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幕間 湯気は未だ絶えず

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

「一時間後に戻る」――真壁がその一言を投げ捨てて去ると、当直室の空気は一瞬で霧散した。

人が散ったのではない。重圧が細かく分断され、それぞれの肩へと粘りついたのだ。老高は早々に煙草を吸いに外へ出た。弥生は例の女調査員に呼び出され、名目不明の比照表の補填に回された。シキはタブレットを抱えて廊下の向こうへと走り去る。二一三号室の熱曲線が鈍いナイフで肉を削ぐようだ、と毒づきながら。真壁は臨時デスクに残り、通信員と声を潜めて山口の件を話している。その声は次第に平坦になり、感情を一切漏らすまいとするその様は、少しでも隙を見せれば向こうに主導権を奪われることを恐れているかのようだった。

俺は動かなかった。

椅子の背に深く体を預け、机の上の空になった紙コップをじっと見つめていた。縁は俺の指で歪にひしゃげている。中身の熱はとうに失われ、残っているのは蒸気でふやけた紙パルプの淡い匂いだけだ。今夜という時間は、このコップによく似ている。――ただの些事に見えて、いざ手を伸ばせば、それがどれほど熱く、焼きつくようなものだったかを知る羽目になる。

俺は顔を両手で拭った。手のひらが眼窩を圧した時、自分が微かに震えていることに気づいた。恐怖じゃない。疲労だ。それと、不安定さだ。

身体のあちこちに伏せられた五本の魂釘が、眠りを知らない生き物のように蠢いている。それらは一度に作動せず、代わる代わる疼くことで、より執拗に俺を苛んだ。内側から湧き上がる熱が、愛撫のように、あるいは鉄の鉤で肉を掻き回すように、波となって押し寄せる。真壁が求めているのは手順であり、山口が求めているのは結果だ。だが霊務局が真に注視しているのは、この五本の釘を一つに繋ぎ止め、爆発させずに維持しているこの肉体――その「器」としての耐久限界に過ぎない。

物事の本質を理解しすぎるのは、時として官能的なまでの不幸を伴う。

廊下から足音が聞こえてきた。

顔を上げた瞬間、心臓が一つ跳ねた。

誰か分からなかったわけじゃない。むしろ、逆だ。――知りすぎていた。足音のリズム、力加減、そして廊下の角で一瞬だけ迷うように止まるあの溜息のような間。目をつぶっていても、その存在を肌が覚えている。

ユートンがドアを押し開けて入ってきた。

片手に熱い湯を持ち、もう片方の手には俺のジャケットを握っている。表情は淡々としていて、ただのついでに届けに来たといった風情だ。だが、ドアを閉めるその動作はあまりに堅実で、廊下の喧騒を完全に遮断してからでなければ一歩も踏み出さないという、彼女らしい秘めやかな決意が透けて見えた。

彼女を見る。ふと、古い錯覚に囚われた。過去に戻ったのではない。過去そのものが、どこへも行かずにそこに留まっていたかのような錯覚。

彼女が来た。

俺は、本当は彼女が来るのをずっと待っていたのだ。真壁が休憩を告げたあの瞬間から。彼女が情に脆いからじゃない。彼女が俺を理解しすぎているからだ。俺が一人でここに座っていれば、どうやって自分という駒を盤上に捧げるか、その算段を巡らせていることなど、彼女には手に取るように分かってしまう。

だから、彼女は来た。その一杯の湯と、俺のジャケットと、「ついでに寄っただけ」という冷ややかな仮面を携えて。だが、それが嘘であることは分かっていた。

「まだ死んでないわね?」ユートンが紙コップを机に置いた。

「今のところはな」俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「なら、飲みなさい」

言い草は相変わらずだ。薄いナイフでガラスを引っ掻くような硬い響き。だが、ジャケットを俺の手元に置く動作は驚くほど優しく、その指先が触れるか触れないかの距離で、彼女の体温が微かに伝わってくる。俺はジャケットを見下ろし、それから彼女を見た。

