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番外二 希の視點 ―― 夜明け前の悪戯

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。


観測室の小さなテーブルに向かい、私はまだ熱曲線を眺めているフリをしていた。

タブレットの画面は明るく、二一三号室の図面を画面いっぱいに拡大している。赤と青の線が重なり合う様は、まるで互いに折り合いのつかない二匹の蛇のようだ。外の白い光は容赦なく、当直棟の壁は薄っぺらで、誰が歩き、誰が立ち止まり、誰が六本目の魂釘について何を語ったのか、そのすべてが微かに耳に届いてくる。けれど私は画面を見つめたまま、フレームを指先でトントンと叩き、そして止めた。

分かっている。私が今、本当に見つめているのは曲線なんかじゃない。

周士達だ。

彼は狭いベッドの端に座り、ジャケットを脱ぎかけてはまた羽織る。自分の身体をどう落ち着かせればいいのかさえ、分からなくなっているみたいだ。その姿が、無性に癪に障る。醜いわけでも、哀れなわけでもない。ただ、一蹴りして「その『まだ耐えられる』っていう面を今すぐやめろ」と怒鳴りつけてやりたいのだ。霊務局や山口、神代家、そしてあの五本の釘に一晩中磨り減らされ、ボロボロになっているはずなのに、彼はなおもそこに座り続けている。

そして、私には見える。彼の身体に刻まれた、つい先ほどの「痕跡」が。

あからさまなものじゃない。もっと微細な、けれど確かな何か。襟元の僅かな乱れ、首筋の肌の異様な赤らみ、そして完全には整っていない呼吸のリズム。林雨瞳はさっきまでここにいた。ほんの数分前まで。あの女は、触れないか、さもなくば決して消えない何かを刻みつけていくタイプだ。

その事実に、胸の奥が不意にざわついた。嫉妬じゃない。もっと野生的で、剥き出しの何かが疼いたのだ。

私は、こういう「抑圧」が大嫌いだ。同情しているわけじゃない。人間、あそこまで自分を追い込んでしまえば、その先にあるのは爆発か、あるいは修復不能な崩壊だけだと知っているから。周士達という男は、特に自分を内側へ、内側へと押し込める。呼吸することさえ罪悪だと言わんばかりに。外の連中は手順だの地位だの、六本目を対照根にするだの、弥生を踏み絵にするだのと、今夜という時間は雨に濡れた腐朽した木材のように最悪だ。そんな時に「愉悦」さえも遠ざけて、ただ夜明けまで腐り果てるのを待つなんて、冗談じゃない。

私はタブレットを閉じ、立ち上がった。

小机の上の二本の缶飲料は、さっき下の自販機から盗んできたものだ。「盗んだ」と言っても、金は払った。ただ、あまりに堂々と買い占めただけ。こんな夜に、熱いか冷たいかなんてどうでもいい。まずは喉を潤すことが先決だ。

タブレットを抱え、缶を指に挟んで歩き出すと、弥生が私を一度だけ見上げた。

その眼差しは淡く、けれど鉛のように重かった。睨んでいるわけでも警告しているわけでもない。ただ彼女自身が、今にも壊れそうな狭い場所に押し込められていて、視線を動かすことさえ痛みを伴っているようだった。彼女を見ていると、無性に苛立ちが募る。彼女にではない。彼女をあそこまで追い詰めた連中に対してだ。けれど、今の彼女に何を言っても無駄なことは分かっている。弥生は「大丈夫?」という言葉一つで帰ってこられるような場所にいない。張り詰めすぎた糸のように、誰が触れても真っ先に自分を傷つけてしまうだろう。

だから私は彼女には声をかけず、そのまま周士達の方へ向かった。

私は缶の一本を彼に投げつけた。

彼はそれを受け取り、眉をひそめて、案の定、最初の一言を放った。

「……どこで手に入れた?」

思わず吹き出しそうになった。この男、本当に芸がない。私が何かを差し出すたびに、まず「どこで手に入れた」なんて聞いてくる。まるでその答えに、人生を左右するほどの価値があるみたいに。大切なのは、私が今、これをあんたの手に握らせようとしてるっていう事実そのものなのに。

「自販機だよ」

私はそう答えながら、自分の分のプルタブを引き開けた。パシュッという快活な音が弾けて、それだけで気分が晴れる。喉を鳴らして大きな一口を流し込むと、歯の根が浮くほどの冷気が襲ってきた。けれど、それが痛快だった。こういう時には氷のように冷たいものが必要なんだ。冷たさこそが、生きているっていう証だから。

