幕間 ともに愉悦を
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
真壁によって裏側の観測室へと押し込められた時、夜はまだ明けていなかった。
そこは当直室以上に、およそ人間が留まるべき場所ではなかった。乾いた白い光が容赦なく降り注ぎ、壁には二列に並んだ旧式の監視計器が打ち付けられている。無機質なまでに磨き上げられた机は、まるで今すぐにでも誰かをその上に横たえ、解体して中を覗き込もうとしているかのようだ。窓際の一角には、脚の歪んだ鉄製のベッドが置かれ、その傍らには仮設の熱感知センサーが設置されている。点滅する紅い光は、まるで獲物の呼吸を監視する野獣の眼光そのものだった。
六本目の魂釘は、ここには持ち込まれなかった。真壁は銀灰色の密封函を外のメインデスクに留め置き、俺には半開きになったドアの隙間からその一角を見せるだけに留めた。だが、視界に入らずとも、それがそこに在ることは肌で理解できた。隣の部屋に、まだ引き抜かれていない抜身の刀が置かれているような感覚。触れずとも、その刃鳴りが脳の裏側に直接響いてくる。
俺に打ち込まれた五本は、さらに厄介だった。それらは六本目のように静かに封印されているわけではない。俺の身体の各所で悶えるような熱を持ち、膨張し、時折びくりと痙攣する。まるで、性質の異なる五つの怪物を、一つの骨格の中に無理やり閉じ込めたかのようだ。真壁は「照合待機中の高リスク媒介」と呼び、山口はより直接的に、俺を「未開封の生きた運搬箱」として扱っていた。
俺は狭いベッドの端に座り、脱ぎかけたジャケットを再び羽織り直した。
観測室のドアは完全には閉まっていない。外では女調査員が記録を付け、その手元には六本目の封印函が鎮座している。老高は真壁に連行され、アラートが鳴る前後の動線の供述を絞り取られていた。林雨瞳は反対側の執務デスクの側で壁に背を預け、腕を組んで立っている。その表情は、まるで何事も起きなかったかのように冷徹だった。
だが、俺だけは知っている。
彼女のような人種が、あそこまで平然を装っている時こそ、内側の熱を隠しきれていない証拠だ。俺の身体には、いまだに彼女の残り香と体温が刻まれている。側頸部、後頸部、そして彼女が噛み付いたあの場所。衣類の下に隠されたその痕跡は他人には見えないが、呼吸をするたびに布地が擦れ、微かな疼きを伴う刺痛を俺に思い出させた。
弥生は窓際の小机に座り、二一三号室の災害記録と熱点の照合コピーを広げていた。その背筋はあまりに真っ直ぐで、見ているこちらの方が肩が凝りそうなほどだ。束ねられた書類の一番上には神代家からの返信が置かれ、それは読み終えたにもかかわらず破棄できない断罪状のように重く居座っていた。
観測室は静まり返っていた。その静寂を、シキの二回のノック音が、あまりに元気よく打ち破った。
彼女は後ろで乱雑に束ねた髪を揺らしながら顔を出し、片手にタブレット、もう片方の手には二本の缶飲料を抱えていた。徹夜の付き添いというよりは、深夜の学校の備品室に忍び込んだ悪ガキのような顔をしている。
「入ってもいいよね?」彼女が言った。
俺が答えるより早く、弥生が一度だけ顔を上げ、すぐに手元の紙束へと視線を戻した。肯定でも否定でもない。単に、他人の愉悦に割く余分なエネルギーを持ち合わせていないだけだ。シキはそれも気にせず、ぬるりと室内へ入り込むと、背後でドアが静かに閉まった。
彼女は缶の一本を俺に放り投げてきた。受け取った指先が、その冷たさに思わず竦む。
「……どこで手に入れた?」
「自販機だよ」彼女はもう一本の缶を掌で叩き、眩しいほどの笑みを浮かべた。「当直棟の下の一台、まだ生きてたんだ。どうせみんな死ぬ一歩手前なんだし、せめて冷たいものくらい飲んでおこうと思ってね」
手の中の缶を見る。異常なまでに冷え切っている。
「……今の俺には、熱いものの方が向いてる気がするんだがな」
「今のあんたには、まず『生きてる実感』が必要なの」シキはそう言い終えるなり、自らプルタブを引き開けた。パシュッ、という快活な音が響き、泡が溢れ出す。その響きは、この不毛な白い光や、書類、封印函に満ちた部屋には、あまりに不釣り合いなほどに鮮烈だった。彼女は喉を鳴らして一口飲み、満足げにふぅ、と息を吐き出す。
