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番外 林雨瞳の視点 ―― 氷の裏側

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

湯を注ぐとき、手が震えた。

熱いからじゃない。苛立っているからだ。

廊下の蛍光灯は死体安置所のように惨白で、真壁は相変わらず声を潜めて手順を語り、霊務局の連中は何かを驚かすのを恐れるように足音を消して歩いている。だが、本当に人を驚かせるのは足音なんかじゃない。口に出さない計算の数々だ。

五本を渡すか? 弥生はどちらにつく? 山口の手はどこまで伸びている? 真壁はいつまで引き延ばすつもりだ?

そんなクソったれな事柄が今夜にすべて凝縮され、空気は窒息しそうなほど薄い。

俺は紙コップの蓋を閉め、シーダーのジャケットを掴んで当直室へと向かった。腕にかけたジャケットは少し重く、ふと昔、冬の電車を待つ間に彼が「手が冷たいんだよ」と毒づきながら、ぶっきらぼうに自分の上着を私の肩に投げかけてきたことを思い出した。

そんな「記憶」が、何よりも忌々しい。一度死んで生き返ったというのに、あの男の性根は一向に変わっていない。

當直室のドアは僅かに開いていた。入る前に、隙間から中を覗き見る。

周士達は背もたれに体を預け、うなだれるように座っていた。まるで、あの白い光によってその場に釘打たれたかのように。机の上の空のコップは歪にひしゃげている。指で握り潰したのだろう。彼は耐えている。その様は、嫌というほど見慣れていた。手が震え、肩は強張り、脳内ではどうやって自分を「身代わり」にして他人の活路を開くか、その算段ばかりを巡らせているに違いない。

この混蛋ろくでなしの最も腹立たしいところは、そこだ。いつだって自分を最も安っぽいチップとして扱う。

私はノックもせずにドアを押し開けた。

扉が動いた瞬間、シーダーが弾かれたように顔を上げた。その僅かな反応に、私の胸が締め付けられる。彼に見られたからではない。その瞳の奥におりのように溜まった疲労が、罵倒したくなるほどに重苦しかったからだ。こういう時の周士達は、決まって静かになる。何も考えていないように見えて、実は自分を一番槍の死に場所へと配置し終えているのだ。

「まだ死んでないわね?」私は紙コップを机に叩きつけるように置いた。

わざと、いつもの口調を使った。冷たく、硬く。水を運ぶ恋人ではなく、死を看取る死神のように。その方が安全だった。少なくとも、私にとっては。私が少しでも軟化すれば、心の隙間から色んなものが溢れ出してしまう。それを許すわけにはいかなかった。

「今のところはな」シーダーの声は、砂紙を飲み込んだように掠れていた。

「なら、飲みなさい」

私はジャケットを傍らに放り出し、あえて彼の顔から視線を逸らした。だが、どれほど避けようとしても、手元だけは視界に入ってしまう。コップを掴もうとする彼の右手の指先が、微かに、だが執拗に震えていた。

私は眉をひそめ、コップの蓋を上から押さえた。「……手を替えて」

「構わないさ」シーダーはまだ強がろうとする。

「構うわ」私は彼の手を凝視し、一歩も引かなかった。「その手が震えてるの、見ててイライラするから」

そう突き放すと、彼は観念したように大人しくコップを反対の手に持ち替えた。その瞬間、胸の奥がひどく重くなった。彼に勝ったからではない。その「従順さ」こそが、彼が限界を越えて無理をしている証拠だったからだ。

シーダーがコップを両手で包むと、立ち上る湯気が彼の視界を白くぼかした。私は付かず離れずの距離に腰を下ろした。彼を観察するのに十分で、かつ触れ合わずに済む距離。少なくとも最初は、そのつもりだった。

「……また熱を持ったの?」私は尋ねた。魂釘のことだ。

彼は気づいているはずなのに、いつもの厭味なほど曖昧な返事を寄越す。「……少しな」

途端に、腹の底から火が点いた。

周士達はいつもこれだ。痛ければ「大丈夫」、熱ければ「少し」、限界が近くても「問題ない」。まるで、自分が平然と語りさえすれば、事態が崩壊しないとでも信じているかのように。

