S2第五十章 二者択一を迫る
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
天はまだ、明けていない。
当直室の白熱灯に長時間晒されていると、人間の顔色すら一層剥ぎ取られたかのように見える。真壁は第六十一章で残された卷宗を再び広げたが、追及を急ぐ様子はなかった。ただ通信員に命じ、二つの回線を繋ぎ放しにさせた。一つは神代家、もう一つは山口だ。
神代家への回線は、最初、誰も出なかった。
話中なわけでも、断線しているわけでもない。ただ、極めて清潔な「無反応」がそこにあるだけだ。呼び出し音が幾度となく虚空へ送られる。それは深い井戸の底へ石を投げ込むようなもので、水音一つ返ってはこない。
神代 弥生はデスクの傍らに立ち、背筋を伸ばしたままだった。その直立不動の様は、この沈黙など自分には無関係だと言わんばかりだ。だが、俺には分かっていた。彼女の肩のラインは先ほどよりも硬化し、呼吸の幅さえ極限まで細められている。彼女は返信を待っているのではない。自分がどちら側に、あるいはどちらの側からも「切り捨てていい駒」として扱われる瞬間を待っているのだ。
真壁は沈黙を貫いている。
林 雨瞳は俺の右後方の壁に背を預け、腕を組んでいた。その眼差しは、抜き身の刀の背のように冷ややかだ。希は膝の上でタブレットを抱え、指先をフレームに添えたまま動かさない。まるで自分が微かでも動けば、この部屋に辛うじて漂う静寂が、一気にひび割れてしまうのを恐れているかのようだ。老高はドアの近くに立ち、火を点けていない煙草を咥えていた。口内に残る煙の臭いを噛み締めるように、全身で何かを耐えている。
三巡目の呼び出しも虚しく終わると、通信員が低く告げた。「神代家、応答なし」
真壁が弥生へと視線を向ける。
「記録しろ」
女性調査員が紙にペンを走らせる。『神代家、第一次応答なし』。
たった十文字足らず。
だが、その一行が書き出されるのを見た瞬間、俺は「無反応」こそが最大の返答であることを悟った。ここに「応答なし」という記録が残れば、後から誰がこの件を蒸し返そうと、いくらでも都合のいい解釈が可能になるからだ。神代家は表態していないから現場で処置した。神代家は却下しなかったから臨時徴用は黙認と見なす。神代家は応答しなかったから、弥生の現在のアクションは本家の保護下にはない。
応答しないという行為もまた、一つの「開門」なのだ。
林 雨瞳が唐突に、凍てつくような声で吐き捨てた。
「……一番汚いやり方ね」
その言葉を拾う者はいなかった。全員、意味を理解していたからだ。
さらに十分ほどが経過した頃、当直電話がようやく鳴り響いた。
山口の回線ではない。
神代家だ。
通信員が受話器を取り、基地名、当直室、災害時頁、封印案件番号を事務的に告げる。それから送話口を掌で覆い、真壁を見た。
「……相手は『記録式の伝達』のみを受け付けるとのことです」
真壁が頷く。「拡音機に入れろ」
回線が繋がると、まずは微かなノイズが室内に流れ、次いで年配の女性の声が響いた。平坦で、乾ききっており、一切の起伏がない。返答しに来たというよりは、格式を読み上げに来た機械のようだ。
『神代システムより、以下の通り回答する』
当直室は、先ほどよりも深い静寂に包み込まれた。
『一。神代 弥生による現場での発言は、本人による現地判断と見なし、神代本家の統一見解を代表するものではない』
弥生の睫毛が、微かに、本当に微かに震えた。
俺は見逃さなかった。
『二。神代本家は、当該個体の神代システム接触資格を撤回していない。よって、災害時頁、封印頁、欠員続査頁において生じる一切の協力義務は、引き続き本人が自負するものとする』
希が小さく息を呑む音が聞こえた。
『三。地方霊務局が程序に則り臨時徴用を起動する場合、本家はこれを阻却しない』
拡音機から流れる音が、一秒間だけ途絶えた。