その様を見て、俺は思わず鼻で笑ってしまった。おかしいからじゃない。彼女が、自分を取り巻くこの手順やシステムから、見事なまでに遊離して生きているからだ。何も知らないわけでも、馬鹿なわけでもない。すべてを理解した上で、なお自分を笑わせる強さを持っている。それは、誰もが持てる才能ではなかった。
シキはベッドの端に腰掛け、脚をぶらぶらと揺らした。まるでここが観測室であることを忘れたかのように。
「真壁さんは?」彼女が尋ねる。
「……外だ」
「山口は?」
「……回線の向こうで噛み付こうと手ぐすね引いてるさ」
彼女は納得したように頷き、それから俺の顔を覗き込んだ。
「あんた、ひどい顔してるよ」
「……今さら気づいたのか?」
「ライトが白すぎるせいか、あんたが本当に腐りかけてるのか判別がつかなかったんだけど」彼女は首を傾げて俺を覗き込み、不意にまた笑った。「……今、確信した。本当にひどい顔だわ」
俺はようやく吹き出した。笑い終えると、胸の奥の澱がまだ完全に消えていないことに気づく。シキという女は、一度空気をかき回すと、その下に隠れていた「無理を強いている自分」をかえって鮮明に浮き彫りにさせてしまう。彼女の瞳は輝いており、そこには林雨瞳のような冷徹な刃も、弥生のような自分を圧し殺す規律もない。彼女は天性、物事を最悪な結末へ結びつけることができない質なのだろう。ビル全体が霊務局によって格子状に解体されようとしている今この時でさえ、彼女は氷のように冷たい缶を俺の手に押し付け、飲め、と言ってのける。
俺はプルタブを開け、一口啜った。冷気が胃腑へと一気に駆け下り、胸に燻っていた熱が刹那の間、抑え込まれる。意識が明瞭になるほど、五本の魂釘が互いに引き合う感覚が鮮烈になった。左が疼き、右が脈打つ。五つの眠りを知らない「何か」が、骨を隔てて符牒を交わしているかのようだ。
俺が眉をひそめたのを見て、シキは即座にタブレットを起動し、ベッドの側へと寄り添ってきた。
「また暴走?」
「暴走じゃない」俺は言った。「……ただの苛立ちだ」
「その言い訳、『大丈夫』って言ってるのと同じくらい信用できないね」
彼女はタブレットを俺の膝の上に置くと、指先で画面を滑らせ、一枚の熱曲線図を表示させた。赤と青の線が複雑に交差している。起伏はそれほど大きくないが、それが精査され、角を削られた整形版であることは一目で分かった。シキは俺の怪訝な顔を見て、鼻を鳴らした。
「このバージョン、嫌いなんだよね」
「……真壁さんが要求したのか?」
「真壁さんはまだ、獲物を『生かしたまま』確保したがってる。もっと吐き気がするのは、霊務局のシステムが自動生成した要約だよ」彼女は曲線の一番高い部分を指先でなぞった。「見てよ。本来ならここは毛羽立っているはずなのに、平坦に修正されてる。ここは二度細かく震えるはずなのに、一度にまとめられてる。こうして最後には、あんたは『危険だが安定しており、いつでも接収可能なサンプル』に見えるようになるってわけ」
彼女の語気は相変わらず直情的で、裏も表もない。だが、その声には確かな怒りが宿っていた。論理的に憤っているのではなく、ただ単純に――生きているものを、報告書に都合のいい死物へと作り替えられるのが我慢ならないのだ。いかにもシキらしい。普段は奔放で何事も面倒くさがるように見える彼女だが、自分が大切にしているものを「死んだ型」に嵌め込まれた瞬間、誰よりも早く牙を剥く。
「……原本は残してあるんだな?」俺が問う。
シキは俺を見上げ、不敵に笑った。
「私がそんなにバカに見える?」
「……言ってないだろ」
「心の中で思ってたでしょ」彼女は俺の手にある缶を指先で弾き、澄んだ音を響かせた。「原本は共有システムには流してない。別の場所に暗号化してあるよ。六本目はまだ未開封だし、山口があれを対照根として使いたいなら、まずはこっちの規格を飲ませなきゃならない。私がここであんたを『平坦』にしない限り、連中も簡単には喰いつけないよ」