「少しって何度よ?」私は重ねて問う。

「さあな。計ったことはない」

「あんたはいつもそう」

平坦な声を装ったが、内側では苛立ちが渦巻いていた。彼個人に対してだけじゃない、この状況すべてに対してだ。真壁は手順を、山口は速さを、霊務局は五本を求め、神代家は弥生を「門」に仕立てようとしている。誰もが奪い合い、取引し、報告することしか考えていない。そんな中で、この男だけが平然とした顔で自分を差し出そうとしている。

苛立たないはずがなかった。

彼が水を飲むのをじっと見つめているうちに、視線は無意識に、禁じられた場所へと彷徨い出す。上下する喉仏、浮き出た首の筋、少しだけ緩んだシャツの襟元。かつて、嫌というほど愛でた場所。見ちゃいけないと思えば思うほど、瞳は勝手に熟知した道を辿ってしまう。

……本当に、情けない。

私は顔を背け、強引に本題を切り出した。「真壁さんはなんて?」

彼は答えた。手順、山口、五本、六本目、回収、交換。その一語一語は冷徹だったが、どれも私が最も聞きたくない言葉ばかりだった。特に、彼が言葉を切り、一瞬の間を置いたとき、次に来る展開が手に取るように分かってしまった。

この男の思考は、やはり昔のままだ。最後は二択だの。誰かを守るだの。自分を差し出すだの。

彼が最後まで言い切るのを待つことなんてできなかった。私は手を伸ばし、彼のコップを強引に奪い取ると、机に叩きつけるように戻した。力は込めていなかったはずだが、もし一秒でも遅れていれば、あの忌々しい言葉が彼の唇から零れ落ちていたに違いない。

「私の前で、そんな話はしないで」

俺は彼を凝視した。胸の奥で渦巻く火がせり上がり、呼吸さえも窮屈に感じられる。

周士達が視線を上げた。この男のこういう目が一番癪しゃくに障る。静かで、微かな疲労を湛え、まるですべてを見通しているかのような目。以前の私なら、この視線に晒されても平然を装えた。けれど今は、ただ苛立ちが募るだけだ。私が少しでも隙を見せれば、この男は必ず誤解する。ただの親切で湯を運んできたのだと、ただの未練で放っておけなかったのだと。

違う。今夜私がここに来たのは、そんな表面的な慈悲のためじゃない。

「五本を渡したところで、平安なんて手に入らないわ」私は言った。「連中に、『こいつはようやく飼い慣らされた、あとは煮るなり焼くなり好きにしろ』と教えるだけよ」

そう口にしている間、私の手のひらは熱かった。コップの熱じゃない。私自身が内側から焼かれているのだ。ビル全体が冷蔵庫のように冷え切っているというのに、周士達に近づくだけで、私の中の苛立ちは別の「熱」へと変質する。理不尽で、ひどく懐かしい熱。

私は「古いもの」が嫌いだ。一度戻ってきたそれは、決して一部に留まることを知らないから。

「私を見て」

言い終えてから、自分でも驚いた。あまりに昔と同じ口調だったから。かつて喧嘩をした時、シーダーが話を逸らそうとしたり、正論で逃げようとしたり、自分を犠牲にしようとするたび、私はこうして彼に自分を見ろと命じてきた。彼が私を見つめさえすれば、その迷走を食い止められると信じていた。

今も同じだ。彼は私を見ている。だから、私はさらに踏み込むしかない。

私の指が彼の側頸部に触れた。最初はただ熱を確かめるつもりだったのに、指節が触れた瞬間、掌が痺れたように熱くなった。熟知しすぎている。これがただの熱ではなく、魂釘が内側で燻り続けた末の残熱であることまで判別できてしまう。シーダーの肩が僅かに強張る。その反応が電流のように私の腕を伝い、思わず手を引っ込めそうになった。

けれど、私は退かなかった。それどころか指を首筋へと滑らせ、うなじに手を添えた。

そこは、かつて私が最も頻繁に触れていた場所だ。ロマンチックな理由じゃない。周士達という男は、疲れやストレスが溜まり、強情を張るたびに、まず後頭部から首にかけてが強張る。私はかつて、数え切れないほどそこをほぐしてきた。今や見るまでもない。触れるだけで、彼がどれほどの負荷に耐えているのかが指先から伝わってくる。