シーダーはまだ、手の中の缶を眺めている。私は行儀悪く足を伸ばし、彼の膝を軽く突いた。

その瞬間の接触で、確信した。――彼の体温は、明らかに平常時より高い。

「飲みなよ」

彼は今なら熱いものの方がいい、なんて贅沢を言う。私はわざとらしくため息をついて、目を剥いてやった。

「今のあんたに一番必要ないのは、そうやって一人で鬱々といることだよ」

彼はようやく観念して缶を開け、一口啜った。喉仏がごくりと動くのを見て、私の胸に詰まっていた塊が少しだけ解けた。そう、それでいい。まずは飲み、まずは息を吐き、自分がまだ血の通った人間なんだってことを思い出せばいい。外の薄汚い連中との清算なんて、あとに回せばいいんだ。

私はタブレットを抱えたまま、ベッドの端に腰を下ろした。スプリングが軋み、ベッドが揺れる。シーダーが横目で私を見た。その瞳にはまだ疲労が張り付いているけれど、さっきまでの、自分を殻の中に閉じ込めて死を待つような絶望感は消えていた。

顔色がひどいね、と私は問いかける。

彼に言い返すだけの力が残っているのは、いい傾向だ。

私は笑った。笑いながらタブレットを起動し、システムによって不自然に整形された熱曲線を彼に見せつける。見れば見るほど腹が立つ図面だ。突き出したピークも、微細なノイズも、それが「生きている証拠」であるはずの震えのすべてが、自動生成の要約によって削り取られている。美しく、滑らかに。まるで、どこかのテーブルに並べられるための料理みたいに。

反吐が出る。

真壁さんみたいな人種なら、対象を「生きたまま」手順の中に留めておくことに価値を見出す。けれど山口たちはもっと酷い。生きた人間さえも、ただの搬送しやすい「荷物」へと作り替えてしまおうとする。周士達に打ち込まれた五本だけでも手一杯だって言うのに、こうして「おとなしいサンプル」に仕立て上げられれば、あいつらはもっと楽に喰いつけるようになるだろうから。

私はその怒りを彼にぶつけた。そして、原本は私が隠し持っているということも。自慢げに話したけれど、それは子供がキャンディを隠すような幼稚な独占欲じゃない。このクソみたいな場所で、せめてもの抵抗として、彼という「生きた証」を消させないための、私なりの戦いだった。

危ない橋だね、と彼は言う。

心臓が小さく跳ねたけれど、私は鼻で笑って誤魔化した。

危ないなんて今さらだ。弥生は神代家に首輪を締め直され、林雨瞳は冷徹を装いながらも誰よりも明確に「向こう側」に立っている。周士達に至っては、五本の釘に骨まで焼かれ、呼吸の乱れさえ監視されている。なら、私が少しぐらい危険な真似をしたってバチは当たらないはずだ。

それに、私は別に「みんな」のためにやってるわけじゃない。

……いや、少なくとも「完全には」みんなのためじゃない、かな。

そんな考えが頭をよぎって、自分でもおかしくなった。私は元々、物事を難しく考えるのが嫌いだ。飲みたければ飲み、逃げたければ逃げ、笑いたければ笑う。好きな人には、真っ直ぐに寄り添う。それが私の生き方だ。心の中で三周も考えを巡らせていたら、夜が明けて愉悦な時間なんて終わってしまう。

だから、私は彼の手から缶を奪い取り、サイドテーブルに置いた。

「あんた、今にも自分で自分の首を絞めて死にそうな顔してるよ」

これは冗談なんかじゃない。本気でそう見えたんだ。

彼は言い返そうとしたけれど、私はそれを許さず、ベッドの上で彼の方へにじり寄った。狭い観測室で、これ以上ないほど距離を詰める。理性を盾にする暇なんて与えない。

私はただ、彼に「生きている人間」に戻ってほしかった。それだけ。

不意に彼の手を側頸部に当てたとき、私の指先は確かな熱に焼かれた。

それは単なる発熱じゃない。もっと深く、暗く、内側から溢れ出そうとする熱を、彼が必死に押さえ込んでいるのが伝わってきた。このままじゃ、この男は内側から燃え尽きてしまう。

そして、私の指先は気づいてしまった。

彼の肌に残る、微かな「痕跡」に。体温と肌の質感が、そこだけ周囲と異なっていた。林雨瞳だ。ほんの数分前まで、彼女はここにいた。あの女は、触れないか、さもなくば決して消えない刻印を残していく。

