をデスクに放り出した。

「わかったよ」俺は言った。「いらないなら、それでいい。どのみち昨夜、あんたをあっちから引き戻したのは、あんな紙切れじゃないんだからな」

室内の空気が、一瞬にして凝固した。

誰もが理解していた。俺が何を指しているのかを。

家系でも、規律でも、公印の押された回答書でもない。

昨夜の観測室で、彼女自らが踏み出した「あの一歩」のことだ。

弥生やよいの顔色が、急速に険しくなる。

「……ジョウ・シーダー」

「何だ?」

「……これ以上喋れば、今日という日を後悔させてあげます」

「……あいにく、今この瞬間も十分に後悔してる真っ最中だ」

ラオガオは下を向いて笑いを噛み殺し、シキは背を向けてタブレットを覗き込む振りをしながら、その肩を小刻みに震わせている。リン・ユートンでさえ、口角を僅かに動かしたように見えたが、すぐに元の無表情に戻った。

真壁マカベはそれらのやり取りを完全に無視し、最終的な結論を下した。

「……配置、即時発効」

「周 士達ジョウ・シーダー神代じんだい 弥生やよい。観測室へ戻れ」

「シキ。熱曲線の照合を継続しろ」

「リン・ユートン。外周にて立会記録を担当しろ」

「ラオガオ。門禁と警報の管理は、引き続き君の担当だ」

「全員に告げる。睡眠については、夜まで忘れろ」

ラオガオが大きなため息をつき、目を剥いた。

「……まるで、今日という日が眠れるほど安穏だとでも言いたげな口振りだな」

真壁マカベが短く返す。「……無理だ。だから、考えるな」

こうして、盤面は再び整えられた。

誰一人として、勝者のいない盤面が。

夜の間に跨いでしまったあの一線は、夜が明けると同時に新たな柵、新たな表格テーブル、そして新たな責任の所在へと姿を変えていた。昨夜までは「遠くへ退けない」だけだったものが、今や「退いても無駄だ」という宣告に変わったのだ。

俺と弥生やよいは、並んで観測室かんそくしつへと歩を勧めた。

廊下に差し込む朝の光が斜めに射し、彼女の影を長く引き伸ばしている。彼女の歩みは依然として真っ直ぐで、背筋も伸び、足取りも揺るぎない。まるで、神代の本家から届いたあの絶交状など、最初から目にしていなかったかのように。

だが、俺には分かっていた。

物事の本質は、彼女が「崩れたかどうか」にあるんじゃない。

今、彼女が「何を支えに立っているのか」にあるんだ。

観測室の入り口で、彼女はふと足を止めた。振り返りはしなかったが、低く、押し殺した声で告げた。

「……さっきの言葉、二度と口にしないでください」

俺はドアの枠に背を預け、彼女の横顔を眺めた。

「……どの言葉だ?」

「『貴方を引き戻したのは彼らではない』という、あの言葉です」

俺は、小さく笑った。

「……しっかり聞き取ってるじゃないか」

彼女が振り向き、俺を睨み据える。瞳の奥の冷たい光は健在だが、あの回状を突きつけられた時の、魂が抜けたような空虚さは消えていた。

「……貴方と軽口を叩き合えるような気分ではないのです」

「分かってるよ」俺は彼女を見つめた。「……だからこそ言ったんだ」

彼女は唇を噛み締め、何かを言い返そうとして、結局はただ観測室の重い扉を押し開けた。

室内には、相変わらずあの狭いベッドと小机、そして銀灰色の安全密封盒セーフティ・ケースが鎮座している。

昨夜の狂乱の痕跡は、何一つ残っていない。

だが、分かっている。後果シーケンスってやつは、机の上になんか残っちゃいない。

それは、人間の内側に刻まれるものだ。

弥生やよいは入室し、二秒ほどの間を置いてから、淡々と口を開いた。

「……ジョウ・シーダー」

「ん?」

「……もし今日、また反応が出たら」彼女の声が僅かに淀む。その想定自体が不快だと言わんばかりに。「……貴方は、勝手な真似をしないでください」

俺は危うく吹き出しそうになった。

「……それ、昨夜のあの一歩を踏み出す前に言っておくべきセリフだったな」

彼女の顔が、一気に冷え切った。

「冗談を言っている暇はないんです」

俺は頷き、室内へと足を踏み入れた。昨夜と同じように、ドアを半掩はんえんの状態にして。

まるでこの局は、夜が明けてなお、誰一人として出口を完全に閉ざしたくないと言わんばかりだ。

狭い鉄製ベッドの端に腰を下ろし、沈黙を守る安全密封盒セーフティ・ケースを眺める。ふと、これから最も厄介になるのは、山口ヤマグチではないような気がした。

山口ヤマグチが欲しているのは「ブツ」であり、真壁マカベが求めているのは「盤面」だ。そして神代じんだいの本家は、ただ綺麗に「切断」することだけを望んだ。

だが、すべてを剥ぎ取られた今の弥生やよいは、この場における最大の不定冠詞だ。

退路を失った人間が次にとる行動は、既存の規矩ルールになど決して従わないからだ。

俺は顔を上げ、彼女を見た。

彼女はデスクの傍らに立ち、指先で静かに縁を押さえている。肌は白く冷え切っているが、その瞳は昨夜よりも深く、昏い沈殿物を湛えていた。

その瞬間、理解した。この物語に「後果シーケンス」という題を冠するなら、今はまだそのプロローグに過ぎない。

本当に命取りになるのは、一線を越えたその刹那ではない。

越えてしまった後、その人間が「何に変質してしまうか」だ。

そしてそれは、彼女だけではない。

おそらく、俺も同じなのだ。


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