長い年月が経てば、こうした感覚も鈍るものだと思っていた。だが、違った。何ひとつ、変わってはいなかった。

彼の肌に触れた瞬間、脳裏にかつての光景がフラッシュバックする。冬の冷気、駅のホーム、安アパートの湿った空気、真夜中の口論の後の沈黙。いつも最後に手を伸ばすのは私の方だった。とうに朽ち果てたと思っていた記憶が、皮膚の下に埋まっていて、指で押された瞬間にすべてが目を覚ます。

胸が締め付けられ、毒づきたくなった。

それなのに、シーダーは笑った。逃がさないと言わんばかりに私の手首を掴んで。「……火事場泥棒か何かのつもりか?」

彼を見つめていると、理屈で諭すことなんてどうでもよくなった。

「そうよ」私は言った。ただ奪うだけじゃない。自分を切り売りして解決を図ろうとする、その救いようのない悪癖ごと、完膚なきまでに叩き潰してやりたかった。

襟元を掴んで引き寄せたとき、それが単なる対話ではないことを自覚していた。距離が消えれば、呼吸は真っ先に乱れる。彼の匂いが押し寄せてくる。湯気、ジャケットに残る僅かな煙草の香り、そして何よりも私が憎らしいほど覚えている、彼自身の体温。芳香でも甘い男の匂いでもない、周士達という個体の放つ熱。それが、私の神経を逆撫でする。

彼の唇を凝視しながら、ふと自嘲したくなった。愚かな言葉を止めに来たはずの私が、結局のところ、真っ先に彼を「食らおう」としているのだから。

「周士達」私は低く、彼を呼んだ。

応じる彼の声。その低さに、私の心臓は激しく波打つ。

昔からそうだった。シーダーが声を低くするだけで、私は調子を狂わされる。他人は知る由もない。私の冷徹な仮面の下に、彼に触れられるだけで言うことを聞かなくなる場所がどれほど隠されているかなんて。誰にも知られたくない。この世で、周士達だけが知っていればいい。

けれど、それを知られていること自体が、あまりに危険すぎた。

「……この期に及んで『ありがとう』なんて言ったら、噛み殺してやるから」

強がりじゃない。本音だった。今さら他人行儀な礼なんて聞きたくない。それは境界線を引く行為であり、私を再び「外側」の人間へと追いやる仕草だ。今夜の私は、傍観者でいるつもりなんてさらさらない。

シーダーが笑った。その馴染み深い笑みが、私の最後の理性の糸を断ち切った。

私は彼に噛み付いた。唇を奪い、その吐息を飲み込む。最初は優しくするつもりなんて微塵もなかった。取り立てのように、あるいは復讐のように。すべてを承知の上で、私に手を上げさせるこの男が悪いのだ。

けれど、触れた瞬間に敗北を悟った。

シーダーの手が私の腰を支えた瞬間、私を支えていた強固な芯が、脆くも崩れ始めたから。一気にではない。情けないほどに、少しずつ。唇は硬く閉ざしたままでも、呼吸は先に乱れていく。仕掛けたのは私の方なのに、舌先が彼に触れた瞬間、私の方が先に震えていた。噛み付くだけで終わらせるつもりだったのに、彼はすべてを理解していた。

彼に抱き寄せられたとき、私はもう何も隠せないと悟った。

彼が「分かっている」ことが、何よりも憎らしい。私が最初から本気で怒っているわけではないことも。密着すれば、私の冷たさが真っ先に砕けてしまうことも。口では認めなくても、身体が先に答えを露呈してしまうことも、すべて。

自分の喉から最初の喘ぎが漏れた瞬間、私は自分自身を罵倒したくなった。あまりに頼りなく、あまりに短い吐息。けれど、周士達がそれを聞き逃すはずもなかった。彼の瞳の色が、刹那に変質する。勝ち誇ったわけじゃない。それは、私が次にどう乱れるかをすべて知り尽くしている、最悪で、残酷な男の眼差しだった。その目に晒されるのが、昔から何よりも耐え難く、そして抗えなかった。

「さっきのは、」彼の声は掠れていた。「……接吻というより、復讐だな」

「……当たり前でしょ」

私はまだ、口先だけで強がってみせる。

けれど、耳の付け根が熱を帯びていくのを自覚していた。その無様な赤みを見られたくなくて、私は逃げるように彼の首筋に噛み付いた。今度は本当に、深く、強く。八つ当たりなんかじゃない。彼も同じようにかき乱してやりたかったのだ。いつだって平然と耐えてみせる、その傲慢な仮面を剥ぎ取りたかった。