その事実に、胸の奥がざわついた。嫉妬? ……いや、もっと野性的で、剥き出しの何かが疼いたんだ。誰かが木に刻みつけた文字を見つけたとき、その上からもっと深く、自分の名前を刻みつけてやりたくなるような、あの衝動。

私は医者でもなければ、手順を操る役人でもない。私にできることなんて、たかが知れている。けれど、こうして手を重ね、今にも焼き切れそうなこの男を、こちらの世界へ引き戻すことくらいなら――。

だから、私は手を引かなかった。わざとらしく笑い、わざとらしく腰を押し当てる。彼の肩が強張るのを見て、私の気分は目に見えて良くなっていった。我ながら性格が悪い自覚はある。けれど、彼が私の接触に対して、「必死に虚勢を張っているのに、身体だけが先に白状してしまう」あの様を見るのが、たまらなく好きなんだ。少なくとも、ほんの一部分だけでも、彼は私に嘘を吐き通せないのだから。

あんたを救いに来たんだよ、なんて。

口では大きく出たけれど、実際には半分は冗談で、半分は本気だった。

自分でも分かっている。今のこの観測室の中で、誰も誰かを救うことなんてできない。真壁さんは一時を凌げても夜明けは防げないし、林雨瞳が毅然としていられるのは、彼女がとうに覚悟を決めているからだ。弥生は一番悲惨だ。彼女は「選ばない」ことさえ加担と見なされてしまう。私にできることなんて、事態が底なしに腐り落ちる前に、周士達の口に強引に呼吸をねじ込んで、彼が自分自身で窒息するのを止めることくらい。

面白がってるだろ、とシーダーは言う。

思わず吹き出しそうになった。

「面白いから、面白がってるんだよ」

これは本心だ。私は彼と理屈を並べ立てに来たわけじゃない。「強くあれ」とか「自分を信じろ」なんて綺麗事を言いに来たのでもない。こんな時だからこそ、まず「生きる」ことが何よりも大切なんだ。愉しみ、乱れ、熱を帯びる。それは、座して誰かに自分を定義されるのを待つよりも、ずっと意味のあることだから。

私がベッドの縁に膝を乗せた時、脚が律儀に悲鳴を上げた。

ギィ――。

静まり返った観測室では、その音はあまりに鮮明だった。私は無意識に弥生の方を見た。彼女は背を向けたまま、石像のように微動だにしない。けれど、聞こえているはずだ。彼女のような人種の耳が、今の音を聞き逃すはずがない。

でも、私はお構いなし。

シーダーの手が私の腰を支えた瞬間、私の心は歓喜に震えた。計算が成功した喜びじゃない。「ほらね、あんたはまだ生きてる」という確信の笑みだ。私が求めているのは、彼が格好よく私をリードすることじゃない。ただ、彼に「反応」してほしかった。無意識に私の腰を抱き止めた、その掌の熱だけで十分だった。

彼の手は熱かった。衣服越しでも伝わるその温度は、さっき首筋で感じた不吉な発熱とは違う、もっと人間臭い、生きた熱だ。彼に抱きしめられると、もっと寄り添いたくなる。雰囲気を狙っているわけじゃない。愉しい方へと突き進む、野生のことわりだ。山を駆け、風に向かい、水を見れば飛び込む。笑いたい時に笑い、口づけたい時にそうする。ただ、それだけ。

そしてこの姿勢のおかげで、私ははっきりと感じ取っていた。――彼の肉体が、変貌を遂げていることを。

彼の腿の間に膝を割り込ませたこの角度は、あまりに直接的すぎた。私のショートパンツと彼のスラックスを隔てて、その硬度が日増しに――いや、秒単位でその存在を主張し始めている。それが、私を昂揚させた。隠れ潜むような羞恥心じゃない。「ほら、あんたの身体は口よりずっと正直じゃない」という征服感に近い愉悦。

だから、私はそのまま口づけた。口角を掠め、からかうように、試すように。

彼が狼狽えるのを見たかった。けれど彼は予想以上に早く応じ、その腕が強く私を抱き寄せた。密着の度合いが増し、逃げるなんて選択肢は私の中から消え失せた。私は彼を見つめ、わざとらしく笑い、瞳を輝かせて彼に「決断」を迫った。

そして、彼は本当に私を奪いに来た。

一瞬だけ虚を突かれたけれど、次の瞬間には私の世界は光り輝いていた。

照れなんていう甘っちょろいものじゃない。もっと直接的で、暴力的なほどの喜び。導火線に火が点き、一気に爆発するような。もう、ゆっくり楽しむなんて段階はとうに過ぎていた。彼の首に腕を回して応じる私の吐息には、隠しきれない笑みが混じっていた。乱れているけれど、それがいい。当直室のあの死んだように白い静寂より、よっぽどマシだ。

私は林雨瞳みたいに冷徹を装うことなんてできないし、弥生みたいに自分を縛ることもできない。愉しいと思えば、身体が勝手に行き先を決めてしまう。昔からずっとそうだ。近づきたければ近づき、抱かれたければ抱かれ、口づけたければそうする。何を恐れる必要がある?

