S2第四十九章:籠の中の鳥
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
俺と林 雨瞳が当直室に戻った時、そこは既に「再編」を終えていた。
真壁はデスクの向こう側に立ち、コートのボタンを一番上まで厳重に留め、手元には新たに差し込まれた灰色の卷宗。女性調查員がデスクに散らばった旧事件の資料を左側へ整え、もう一人の署員が録音機を有線拡音器へと繋ぎ変えていた。そのコードは、部屋の隅にある当直電話へと直結されている。
壁に寄りかかって立つ老高の周囲にはまだ煙草の臭いが漂い、希はサイドチェアに座ってタブレットを抱えていた。点灯した画面は、何らかのデータを再び隠蔽し終えた直後のように見えた。
神代 弥生は窗際に立っていた。その背筋はあまりに直直で、まるで誰かが定規を脊椎に当てて精密に計測したかのようだった。
真壁が臉を上げ、俺と林 雨瞳の上で視線を一瞬ずつ停滯させた。追及も説明もない。ただ、手にしたファイルをデスクの中央に置く。
「時間だ」真壁が告げる。「これより再開する」
背後でドアが閉まった。カチャリ、という軽い音。だがそれは、この一時間で交わされたどの言葉よりも、程序が不可逆的に進行し始めたことを残酷に物語っていた。
俺は元の椅子に腰を下ろした。林 雨瞳は座らず、俺の右斜め後ろに位置を取る。デスクを見渡せ、かつ俺には觸れない絶妙な距離。不即不離――彼女が最も得意とする、一步も退かずに何もしていない振る舞い。
真壁がファイルを開く。
最初の一枚目は、二一三でもなければ葛西でもなかった。
神代家の家紋のコピー。
俺の眼球がわずかに反應する。
同時に弥生の指先も強張った。彼女は沈默を守り、視線をそのコピーの上で滑らせ、すぐさま回收した。その速さこそが、彼女がその印をどれほど熟知しているかを逆說的に證明していた。
真壁はその紙をデスクの中央へ押し出す。
「神代 弥生。前へ」
室內は靜まり返った。
聞こえなかったわけじゃない。その一言が、部屋に散漫していた空気の粒子を、一本の鋭利な線へと收束させたのだ。先ほどの一時間、誰もが自分の事務に沒頭する振りをしていたが、真壁がその名を直接指名した瞬間、これが単なる二一三の延長線上にある問題ではないと全員が悟った。
弥生がゆっくりと歩み寄る。
足取りは揺るぎなく、デスクの上の家紋など眼中にないかのようだ。だが、俺には見えていた。彼女の右手はずっと握られたままで、指関節の白さが不自然なほど際立っている。彼女はデスクの前で止まった。真壁とはわずか半分の机を隔てるのみ。視線はファイルに注がれ、自ら口を開くことはない。
真壁も急ぐ素振りは見せなかった。
彼は二枚目の書類を引き出し、一枚目の上に重ねた。
それは臨時徴用令だった。霊務局(BEA)の書式印の下に、手書きの附記が添えられている。短く、一文だけ。
『神代系統の接触人員を、優先聴取対象に列する』
氏名はない。説明もない。だが、そんなものは不必要だ。これがここに置かれたという事実だけで、カードとしては十分すぎる。
希が押し殺したような短い毒態をついた。
老高はコートのポケットに手を突っ込み、沈默を貫いている。
椅子に座る俺の背中に、引きかけていた熱が再びじわじわと這い上がってきた。魂釘が疼くよりも早く、真壁の意圖を理解した俺の神經が、薄い火を灯し始めていた。
奴は、俺から手を付けなかった。
先に弥生を狙ったのだ。
なぜなら、今この建物の中で最も「プログラム」に飲み込まれやすいのは、五枚の釘を持つ俺のようなイレギュラーではなく、最初から複数のシステムに名を連ねている弥生のような人間だと理解しているからだ。
神代家、神樂機關、そして靈務局。
彼女がどこに立とうとも、周囲は彼女を「あちら側」の人間として定義できる。
これこそが檻だ。
扉は開いているように見えて、一歩足を踏み入れれば、左右兩側から「お前が望んで入ったのだ」と宣告される。