『以上だ』
通信員が応じる暇もなく、向こう側で回線が切断された。まるで一枚の紙を投げ捨て、その行方すら確認せずに立ち去るかのような潔さだ。
誰も、声を発しない。
俺はデスクの一点を見つめた。胸の奥で、どす黒い火が這い上がってくるのを感じる。意外だったからではない。むしろ逆だ。あまりにも「神代の家」らしい回答だったからだ。第一項で人間を切り離し、第二項で責任だけを押し戻し、第三項で扉を全開にする。最後に誰がその穴へ引き摺り込まれようと、家には一切傷がつかない仕組みだ。
林 雨瞳が冷笑を漏らす。
「見事なものね。身内とは認めないけれど、鎖だけは外さないわけだ」
弥生は彼女を見ず、他の誰をも見なかった。
ただそこに立っている。だが、彼女という存在そのものが、急激に希薄になったかのような錯覚を覚えた。崩れ落ちたのではない。より削ぎ落とされ、狭まったのだ。目の前で「本家」という名の門を無慈悲に解体され、その門を繋いでいた縄を、そのまま自分の首に巻き付けられたかのように。
以前、彼女が言っていた言葉を思い出す。自分は神社の長でも、高貴な巫女でもない。ただ神代家が神楽機関に差し込んだ、末端の「インターフェース」に過ぎないのだと。あの時は単なる自己紹介に聞こえたが、今この当直室においては、別の意味を帯びて響く。——お前は重要ではないが、有用ではある。守る価値はないが、使い潰す価値はある。
真壁は三つの回答を確認しても、驚く様子は微塵も見せなかった。ただ事務的にこう言った。
「……記録完了だ」
女性調査員が、その冷酷な宣告を一字一句漏らさず書き写していく。
弥生は、それでも動かない。
その静止は、激昂するよりも見ていて辛いものだった。自分を弁護する気力さえも、今は「自分を保つため」だけに費やしているのだ。こういう手合いが一番危うい。痛みが深ければ深いほど、表面は静水のように安定する。だが、それゆえに一度どこかが決壊すれば、それは微かな亀裂では済まないのだ。
真壁は回答の記された紙をファイルの一番上に重ね、通信員を仰ぎ見た。
「山口の回線を繋げ」
山口の応答は、驚くほど早かった。
あたかも、神代家がその三つの宣告を終えるのを、今か今かと待ち構えていたかのようだった。
拡音機からノイズが走り、次いで山口の低く沈んだ声が響き渡った。
「神代家の回答は、実に結構なものだったな」
真壁は応じない。
山口もそんなことは端から気にしていない様子で、独り言のように言葉を継いだ。
「少なくとも、我々の手間を大幅に省いてくれた。これで神代 弥生は本家の統一見解という盾を失ったが、接触資格は維持され、臨時徴用の障壁も取り払われた。真壁、君が欲しがっていた『門』は、これで半開きになったわけだ」
「門は半開き」という言葉が耳に飛び込んできた瞬間、俺の手の甲にある魂釘が、ダイレクトに熱を帯びた。
激痛ではない。だが、誰かが指関節で骨を直接ノックしたかのような、嫌な感触だ。
真壁がペンを置く。
「……貴公の方はどうだ」
山口が、低く笑った。
「私が欲していたものも、既にテーブルの上だ」
通信員が、不意に部屋の入り口へと顔を向けた。次の瞬間、一人の署員が銀灰色の細長い安全密封盒を運び入れてきた。サイズはさほど大きくない。両掌を並べた程度の長さだ。金属製の封印シールは健在で、そこには黒々と文字が印字されていた。
『大湊港 臨時封存件』
そして、そのシールの下には、一つの署名がある。
——山口。
その名前を目にした瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
初めて奴の「手続き」を目の当たりにしたからではない。この瞬間、ついに「六枚目」が、比喩ではなく物理的にテーブルの上に載せられたからだ。これまでは五枚だの大湊だの六枚目だのと、あくまで推測や議論の範疇でしかなかった。だが、この密封ケースが当直室に運び込まれた今、事態のフェーズは完全に移行した。