俺は彼女を見つめ、呆れるべきか感謝すべきか分からなくなった。
「……危ない橋を叩き割るような真似をするなよ」
「今さら誰が安全だって?」彼女はタブレットを抱え直し、肩をすくめた。「それに、別に私はあんた一人のためにやってるわけじゃないし」
その一言は、俺に余計な深読みをさせまいとするように素早かった。だが、彼女はすぐに付け加える。
「……まあ、ゼロってわけでもないけどね」
俺が彼女を見つめると、彼女は視線を逸らして誤魔化すように、さらに距離を詰めてきた。膝が俺の腿に触れそうなほどの距離だ。
その親密さは、どこか危うい温度を孕んでいた。
特に、林雨瞳が立ち去ってから三十分も経っていない今の状況では。俺の肌にはまだ彼女の熱が残っており、理性が完全に復帰していない身体は、誰かに組み伏せられ、刻印されるように愛撫されたあの感覚を鮮烈に記憶していた。
そこへ、シキが踏み込んできたのだ。まったく異なる気配、まったく異なる温度を携えて。
「周士達」
「……ああ?」
「あんた、今にも自分で自分の首を絞めて死にそうな顔してるよ」
「……それを言いに来たのか?」
「違うよ」彼女は瞬きをし、悪戯っぽく笑った。「……あんたを、救いに来たんだよ」
俺が応じるより早く、彼女は俺の手から缶を奪い取り、サイドテーブルへと置いた。そしてくるりと身体を回転させ、俺の真正面に陣取った。距離感という概念をどこかに置き忘れてきたかのような、不躾なまでの近さ。
「……何をする気だ?」
「見てるの」彼女は当然のように言った。「じゃなきゃ何? 本当に熱曲線だけ見に来たとでも思ってる?」
その物言いに、俺はまた微かに笑ってしまった。
シキは俺の笑みを見て、瞳を一層輝かせた。その輝きはあまりに純粋で、彼女がただ、神代家や山口、六本目の釘といった呪縛から、俺をほんの一時だけでも引き離そうとしているのだと理解できた。救済でもなく、相談でもなく、ただ直球に――「今のあんたの顔はひどすぎるから、私が我慢ならない」という、彼女なりの独善。
その直情さこそが、今の俺には最も防ぎ難いものだった。
不意に彼女が手を伸ばし、その手の甲を俺の側頸部にそっと当てた。
その刹那、俺の全身は石のように硬直した。
彼女がそこに触れたからだけじゃない。そこは――つい先ほど、林雨瞳が噛み跡を残した場所そのものだったからだ。
シキの手はひんやりと冷たく、肌に触れた瞬間に強烈なコントラストを描き出した。つい今までユートンが残した微かな疼きが刻まれていた場所に、氷のような感触が重なる。その温度差に、頭皮が粟立つような感覚が走った。
「まだ熱いね」彼女は言った。
「……今日はもう、嫌というほど言われてきたよ」
「なら、今のうちに慣れておくことだね」彼女の手は離れず、首筋をなぞるように滑り落ち、襟元の境界線に指を潜り込ませた。その動きは軽やかだったが、彼女の冷えた指先が肌に触れるたび、小さな氷の粒が滑り込んでくるような刺激が走る。俺の肩が強張るのを見て、彼女は即座に笑みを深めた。
「やっぱり、効くんだ」
「シキ」
「なーに」彼女はさらに顔を寄せ、その瞳には悪戯っぽい輝きが満ちていた。「あんた、まだ生きてるんでしょ? 生きてるなら、少しは私に反応してよ」
彼女を見つめながら、俺は悟った。なぜ彼女という存在が、ユートンや弥生とは決定的に違うのかを。
ユートンは、触れればまず冷徹な刃で突き放し、その奥にある柔らかさを守ろうとする。弥生は、自分という存在を規律で固く鎖し、それが決壊した瞬間にすべてが溢れ出す。
だが、シキは違う。
彼女は、真昼の山道に突如として吹き込む突風だ。野性的で、眩しく、土と太陽の匂いを孕んで、規律なんて端から相手にしていない。彼女はただ、強引に相手を自分のペースへと引きずり込んでいくのだ。
俺が沈黙していると、シキはさらに直接的な行動に出た。俺の襟元を掴み、力任せに引き寄せる。
「……そんな目で俺を見るな」
「どんな目?」
「……面白がってる目だ」
彼女は目を細め、屈託のない笑みを浮かべた。
「面白いから、面白がってるんだよ」