接吻の最中、私は本当に笑い声を漏らしてしまった。

シーダーが私に翻弄され、その呼吸を荒げている。その声を聞くのがたまらなく好きだ。情欲のせいじゃない。その声こそが、彼が腐りかけた検体ではなく、生身の人間である証拠だから。外の地獄は変わらないけれど、この短い時間だけ、彼は間違いなくこちら側に帰ってきている。

私は全身で彼にしがみつき、額を彼のそれにぶつけた。

少しだけ痛い。けれど、私は笑い続けた。

「ちょっとだけ、我慢してね」

自分で言っておきながら、おかしくてたまらなくなった。私がぶつけた癖に、よくもまあ当然のように言えたものだ。けれど、シーダーが私にだけは甘いことを、私は知っている。いじめたいわけじゃない。彼はいつだって、私を真っ先に受け止めてくれる。ずっと、昔から。

あんたに、笑ってほしかっただけ。

その言葉を口にした瞬間、彼が私を見る目が、ふいに変わった。

その眼差しは、少しだけ厄介だった。あまりに深くて、真剣で。私がただ口先でからかったのではなく、何かとても重いものを差し出したのだと、彼は悟ってしまったみたいだ。そういう空気は苦手。だって、私まで余計なことを考え始めちゃうから。でも、分かっている。今の言葉は、決してデタラメなんかじゃない。本心から、そう思っていた。

今夜のあんたを、誰かの計算や、監視や、五本の釘を渡せっていう強要の中にだけ、置き去りにしたくない。

少なくとも私の前では、まずは幸せになってほしいんだ。

だから、彼が再び唇を重ねてきたとき、私はもう笑っていなかった。

静かにそれを受け入れ、腕で彼を抱きしめる。心が、少しずつ柔らかく解けていくのを感じた。感傷的な気分になったわけじゃない。ただ初めて、はっきりと自覚したんだ。私はただ遊んでいるわけでも、場を賑やかせたいわけでもない。私は、本気でこの男が壊れるのを見たくないんだって。

そう思った瞬間、自分でも少しだけ怖くなった。

だって、それは「一緒に愉しむ」ことよりも、ずっと面倒なことだから。

愉しむだけなら簡単。抱きつけばいい、笑えばいい、口づければいい。けれど、誰かの崩壊を止めたいと願ってしまったら、それはもうただの愉悦じゃ済まなくなる。それはいつか、胸の奥をキリキリと締め付け、他の誰かが彼に触れることさえ耐えられなくなるような、そんな執着おもいに変わってしまうから。

今は、そんなこと考えたくない。

だから私は強引に彼の手を掴んで、自分の胸元へと導いた。

布地越しに。ほんの一瞬だけ。

本当は、私だって緊張していた。指先が震えるくらいに。けれど、私は退かなかった。中途半端な駆け引きなんて大嫌い。彼の膝に跨り、これほど睦み合い、笑い合ってきたんだ。私は、遊び(フェイク)じゃないってことを彼に思い知らせてやりたかった。

今、私に応えてほしい。

掌から直接伝わる、確かな生命の鼓動。彼の手がそこに触れた瞬間の、あのためらい。そして、私の胸の中で暴れる、激しすぎる鼓動。

その「静止」に、私の耳の付け根は一気に熱くなった。胸の奥がギュッと締め付けられる。恥ずかしいからじゃない。――彼が、すべてを理解したと分かったからだ。

この「理解」は、少しだけ気持ちよくて、少しだけ怖い。

言葉が必要ないのはいいけれど、一度彼に悟られてしまったら、私はもう二度と、平気な顔をして逃げ出すことなんてできなくなる気がした。

けれど、私は逃げなかった。

私は彼を見上げた。心臓の音はうるさいくらいに響いているけれど、それでも不敵に笑ってみせる。

この一秒を、あんたに刻みつけたい。私がすごいからでも、誰かに勝ちたいからでもない。ただ、分かっていたから。こんな夜、誰もが周士達に「別の何か」を刻みつけようとしている。五本の釘、六本目、神代家からの返信、山口の条件、真壁の手順。……ふざけないで。私はそんなの真っ平ごめん。私はただ、生きている温もり(もの)を、彼に覚えていてほしかった。