それはもはや、単なる手がかりではない。
俺たちの首を絞めるための、「チップ」だ。
真壁はケースを見つめ、その瞳の深淵をさらに深めた。
「……これを基地内に持ち込んだのか?」
「空口だけの脅しではないと分かってもらわねば困るからな」山口の声は、凪いだ水面のように平坦だ。「大湊の一枚、正式に列卓させてもらう。これより、件数は五ではなく、六だ」
希が弾かれたように顔を上げた。
老高が低く毒態をつく。「……クソが」
林 雨瞳は沈黙を守っていたが、腕を組む力がさらに強まったのが分かった。ケースを射抜くような彼女の視線は、単なる封印物を見ているのではない。部屋に滑り込んできた毒蛇の頭を、冷徹に見定めている。
真壁は、すぐにはケースに触れようとしなかった。
「……どう『列する』つもりだ」
山口の回答は速かった。最初から完成された台本をなぞるかのように。
「至極単純な話だ。大湊の一枚は私の手元にあり、その出所、封印状態、接触記録のすべてが完璧に揃っている。ならば、これを『対照根』とすることができる」
俺の心臓が、嫌な音を立てて沈んだ。
やはり、そう来るか。
「六枚目を基準点とし」山口が続ける。「周 士達が現在保持している五枚を、同系統かつ未登録の高リスク媒介と定義する。そうなれば、一枚一枚の暴走を待つ必要も、誰かが死ぬまで補頁を保留する必要もない。霊務局(BEA)は即座に保安、監理、そして必要とあらば『臨時收繳』を起動できる」
シキがタブレットをデスクに叩きつけた。
「ふざけんな!」彼女は今回、我慢しなかった。「対照根にするには同系統である証明が必要でしょ。あんたの手元に一枚あるからって、他人の持ち物全部にセットでレッテル貼れるわけないじゃない!」
山口は、向こう側で愉快そうに鼻で笑った。
『だからこそ、神代家の門を開けさせたのだ。……神代 弥生、君に判読してもらうために』
部屋の温度が、一気に氷点下まで下がったような錯覚。
俺は弥生を見た。
彼女はデスクの傍らに立ち、銀灰色のケースを見つめていた。その顔色は、先ほど本家の回答を聞いた時よりもさらに白い。その物体そのものを恐れているのではない。彼女は、ついに完全に「理解」してしまったのだ。——神代家の冷淡な回答、真壁の誘導、そして山口の持ってきた六枚目。これらは別々の事象ではなく、彼女を逃げ場のない淵へと追い詰めるための、精緻に計算された三段構えの「罠」であることを。
本家からの後ろ盾を断ち。
接触資格という名の鎖だけを残し。
そして「六枚目」という刃を突きつけて、彼女に踏み絵を迫る。
彼女が判読を拒めば、「神楽機関が案件への協力を拒否した」と記録される。逆に判読を受け入れれば、彼女の手によって六枚の釘が初めて一列の程序として連結される。その瞬間、彼女はただの傍観者ではなく、この檻の扉を自らの手で閉じた当事者へと変質するのだ。
これこそが、真の「圧力の昇格」というやつだ。
声を荒らげるわけでも、態度を硬化させるわけでもない。
ただ、辛うじて両足を乗せていた二つの足場を、同時に、そして無慈悲に引き抜く。
真壁がようやく手を伸ばし、密封ケースの表面に触れた。だが、封印を解くことはない。
「対照根としての認定は、君の一存で決まるものではない」
「だからこそ言っている。神代 弥生に判読させろと」山口が淡々と告げる。「彼女が霊務局(BEA)の手続きの中に身を置くというなら、この案件は今夜、一気に大きな一歩を踏み出すことになる」
林 雨瞳が冷笑を漏らす。
「……ようやく本音を吐いたわね」
山口は否定しなかった。
『吐いたところで構わんさ。いつまでも「中間」に立っていられると勘違いしている連中に、現実を教えてやるのも慈悲というものだ』
その言葉は、弥生に向けられたものだった。