あまりに潔い告白に、俺は言葉を詰まらせた。彼女は分かっていないフリをしているわけでも、色気を武器にしているわけでもない。彼女は本気でこう考えているのだ。――状況が最悪で、山口が吠え、真壁が手順を弄り、弥生が神代の言葉に押し潰されそうで、俺の五本の魂釘が爆発寸前なら、なおさら「楽しいこと」を先に掴み取らなきゃ損だ、と。
あまりに荒唐無稽で、だが否定しがたい真理だった。
俺が口を開こうとした瞬間、シキは不意に片膝をベッドの縁に突き立てた。
細い鉄製のベッドは不安定で、彼女が体重をかけた途端、脚がギィ、と耳障りな音を立てる。
静まり返った観測室で、その音は異様に鋭く響いた。
俺は反射的に弥生の方を見た。彼女は背を向けたまま、こちらの動静に無反応を貫いている。だが、その沈黙こそが緊張を煽った。――彼女には、今の音が聞こえているはずだ。
だがシキは、そんなことは微塵も気にしていないようだった。彼女はそのままさらに身を乗り出し、至近距離まで顔を寄せる。洗剤の清潔な香りと、外の冷たい空気から持ち込まれた、乾いた陽光のような匂いが鼻をくすぐった。
林雨瞳の、あの薬の匂いと古い記憶が混じり合った気配とは、正反対の。
シキは新しく、眩しく、そして野生そのものだった。
彼女は俺が彼女の腰を支えている手に目を落とし、それから俺を見て、さらに楽しげに笑った。
「ちゃんと、手が動くじゃない」
「……あんたが勝手に突っ込んできたんだろ」
「そうだよ、突っ込んだんだよ」彼女は当然のように言ってのける。「ダメなの?」
彼女のような人種が最も厄介なのは、明らかに一線を越えた行為をしているというのに、その表情があまりに無邪気で、ただじゃれついているだけのように見えてしまうことだ。確信犯なのか、それとも純粋に「愉悦」を追求しているだけなのか、その境界線さえ曖昧にさせてしまう。
腰を支える俺の手には、衣類越しに彼女の熱が伝わっていた。それは熱病のようなうなされた熱ではなく、生命力に溢れた瑞々しい熱だ。彼女の吐息が俺の顔にかかる。
俺が彼女を押し戻そうとしたその時、彼女は一足早く顔を下げ、俺の口角を羽毛が触れるような軽やかさで掠めていった。
接吻と呼ぶにはあまりに淡く、小動物が自分の領地を確認するような、湿り気を帯びた試行錯誤。
だが、その一撃が、思考よりも先に肉体を動かした。俺の手が強く彼女の腰を抱き寄せると、彼女はそれを感じ取り、瞳を一層輝かせた。俺がまだ「死に体」ではないという証拠を、ついに掴み取ったかのように。
「……いるじゃん、ここに」
「……あんた、一度お仕置きが必要だな」
「今の台詞、招待状に聞こえるんだけど?」
俺は笑いながら毒づき、次の瞬間には、彼女の言葉を唇で封じていた。
今度は、彼女が口角を掠めたような戯れではない。明確な意志を持って、彼女を喰らいにいった。彼女は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにその輝きを増し、俺の首に腕を絡めてきた。応じる彼女の唇には、明らかな「愉悦」の笑みが混じっていた。
その笑みは呼吸を乱し、本来保つべきはずの手順をすべて狂わせる。けれど、だからこそ、この不毛な空間のすべてが突如として生を宿したのだ。
これは手順でもなければ、比照待機でも、誰かのためのリスク媒介でもない。ただの、まだ生きている二人の人間が、夜明け前に盗み取った、密やかな吐息。
俺の身体は今、荒唐無稽なまでの「対比」を経験していた。
つい先ほどまで、林雨瞳によってあの抑圧的で、克制された、四年分の重い記憶を刻印されていたこの俺が。今は、シキという存在によって、この直接的で、熱烈で、ただ「今」だけを生きるための炎に点火されている。
二つの異なる温度。二つの異なるリズム。
シキはユートンのように先に突き放したりしないし、弥生のように自分を押し殺して耐えたりもしない。一度応じたなら、彼女はただ、真っ直ぐに突き進んでくる。その接吻は老練ではないかもしれないが、ひどく潔い。自分の中にあるものを曝け出すことを、彼女は微塵も恐れていなかった。
途中で一度、彼女が笑い声を漏らした。その吐息が俺の唇を乱し、つられて俺まで笑い出してしまう。
