S2第五十二章 エッジ・オーバー
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
觀測室の扉は、完全には閉じられていなかった。
わずかに残された隙間は、まるで真壁が誰かのためにあえて残した「観察孔」のようだった。
外の足音は遠ざかったものの、完全に消えたわけではない。リン・ユートンはガラスの外、左寄りの位置に立って腕を組み、これから起こるであろう破綻を予見しているかのような冷徹な横顔を見せている。シキは移動式ワゴンにしゃがみ込み、タブレットを膝に乗せ、指先を熱曲線のページに固定していた。ラオガオは壁に寄りかかり、煙草こそ咥えていないが、いつでも警報を鳴らせるよう身構えている。そして真壁は最も離れた場所に立ち、盤面を整え終えた後は、ただ数字と反応、そして人間の「失策」にすべてを委ねているかのようだった。
そして俺と神代 弥生は、その内側に取り残されていた。
三歩。
真壁は明確に宣告した。夜明けまで、三歩以上の距離を空けることは許さない、と。
俺は狭いベッドの端に座り、背中に金属製の冷たい感触を覚えていた。膝前の小机には、監視モニター、記録ペン、飲み干された二つの紙コップ、そしてあの銀灰色の安全密封盒。ケースは閉ざされたままだが、その内側で何かが呼吸しているような錯覚に陥る。重く、淀んだ拍動。それが観測室の空気をじわじわと引き摺り、停滞させていた。
弥生は俺の正面に立っていた。
過不足なく、丁度三歩の距離。
頭上からの白熱灯が、彼女の顔から血色を削ぎ落としている。彼女は過剰なまでに整えられた服を纏い、襟元を一番上まで留め、袖口も腰のラインも一切の乱れがない。まるで、この土壇場に至ってもなお、自分をあちら側の「境界線」に繋ぎ止めておこうとする最後の抵抗のようだった。
だが、俺には分かっていた。彼女が今、どれほど張り詰めているか。
推測ではない。
目に見えていたのだ。
脇に垂らした彼女の手は、微動だにしないが指関節が白く浮き上がっている。呼吸は平坦を装っているが、数秒おきに胸の上下が極めて僅かに停止する。喉の奥に何かが詰まっていて、息を吐ききることができないかのようだ。
監視計器が、電子音を一つ漏らした。
外のシキがタブレットに目を落としたが、何も言わなかった。
俺は弥生を見上げ、沈黙を破った。
「……なぁ。誰かを罵りたいなら、真壁が戻ってくる前に吐き出しちまえよ」
彼女の瞼が跳ね、俺を冷たく射抜いた。
「……周 士達。これが面白いとでも思っているのですか?」
「面白くなんてないさ」俺は言った。「だが、あんたが黙り込めば込むほど、外の連中は面白がって観察を続けるぜ」
彼女は答えず、俺から視線を逸らすと、銀灰色のケースへと目を向けた。
その瞬間、彼女の眼差しが変質するのを俺は見た。
恐怖ではない。
嫌悪だ。
それは密封ケースそのものに向けられたものではなく、事態のすべて——自分をここまで引き摺り出したこの状況、深夜まで応答を拒み続け、夜明け間際に責任転嫁の声明を送りつけてきた神代の本家、六枚目を持ち込んだ山口、そして彼女を精密な「判読機械」として扱おうとする真壁に対する、猛烈な嫌悪感。
彼女は奥歯を噛み締め、その怒りを必死に抑え込んでいた。それでも彼女は、一歩も退かずにそこに立っている。
一度でも退けば、周囲が勝手に彼女への「烙印」を押し始めることを理解しているからだ。
触れるのが怖いのか。
判読する能力がないのか。
神代の名を背負う資格がないのか——と。
俺は、そんな檻の食い方を嫌というほど知っていた。
「……弥生」俺は名前を呼んだ。
彼女は応じず、ただ低く答えた。「……そんな口調で、私を呼ばないでください」
「なら、どう呼べばいい」
「……いつものように、です」
俺は、微かに口角を上げた。
「……いつもの俺が、あんたをどう呼んでるか、覚えてるのか?」
彼女は再び俺を凝視した。その視線は、ナイフのように鋭く俺を削り取った。