それはもはや問いかけですらなく、彼女の横面を力任せに張り飛ばすような傲慢な宣告だった。
弥生はより一層背筋を正した。まるで背後から脊椎を無理やり吊り上げられているかのように。彼女は即答しなかったが、唇の白さは先ほどよりも増している。それは寒さのせいではない。あまりに強く噛み締めすぎたせいで、血色が完全に失われているのだ。
真壁が密封ケースから手を引いた。
「……君のやり方は、速すぎる」
山口が笑う。
『君のやり方が、遅すぎるのだ』
「遅いことは過失ではない」真壁が顔を上げ、拡音器を見据えた。「今ここで六枚目に対照根の地位を与えれば、大湊の封印物を『母体』とし、周 士達の手元にある五枚を逆定義することになる。確かに迅速だが、それは同時に、案件全体の初期解釈権を君が独占することを意味する」
山口は隠そうともしなかった。
『それがどうした?』
「どうした、だと?」真壁の口調は依然として平坦だったが、その言葉には鋭い棘が含まれていた。「……それはもはや『捜査』ではない。単なる『強奪』だ」
当直室が、一瞬の静寂に支配された。
今夜これまでのやり取りの中で、真壁がこれほどまでに剥き出しの言葉をぶつけたのは初めてだった。
老高がゆっくりと顔を上げ、希の瞳にも変化が走る。ユートンでさえ、真壁の横顔を意外そうに見やった。
山口は向こう側で半秒ほど沈黙し、それから低く、くぐもった笑い声を漏らした。
『真壁、君もようやく認める気になったか』
「私が何を認めようと、それは重要ではない」真壁が言う。「重要なのは、君がこの案件を足場にして、一体どこまで這い上がるつもりかだ」
それを聞いていた俺の胸のうちは、むしろより重く、塞ぎ込んでいくようだった。
なぜなら、ここに至ってようやく背信線の全貌が浮上してきたからだ。二一三室、葛西、第三の空白、預留、災害時頁——それらはこれまで、あくまで「事件」としての体裁を保っていた。だが、今は違う。山口が六枚目を物理的に突きつけ、神代家が弥生を突き放した。真壁と山口の対立も、もはや捜査手法の差異などではない。
二本の、明確に分かたれた「道」だ。
一方は案件を実績として食い散らかし、駆け上がるための道。
もう一方は案件をシステムとして飼い慣らし、組織ごと飲み込むための道。
進む方向は違えど、その飢えの正体は同じだ。
山口の声が再び室内を圧した。今度は、より冷酷に。
『真壁、強奪と呼びたければ呼ぶがいい。だが理解しているはずだ。神楽機関には、この六枚を抑え込む力などない。大湊の一枚は既に俺の手中にあり、周 士達の五枚も早晩リストに載る。先に六枚を繋ぎ合わせた者が、その後の全工程を定義する資格を得るのだ。……君にその勇気がないなら、俺がやる』
真壁は、何も答えなかった。
山口は畳み掛けるように言葉を継いだ。
「それから、自分だけが清廉潔白であるかのような物言いはよせ。貴様が今も収繳を躊躇っているのは、六枚目が対照根として確定した瞬間、手元の程序がもはや貴様のものではなくなることを理解しているからだろう?」
痛烈な一撃だった。
そして、あまりに正確だ。
真壁という男は、感情で動かされるような手合いではない。だが、山口のその一言が投げ込まれた瞬間、彼の瞳の奥が僅かに、だが確実に沈んだ。その一瞬の揺らぎで分かった。山口の言葉は、急所を射抜いたのだ。
真壁は案件を支配したがっている。
山口は案件を強奪したがっている。
違いは私心の有無ではない。どちらが先に、その私心を「格式」へと昇華させるかという、それだけの違いだ。
その時、弥生が唐突に口を開いた。
「……私は、どちらの側のためにも、六枚を繋ぎ合わせるような真似はいたしません」
声は決して大きくなかったが、驚くほど明晰だった。
当直室にいた全員の視線が、彼女に集まった。
彼女はそこに立ち、顔色は依然として蒼白だったが、その瞳には初めて本物の「冷徹さ」が宿っていた。普段の礼儀正しい淡白さではない。それは鞘から引き抜かれた刀身が放つ、剥き出しの鋭利さだ。