ベッドの脚が再びギィと鳴る。今度は、さっきよりも大きく。
くそ。
心臓が跳ね、視線の端で弥生の背中を捉えた。彼女は動かない。だが、その背中の強張りは、隠しきれないほどの緊張を孕んでいた。
けれどシキは構わず、両腕を俺の首に絡め、自分の体重のすべてを俺に預けてきた。
俺は彼女の腰を抱き寄せた。彼女が落ちないように。彼女はそれを黙諾と受け取り、さらに密着してくる。
この姿勢は、さっき林雨瞳が膝に跨っていたあの姿にあまりに似ていた。その事実に、一瞬だけ意識が引き戻される。
けれど、シキは決定的に違っていた。彼女はもっと軽く、もっと熱情に溢れ、何の後腐れもない。彼女の重みが俺に圧しかかるとき、そこにはユートンのような「もう戻れない」という重苦しい沈殿はない。あるのはただ、「今、この瞬間に幸せになろう」という、羽毛のような軽やかさだけだ。
額が俺の眉間にぶつかり、彼女は思わず息を呑み、そして笑った。
「痛い?」
「……あんたがぶつけたんだろ」
「なら、ちょっとだけ我慢して」
そう言い捨てて、彼女は再び俺に接吻した。
今度は、さっきよりも少しだけ貪欲に。ようやく火が点いたのだ。当直室のあの澱んだ空気とは違う、眩しくて、熱くて、瑞々しい生命の息吹。
俺は彼女に引き摺り回され、胸に燻っていた火を、彼女自身の熱で焼き尽くされていく。五本の魂釘がどれほど疼こうと、山口がどこで牙を剥こうと、シキという女は一時でもそれらの一切を忘れさせてくれる。一秒、一秒にどれほどの価値があるかなんて、そんな計算は後回しでいいと思わせてしまう。
彼女の接吻は乱れ、笑いもまた、制御を失っていく。掌で俺の肩の布地を掴み、俺が逃げないように、あるいは俺をこの絶望的な日常から救い出せたことを祝うように。
耳の後ろに指が触れた瞬間、彼女は全身を震わせ、さらに無邪気に笑った。
「……やめてよ」
「……何がだ?」
「……明らかな確信犯でしょ」彼女は潤んだ瞳で俺を睨みつけ、けれど口角には隠しきれない笑みを浮かべていた。「意地悪だね」
「……あんたが先に仕掛けたんだろ」
「そうだよ」彼女は潔く認めた。「……ただ、あんたに笑ってほしかっただけ」
その言葉はあまりに真っ直ぐすぎて、俺を一瞬、絶句させた。彼女は裏を読もうとも、名分を欲しがっているわけでもない。ただ、俺に幸せになってほしかった。その手段として、今この瞬間を分け合うことが、最も「生」に近いのだと信じている。
彼女を見つめていると、不意に胸の奥が熱くなる。
シキは俺の視線に気づいたのか、笑い声を少し収めた。けれど、腕は俺の首から離さない。
「……そんな目で私を見ないでよ」
「……どんな目だ?」
「……私が、何かすごいことでも言ったみたいな目」彼女は鼻を鳴らした。「別に。ただ、今夜のあんたがあまりに死人みたいで、癪に障っただけだから」
俺はたまらず、彼女を求めて顔を下げた。
今度は笑わずに、静かにそれを受け入れる。シキという女は、決して思慮が浅いわけではない。ただ、回り道を好まないだけだ。嬉しいときは笑い、触れたいときは触れ、悲しみさえも熱の中に溶かしてしまう。
その熱に触発され、俺は彼女の手を掴んで、彼女の胸元へと導いた。
布地越しに伝わる、激しい心音。
掌から直接伝わる、確かな生命の鼓動。
彼女が息を呑み、耳元まで赤く染めながらも、射抜くような眼差しで俺を見つめる。それは、「私はここにいる。本気でここにいるんだ」という、野生の証明だった。
俺の喉が、熱い渇きを堪えるように、大きく上下した。
「シキ」
「……ん?」
「あんたは、本当に……」
「最高でしょ?」彼女は俺の言葉を自分で引き継ぐと、誇らしげに、そして愉しげに笑った。「私もそう思う」
その物言いに、俺はまた吹き出しそうになった。けれど、笑い飛ばした後に残る呼吸は、そう簡単には整わない。彼女の今の仕草があまりに真っ直ぐだったからだ。色事の駆け引きなんて欠片もない、「今、あんたに私を返してほしい」という剥き出しの欲求。隠そうとする気配すら、そこにはなかった。