真壁がようやく口を開いた。
「今夜の聴取が始まる前、私は君を単なる技術的な対照協力者と見なしていた」
弥生は微動だにしない。
「だが、二一三が封印された後、状況は変質した」真壁の指が徴用令を軽く叩く。「七年前の葛西案において、三番目の空白が初めて公式に記録された際、当直日誌の傍らには一人の『神代系統の接触者』がいた。責任者でも担当者でもなく、ただ『在場』だけだ。それが何を意味するか、君なら理解できるはずだ」
弥生は彼を見据えた。その聲は、驚くほど平坦だった。
「つまり、『在場』という事実を、『有責(責任がある)』という記録へ昇格させたいわけか」
真壁は頷いた。否定すらしない。
「その通りだ」
当直室の空気が、一秒間だけ凍りついた。
俺は真壁を見据え、この男がなぜ山口よりも厄介なのかを唐突に理解した。山口なら直接値を吊り上げるだろう。五枚寄こせ、六枚目はどこだ、誰を協力させろ、誰を黙らせろ——そうストレートに要求してくる。だが真壁は違う。この男の最も狡猾な点は、対象を「まだ断罪されていない」グレーゾーンに留め置き、その周囲にあるあらゆる程序を、音もなく、着実に押し進めていくことにある。
外堀を埋め尽くされた最後には、嵌められるまでもなく、自分が「記録されるべき場所」に立たされていることに気づくのだ。
真壁が手を挙げ、部屋の隅にある有線拡音器を入れるよう女性調査員に促した。
微かな電流音が響く。
次の瞬間、ボックスから山口の声が漏れ出した。
『……始めたか?』
声は大きくなかったが、それが室内に流れ込んだ途端、当直室の空気の層が一段低く沈み込んだ。通信越しに彼の声を聞くのは初めてではないが、先ほどの録音よりも生々しく、まるでその場に本人がいるかのようだ。緩衝材も修飾もない。ただ、「俺はそこにいないが、手はすでにテーブルに届いている」という露骨な意思だけが伝わってくる。
真壁が応じる。「始めた」
山口は向こう側で、微かに、淡く笑ったような気配を見せた。
『ならば、まずは神代 弥生からだ』
弥生の瞳が、ついに動いた。
大きな動作ではない。ただ、睫毛がわずかに震えただけだ。それは、限界まで張り詰めた彼女の表面に、細い針でそっと突き刺したかのような反応だった。座ったまま彼女を見つめる俺の胸中で、先ほどからの火がより鮮明に燃え上がる。彼女がどう答えるかではない。この問いの立て方そのものが、事象の確認ではなく、人間を「解体」するための儀式だと分かっているからだ。
山口の声が続く。
『神代 弥生。君は今も継続して神楽機関に対し、霊式判読と「在場確認」を提供している。……相違ないな?』
弥生は即答しなかった。
真壁も急かさない。彼女が自ら、どの「欄」に言葉を書き込むかを待っているかのようだ。
数秒の沈黙の後、弥生が口を開く。「……私の派遣籍は、まだ神楽にあります」
『結構だ。では問いを変えよう。二一三の「第三の空白」が列候された後、君は霊務局によって封印されていない判読結果を、口頭あるいは書面で神楽機関に提供したか?』
その言葉が落ちた瞬間、俺の背後で林 雨瞳が短く息を呑んだ。
俺は危うく失笑しそうになった。
早すぎる。
もはや包み隠す気すら失せている。
これは情報の流出を問うているのではない。逃げ場のない直線を引いているのだ。「提供した」と言えば程序外転(ルール違反)になり、「提供していない」と言えば、山口は即座にこう畳みかけるだろう——『ならば、今君が隠し持っているその判読結果は、誰のために保留しているものだ?』と。
どう答えても、檻の中だ。
弥生は、より一層背筋を正した。
「……していません」
山口が一拍置く。
『では、今夜の君の行動基準は、神楽の技術標準か? それとも霊務局の封印標準か?』
今度の問いに、弥生は沈黙した。
答えられないのではない。そんな問いに正解など存在しないのだ。技術的な判読能力は彼女自身のものだが、そのフォーマットは他人のものであり、手続きはさらに別の組織のものだ。中間に立つ彼女が発するいかなる語彙も、対岸の連中によって新しい「ラベル」を貼り付けるための釘として利用される。