山口が向こう側で一秒ほど沈黙した。
『……本気かね?』
「私は現場判読のみを行います。あなた方の権力抗争のための道具にはなりません」
その宣告に、あの老高でさえも思わず目を見張った。
俺も彼女を見つめ、胸の奥が微かに震えるのを感じていた。意外だったからではない。この瞬間、俺は弥生という人間の本質をようやく目撃したのだ。彼女は普段、規律の中に身を置く、禁欲的で、潔癖で、自分自身を固く閉ざした「門」のような存在だ。だが、それほどまでに規律を重んじる彼女が、真に拒絶を口にした時、その頑なさは誰の強硬な態度よりも鋭く、相手を切り裂く刃となる。
山口が、拡音器越しに軽く舌打ちをした。
『神代 弥生、よく考えるがいい。神代の本家は先ほど明言した。君の発言は君自身の責任であり、資格も責任も君という個体にぶら下がったままだ。臨時徴用の盾になる者は誰もいない。その状況で「どちらにも与しない」と言えば、記録上には二通りの解釈しか残らないことになる』
彼は言葉を切り、その「毒」が部屋中に染み渡るのを待ってから続けた。
『神楽機関が君を利用して案件を停滞させているか、あるいは――君自身が個人的な感情で、周 士達の釘を隠匿しようとしているかだ』
俺は思わず拳を握りしめた。指関節が嫌な音を立てる。
背後の林 雨瞳が微かに動いた。前に出ようとしたのだ。
希はこらえきれずに怒鳴り散らした。「ふざけんな! 中立でいることさえ『どちらかに加担してる』って決めつけるわけ!?」
山口は、あざ笑うように答えた。
『その通りだ』
その一言が落ちた瞬間、部屋の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥る。
もはや隠す気すら持っていない。
事ここに至っては、虚飾など無意味だからだ。神代家の回答という名の「縄」、六枚目の釘という「鉤」、そして弥生の技術者という身分は「門の蝶番」だ。山口はその門を力任せに押し開き、ルールを白日の下に晒したのだ。——俺のために門を開けないというなら、他人のために門を閉めているのだと記録してやる。中立など存在しない。あるのは「立ち位置」だけだ。
これこそが脅迫よりも残酷な追い詰め方だ。
同意など必要ない。ただ表の中に名前が載っているだけで、既にその「立ち位置」は規定されてしまっている。
弥生の指先が、掌に深く食い込む。
今度は、すぐに言葉が出てこなかった。
怯えたのではない。山口の「その通りだ」という肯定があまりに潔すぎて、彼女が辛うじて縋っていた「選ばなくてもいい空地」を完全に消し去ってしまったからだ。俺は彼女を見つめ、痛感していた。彼女が真に恐れていたのは、非難されることでも、事件に巻き込まれることでもない。——「お前には、自分自身に属する居場所など存在しない。お前はただ、誰かのために場所を埋めているだけの記号だ」と、再び突きつけられることなのだ。
真壁が不意に声を上げた。
「……山口、そこまでにしろ」
だが、山口は止まらない。
『彼女がまだ受け入れないというなら、別のルートを――』
「そこまでにしろ、と言っている」
真壁の声が、先ほどよりも一段重く響いた。
室内は、死のような静寂に包まれた。
向こう側の山口も、数秒の沈黙の後にようやく口を開いた。
『真壁、今ここで彼女を庇うことは、神楽機関を庇うことと同義だぞ』
真壁は拡音器を見据えた。
「……私は、第六枚目を使って定義権を先取しようとする貴様の『食い方』を阻んでいるだけだ」
『聞こえはいいな』
「少なくとも、貴様よりは直截的だ」
山口が笑った。
『直截的で何が悪い? 神楽機関はこの数年、門の多さ、人員の多さ、インターフェースの多さに胡坐をかき、システムに組み込まれるべき事象を自身の懐に滞留させ続けてきた。今、六枚の釘が浮上したのだ。まだ奴らに不名誉を隠すための布を貸すつもりか?』