反則に気づくのが遅すぎる、なんて。

わざと軽い口調で言ったのは、そうでもしないと自分がどこまで踏み込んでしまうか分からなかったから。観測室は白く、ベッドは狭く、外には他人がいる。そのすべてが、私の興奮を一層煽り立てる。危険だからじゃない。窒息しそうなほどの閉塞感の中で、密かに愉悦を貪ることこそが、外側のクソみたいな現実に対する、私なりの宣戦布告だったから。

密着の度合いが増すたびに、ベッドがまた悲鳴を上げた。

ギィ――。

今度は、少し大きな音だった。弥生がページをめくる手が止まるのが分かった。

それが、無性におかしくなった。本当に。「聞こえているんでしょ。でも、私はやめないよ」――そんな背徳的な快感が、私を突き動かす。

私はわざとさらに身を寄せ、危険な角度で腰を押し当てた。布地越しの摩擦に頭皮が痺れる。あまりの刺激にシーダーが息を呑み、その大きな手が私の腰を強引に締め上げた。

「シキ……」

彼の声は、これ以上ないほど熱く、掠れていた。

「しーっ……」私は彼の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹き込んだ。「声を出さないで……聞こえちゃうよ?」

彼の全身が、つるのように張り詰めるのを感じた。その耐え忍ぶ張力、動きたいのに動けないという抑圧が、密着した身体を通じてダイレクトに伝わってくる。それが、私の興奮をさらに煽り立てた。

思わず笑い出しそうになったけれど、彼に額を押し当てられた衝撃で、私の呼吸の方が先に乱れてしまった。自分の方が一枚上手うわてで遊んでいるつもりだったのに、いざここまで密着してしまうと、胸の奥が何かに突き上げられるように苦しくなる。特に、彼が額をぶつけてきたあの仕草――強くはないけれど、私という存在をそのまま自分の内側へ引き込もうとするような、あの拒絶できない力強さに。

「……少しは、マシになった?」

自分でも馬鹿げた問いだと思う。五本の釘はそこにあり、山口もそこにいて、弥生だってあの小机の前で書類の山に押し潰されている。事態が好転したわけなんて、どこにもない。それでも私は聞かずにはいられなかった。せめて、この一分間だけでも、彼の顔からあの死人のような色が消えていればいい。それだけで十分だった。

彼は私を笑わなかった。

それが、何よりも重要だった。

もし彼がこの時、大真面目な顔で正論を返してきたりしたら、私は即座に白けて、最後までとぼけ通していただろう。けれど彼はそうしなかった。ただ私を見つめ、その瞳には熱く、掠れた情緒が宿っていた。私の言葉を、茶化すことなく、真っ直ぐに受け止めていた。

その瞬間、私は不意に、もっと多くのものを彼に与えたいと願ってしまった。

けれど皮肉なことに、外の世界がそれを許さなかった。

ドアの外で何かがテーブルの脚にぶつかる音がし、続いて真壁さんの足音が近づいてきた。私の身体は瞬時に強張り、意識は反射的に外へと向かう。あまりに素早い切り替えに、自分でも笑いたくなった。さっきまで「もっと愉しみたい」なんて思っていたくせに、今はもう「収める」ことを考えている。

けれど不思議なことに、興奮が冷めて不機嫌になるようなことはなかった。

むしろ――この状況が、どうしようもなく刺激的だった。

追い詰められ、正気を失いそうな時ほど、眩しくて、熱くて、かき乱されたものを自分の懐にねじ込みたくなる。それが、私という人間の一番質が悪くて、一番愉快な部分なのだろう。そうでもしないと、外にいる連中の思い通りにされてしまう気がして。

俺は周士達を見つめ、「まずいわね」と口にしながらも、笑みを消さなかった。

彼が私の襟元を整えてくれる指先は、驚くほど冷静だった。その感触に、本当はまだこの膝から降りたくないという我慢が込み上げてくる。貪欲だからじゃない。一度床に足をつけてしまえば、私はまた「タブレットを抱え、熱曲線を監視し、真壁にフォーマットの報告をするシキ」に戻らなければならないからだ。悪くはないけれど、今のこの時間とは、あまりに距離がありすぎる。