掌はまだそこにある。彼女は逃げようともせず、ただ唇を噛んで俺を見つめていた。その瞳は眩しいほどに澄んでいて、嘘偽りがない。俺に読み取られることを恐れるどころか、読み取られないことを恐れているかのようだ。
俺の指先が、微かに動いた。
意図したわけじゃない。本能だ。布地越しに、彼女の呼吸に合わせて形を変える、その柔らかな質量を指先が捉える。
シキの全身がびくりと跳ね、呼吸のリズムが明確に崩れた。
「周士達……」彼女の声に震えが混じる。けれど、それでも彼女は笑っていた。「……それ、反則だよ」
「……あんたが先に反則したんだろ」
「じゃあ……」彼女は俺の耳元に顔を寄せた。声は極限まで低く、熱い吐息が耳朶を灼く。「……一緒に反則しようよ」
その一言が導火線となった。先ほど林雨瞳によって点火され、いまだ燻り続けていた俺の中の火が、一気に燃え上がる。
俺は顔を寄せ、彼女の耳元で囁き返した。声はすでに、自分でも驚くほど熱く掠れている。「……あんた、本当に反則だ」
「……今さら?」彼女の語尾が震える。けれど、それでも彼女は笑みを崩さない。「……もう、遅いよ」
言い終えるなり、彼女は自ら身を乗り出し、より強く俺に密着した。
あまりに、絶望的な一撃だった。
俺の膝の上に跨るその姿勢は、それだけで十分に危うい。そこへ彼女が自ら押し当ててくる、胸元の柔らかな感触。そして、そのさらに下――。
スーツのズボンの生地が、再び限界まで張り詰める。
ユートンによって熾された残り火は、シキという強風に煽られ、瞬く間に野火となって俺の理性を焼き尽くしていく。血液は制御を失った激流と化し、行くべきではない場所へと猛然と駆け下りた。
観測室には刹那、乱れた呼吸と、ベッドが時折上げる微かな軋みだけが残された。
そして、俺は聞いてしまった。――ドアの外から響く、微かな足音を。
真壁ではない。女調査員が歩き回っているのだ。彼女の声が低く響く。誰かに何かを確認しているようだった。
シキもそれに気づき、全身を硬直させた。
だが、彼女は退かなかった。
それどころか、さらに俺に強くしがみつき、唇を耳元に押し当てて、声を殺して囁いた。「……動かないで。……聞こえちゃうから」
クソ。これじゃさっきよりも、ずっと刺激が強すぎる。
彼女は全身で俺にぶら下がるようにし、その重みのすべてが、俺の腿と胸にかかっている。彼女の胸の奥で早鐘を打つ鼓動、緊張と興奮で加速する吐息。そして何より――布地を隔ててなお、これ以上ないほど雄弁に伝わってくる、互いの肉体の密着感。
「シキ……」俺の声は、もはや空気の震えに過ぎなかった。
「……しーっ」彼女は俺の言葉を自分の唇で封じた。接吻ではない、ただ触れているだけの、静かな制止。「……声、出さないで……」
外にいる女調査員の声が近づいてくる。真壁に何かを確認しているようだ。俺たちはその姿勢のまま、石像のように固まっていた。彼女は俺にしがみつき、俺の手は彼女の腰に置かれたまま。
いつ見つかってもおかしくないという背徳的な刺激が、身体の反応を一層苛烈なものにする。
ズボンの窮屈さは、もはや隠しようもなかった。そして、俺の腿の上に跨っている彼女が、それに気づかないはずがない。
案の定、彼女の身体が僅かに震えた。それは恐怖ではなく、必死に笑いを堪えている震えだった。
「……ねえ」彼女の声は、耳元で羽毛が触れるほどの小ささだった。「あんた……」
「……黙れ」俺は奥歯を噛み締め、気音で警告した。
だが、彼女はさらに愉しそうに笑った。笑いを堪える震えが、密着した身体を通じてダイレクトに伝わり、俺をさらに窮地へと追い込む。
そして、彼女はわざと、腰を動かした。
それは極めて小さな、姿勢を調整するだけのような動きだった。だが、その絶妙な角度が、彼女の臀部を俺の腿の上でねっとりと擦れさせた。
「っ……!」
俺は息を呑み、反射的に彼女の腰を強く掴んだ。
彼女はまた俺の耳元で笑いを堪え、熱い吐息を何度も吹き付けてくる。「あんた……ずいぶん……元気だね……」
「……これ以上動いたら、承知しないぞ」
「やってみなよ」彼女は事も無げに言ってのけると、本当にもう一度腰を動かした。今度はより明確に、俺の腿の上でその身を微かに上下させる。