唇を首筋に這わせ、熱い吐息をその肌にぶつける。肩を強張らせたシーダーの反応に、私の内側でひどく歪んだ満足感が芽生えた。

そうよ。いい気味だわ。あんたも少しは、乱れればいい。

けれど、その優越感は長くは続かなかった。シーダーの手が背中を伝い、私のうなじに触れた瞬間、全身に電撃が走った。

……しまっ。そこだけは、ダメ。

以前からそうだった。彼の手がそこに置かれるだけで、私が必死に固めていた理性の氷は形を失い、言葉は途切れ、呼吸は熱を帯び、膝からは力が抜けていく。私がそれを自覚している以上に、彼こそがその事実を熟知していた。最も憎らしいのは、彼が決して急がず、私が自ら露呈するのを笑いながら待っていることだ。

案の定、彼は私の耳元で低く笑った。耳骨をなぞるようなその残響に、背筋が痺れる。あまりの羞恥に、鎖骨のあたりに噛み付いて報復してやろうと思ったのに、触れた瞬間に私の方が先に軟化してしまった。力が入らないのではない。冷徹でありたいと願う意志を裏切り、身体が甘く、粘りつくような熱を求めてしまうのだ。

「あんたの感じやすい場所なら、俺が一番知ってるって言っただろ」

その言葉が、熱い波動となって脳を焼いた。忌々しい。けれど、あまりに正論すぎて言い返せない。

彼が知っているから。その「熟知」があるからこそ、私はこれほどまでに苛立ち、そしてこの部屋に飛び込んできたのだ。もし今夜、私がここに来なければ、周士達は間違いなく自分を真っ先に生贄へ差し出していただろう。他の誰にも彼を止められなくても、私なら、ほんの少しだけ彼を繋ぎ止めることができる。少なくとも、特定の場所ところを突けば、彼は私に屈せざるをえないのだから。

私は彼の襟元を乱暴に引き寄せ、鎖骨の下に指を押し当てた。「……うぬぼれないで」

声は硬く保ったつもりだったが、入室した時の氷のような冷たさはどこにもなかった。語尾は湿り、呼吸は浅い。けれど、それゆえに私は負けたくなかった。私は奪い取るように、再び彼に接吻くちづけした。それは愛などではなく、略奪だ。胸の奥に澱んでいた苛立ちも、焦燥も、そしてあまりに馴染みすぎたこの男の熱も、すべて私のものとして奪い返してやりたかった。

不意に、シーダーがその大きな手で私の腰を掴んだ。そのまま強引に抱え上げられ、彼の膝の上に跨がされる。

半秒間、思考が停止した。

単なる動作のせいじゃない。その「位置」があまりに直接的すぎたのだ。かつての記憶、そして二度と訪れないと思っていたあの親密な時間が、あまりに残酷なリアリティを伴って蘇る。椅子が低い軋み声を上げ、私は反射的に彼の肩を掴んだ。その瞬間、私は悟った。もう、後戻りはできないのだと。

この姿勢は、絶望的に危うい。

スーツの生地と私のスカートを隔てて、侵略的なまでの「硬さ」が、焼きごてのように私を貫こうとしていた。私は逃げる代わりに、自らその腰を深く沈めた。摩擦が内腿を伝って這い上がり、充たされ、突き上げられるような錯覚に頭皮が痺れる。

シーダーの手は驚くほど熱かった。腰を掴まれるだけで、衣服越しに身体を焼き尽くされそうなほどに。罵る力さえも、彼が耳の後ろを愛撫した瞬間に霧散してしまった。

……本当に、無様。けれど、これほどまでに、心地よい。

喘ぎが漏れ、私は額を彼の肩に預けた。それは、私が最も嫌う「弱さ」を露呈するポーズだ。けれど、今はもうどうでもよかった。抗う力なんて残っていない。周士達は知りすぎているのだ。私がいつ本気で止めてほしくないと思っているのか、いつの拒絶がただの強がりなのかを。