「……貴方は、普段、私の名前なんて一度も呼びません」
その指摘はあまりに正確で、俺は次の言葉を失った。
外から小さな含み笑いが漏れた。シキ(希)だ。だが、次の瞬間にはリン・ユートンの冷たい視線に射殺されて消えた。真壁が制止しないのは、彼もまたこの「対話」を聴取している証拠だ。
俺は背を預け、ベッドのフレームを軋ませた。
「いいだろう」俺は言った。「神代さん」
弥生の唇の線が、さらに硬く結ばれる。
「……わざとですね」
「他にどうしろと?」俺は彼女を見つめた。「この部屋の中に、一人くらいは認める奴がいてもいいだろ。この局がもう、規矩通りには動いていないってことをさ」
彼女は答えない。
監視計器が再び電子音を発した。今度は先ほどよりも一音高い。
「熱曲線、上がってきたよ」シキが外から声を上げた。
真壁の声がドアの隙間から滑り込んでくる。低く、だが苛立たしいほどに揺るぎない声だ。
「神代 弥生。一歩、前へ」
弥生は動かない。
「これは記録上の要求だ」真壁が重ねる。「第六媒介は『人位』の変化に敏感だ。一歩、前へ」
彼女の背筋が、さらに強張るのを俺は見ていた。
半秒の後、彼女は本当に一歩、足を踏み出した。
刹那——安全密封盒の内側から、微かな「震え」が伝わってきた。
音ではない。
テーブルが先に揺れ、コップの残水が波紋を描き、その振動がテーブルの脚を伝って俺の膝頭まで這い上がってきたのだ。見えない指先で、骨を直接ノックされたかのような感触。
俺は眉を顰めた。
弥生もまた、足を止めた。
「……うわ、ビンゴ」シキが外で小さく毒づく。
真壁が即座に言葉を紡ぐ。「記録しろ。三歩から二歩への短縮に伴い、第六媒介の封印状態に同期振動を確認。受測者一、周 士達。主観的感覚を述べろ」
俺は密封ケースを睨み据えたまま、淡々と答えた。
「……誰かが、ドアを叩いているみたいだ」
外が、一瞬だけ静まり返る。
「受測者二、神代 弥生。主観的感覚を」
弥生は二秒の沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……『空席』を、待っているようです」
その一言が放たれた瞬間、外にいる連中の呼吸が変わったのが分かった。
彼女はついに、言葉を濁さずに核心を突いたのだ。
第六枚目の釘は、他の五枚を探しているのではない。
山口が嘯いたような、単純な照合など求めていない。
それは、椅子を探しているのだ。
人間をもその歯車として組み込める、呪われた椅子を。
真壁は、あたかもその言葉を待ち構えていたかのように。
「……さらにもう一歩、前へ」
弥生が顔を上げ、ドアの隙間を真っ直ぐに射抜いた。
「真壁さん。貴方は今、判読をしているのですか? それとも、拷問をしているのですか?」
真壁の返答は、驚くほど速かった。
「……私は、君に『判読が可能である』という事実を保留させてやっているだけだ」
残酷な一撃だ。
彼女が最も退けない場所を、正確に突き刺してくる。
弥生の瞳の奥、ずっと押し殺されていた冷たい光に、ひび割れるような揺らぎが生じた。彼女はそこに立ち、胸の上下は僅かだったが、俺には分かった。彼女は耐えているのだ。
恐怖ではない。
逆流しそうな、激しい怒りに。
「……真壁」俺は不意に口を開いた。
外が、一瞬だけ凪いだ。
「これ以上進んで、もしあんたの言う『受測者』が不快を訴えたら——止めるのは、俺だ」
真壁は俺に応じず、ただこう告げた。
「……よかろう。回報は貴公が担当しろ」
失笑しそうになった。
くそったれが。こういう時だけは、責任を部屋の中へ放り込むのが手早い。
弥生は俺を見ようともせず、低く呟いた。「……私のために口を出す必要はありません」
「あんたのためじゃない」俺は言った。「あんたがあまりに頭にきすぎて、テーブルを叩き割りやしないか心配なだけだ」
彼女は何か言い返そうとしたが、結局言葉にはせず、短く息を吐いた。そして、さらに一歩、前へ。