彼女の背中を見つめながら、俺は彼女が初めて基地に来た時の姿を鮮明に思い出していた。高位の巫女でもなければ、かしずかれる主祭でもない。ただひたすらに清潔で、静かで、規矩そのものを纏っているような人間。
神代の家系が彼女を「フォーマット」として育て、神楽機関が彼女を「インターフェース」として消費した。そして今、霊務局がやろうとしているのは、そのインターフェースをシステムごと強奪することだ。
真壁がようやく口を挟んだ。
「その問いは、私が修正しよう」
彼は拡音器を見つめ、平坦な声で言った。
「問題は、彼女がどの標準に拠っているかではない。彼女がその『判読権』を、どの標準の中に置く意思があるかだ」
山口が静まり返り、やがて問う。『……彼女に、選別をさせたいのか?』
真壁は答える。
「私はまず、彼女に『門』があるかを確認したいだけだ」
その言葉が、俺の背中の火を限界まで突き上げた。
門。
人間ではない、門だと。
真壁と山口の差は、ここにある。山口が求めているのは「貨物」だ。五枚の釘、あるいは六枚目。上に報告するための即物的な成果だ。だが真壁が欲しているのは「門」——手続き、旧事件、第三の空白、神代家、神楽機関。そのすべてを連結させるための共通インターフェースだ。奴は釘に興味がないわけじゃない。ただ、先に門を手に入れれば、後のものは勝手に開くことを知っているのだ。
山口が向こう側で笑った。
『真壁、君は相変わらずだ。手っ取り早く持ち去れるものを、わざわざ時間をかけて「文書」として飼い慣らすのを好む』
真壁はその皮肉を受け流し、弥生だけを見つめた。
「神代 弥生。今、君に一つだけ問う」
真壁が告げる。
「もし霊務局が正式に案件を立ち上げ、二一三の異常と、五枚の『高リスク媒介』によるクロス判読を要求した場合——君はそれを受けるか?」
部屋の中が、一瞬で静まり返った。壁際から聞こえる電流音さえ、耳障りなほど大きく感じる。
俺は真壁を睨み据えた。
……ようやく、奴の指先が俺に触れた。
「俺の持っている五枚を差し出すか否かを問うているんじゃない。先に弥生へ『クロス判読』を受けるかどうかを訊いているんだ。彼女が頷いた瞬間、この五枚は俺個人の持ち物から霊務局(BEA)の管理下にある『証拠品』へと変質する。没収は時間の問題、仮に没収せずとも『監視下』に置ける。それが奴の狙いだ」
弥生は答えない。
傍らに垂らした彼女の指先が、微かに強張る。何かが彼女の肩を執拗に押し下げているかのようだった。単に答えに窮しているのではない。自分という存在を、いくつもの「欄」へと解体させられているのだ。神代本家からの重圧、神楽機関という肩書き、霊務局の程序、そして——自分自身が果たして「自分」であるのかという、根源的な問い。
林 雨瞳が唐突に口を開いた。
「これは判読の可否を訊いているんじゃない。帰属を訊いているのよ」
真壁が彼女に視線を向ける。
「似たようなものだ」
「全然違うわ」とユートンが断じる。「判読は仕事。帰属は身売りよ」
老高が短く咳き込んだ。吹き出しそうなのを堪えているようだ。希は膝の上でタブレットを叩きつけ、小さく、だが鋭い音を立てた。
真壁はユートンと議論する気はないらしく、淡々とファイルから一枚の紙を引き出し、弥生の前へと押しやった。
俺の位置からは内容のすべては見えない。ただ、最上段の文字列だけが目に飛び込んできた。
『神代系統・協力者名簿——臨時確認欄』
その下は、空白だった。
「今すぐ加入しろと言っているわけでも、転属届を求めているわけでもない」真壁が言う。「ただ、霊務局が案件を処理する間、指定判読人としてこの五枚を程序内で承認する意思があるかどうか。それだけを答えてほしい」
弥生がようやく顔を上げた。
「……お断りすると言ったら?」