クソ。
布地を隔てて伝わるその摩擦に、奥歯が砕けるほど噛み締めた。
ドアの外の足音がようやく遠ざかり、シキはようやく身体の力を抜いたが、それでも俺の上から降りようとはしなかった。彼女は顔を上げ、俺を見つめる。その瞳は眩しいほどに輝き、頬は先ほどの興奮と刺激で赤く染まっていた。
「……今の、すごくゾクゾクした」彼女は声を潜めて言った。
「……おい、正気か?」
「正気だよ」彼女はあっさりと認めた。「あんたを元気にしたいだけ。そういう気分なの」
言い終えるなり、彼女は再び顔を寄せた。今度は唇ではなく、俺の下唇を直接、牙で捉える。
強くはないが、確かな重み。歯先で研磨されるようなその触感は、野性的な刻印の意図を孕んでいた。
俺の掌は彼女の腰をなぞり上げ、背中の中心で止まった。衣類越しに、彼女の脊椎のラインと、呼吸に合わせて波打つ背筋の動きが伝わってくる。
やはり、下着を身につけていない。ホックもストラップの感触も、どこにも見当たらなかった。
「シキ」俺は彼女の唇に触れる距離で囁いた。「……今日は確信犯だな?」
「うん」彼女は潔く認めた。「そうだよ、わざとだよ」
「……何のために?」
「……何って」彼女は言葉を切り、その眼差しがより直接的な熱を帯びた。「……あんたに、触れてほしかったからだよ」
その一言が、脳内で爆発した。
冗談でも試行錯誤でもない。彼女はただ、自分の欲求を真っ直ぐに、そして残酷なまでに突きつけてきたのだ。
俺は彼女を見つめ、喉が熱く締め付けられるのを感じた。「……自分が何を言ってるか、分かってるのか?」
「分かってるよ」彼女は首を傾げ、挑発的な笑みを浮かべた。「私は子供じゃない。自分が何をしてるかも、何を欲しがってるかも、全部知ってる」
「……弥生がそこにいるんだぞ」
「彼女は書類を見てる」シキは断言した。「それに、たとえ気づいたとしても、彼女は口出しなんてしないよ」
「……外にだって人がいる」
「だから刺激的なんじゃん」彼女の瞳が一層輝いた。「思わない? いつ見つかってもおかしくないのに、どうしても欲しくなっちゃう……この感じ……」
彼女は最後まで言わなかったが、その意味は痛いほど分かった。
俺自身も、同じものを感じていたからだ。
刃の上で踊るようなスリル、してはいけないと知りながらも抗えない禁忌感、そしていつ中断されるか分からない焦燥が、一秒一秒を宝石のように輝かせ、研ぎ澄ませていく。
俺は彼女を抱き寄せ、その額に自分のそれを預けた。
彼女の呼吸は乱れていたが、それでも先に笑った。
「……少しはマシになった?」
「……あんたはいつもそうやって聞くのか?」
「ううん」彼女は目を細めた。「……今日のあんたには、これが必要だと思ったから」
そう言われると、俺はもうどうにでもなれという気分になった。
彼女はユートンのように察することを求めず、弥生のように一歩ずつ解きほぐす必要もない。彼女はただ手を伸ばし、「ほら、死ぬ前に一息つきなよ」と笑うのだ。あまりに理不尽で、あまりに効果的な救済。
俺が何かを言いかけるより先に、彼女はさらに密着し、二人だけにしか聞こえない音量で囁いた。
「ねえ……見てよ。あたしたちは中で……みんなは外にいて……弥生はあそこにいて……この感じ……すごく……」
言葉の先を、俺は肌で理解した。
いつ暴かれるか分からない危うさが、あらゆる接触を過敏に、そして苛烈に変えていく。
観測室の外で、何かがぶつかるような微かな音が響いた。
シキの身体が瞬時に硬直した。恐怖ではない、本能的な静止だ。外の女調査員が低く何かを呟き、続いて真壁の足音がドアの前で止まった。彼はすぐには入ってこない。中に誰がいるかを知っていて、今ドアを開けるのが得策ではないと、あの老獪な男は察しているようだった。
シキは俺を見つめ、目を見開いた後、ふふっと楽しげに笑った。
「まずいわね」
「……今さら気づいたのか?」
「ううん。ちょっとゾクゾクしちゃって」
俺は彼女に呆れて、笑うべきか毒づくべきか迷いながら、乱れた彼女の襟元を整えてやった。彼女は大人しく俺の手を借りながらも、その視線は俺の顔に粘りついたままだ。その逸らさない眼差しは、先ほどまでの接吻よりもずっと厄介だった。