「湯を運ぶ配達員か? それとも病室の見回りか?」

「これ以上ぐずぐずしてたら、ついでに低体温症の報告書を書いてあげようかと思って」

俺は微かに笑い、コップを手に取ろうとした。指先がコップに触れた瞬間、彼女が眉をひそめた。

「手を替えて」

「構わないさ」

「構うわ」彼女は俺を凝視した。そこには、俺がよく知る意固地なまでの固執があった。「その手、震えてる」

俺の手が止まった。

あまりに的確に、そして残酷に暴かれ、強がりさえも空虚な吐息へと変わった。俺はコップを反対の手に持ち替える。熱が手のひらに吸い付くように伝わると、強張っていた肩の力がようやく溶け始めた。

彼女は、やはり俺を知り尽くしている。

四年が経ち、別れてからも一年が過ぎようとしているのに、彼女は俺がどこで硬くなり、どこで耐えているのかを一目で見抜いてしまう。その見透かされた感覚に、胸の奥が熱く締め付けられた。恥ずかしいからじゃない。――彼女が今も、他人が見落とすような俺の身体の細部を、見つめ続けているという事実に。

ユートンは座ろうともせず、机の横に立ったまま俺の手元へ視線を走らせた。そして、手の甲に打ち込まれた黒ずんだ魂釘のあたりで視線を止めた。

「また熱を持ったの?」

「少しな」

「少しって何度よ?」

「さあな。計ったことはない」

「あんたはいつもそう。自分の身体のことになると、途端に鈍感になるんだから」

彼女がそう口にした時、声は相変わらず平坦だったが、その奥に潜む「火」を俺は感じ取っていた。林雨瞳という女はそういう質だ。本当に激昂した時ほど騒がず、言葉はむしろ淡白になる。付き合っていた頃から知っている。彼女を本気で怒らせれば、喚き散らされたりはしない。ただ、一語一語を「お前がどう死ぬべきか」を計算し尽くしたような冷徹さで突きつけてくるのだ。

俺は紙コップを口元に運び、一口啜った。熱い湯が滑り落ちると、胸の奥に凝り固まっていた冷たい塊がようやく少しだけ解けた。彼女はまだ立ったままだ。俺は視線を上げた。

「座らないのか?」

「座ったら、次動くのが億劫になりそうで」

「あんたが億劫がるようには見えないがな」

「あんたが、私を本気で呆れさせたことがなかっただけよ」

俺は鼻で笑った。彼女は俺を睨みつけ、ようやく椅子を引いて腰を下ろした。椅子の脚が床を擦り、鈍く低い音を立てる。

距離はそれほど近くないはずだった。だが、彼女の膝が俺の脚のすぐ側に位置取っている。意図的に寄せたわけではなく、部屋がただ、狭すぎたのだ。沈黙すれば、互いの呼吸が肌にねっとりと絡みつくほどに。

この距離は、危険だった。

彼女から漂う微かな香りを嗅ぎ取れてしまうほどに。洗い立ての清潔感、その底に沈殿する微かな薬の匂い――そして、かつて俺が目を閉じていても判別できた、あの懐かしくも古い体臭。

俺はコップを両手で包み、飲むのをやめて、立ち上る湯気が消えていくのをただ見つめていた。

「真壁さんはなんて?」ユートンが尋ねる。

「いつもの通りさ。まずは手順を確保しろ。山口にすべてを呑み込ませるな、と」

「あの人は自分の派閥を守りたいだけ。あんたを守る気なんてないわ」

「分かってる」

「山口は?」

「あいつは急いでる」俺はコップの中の水面を見つめた。「建前を塗り固める暇もないほどにな。まずは五本の魂釘を回収し、六本目を交渉材料にする。持ち主の命なんて、報告書の末尾に書き添える程度にしか思ってない」

ユートンは沈黙した。

彼女が黙ると、部屋の中は不自然なほどの静寂に包まれる。音が消えるのではなく、彼女が語らないせいで、他人の呼吸音が異様に鮮明になるのだ。彼女が短く、鋭く息を吸う音が聞こえ、椅子の脚が半インチほど前に滑った。