彼に対して、自分がこれほどまでに透明であることを呪いたい。けれど、心の半分では、彼が相手だからこそ、こうして自分を曝け出せるのだと理解していた。

彼が私の名前を呼んだとき、胸の奥が痛いほどに震えた。

それは愛おしさとは違う、もっと根源的な「個」への呼びかけ。

世界中の誰もが私を、道具、宿主、器、あるいは冷徹な女として扱う中で、彼だけがその声で、私を「私」として引き戻してくれる。

だから、彼に名前を呼ばれた瞬間、私は終わってしまった。

彼の肩に顔を預けたまま、くぐもった声で応じる。「……何よ」

自分の声を聞いて、舌を噛み切りたい衝動に駆られた。あまりに脆い。軟弱な、林雨瞳らしからぬ声。けれど、周士達はそれを当然のように受け止めた。私がこの場所に堕ちてくることを、最初から予見していたかのように。

「さっき、あんたは言ったな。まだ略奪の途中だって」

私は顔を上げて彼を睨んだ。その時の私は、おそらく直視できないほど乱れていただろう。目尻は上気し、唇はふやけ、眼差しには入室した時の硬さは欠片も残っていない。けれど、退くわけにはいかなかった。ここで退けば、今夜ここへ来た意味がなくなる。退けば、シーダーはまたあの忌々しい大局論を語り始めるに違いない。

だから、私はさらに踏み込む。

「ええ、そうよ」私は言い、彼の暗示的な突き上げに応じるように、ゆっくりと、だが確固たる意志を持ってその腰を沈めた。「だから今夜は、ただで済むなんて思わないことね」

鋭い言葉を投げたつもりだった。けれど、最後の一節が唇から零れた瞬間、自分でも気づいてしまった。その響きには、別の感情が混じり合っている。懇願でも、単なる甘えでもない。高みから彼を見下ろしていたいのに、身体が先に白状してしまったのだ。私は彼を止めるだけでなく、彼を――渇望しているのだと。

私を「外側」の人間として扱わないでほしい。自分を勝手に生贄に捧げないでほしい。私が今夜、どんな覚悟でここに立っているのかを、その身に刻みつけてほしい。

そこから先は、もう理性を保つことなんてできなかった。

当直室を満たすのは、ひどく乱れた呼吸と、衣類が擦れ合う微かな音だけだ。椅子は不安定に揺れ、動くたびに脚が床を這い、鈍い音を立てる。そのリズムが羞恥を煽り、鼓動を早める。布地越しとはいえ、一撃一撃が重く、身体の芯まで直接響いてくる。

声を出すことなんて大嫌いだったはずなのに、今夜ばかりは抑えがきかなかった。溢れ出しそうな熱を、必死に彼の名前に込めて吐き出す。

「周士達……」

一度、自分でも驚くほど甘い声が漏れた。すぐに強気な態度で取り繕おうとしたが、シーダーと目が合った瞬間、その抵抗も霧散した。彼の眼差しはあまりに卑劣だった。私を嘲笑うのではなく、私が最初の一枚の殻からどう剥がれ落ち、口では強がりながらも身体がどれほど彼を求めているのかを、冷徹に、そして熱く見届けていた。

悔しくてたまらない。けれど、それ以上に愉悦が勝る。

この感覚は、単に触れられて気持ちいいといった類のものではない。もっと歪んだ、甘美な背徳だ。普段、死守している私の秘部が、彼の手によって強引に暴かれていく。腹を立てるべきなのに、周士達の前でだけは、それを曝け出すことに抗えない。

椅子がついに限界を迎え、低い悲鳴を上げた。腰を強く引き寄せられ、私は彼の胸の中へと埋没こまれる。密着した肌から伝わる親密感に頭皮が痺れ、呼吸のピッチは制御不能なまでに加速していく。

シーダーの手が背筋を滑り落ち、腰窩へと辿り着く。彼がそこを指先で強く圧した瞬間、私の身体はさらに一段階、軟化した。

「あんた……」

罵ろうとした声は、出た瞬間に掠れ、脅しとしての用を成さなかった。

彼は顔を寄せ、耳たぶに唇を触れさせる。敏感な場所に熱い吐息が吹きかかる。

「……さっき言っただろ。ただで済むと思うなよ、って」

私は奥歯を噛み締め、彼の肩に爪を立てた。「……ええ、だから、あんたも……っ」

言い切らぬうちに、彼は私の身体をぐいと持ち上げ、その足をより深く自分の腰に絡め取らせた。この姿勢はあまりに絶望的で、直接的すぎた。薄い布地を隔てて、彼の肉体の変貌が、焼きつくような硬さとなって私を貫く。