真壁は即答せず、ペンを弄ぶように一回転させてから、静かに言葉を紡いだ。
「神楽に貸す布など持ち合わせていない。私はただ、貴様が六枚目の釘を踏み台にして、この全工程を自身の功績として書き換えるのが不愉快なだけだ」
その一言が放たれた瞬間、当直室にいた誰もが理解した。
事態はもはや「どちらが正当か」という議論を通り越し、真壁と山口が、互いの腹の底にあるドロドロとした私欲を曝け出す段階に至ったのだ。
山口側が、暫し沈黙した。
再び発せられた声は、逆に不気味なほど平坦だった。
『……よかろう。ならば君の好む方式で進めようじゃないか』
真壁は沈黙を守る。
『神代 弥生に今すぐ六枚の帰属を決めろとは言わない。だが、二つの条件を飲んでもらう。一つ、六枚目の釘を正式に留卓させること。二つ、周 士達が持つ五枚を、現時刻を以て「照合待ちの高リスク媒介」と見なし、霊務局(BEA)の災害時監理下に置くことだ』
俺は銀灰色の密封ケースを睨み据えた。胸の奥の火が、石のように硬く、熱く、燃え盛るのを感じる。
山口はまだ止まらない。
『加えて、神代の本家が臨時徴用を容認した以上、神代 弥生に「技術的在場者」などという曖昧な位置に留まることは許さない。神楽機関の代表として明確に協力を拒絶するか、あるいは臨時判読人として明確に列卓を受け入れるか。二つに一つだ』
背後でリン・ユートンが「……どこまでも狗ね」と低く吐き捨てた。
シキの顔は屈辱で歪み、壁際のラオガオがついに声を荒らげた。
「二つの条件だと? 人間とブツをまとめて一蓮托生に縛り上げるつもりかよ!」
山口は平然と応じる。
『その通りだ。私はそう言っている』
椅子に座ったまま、俺は不意に笑い飛ばしたい衝動に駆られた。
ここまで来れば、もう誰も演じる必要はない。山口の狙いは単一の回答でも、五枚の釘の没収でもない。五枚の釘、六枚目の釘、弥生の技術、真壁の程序、神楽機関の門——それらすべてを一繋ぎの縄として握りしめようとしているのだ。その縄の端さえ掴んでしまえば、後はどこへ報告しようと、すべて奴の「功績」になる。
これこそが、この夜の真の背信線だ。
誰かが名簿を書き換えたとか、二一三室に何かを仕掛けたとか、そんなレベルの話じゃない。霊務局の内部に、これらすべてを足蹴にして、神楽機関が握っていた領地へ攻め込もうとする「餓えた獣」がいるという事実だ。
真壁はデスク上のケースを見つめ、長い沈黙の末に答えた。
「……六枚目の留卓は認める。ただし、開封は許さない」
山口は異を唱えなかった。
「五枚の釘を『照合待ち』として列するが、予設収繳は行わない」
山口は一拍置いてから、『……当面の間はな』と応じた。
真壁が顔を上げる。
「神代 弥生は災害時頁臨時判読在場者の地位を維持する。代表者としての身分確認は行わない」
山口が、今度は愉快そうに笑った。
『君は、最後まで彼女に酸素を残してやるつもりか』
「私が残しているのは、案件が自壊せずに進むための余地だ」真壁は冷徹に言い放った。「……貴様のための台階ではない」
拡音器の向こう側が、数秒間、死のように静まり返った。
やがて、山口が最後に告げた。
『いいだろう。ならば俺からも、一言だけ残させてもらおう』
誰も応じない。奴は自らの言葉を、呪いのように部屋へ投げ込んだ。
『夜明けまでに、周 士達の持つ五枚のうち、どれか一つでも暴走の兆候を見せてみろ。その瞬間、俺は六枚目の対照根を盾に、緊急接管を起動する。……その時になれば、神代 弥生の回答も、真壁、君の許可も必要ない』
俺の手の甲にある魂釘が、その言葉を理解したかのように、瞬時に焼けるような痛みを放った。
俺は声を出さず、ただ指をゆっくりと、掌を抉るほど強く握りしめた。
山口は、最後の一刺しを残して消えた。