「周士達」

「ああ」

「まさか……本当に明け渡すつもりじゃないでしょうね?」

すぐには答えられなかった。

そんな言葉、口にすれば自分でも吐き気がするほど無様だ。だが、その無様さが真実でもあった。山口の言うことは半分は正しい。俺がこの五本の魂釘をその身に宿している限り、事態は二一三号室や葛西、当直室の茶封筒の中だけでは終わらない。それは外へと滲み出し、報告書となり、誰かが「扉」を開けるための鍵となり、最後には必ず俺の元へ「清算」を迫りに来る。

自分が利用されるのは構わない。だが、俺のせいで誰かが先に切り捨てられるのは耐えられなかった。

「ただ考えているだけだ」俺は重い口を開いた。「もし、本当に二択しか残されていないのなら――」

不意に、ユートンの手が伸び、俺の手からコップを奪い取った。

呆気に取られ、顔を上げる。

彼女は紙コップを机に戻した。動作は乱暴ではなかったが、俺の言葉を物理的に断ち切るには十分だった。そのまま彼女は身を乗り出し、射抜くような視線で俺を見つめる。

「私の前で、そんな話はしないで」

「雨瞳」

「あんたが二択だの、誰かを守るだの、自分を差し出すだのと言い始めたら、その脳みそがどっちに歪んでいるかなんてお見通しよ」彼女の声は低く、そして冷たかった。「周士達、はっきり言っておくわ。五本を差し出したところで、手に入るのは平安じゃない。連中に『ようやく飼い慣らされた』と思われるだけよ」

俺は何も言えず、彼女を見つめ返した。

至近距離にある彼女の瞳の奥には、押し殺された疲労が澱のように沈んでいた。そのせいで、時折彼女は生者とは思えないほどの静止を纏う。だが、それゆえに今ここに座っている彼女の存在感はあまりに生々しく、俺の胸の内の乱れを強引に鎮めていく。

「私を見て」彼女が言った。

最初から、見ている。

「見てなさいってば」彼女は繰り返した。

俺はさらに意識を集中させた。

彼女は数秒間俺を凝視した後、不意に手を上げ、その指先で俺の側頸部を軽く突いた。

力は入っていなかったが、皮膚の下を細い電流が走り抜けたような感覚に襲われた。肩が反射的に強張る。彼女の目が変わった。冷徹さはそのままに、そこに形容しがたい「熟知」の色が混じる。

しまっ……。

彼女は触れてしまった。そこは、俺の急所の一つだ。彼女はそれを知っている。四年の歳月を共にしたかつての恋人は、俺自身よりも俺の身体を理解していた。

「ここも、熱いわね」

「今の俺に、熱くない場所なんてあるか?」俺は平静を装おうとしたが、喉仏が上下した瞬間、動揺が露呈した。

「口だけは、一番硬いわね」

俺は鼻から短く息を漏らして笑った。だが、その微かな笑みが消えぬうちに、彼女の手は引かれるどころか、首筋を這うようにして後頭部の髪の生え際へと滑り込んだ。

俺の全身が、石のように硬直した。

そこは――その忌々しい場所は、彼女に触れられると最も理性が揺らぐ場所だった。かつて、彼女がそこに指を這わせるだけで、俺が虚勢で固めていた心の鎧は一瞬で崩れ去ったものだ。彼女はそれを知っており、俺もまた、彼女が知っていることを知っている。それは俺たちだけの秘密であり、恋人同士であった者だけが共有する、あまりに無防備な弱点だった。

だが、俺たちはもう恋人ではない。彼女にそこを触れる資格はなく、俺にもまた、その指先を享受する権利など、どこにも残っていないはずだった。

だが、彼女の手はそこから離れなかった。指先から伝わる体温が、俺に――何ひとつ変わっていないものがあるのだと、残酷に突きつけてくる。

呼吸が、一拍止まった。この感覚はあまりに馴染みすぎていて、今夜始まったばかりの代物ではないことを体が理解してしまう。

ユートンもそれに気づいたのだろう。彼女の瞳が明かに揺れた。最初はただの試行錯誤だったはずが、気づけば自分自身が旧習という名の沼に足を踏み入れている。だが、彼女は退かなかった。それどころかさらに身を寄せ、その膝を俺の腿へと直接押し当ててきた。