だから私は、彼の口角に盗み取るような接吻をした。

一瞬の、飴玉を盗むような軽やかさ。

「……本当は、もっとあんたを愉しませてあげたかったんだけどね」

本心だった。けれど、今はここまでにしておくべきだということも分かっていた。これ以上踏み込めば、たとえドアが開かれなくても、外の連中の記憶に消えない「違和感」を残してしまうだろう。私が欲しいのは、この絶望的な夜から掠め取った生の実感であって、新しい弱點を作ることじゃない。

ベッドから降りたとき、膝が僅かに震えた。

けれど、私はしっかりと立った。

そういうところが、私らしいと思う。普段は何一つ恐れていないフリをしているけれど、心に触れられた瞬間、身体はこうして正直に応えてしまう。ただ、それを他人に見せるのは趣味じゃない。だから私は素早く、タブレットを抱え、衣類を整え、呼吸を殺した。ほんの数秒前まで、ここで睦み合っていたことなんて微塵も感じさせない調査員の顔で。

ドアへと向かう途中で、私は一度だけ振り返り、彼を呼んだ。

原本は私が持っているから。

その言葉は、表面上は熱曲線のことを指していた。けれど、それだけじゃない。もっと別の、もっと深い意味を込めていたんだ。――今夜のこの短い時間は、私にとっても「原本」なんだ。外側の連中が綺麗に整形して、整理して、形式通りに書き換えてしまうような、そんな死んだ記録なんかじゃない。

私は、この時間を死物しにものにしたくない。毛羽立ったままの生々しさも、笑い声も、乱れた呼吸も、そして――ただ一緒に愉しみ(ハッピーになり)たかっただけなのに、いつの間にか心の奥で膨らみ始めていた「何か」も。

その「何か」の正体は、まだ認めたくない。

だから私はただ、勝手に壊れたりしないで、あんたが先に潰れたら私が不機嫌になるから、とだけ言った。

私らしい言い草だと思う。十分に強気で、十分に無関心を装えている。

けれど、自分だけは知っている。その言葉の裏側に、どれほどの想いを隠したか。

勝手に壊れないで。 外の連中に、あんたを奪わせないで。 そして――今夜の私の「悪あがき」を、無駄にさせないで。

ドアを開けると、白い光が容赦なく流れ込んできた。真壁さんがそこに立ち、いつものように冷徹な眼差しを向けている。私はタブレットを抱えて彼の脇をすり抜けた。彼は私を、それから室内のシーダーを一度ずつ見たけれど、何も問わなかった。こういう人種は本当に癪に障る。どこまで見透かされているのか、まるで見当がつかないから。

でも、もうどうでもいい。

小机に戻り、タブレットを置いて熱曲線を開く。画面には再び赤と青の線が散らばった。その線を二秒ほど見つめて、ふと、自分の口角がまだ緩んでいることに気づいた。私は慌ててうつむき、倍率を調整するフリをして誤魔化す。

隣には、弥生がいた。

彼女は私を見ようともせず、ただページをめくった。

その音は、驚くほど静かだった。

けれど、分かってしまった。彼女の全身はいまだに、悲鳴を上げるほど張り詰めている。視界の端で捉えた、書類に添えられた彼女の指先は、不自然なほどに白かった。その瞬間、私の中にあった微かな愉悦が、不意に沈んだ。後悔したわけじゃない。ただ、理解してしまったんだ。この最悪な夜に、私みたいに真っ先に「呼吸」を盗み取れる人間ばかりじゃないってことを。

中には、息をすることさえ自分に許せない人だっているんだ。

画面を見つめながら、私は毒づいた。――ああ、もう、本当にうざい。

もしシーダーの女がこのまま幾何級数的に増えていくなら、この先は間違いなく面倒なことになる。

唐突な、そして今の状況には不釣り合いな思考。けれど、それは確かに芽生えてしまった。その瞬間、自分でも呆れて、笑い出しそうになって、そして笑えなくなった。

だって、それは、私が観測室でしたことが、単なる一時的な気まぐれではなかったことの証明だったから。

それはもう、別の場所へと根を伸ばし始めている。

私はうつむき、原本のフォルダに、さらに一段階上の暗号化をかけた。

画面に映る自分の顔。耳の付け根はまだ赤く、けれど瞳はさっきよりも輝いている。その残像を見つめながら、私は心の中で呟いた。

「……もう、いいや」

まずは、生きること。

残りの面倒ごとは、夜が明けてから考えればいい。






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