『それから、神代 弥生。……君が今夜、立ち位置を選ばなかったとしても、記録には「選んだ」と記されることになる。……どちら側に立たされたか、それを決めるのは君自身ではないのだよ』
ザッ、というノイズと共に、回線は無慈悲に切断された。
ノイズが徐々に引いていくのではない。まるで断頭台の刃が落ちるかのような、あまりに直截的な切断だった。言うべきことはすべて言い終えた。残された圧力が、自分の手を汚さずとも勝手に増殖し、俺たちの首を絞め上げるのを見越したかのような幕引きだ。
当直室は、度を越して静まり返っていた。
通信員は声を出すことすら憚り、女性調査員もペンを止めたままだ。山口が最後に放ったあの呪詛に近い言葉を、ありのまま案件書に記すべきか迷っているのだろう。真壁はペンを握り直し、数秒の沈黙の後、静かに命じた。
「……原文通りに記録しろ」
女性調査員が俯き、ペンを走らせる。
俺はその文字が紙に刻まれていくのを眺めながら、この章がここで終わるわけではないことを悟っていた。本当の地獄はここからだ。山口の言葉が「記録」として確定した以上、弥生が今後いかに沈黙を貫こうとも、彼女は不可逆的に「立ち位置」という名の淵へ押し流されていく。
立たずとも、立たされたことになる。
答えずとも、答えたことにされる。
この追い詰め方の最も悪質な点は、自分がただの「傍観者」でいられる清潔な場所を、文字通り根こそぎ奪い取ることにある。
弥生はデスクの傍らで、微動だにせずにいた。
彼女の瞳は見えない。ただ、その項の細い線が、限界まで張り詰め、かろうじて彼女という存在を繋ぎ止めているのが分かった。規律の中に身を隠す術を誰よりも熟知していた彼女が、今やその規律によって退路を断たれ、縊り殺されようとしている。
林 雨瞳が、俺の背後から半歩前へ出た。
「真壁」と彼女は告げた。「もしこれ以上、彼女に何らかの『確認欄』を書かせるつもりなら、よく考えることね。今この瞬間に彼女にペンを握らせる者は、将来的にその一筆を使って彼女を葬る共犯者になるのだから」
真壁は彼女を見据えたが、即答はしなかった。
希も言葉を重ねる。「五枚の釘についても同じよ。収繳を保留するなら、移管の前段階みたいな格式で回すのはやめて。熱曲線は私が守る。けど、誰かの功績のために『生きたブツ』を『死んだ書類』に書き換える手伝いなんて、死んでもごめんだから」
老高が短く咳払いし、同意を示した。「……俺も同感だ」
真壁は三人の言葉を黙って聞き届けた。表情は変わらなかったが、先ほどのように即座に程序を押し付けてくることはなかった。彼も理解しているのだろう。この部屋にいる面々は、もはや単なる「関連人員」ではない。山口の言葉によって、それぞれが否応なしに異なる「戦場」に立たされてしまったのだ。彼らを単なる表格の一欄として扱うことの限界を、彼は悟ったのだ。
やがて、真壁が口を開いた。
「……夜明けまで、新たな署名は求めない」
その一言で、弥生の肩のラインが、僅かに、本当に僅かに緩んだ。
だが、それは放免ではない。ただの一時停止だ。夜が明ければ、神代の本家から新たな宣告が届き、山口が次の書類を突きつけてくる。すべては再び、彼女の細い首にのしかかるのだ。
真壁が卷宗を閉じた。
「六枚目の釘は留卓し、封印を維持する。五枚の釘は照合待ちとして監理下に置く。二一三室の封印も継続だ。これより夜明けまで、全員、指定された動線以外への立ち入りを禁ずる。……周 士達」
俺は視線を上げる。
「貴公は後方の観測室へ移動しろ。釘の容態を監視するのに好都合であり、同時に——夜中に誰かが余計な真似をするのを防ぐためだ」
「……その点に関しては、異論はないわね」
ユートンが横から、冷徹な皮肉を投げかけた。
俺は答えなかった。
真壁は再び弥生を見た。
「貴公も同行しろ。拘束ではない。待機だ。六枚目がテーブルにある以上、貴公の『在場』は不可欠だ」
その一言で、山口が半歩先んじていたことを確信した。