「あんた、こう思ってるんでしょ?」彼女は低く、押し殺したような憤怒を込めて言った。「自分を先に生贄に捧げれば、それで正しいことをした気になれるって」

俺は彼女を見つめたまま、答えなかった。

彼女の口角が微かに動き、冷笑を浮かべようとして、結局は形を成さずに消えた。

「いつもそう。昔から何も変わらない」後頭部に添えられた彼女の手が、ゆっくりと力を帯びる。指先が食い込み、その愛撫にも似た圧迫感に頭皮が痺れるような感覚に襲われた。「他人がどれほど痛むか分かっていて、それでも自分を真っ先に放り出すことしか考えない」

その言葉が突き刺さり、胸の奥の空気が詰まった。

彼女の言う通りだった。そして、そんな風に俺を指弾できるのは、世界で彼女だけだった。

他人の目に映るのは、五本の魂釘であり、手順であり、リスクや回収、移送といった無機質な記号だ。だが、林雨瞳だけは、俺のその救いがたい悪癖を見抜いている。――自分という存在を、あまりに安く見積もりすぎるそのさがを。

そして彼女は、今もなおそれを執着している。

その自覚が、俺の鼓動を狂わせた。

俺は手を上げ、彼女の手首を掴んだ。拒絶するためではない。――これは幻覚ではないのだと。彼女は今、確かにここにいて、俺に触れ、俺を罵っているのだと、確かめるために。

「そうやって俺を詰るのは」、自分の声とは思えないほど掠れた声が出た。「……火事場泥棒か何かのつもりか?」

「そうよ」彼女は逃げることなく、むしろさらに鋭い眼差しで俺を射抜いた。「それも、まだ略奪の途中だわ」

俺はたまらず、自嘲気味に笑った。

その笑みが零れた瞬間、彼女のもう一方の手が俺のシャツの襟を掴み、強引に引き寄せた。

距離が、ゼロになる。

くそ。

机の上の湯気はいまだ白く揺れているというのに、俺は彼女の香りに呑み込まれていた。清潔な石鹸の奥に沈殿する、微かな薬の匂い。そして、かつて俺が目を閉じていても愛でることができた、あの懐かしくも生々しい体臭。

林雨瞳は本来、他人に踏み込ませることを嫌う女だ。だが、ひとたび彼女がその境界線を越えたとき、そこには眩暈がするほどの親密さが宿る。芳香でも、柔らかさでもない。そこが危うい場所だと知りながら、本能が真っ先にそれを「正解」だと認識してしまうような、そんな熟知だ。

彼女は俺を見つめ、唇が触れ合うほどの距離で、さらに声を落とした。

「周士達」

「ああ」――あまりに早く応じてしまった自分を、浅ましいと思う。

「この期に及んで『ありがとう』なんて抜かしたら、噛み殺してやるから」

本気で感謝を口にしようとしていた俺は、その言葉に鼻で笑った。

その微かな吐息が消えぬうちに、ユートンの眼差しが深く沈み、次の瞬間、彼女の唇が俺のそれを塞いだ。

それは接吻というより、咬傷に近かった。

下唇を彼女の歯が捉えた瞬間、俺の全身は石のように硬直した。痛みではない。彼女が、どこをどう弄れば俺が動揺するかを知り尽くしているからだ。彼女は決して甘い飴から与えたりはしない。その接吻くちづけさえも、まるで積年の債務を取り立てるかのような、荒々しい渇きに満ちていた。

俺は彼女の腰を支えようと手を伸ばしたが、彼女はそれに乗じるように距離を詰め、全身で圧し掛かってきた。椅子の脚が床を擦り、低い音を立てる。その響きは静まり返った当直室で異様に鮮明に響き、俺に――これが夢ではなく、彼女が本当に俺に口づけているのだと、現実に引き戻した。