拡音器の向こうから、山口が真壁よりも早く応じた。
『ならば君の「拒否」は、神楽機関による案件協力の拒否として記録されるだけだ』
弥生の顔から、さっと血の気が引いた。
劇的な変化ではない。薄い膜を剥ぐように血色が失われ、彼女の肉体が、脳よりも先にその言葉の「毒」を理解したようだった。彼女が拒めば神楽機関が泥を被り、頷けば神代本家に「霊務局の犬になった」と知れる。逃げ場など、最初からどこにもない。
これこそが真の檻の扉だ。
閉じ込められるんじゃない。足元にいきなり扉が開くんだ。歩いても、立ち止まっても、それは「入室」と見なされる。
椅子に座ったまま、俺は今すぐにでも立ち上がってあの拡音器を叩き潰したい衝動に駆られた。
だが、動けない。
今ここで暴れるのは山口の思うツボだ。奴が最も望んでいるのは、俺が感情を剥き出しにして五枚の釘をテーブルにぶちまけることだ。そうなれば、あとは好き勝手に料理できる。「周士達は高リスク」「現場は制御不能」「即刻管理が必要」「指定判読人は霊務局の直属に変更すべき」——。
真壁は「門」を欲し、山口は「獲物」を欲している。どちらも、俺が先に自滅するのを待っている。
デスクの前で、弥生は先ほどよりも深い沈黙に沈んでいた。
横顔を見つめ、彼女がどこまで耐えられるかを呼吸の乱れから推測するしかない。彼女は普段、あまりにも自分の感情を仕舞い込みすぎる。すべての感覚を薄い紙のように折り畳み、衣服の裏に隠しているかのようだ。だが、今日は違う。その一枚一枚を、無慈悲に剥がされ、当直室の冷淡な白熱灯の下に晒し者にされている。
山口の声が、さらに平坦さを増して響く。
『神代 弥生、一つ忠告しておく。神代本家は君の「系統接触資格」を剥奪していない。つまり、今ここで君が発する言葉は、個人の回答であると同時に、神代システムとしての公式な意思表示と見なされる』
俺の背後でユートンが低く吐き捨てた。「……クソが」
シキの表情も苦々しく歪む。
ようやく理解した。
これは単に神代の名で圧力をかけているんじゃない。
彼女が最も忌み嫌い、そして決して逃れられない呪縛を、再びその首に掛け直したのだ。——「お前はお前自身ではない。口を開けば、それはシステムの延長に過ぎない。私的な判断など存在しない。お前はただ、誰を代表しているかというだけの記号だ」
気がつけば、俺は口を開いていた。
「……不公平だな、その問い方は」
真壁が俺を見る。
「公平な問いなど、この世に存在したかね?」
「あんたたちは判読の是非を訊いてるんじゃない」俺は奴を睨み据えた。「彼女を先に『生贄』として差し出せば、俺の持っている五枚に触れる権利をやる——そう言ってるんだろ」
真壁は否定しなかった。
代わりに向こう側の山口が、愉快そうに鼻で笑った。
『ようやく理解したか、周士達』
俺は部屋の隅にある黒いボックスに視線を移す。
「五枚が欲しいなら、俺に直接来いよ」
『直接来ているさ』山口が言う。『ただ、君は思った以上に自分を盾にするのが上手い。だから、先に君の周囲にある「逃げ道」を一つずつ塞がせてもらっているだけだ』
俺の手の甲にある魂釘が、唐突に熱を帯びた。
激痛というほどではないが、無意識に指関節を強張らせるには十分な熱量だ。背後に立つ林 雨瞳は俺に触れてはいなかったが、彼女の呼吸の刻みが僅かに変化したのが分かった。見ていたのだ。そして真壁もまた、それを見逃さなかった。彼の視線が俺の手に一瞬だけ固定され、その瞳の奥がさらに深淵へと沈む。まるで、頭の中にある未完成の案件書の空欄を、確信を持って埋めていくかのように。
その時、弥生が声を上げた。
「……もし、私が引き受けたら」
全員の視線が彼女に突き刺さる。
彼女は依然として直立不動のままだが、その立ち姿はもはや余裕などではなく、ただの「維持」だった。机に深く突き立てられたナイフが、自らの鋼の硬度だけで辛うじて垂直を保っている、そんな危うい均衡だ。