二歩が、一歩に。
刹那、安全密封盒は震えなかった。
代わりに、それは直接「輝いた」。
肉眼で見える光ではない。俺の視界にある「あの領域」の色彩が、一気に浮かび上がってきたのだ。灰の下に埋もれていた炭火が、彼女の接近という風に煽られ、赤黒い火種を露わにするかのように。熱は外へ放射されるのではなく、中心へと収束していく。室内で誰かが、ゆっくりと拳を握り締めていくような、そんな圧迫感。
喉の奥が乾ききっていく。
「周 士達」シキが外から問いかける。「今の容態は?」
「……生きてるさ」
「そうじゃないってば!」
「……胸を抑えつけられてる感じだ」俺は弥生を凝視した。「だが、押し付けているのはあのケースじゃない」
外で、ラオガオが小さく舌打ちするのが聞こえた。
弥生の眼差しが、ようやく俺の顔に落ちた。その冷徹さは、もはや熱を帯びている。
「……少し、黙っていてください」
「間違ったことを言ったか?」
彼女は答えない。
だが、白熱灯に照らされた彼女の耳の後ろの肌が、ごく僅かに赤らんでいるのが見えた。
この女は普段、限界まで張り詰めた真っ白な旗のようだ。これほどの至近距離で注視していなければ、見落としていたかもしれない変化。だが、一度見つけてしまえば最後だ。一面の雪原に見つけた最初の亀裂を、視線がどうしても追ってしまうように。
真壁が再び命じた。
「神代 弥生。非接触方式にて、第六媒介と周 士達との牽引源を判読しろ」
彼女は一度、瞼を閉じた。
再び開いた時、その声は先ほどよりも低く、冷え冷えとしていた。
「……第六媒介が彼に依存しているのではありません」
「では、何だ」
彼女は一秒の間を置いた。その事実に、自分自身が一番困惑しているかのように。
「……『私』が、組み込まれているのです」
外が、完全に静まり返った。
シキですら、茶々を入れるのを止めた。
その言葉の意味は、あまりに明快だった。
俺一人があの忌々しい連中に憑かれているわけでも、彼女がただ傍らで判読をしているわけでもない。この局に足を踏み入れた瞬間から、彼女もまた程序に編み込まれていたのだ。彼女が守り続けてきた清潔な規矩も、出場の是非も、在場の有無も——この瞬間、すべてが瓦解した。
彼女は俺の目の前に立っている。手を伸ばせば、その袖口に触れられるほどの距離。
だが、彼女はそれ以上に強張っていた。
俺の前に立っているのではない。
自分が長年守り続けてきた「境界線」の上に、彼女は立たされているのだ。
真壁が追い討ちをかけるように、淡々と付け加えた。
「……必要とあらば、最低限の『接触確認』を許可する」
俺は顔を上げ、ドアの向こうを睨み据えた。
「……クソが、そういう時だけは決断が早いな」
真壁は俺を無視し、淡々と告げる。
「執行の是非は、神代 弥生に委ねる」
全員が息を呑み、沈黙が場を支配する。
だが、空気を凍りつかせているのは外の連中じゃない。俺の目の前にいる、弥生だ。
彼女は視線を落とし、俺との間にある一腕にも満たない距離を見つめていた。それは単なる空間ではない。一度越えてしまえば、二度と元の岸辺には戻れない——そんな断絶を孕んだ河だ。
長い沈黙の後、彼女が問いを漏らした。
「……もし私が、これを拒めば?」
俺は彼女を見つめ、包み隠さず本音をぶつけた。
「……奴らは記録にこう書く。神代は『怯えた』とな」
彼女の口角が、微かに動いた。
笑みではない。俺の言葉に苛立ち、それでいてそれが逃れようのない事実であることを悟った者の、自嘲だ。
「……男という生き物は、どうしてこうも言葉が残酷なのでしょうね」
「あんたの言葉だって、似たようなもんだろ」
彼女はさらに二秒ほど沈黙し、それからゆっくりと手を上げた。
その動作は酷く緩慢だった。俺に触れるためではなく、自らの内に長年掛けてきた「閂」を、一寸ずつ取り払っているかのような慎重さ。宙で一度止まった指先が、最後の確認を終えたように、俺の手首へと降りてきた。