息を呑み、鼓動が爆発しそうになる。

「シーダー……」

その呼び声には、もはや入室した時の冷徹さは微塵もなかった。ただ、泣き出しそうなほどに甘く、湿った懇願だけが残されていた。

彼は答えず、ただ私をより強く抱きしめた。机の上の紙コップが倒れ、床に転がる小さな音が響く。「鍵をかけていない」という思考が脳裏を掠めたが、次の瞬間、押し寄せる官能の波にすべてを呑み込まれていった。

私の手は彼の後頭部を彷徨い、指先は髪の奥へと深く沈み込んでいた。呼吸はますます乱れ、急き立てられるような起伏が、今にも胸を引き裂きそうだった。シーダーの手が太ももを滑り上がり、スカートを隔てて伝わる掌の熱が、私を焼き尽くさんばかりに熱い。

背筋を伝う汗が腰の布地を湿らせていく。彼の呼吸もまた、限界まで乱れているのが分かった。激しく上下する胸板、耳朶を震わせるほど重く響く鼓動。

その湿り気を帯びた熱と、溶け合うような密着感は、外にいる真壁や山口の存在を、そしてあの忌々しい「五本」の重圧を、刹那の間だけ私に忘れさせた。椅子の軋みは一層激しさを増し、重苦しい喘ぎと衣類の摩擦音が、静まり返った当直室に異様なほど生々しく響き渡る。

何度か声を上げそうになり、そのたびに私は彼の肩を強く噛み締めて、砕け散りそうな呻きを喉の奥へと押し戻した。痛みは、そのまま愉悦へと転換される。魂さえも突き出されるような快感に、意識は白く濁っていった。

……どのくらいの時間が過ぎたのだろう。溺れるような感覚からようやく這い出した私は、汗に濡れた彼の髪を掴み、無理やりその顔を上げさせて自分を見つめさせた。

言わなければならない。今、この瞬間に言わなければ、もう二度と機会は訪れないから。

「五本は……渡さないで」

喘ぎながら、潤んだ瞳で彼を射抜く。それは、獲物を前にした雌ライオンのような鋭い眼差しだった。「……もし、あんたが勝手に手を離すような真似をしたら、本当に私があんたを殺してやるから」

この言葉の半分は本気で、半分は虚勢だった。けれど、もし周士達が本当に自分を差し出してしまうようなことがあれば、私は今よりももっと無様な姿を晒すことになるだろう。激しい怒りに、そして死ぬほどの恐怖に。

相変わらずな彼に腹を立て、彼を失うことに怯える。霊務局は五本を、山口は六本目を求め、真壁は手順を注視している。ビル中の人間が「清算」を待っている今、もしシーダー自身までもが折れてしまえば、私はどこに立っていればいいのか分からない。

だから、こう言うしかなかった。最も凶暴な脅しという形を借りて、最も捨て身の執着を。

それなのに、シーダーは笑った。

殺してやりたいと思った。けれど、振り上げた手は即座に彼に封じられ、再び強く抱き寄せられる。私は抗わなかった。いや、もう抗いたくなかったのだ。かき乱されるだけ乱され、今さら仮面を被り直すことなんてできやしない。強がり続けることさえ、今はもう億劫だった。

彼の腕の中に身を預け、額をその肩に当てる。呼吸がゆっくりと整い始めると、心の中に空虚な余白が広がっていった。後悔ではない。波が引いた後の肌が、過敏なまでに現実を呼び戻していく、あの独特の喪失感だ。

シーダーが肩紐を直し、髪を耳の後ろに払う。私はそれを避けなかった。その時、私は悟った。私は完全に敗北したのだ。彼に手折られ、後始末をされることさえ、今は当然の権利のように受け入れてしまっているのだから。

「雨瞳」彼が呼ぶ。

私は即座にその先を遮った。「……また『ありがとう』なんて言ったら、今度こそ出ていくわよ」

彼に感謝されるのが、何よりも恐ろしかった。礼を言われれば、すべてが整理されてしまう。恩義や、労いといった、無機質な箱に分類されてしまう。「よくやってくれた」なんて言葉、私が今夜ここへ来た理由とは何の関係もない。私は慈善事業に来たわけでも、世話焼きな元カノを演じに来たわけでもない。