奴は弥生を即座に霊務局(BEA)の人間にはできなかったが、彼女を「傍観者」から「当事者(在場者)」へと引きずり出すことには成功したのだ。彼女がそこにいる限り、六枚目の釘は常に彼女を狙い続ける。落ちるのを待つだけの、鋭利な刃のように。
弥生は、ゆっくりと頷いた。
それは承諾というより、毒を飲み込む仕草に近かった。
椅子から立ち上がった瞬間、手の甲の魂釘が再び熱を帯びて跳ねた。俺は手を見る代わりに、デスクの上に置かれた銀灰色の密封ケースを睨みつけた。封印は解かれず、静かにそこにある。だが、それがこの部屋に運び込まれた瞬間から、すべては変質してしまったのだ。
これまでは第三の空白、葛西、二一三室、災害時頁——それらを巡る争いだった。
だが今は違う。これは「六枚の釘」を巡る戦争だ。
そしてその戦争は、単なるブツの奪い合いではない。この忌まわしい物語に、誰が「名前」を付ける権利を持つかという、定義権の奪い合いなのだ。
出口へ向かう際、弥生の傍らを通り過ぎた。
彼女は俺を見ようともせず、ただデスク上のケースを凝視していた。その瞳には光がなく、凍てついた深淵のようだった。何か声をかけようとしたが、結局、言葉にはならなかった。
この段階に至っては、気休めなど何の役にも立たない。
彼女が今、真に求めているのは優しい言葉などではなく、誰にも、何にも縛られずにいられる「自分の場所」なのだ。
だが、この呪われた夜のどこを探しても、そんな場所は残されてはいなかった。
真壁は調査員にケースを持たせ、後に続いた。
希はタブレットを抱え、老高が最後尾から部屋を出る。
背後から追ってきたリン・ユートンが、ドアを通り抜ける瞬間に、俺の肘にそっと触れた。
ほんの一瞬。
「私はここにいる」——その感触だけが、唯一の現実だった。
俺は振り返らず、ただ前へと歩を進めた。
廊下の白熱灯は先ほどよりも冷ややかな光を放ち、窓の外では天色が変わり始めていた。明るくなるのではない。漆黒の中に、わずかな「灰」が滲み出してきたのだ。それは、本当の災厄が幕を開ける直前の、あの不吉な静寂に似ていた。
俺の脳裏に、拭い去れない確信めいた予感が過る。
今夜、これまでの時間はまだ「序の口」に過ぎない。
山口の圧力は通信越しのものであり、六枚目の釘もただテーブルに置かれただけ。弥生もまた、「在場者」という枠組みに押し込められたに留まっている。
だが、夜が明ければ——。
これら三つの事象のうち、必ずどれか一つが決定的な一歩を踏み出すことになる。
そして、その一歩が踏み出された後には、今のような平坦な言葉遊びは通用しなくなるだろう。
立ち位置を、明確にしろと。
魂釘を、今すぐ差し出せと。
どちらの側に付くのかを、選べと。
あるいは、テーブルに留まりたければ、まず「自分自身」を供物に捧げろと——。
後方の観測室の前に辿り着いた時、真壁が既にドアを開けていた。室内は白熱灯の光で満たされ、デスクの上は空虚だ。まるで、これから俺たちが並べることになる、救いようのない「現実」を待ち構えているかのように。
真壁はドアの脇に立ち、最後の一言を投げかけた。
「……これより先、自分はただの傍観者だなどと、口が裂けても言うなよ」
俺は奴をちらりと一瞥したが、言葉は返さなかった。
そんなことは、今夜この部屋にいる全員が、嫌というほど理解させられている。
目の前でドアが再び開かれた時、俺の思考はたった一つの結論に集束していた。
山口が六枚目の釘をテーブルに持ち込んだのは、今すぐ五枚の釘を奪い去るためではない。
奴の狙いは、俺たちが呼吸をするたびに、その一口ごとに「対価」を支払わなければならないような——そんな逃げ場のない支配を、この夜明けから始めることなのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