一瞬で呼吸が乱れる。

単に彼女の接吻のせいだけじゃない。この馴染み深い感覚が、あまりに致命的なのだ。彼女の噛み方、含み方、舌先での挑発――そのすべてが四年前と寸分違わず同じだった。理屈よりも身体の記憶の方がずっと誠実だ。俺の手は無意識に彼女の腰を抱き寄せ、その力加減も角度も、かつて最も慣れ親しんだ形をなぞっていた。

ユートンもまた、乱れていた。仕掛けたのは彼女の方だったはずなのに、何度か触れ合ううちに、彼女自身の吐息が先に熱を帯び始める。口調こそ強気なままだが、舌先はいつものように硬くはなく、俺を含み上げた瞬間、彼女の動きが明確に止まった。かつての俺たちもこうだったことを、不意に思い出したかのように。その自覚が、彼女を支えていた冷たい殻を内側から食い破っていく。

俺は彼女の腰を強く引き寄せ、その身体を胸の中へと収めた。

彼女が、小さく喘いだ。

短く、微かな吐息。だが、俺の耳にははっきりと届いた。

その一声が、俺の脳内にこびり付いていた当直室や真壁、山口、五本の魂釘といった一切合切を、思考の彼方へと追いやった。忘れたわけじゃない。ただ、今はそれどころではなかった。

ユートンが俺の腕の中にいて、喘ぎ、普段は決して他人に見せないその一面を露わにしている。それだけで十分だった。

唇を離したとき、彼女の乱れた吐息が俺の顔にかかる。その瞳を覗き込み、俺は初めて気づいた。彼女もまた、震えていたのだ。ただ、それを他人に見せることを拒んでいるだけなのだと。

「さっきのは、」俺の声は、自分でも引くほど掠れていた。「……接吻というより、復讐だな」

「当たり前でしょ」彼女はすぐに強がってみせたが、耳の付け根が赤く染まっていた。「あんたが私に負わせた借りは、一日や二日で返せるものじゃないわ」

「それで、今のだけで足りるのか?」

ユートンは俺を凝視し、その瞳が激しく揺れた。

次の瞬間、彼女は俺の側頸部へと直接噛み付いた。

今度は、さっきよりも深い。

肩から背中にかけての筋肉が瞬時に強張り、俺の掌は彼女の腰を強く締め上げた。明瞭な痛みが走るが、それは単なる苦痛ではなかった。痛みの中に別の「何か」が混じり合い、熱い血流が瞬時に下半身へと駆け下りる。

スーツのズボンが、突如として耐え難いほど窮屈になった。

くそったれ。

彼女はその反応に焼かれたように一瞬身を竦めたが、唇を離そうとはしなかった。それどころか、首筋から鎖骨のあたりへと吸い付くように這わせ、熱い吐息を何度も肌に吹き付ける。その熱は直接的な咬傷よりも執拗に、俺の理性を削り取っていく。

俺は短く息を呑み、指先で彼女の背筋をなぞり上げ、後頭部の生え際――あの急所へと指を滑り込ませた。彼女の肩が、目に見えて震える。

ここは、今も変わっていない。

四年の月日が流れても、彼女のうなじは過敏なままだった。そこに指を這わせるだけで、彼女が虚勢で固めていた芯は脆くも崩れ去る。言葉は短くなり、呼吸は乱れ、膝からは力が失われていく。

俺は顔を寄せ、彼女の耳元で微かに笑った。

ユートンはすぐさま、射抜くような視線で俺を睨みつける。

「……何よ、笑って」

「あんたの感じやすい場所なら、俺が一番知ってるって言っただろ」

彼女の瞳が、一気に動揺に染まった。

それは極めて短い揺らぎだったが、俺は見逃さなかった。彼女の冷徹な矜持に弱点がないわけじゃない。ただ、その場所を、彼女はごく限られた人間にしか許さなかったのだ。

そして皮肉なことに、俺こそがその場所を知る唯一の男だった。

俺の言葉に退路を断たれたように、彼女は俺のシャツの襟を乱暴に掴み、指先を鎖骨の下へと押し当ててきた。その指先から伝わる熱に俺の呼吸はさらに深まり、胸の鼓動は激しさを増していく。