私はただ、周士達の意識に「私はもう、こちら側に立っているのだ」と刻みつけるために、この扉を開けたのだ。

幸いにも、彼は礼を言わなかった。ただ一言、「分かった」とだけ。

私は彼を見上げた。その「分かった」が、果たしてどの意味なのかを問い詰めたかった。五本を渡さないということか、私がなぜ狂おしいほどに乱れたのか、それとも「どっちの側に立っているか忘れるな」という言葉の真意か。

けれど、私は問わなかった。問えば、それは答えを乞う「弱さ」になってしまうから。林雨瞳は、そんなものは必要としない。少なくとも、表向きは。

私は彼の襟元を強引に整え、ぶっきらぼうに言い放った。「……分かればいいのよ」

ドアを叩く音が響いた瞬間、心臓が僅かに冷えた。

真壁の声が入り込んできた途端、さっきまでこの部屋で私が奪い取ってきた「熱」は、強制的に押し殺さなければならなくなった。当直室は再び当直室へと戻り、私もまた、林雨瞳という氷の仮面を被り直す。

感情を押し殺し、場に相応しい自分を装う。

激しく乱れることよりも、こうして何事もなかったかのように「収める」ことこそが、私の最も得意とする業なのだから。

ボタンを留め、呼吸を整え、声のトーンをいつもの場所へと押し戻す。彼の膝から降りた瞬間、脚がまだ微かに震えていて、危うくよろめきそうになった。シーダーが咄嗟に手を貸してきたが、私はそれを鋭く睨みつけ、その手を乱暴に振り払った。

ドアを開ける直前、どうしても一言付け加えざるをえなかった。「……さっきの続き、馬鹿なことは言わないでよ」

シーダーが「馬鹿なこととは?」と聞き返してくる。呆れて吐息が漏れそうになった。「自分を先に売り飛ばそうとするあらゆる言葉よ。……すべてね」

それだけ言い捨てて、私は部屋を後にするつもりだった。だが、ドアノブに手をかけた瞬間、再び足が止まった。今ここで言っておかなければ、真壁や弥生、シキ、山口といった、どす黒い思惑の渦巻く場所に戻った途端、その「重み」が霧散してしまうような気がしたからだ。

そんなことは、許せなかった。

だから私は振り返らず、消え入りそうなほど静かに、けれど明確に告げた。「……私がさっき、どっちの側に立っていたか。それだけは、間違えないで」

この言葉は、傍から見ればただの立場の表明に聞こえるかもしれない。けれど、私だけは知っている。そんな薄っぺらなものではないことを。

その言葉には、今夜私が運んできた一杯の湯の熱が、彼のコップを取り上げた私の指の震えが、彼の忌々しい大局論を塞いだ私の唇の感触が込められている。彼が私を理解していることを憎みながらも、彼にだけは理解されたいと願う、矛盾した祈りが。

そして、普段は決して他人には見せないはずの女の姿を、無様に、情熱的に彼の腕の中に晒したという事実を、決して忘れるなという命令でもあった。

ドアを開けると、廊下の白い光が容赦なく降り注ぐ。

当直室の外では、真壁が刷りたての帳票のような無機質な表情で立っていた。弥生はすでに席に戻っており、その顔色は見るに忍びないほどに蒼白だ。シキはタブレットを抱えて反対側に立ち、私が部屋から出るなり、私の唇を盗み見るような視線を送ってきた。何かを察したようでもあり、それをあえて指摘するのを億劫がっているようでもあった。

廊下も、霊務局も、五本の魂釘も、何も変わっていない。さらにその先では、山口が獲物を待つ獣のように手を伸ばそうと手ぐすねを引いている。

状況は絶望的なままだ。けれど、私の中の「何か」は、決定的に変わっていた。

あの部屋に入る前までは、ただのお節介だと言い訳ができた。単なる未練だとか、一時的な気の迷いだとか、いくらでも偽ることができた。けれど、ここから出た後の私には、もうそんな嘘は通用しない。

これは単なる世話焼きでも、未練でも、一時的な軟化でもない。

私は、彼の側に立ったのだ。他ならぬ、私自身の意志で。





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