「もし私が引き受ければ」弥生はもう一度繰り返した。声は先ほどよりも平坦に、感情の起伏を完全に殺している。「これら五枚の釘を霊務局(BEA)の監理下に置き、『現場の制御不能』を理由とした即時の收繳を撤回してくださるのですか?」
真壁は即答を避けた。
代わって山口が、反吐が出るほど軽快に答える。
『保証はできんな』
弥生の瞳に、冷徹な光が宿った。
それはほんの一瞬だったが、俺は確かに見た。恐怖ではない。初めて彼女が剥き出しにした「怒り」だ。彼女は普段、自分を規律という名の重しで抑えつけているから、滅多にそんなものは表に出さない。だが、対峙する相手が程序を遵守する気すらないと悟った瞬間、彼女の纏う空気は平時よりも遥かに硬質で、鋭利なものへと変質した。
「……ならば、あなた方が今求めているのは協力ではない」彼女は言った。「先に人間を繋ぎ止め、後からじっくりと解体するための工程(手順)だ」
拡音器の向こうで山口が微かに笑ったような気配がした。
『神代の家系も、ようやく話の分かる個体を育て上げたらしい』
弥生の指先が掌に深く食い込む。
「神代の家」という言葉が、どれほどの毒となって彼女の神経を抉ったか、想像するに難くない。
「……山口、そこまでだ」真壁がようやく口を挟んだ。声は低かったが、そこには隠しようのない不快感が混じっている。「今すぐ彼女を既存の格式に叩き込みたいだけなら、この回線を開けておく必要はない」
拡音器の向こう側が、数秒間沈黙した。
『……どうするつもりだ?』と山口。
「記録に留めるのみだ」真壁は言った。「署名はさせない。口頭による帰属判定も行わず、ただ現場における能力確認のみを行う」
山口の冷笑が響く。
『真壁、君は相変わらず神楽機関に甘いな』
「私は案件の整合性を担保しているだけだ」真壁は顔を上げ、室内の面々を見渡すと、最後に俺のところで視線を止めた。「今ここで周 士達を追い詰め、五枚の釘を暴走させ、神代 弥生を一方的な立場に追い込む。それは君には好都合だろうが、案件の完全性にとってはマイナスでしかない」
俺は奴を凝視したまま、言葉を返さなかった。
これが山口と真壁の決定的な「食い方」の差だ。
山口が欲しがっているのはスピード、功績、そして上層部へ提示するための「支配」だ。対して真壁が求めているのは、更なる案件を増殖させるための巨大な「システム」そのものだ。奴も五枚の釘を狙ってはいるが、まずはそれらを書類という檻の中で飼い慣らし、ゆっくりと機関の一部へ変質させていくつもりなのだ。結局、食われることに変わりはない。ただ調理法が違うだけだ。
真壁は「臨時確認欄」の紙を回収し、再びファイルへと閉じ込めた。
「神代 弥生」彼は告げた。「問いを変えよう。現時点において、君は五枚の高リスク媒介に対する即時判読能力を有しているか?」
弥生は彼を見つめ、今度は躊躇わなかった。
「……有しています」
「神楽機関としての身分を保持したまま、災害発生時に必要とされる現場判読意見を提供できるか?」
弥生は一秒だけ間を置いた。
「……可能です」
真壁は頷き、その二言を淡々と記録した。
これが何を意味するか、俺には痛いほど分かっていた。
奴は弥生に、針の穴を通すような極細の生路を提示したのだ。許したわけではない。ただ、今この場で帰属を認めろと迫るのを止めただけだ。だがその道はあまりに脆い。後続の程序(手続き)が一つ増え、神代の本家から一通の確認が入るだけで、彼女は再びあの檻の扉の前へと引きずり戻される。
山口が、向こう側で重々しく口を開いた。
『……そんな引き延ばしは、檻を巨大にするだけだぞ』
真壁は顔を上げることなく答えた。
「……檻など、元から巨大なものだ」
言い終えるなり、彼は女性調査員に合図して回線を切断させた。
拡音器からの電流音が途絶えると、当直室の空気が僅かに軽くなったような錯覚を覚えた。だが、そんな安堵は半秒も持たなかった。山口は退いたのではない。ただ一時的に手を引っ込めただけだ。次にその手が伸びてくる時は、より直接的に、俺たちの喉元を狙ってくるに違いない。