触れたのは、ほんの一点。
試すような、淡い接触。
だが、触れた刹那——。
安全密封盒の中で燻っていた熱が、爆発した。
衝撃で小机が半寸ほど滑り、紙コップが倒れて残水がデスクに広がった。監視計器が狂ったようにアラートを鳴らし、外のシキが叫び、ラオガオが身を乗り出す。リン・ユートンさえも、一歩前へ踏み出していた。
手首に走る焼けるような熱。彼女の指先から、何かが俺の血管を逆流し、胸の奥へと突き抜けてくる。
弥生の顔から、一気に血の気が引いた。
だが、彼女は手を離さなかった。
それどころか、本能的に身を引こうとした俺の手首を、逃がすまいと強く、力任せに掴んだ。
重くはない。
だが、あまりに「重い」一撃。
それは単なる接触を確認する段階を超え、事象を「確定」へと引き摺り込む行為だった。
俺の胸の内に溜まっていた熱が、出口を見つけたかのように激しく噴き出し、身体が彼女の方へと傾ぐ。鼻先が触れそうな距離で、彼女の香りが俺を包み込んだ。清潔な紙、そして燃えた後に押し潰された沈香。普段は無機質にすら感じるその清冽な香りが、今は暴力的なまでの鮮明さで俺の五感を支配する。
彼女もまた、無傷ではなかった。
睫毛が震え、その呼吸が初めて、明確に瓦解する。
「神代——」
俺がその名を呼ぼうとすると、彼女が遮った。
「……黙って」
声は低く、だが激しく震えていた。
外から真壁の声が飛ぶ。「……反応の内容を述べろ」
弥生は答えない。
ただ死に物狂いで俺の手首を掴み、何かと目に見えない力比べをしているかのようだった。熱は外へは逃げず、俺たちの間で激しく往復し、俺の胸と彼女、そして密封ケースを繋ぐ「見えない糸」となって俺たちを縛り上げる。
俺は二秒だけ耐え、掠れた声で問うた。
「……何が見える」
彼女が、ようやく俺を見た。
いつもなら氷が張り詰めているはずのその瞳は、今、その氷の下で激流が荒れ狂っているかのような、見たこともない色を湛えていた。
「視ているのではありません」彼女は言った。「……書き換えられているのです」
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「……誰を、書き換えているんだ?」
彼女は俺を見つめたまま、その細い喉を僅かに動かした。
「……私です」
外は、死のような沈黙に包まれた。
その一言は、先ほどの告白よりも遥かに重く、絶望的だった。
単に計算に組み込まれたのではない。書き換え《リライト》だ。
つまり、第六媒介は一時的に彼女に反応しているのではない。本来空席であった場所に、神代 弥生という存在を恒久的な構成要素として定義し直そうとしているのだ。
こうなれば、真壁どころか、回線の向こうの山口でさえも、なりふり構わずここに踏み込もうとするだろう。
弥生は自らの答えによって、ついに逃げ場のない角へと追い詰められていた。手はまだ俺の手首を掴んだままだが、彼女は僅かに身を屈め、額に垂れた髪が白熱灯の下で薄い影を落とす。
彼女が震えているのが分かった。
微かな、だが確かな拒絶の震え。
俺は声を潜めた。
「……止めるか?」
彼女は瞬き一つせず、俺を射抜いた。
「……貴方が止めれば、外の連中が踏み込んでくる」
「なら踏み込ませればいい」
「……嫌です」
その三文字は、驚くほど速かった。
思考を経由せず、胸の奥から直接弾け飛んできたような響き。言い終えた後、彼女自身が呆然としていた。自分からそんな言葉が漏れるとは思っていなかったのだろう。
俺もまた、半秒ほど言葉を失った。
そして、理解した。
彼女が拒んでいるのは、程序の中断ではない。
こんな姿を、誰かに「観測」されることそのものなのだ。
真壁に冷酷な数字の一行として記録されること。神代の本家に責任逃れの資料として扱われること。リン・ユートンのすべてを見透かすような視線に晒されること。山口に「勝利」を確信させること。
彼女は耐えることができた。硬く、鋭く、一寸ずつ崖っぷちまで追いやられることにも耐えてきた。