「シキ」
「……ん?」
「そんな目で見続けたら、本当にこのまま帰さねえぞ」
彼女の瞳が一層輝き、その言葉を合図に再び迫ってきそうな気配を見せた。だが、外の足音がさらに近づいたため、彼女は観念したように溜息をつき、俺の額に自分の額を軽くぶつけた。
「……残念」
「……何が残念なんだよ」
「夜明けが近いことだよ」彼女は真面目な顔で言った後、再び顔を寄せ、俺の口角を素早く奪った。「……じゃなきゃ、もっとあんたを愉しませてあげられたのに」
あまりに自然な物言いに、俺の耳の付け根が熱くなった。
彼女はそれを見逃さず、俺の胸の中で転げるように笑った。
「へえ、あんたも照れるんだね」
「……黙れ」
「やだね」彼女は笑いながら俺の膝から降りた。その動作は素早く、床に足がついた瞬間には、何事もなかったかのような佇まいに戻っていた。ただ、その瞳だけはまだ熱を帯び、海から上がってきたばかりの獣のように、湿り気と熱を全身から放っている。「……今のあんたの方が、ずっと生きてる人間っぽいよ」
彼女はタブレットを抱え直し、背中に手を回して衣服の乱れを整えた。まるで、先ほどの狂乱をすべてそこへ押し込むかのように。だが、いくら隠そうとしても、唇の赤みや乱れた吐息、そして俺を見つめる眼差しの中に、その残滓は隠しきれずに漏れ出していた。
外でようやく、真壁がドアを二回叩いた。
「シキ、曲線図の照合結果はどうなった」
彼女はぺろりと舌を出した。
「……今行きます」
そう言ってドアへ向かった彼女は、途中で足を止めて振り返った。
「周士達」
「……ああ?」
「原本は私が持ってるから」彼女はタブレットを抱え、眩しくも不敵に笑った。「だから、勝手に壊れたりしないでよね。あんたが自分から潰れちゃったら、私、すごく不機嫌になるから」
彼女を見つめていると、胸の中に溜まっていた澱が、不意に彼女の手によって押し流されたような気がした。
「……分かってるよ」
シキはようやく満足したように、ドアを開けた。白い光が再び室内に溢れ出す。彼女が出ていく際、真壁はまず彼女を、それから室内の俺を一度だけ一瞥したが、何も言わなかった。その眼差しに何が含まれていたか、推測する気も起きなかった。
ドアが閉まると、観測室には再び静寂が訪れた。
だが、今度の静寂は先ほどとは違っていた。
俺は自分の手元に目を落とした。布地越しに伝わってきた、彼女の鮮烈な熱がまだ残っている。五本の魂釘は変わらず俺を蝕み、山口は六本目を突きつける機会を伺い、神代家からの返答は弥生の小机の上に重く居座っている。
何ひとつ、解決はしていない。
だが、ベッドの端に身を預けた俺は、ようやく深呼吸をひとつ、つくことができた。
シキの言う通りだ。
これくらいの狂気がなければ、この夜明けを生き抜くことなど到底できやしない。
廊下からはすぐに話し声が聞こえてきた。真壁が曲線のことを問い、シキが答える。その口調は相変わらず直情的で、さっきまで俺の膝の上で乱れていた女と同一人物だとは到底思えないほどだった。
弥生が書類をめくる、微かな音が響いた。俺は無意識に彼女の座る小机に目を向けた。
彼女はまだ、そこに座っている。背を伸ばし、項を硬く強張らせ、「立ち位置を選ばないことも選択である」という呪いに縛られたまま。
だが、分かっていた。彼女には聞こえていたのだ。
その不自然なまでの静寂、ページをめくる指先の慎重すぎるリズム。それらすべてが語っていた。――彼女はシキの笑い声を、ベッドの軋みを、そして俺たちの押し殺した喘ぎを聞いていたのだ。
俺は彼女の背中を見つめ、不意に悟った。次に訪れる章は、決して平穏なものではないだろう。
シキが与えてくれたこの一時の愉悦は、ただの延命措置に過ぎない。
夜が明けたとき、本当に俺たちを追い詰めるのは、あの「立ち位置」という名の残酷な扉なのだから。
そして弥生は、すでにその敷居の上に立たされていた。
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