真壁はペンのキャップを閉め、ようやく俺へと向き直った。
「周 士達」
俺は視線を上げる。
「現時刻を以て、五枚の釘の移管は一時保留とする」彼は言った。「だが、君は基地の封鎖区域を離れることは許されない。また、リスト外の人間との単独接触も禁止だ。神代 弥生は『災害時頁臨時判読在場者』、希は『熱曲線照合保安』、林 雨瞳は『現場接触証人』として記録する。そして、老高――」
「分かってるよ」壁に背を預けたまま、老高が口を開いた。「俺は一番寝覚めの悪い役回りだ。『警報発報者』だな」
真壁は笑わなかった。
「そうだ。発報者だ」
希はタブレットをより強く抱え込み、沈黙を守った。林 雨瞳は依然として俺の背後に立ち続けている。彼女にとって「接触証人」という肩書きは、単に羽織るものが一枚増えた程度の話に過ぎないのだろう。その腰が重圧で折れることなどあり得ない。
ただ一人、弥生だけが「災害時頁臨時判読在場者」という言葉を耳にした瞬間、睫毛を微かに震わせた。
結局、彼女は「記録」されてしまったのだ。
完全に寝返ったわけでも、正式に転属したわけでもない。だが、その物語の「第一行目」が刻まれてしまった。
一行目があれば、自ずと二行目、三行目が続く。今夜、俺はその残酷な仕組みを嫌というほど見せつけられた。
真壁が卷宗を閉じる。
「今夜はここで終わりではない」彼は告げた。「二一三室の封印、葛西旧案の継続捜査、そして『第三の空白』の列候を維持する。これより、未記録内容の口頭伝達、私的な供述の変更、および指定動線からの離脱を一切禁ずる。夜が明けるまでに、神代の本家から回答があるか、あるいは山口がさらにどれほどの『値』を積み増してくるかを見極めさせてもらう」
彼が「値」という言葉を口にした時、その視線は明らかに俺へと向けられた。
俺は視線を逸らさなかった。
部屋の中に、数秒の静寂が降りる。
最初に動いたのは弥生だった。彼女は一言も発さず、ただ机の端に置いていた手をゆっくりと引き戻した。先ほどの尋問で曝け出された自らの欠片を、一つずつ拾い集めて身に纏うかのような動作。彼女が背を向けた時、その肩のラインは入室時よりも硬く、そして狭くなっているように見えた。それは「平気」なのではなく、自分自身をバラバラにならないよう必死に縛り直している姿だった。
檻の扉は、まだ完全には閉まっていない。
だが、彼女にはもう聞こえているはずだ。蝶番が軋みを上げ、閉じる準備を始めた音が。
椅子に座ったままの俺の手の甲には、山口に煽られた時の熱がまだ僅かに残っていた。背後の林 雨瞳は俺に触れないが、その存在感だけは確かにそこにある。希は俯いて再びタブレットを起動し、感情を速度で塗り潰すように指先を走らせている。老高は顔を背け、吸いたくても吸えない煙草への欲求を無理やり押し殺していた。
真壁はこの場にいる全員を見渡し、最後にこう言い残した。
「……次のラウンドで問われるのは、『誰が何を見たか』ではない」
彼は一拍置いた。
「『誰が夜明け前に立ち位置を変えるか』だ」
言い終えると、彼は背を向けてドアを開け、女性調査員を先に退室させた。廊下の白い光が室内に射し込む。それはナイフのように冷たかったが、本当に冷ややかなのは灯りではなく、彼の残した言葉だ。
立ち位置。
山口は弥生に立てと迫り、
霊務局(BEA)は五枚の釘に立てと命じ、
真壁は全員を自らの書式の中に立たせようとしている。
もし神代の本家が口を開けば、十中八九、弥生にどこへ立つのかを問うだろう。
そして俺はここに座り、初めて明確に意識した。
この火災報知器が鳴り響いた後、本当に指名手配されたのは二一三室でも、葛西でも、第三の空白でもない。
「人間」だ。
そして檻の扉は、今まさに内側へと狭まり始めたばかりなのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