だが、衆人環視の中で「壊れる」ことだけは、耐えられないのだ。
俺は不意にもう一方の手を伸ばし、俺の手首を掴む彼女の手の甲を覆った。
彼女の全身が、石のように硬直する。
「周 士達……っ」
「『接触確認』だろ?」俺は低く、言い聞かせるように言った。「……なら、最後まで確認させてやれよ」
彼女は俺を睨み据えた。今にも激昂して手を振り払いそうな、そんな眼差し。
だが、彼女は手を引かなかった。
外でシキが息を呑む気配がしたが、真壁がそれを制した。観測室には、耳障りなほど速い監視計器の電子音と、俺たちの制御できない呼吸の音だけが響いている。
俺は、白く冷えきった彼女の手を、さらに深く押し下げた。俺の肉体に、より確実な実体を伴って触れさせる。
追い詰めたいわけじゃない。
「触れているだけ」の中途半端な共鳴が、一番彼女を苦しめ、終わりのない停滞を強いると分かっていたからだ。
彼女は俺の意図を悟ったのだろう。
観念したように瞼を閉じ、最後の一息を吐き出すと、半歩前へと踏み出した。座る俺の膝に、彼女の足が触れるほどの至近距離。
刹那——安全密封盒の奥底から、腹に響くような、重く、鈍い音が漏れた。
震動ではない。
中にいる「何か」が、ついに観念して、その居場所を認めたような響き。
直後、アラートの音が急激に収束し、安定したリズムへと戻っていく。
「……数値が下がってる!」外でシキが叫んだ。
「……ちっ、本当にそうなりやがったか」ラオガオの安堵混じりの毒態が続く。
真壁が二秒の沈黙の後、宣告した。
「……そのまま三十秒維持しろ。決して離れるな」
弥生が目を開けた。その瞳には隠しようのない憤怒が宿っていたが、彼女は何も言い返さなかった。
俺は彼女を見つめた。
彼女もまた、俺を見つめ返していた。
その三十秒は、馬鹿げているほどに長く感じられた。
彼女の呼吸が本来の節奏を失っていく様を、克明に観察できてしまうほどに。戒律のように厳格だった彼女の領口が、生身の体温に曝されてわずかに乱れていくのを視認できてしまうほどに。
その顔は依然として冷徹な仮面のままで、瞳も硬く閉ざされていたが、彼女はもう「こちら側」に踏み込んでいた。最も認めたくなかったはずの場所に立ち、俺と一歩も離れていない距離で、その手は俺に押さえつけられたまま、退くに退けない状態で。
これは、越線だ。
誰が誰の服を剥ぎ取ったわけでもない。
露骨な言葉を交わしたわけでもない。
ただ、あと一歩踏み出せば、もう二度と元には戻れないと分かっていながら、彼女はそれを選んだのだ。
局面が彼女を追い詰めたからか。
第六媒介が彼女を求めたからか。
あるいは、彼女自身の内側が、もはや俺という存在を「無関係」として切り捨てられなくなっていたからか。
三十秒が経過した時、真壁が告げた。「……そこまでだ」
だが、弥生はすぐには退かなかった。
まるでその宣告が聞こえていないかのように。あるいは彼女自身も、確かめていたのかもしれない。——熱のピークが本当に引いたのか。密封ケースが沈黙したのか。そして、自分が今しがた踏み越えた一歩が、無意味ではなかったのかを。
計器の数値が完全に許容範囲内へと収束したのを見届けてから、彼女は弾かれたように手を引き、半歩後退した。外にいる連中の「目」を、ようやく思い出したかのように。
彼女の耳の付け根が、朱に染まっていた。
僅かだが、この静寂の中ではあまりに鮮明だ。
外でシキが小さく「おぉ……」と漏らしたのが聞こえたが、即座にユートンの視線によって封じられた。
真壁は記録板をめくり、相変わらず殴り飛ばしたくなるほど平坦な声で告げた。
「暫定結論。第六媒介は『人位補正』に対し、顕著な反応を示す。神代 弥生に代替性あり。夜明けまで、観測室の配置は現状を維持する」
弥生が激昂したように振り返った。
「……何と言いましたか?」
真壁が冷淡に目を上げる。
「配置は現状維持だ」
「私を、ここに留め置くというのですか?」
「そうだ」
「彼と、二人きりで?」
「その通りだ」
一晩中押し殺してきた彼女の「火」が、今度こそ本物の憤怒となって燃え上がった。
「真壁! 貴方、いい加減に――」
「私が強いているのではない」真壁が遮った。「君自身が証明したのだ。君がこの場を離れれば、この均衡が再び崩壊する可能性があることをな」
その一言が、彼女をその場に釘付けにした。
記録は残っている。
数値も嘘を吐かない。
彼女が踏み出したあの一歩は、俺への歩み寄りであると同時に、衆人環視の前で「自分は不可欠な構成要素である」と認めてしまったも同然だった。
俺はベッドに座ったまま、彼女を仰ぎ見た。彼女は俺の正面に立ち、その胸元はまだ激しく上下している。誰もその本質を理解していない——だが自分だけは、どれほど無惨な敗北を喫したかを知っている、そんな戦いから帰還した兵士のようだった。
俺は、不意に問いかけた。
「……後悔してるか?」
彼女が顔を向け、俺を射抜いた。
その瞳は、再び自分自身を冷たい殻の中に閉じ込めようとする拒絶の色を帯びている。
だが、無駄だ。俺はもう、その内側にある亀裂を見てしまったのだから。
長い沈黙の後、彼女は言った。
「……私が後悔しているのは、最初からこの任務を志願して受けたこと、その一点だけです」
俺は、小さく笑った。
「……もう遅いぜ」
彼女は笑わなかった。
だが、否定もしなかった。
窓の外では、天色が白み始めていた。明るくなるのではない、闇を薄く引き伸ばしたような、より残酷な「灰色」だ。夜が終わるのではなく、ただ夜の厚みが剥がれ落ちていく。
真壁は記録板を収め、部下たちに交代の指示を出した。ラオガオは新しい水を汲みに行き、シキはタブレットを抱えたまま先ほどの曲線データの照合に没頭している。リン・ユートンは最後にもう一度だけ俺を見た。その視線は短かったが、雄弁に物語っていた。——「貴方は、自分が誰をこの泥沼に引き摺り込んだか、分かっているのね?」と。
分かっている。
だから俺は、何も答えなかった。
外の足音が遠ざかり、観測室には再び俺と弥生、そしてようやく沈黙した銀灰色のケースだけが残された。
彼女は立ち、俺は座っている。
距離はまだ、三歩以内。
だが、その空気の意味は、先ほどとは決定的に変わっていた。
しばらくして、彼女が低く、震える声で言った。
「……ジョウ・シーダー」
「ん?」
「……たった今起こったことを、他所で一言でも口にしたら。……ただではおきませんから」
俺は彼女を見上げた。
「……どの言葉のことだ?」
彼女は、射殺さんばかりの冷徹な眼差しを俺に叩きつけた。
「すべてです」
俺は背中を鉄製ベッドのフレームに預け直した。胸の奥に澱むあの熱はまだ引いてはいないが、ようやく致命傷を避けるための「置き場」を見つけたような気がした。
「わかったよ」俺は言った。「その代わり、あんたも——何もなかったような顔をするのは、もうナシだぜ」
弥生は答えなかった。
ただ、わずかに顔を背け、小机の傍らに立ち尽くして再び安全密封盒へと視線を落とした。だが、デスクの縁に置かれた彼女の指先が微かに震え、止まった。まるで、先ほど俺の手首を力任せに掴んでいた時の感觸が、まだそこに残っているかのように。
窓の外、地平線の彼方から第一線の天光が押し寄せてきた。その冷たい光を目にした瞬間、俺は不意に理解した。
今夜、真にこじ開けられたのは、第六枚目の釘などではない。
彼女だ。
そして夜が明ければ、真壁も、山口も、神代の本家も、全員が寄ってたかって彼女の内に生じたこの「亀裂」を利用し、格式を書き換えようとするだろう。
だが、奴らはまだ気づいていない。
一度開いてしまった門の中には、誰にも、そしてシステムにさえも、二度と閉じ込めることのできない「何か」が宿ってしまうのだということを。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