だが彼女は、ようやく主導権を奪い返したかのように、進み出た。

「……うぬぼれないで」

「じゃあ、今のこれは何なんだ?」

「……黙らせてるだけよ」

そう言い捨てると、彼女は再び俺の唇を奪った。

今度は先ほどの取り立てるような激しさではなく、刺すような鋭さの中に、確かな柔らかさが溶け込んでいた。密着した身体を通じて、彼女の鼻腔から漏れる、抑えきれない震えが伝わってくる。

俺はもう、耐えきれなかった。

俺は彼女の身体を抱え上げ、そのまま自分の膝の上へと引き上げた。

彼女の身体が一瞬強張った。罵声が飛んでくるかと思ったが、彼女は俺の肩を強く掴んだまま、降りようとはしなかった。

椅子が、軋むような低い音を立てる。

この体勢は、あまりに危険すぎた。

あまりに直接的で、あまりに以前の俺たちそのもので、そしてあまりに容易く、俺たちを暴走へと誘う。

彼女は俺の膝に跨る形になり、その姿勢のせいでスカートの裾が僅かに捲り上がった。薄い布地越しに、彼女の太ももの熱が直接伝わってくる。

スーツの生地が限界まで張り詰め、彼女が重心を動かすたびに、火に油を注がれるような感覚に陥る。スカート越しに伝わる彼女の熱、そして俺自身の肉体が引き起こす抗いようのない変化。

彼女も、それに気づかないはずがなかった。

彼女の全身が明確に硬直し、呼吸のリズムが完全に崩れる。

俺は彼女の腰を支え、衣類を隔てて伝わる彼女の体温が、少しずつ、だが確実に俺の中に浸透していくのを感じていた。林雨瞳は普段、刃物のように冷徹な女だ。だが、こうして腕の中に抱きしめて初めて分かる。彼女はただ、内側に秘めた情熱を隠し続けているだけなのだと。隠し続けるうちに、彼女自身さえもその嘘を信じ込みそうになっていた。

だが今、その殻は砕け、中にあるものが溢れ出している。呼吸、指先の震え、そしてどれほど強がっても抑えきれない、甘く湿った声。

「やめて……」彼女は低く、乱れた息を吐きながらもまだ抗おうとした。「そんな目で、私を見ないで」

「どんな目だ?」俺はわざとらしく問い返す。

「……分かってるくせに」

ああ、分かっているとも。

それは、彼女がかつて俺を最も憎み、そして最も抗えなかったあの眼差しだ。彼女がどれほど綺麗か、あるいは可憐かを見るための目じゃない。どれほど冷徹に振る舞おうと、急所を突けば最後には無防備に崩れ落ちる――その瞬間を見据える、傲慢な観測者の目。

ユートンは人に見透かされるのを嫌う。だがそれ以上に、俺がすべてを見透かした上で「こうなることは分かっていた」と言わんばかりの表情を浮かべることを、何よりも嫌悪していた。

俺は答えず、ただ彼女の耳の後ろにそっと唇を寄せた。

彼女の身体が跳ねるように震え、呼吸が一つ、なまめかしく漏れ出した。

短く、掠れた、普段の彼女からは想像もつけないほど愛欲を孕んだ声。

その一撃が、ついに彼女の硬い殻を完全に粉砕した。

彼女は額を俺の肩に押し当て、指先で俺の背を強く掴む。突き放そうとするかのような動作は、気づけば俺の胸の中へより深く潜り込もうとする甘えに変わっていた。崩れ落ちていくその力の加減は微かなものだったが、俺の肌はそれを確かに感じ取っていた。

彼女が軟化したのではない。ようやく、これ以上強がることに飽きたのだ。

少なくとも、俺の前でだけは。

「ユートン」俺は彼女の耳元で囁いた。自分の声とは思えないほど、熱く、掠れた声だった。

彼女は顔を上げず、くぐもった声で応じた。「……何よ」

その声は毒気が抜かれ、信じられないほど柔らかかった。

「さっき、あんたは言ったな。まだ略奪の途中だって」

彼女は二秒ほど沈黙した後、不意に俺の顔を両手で包み込んだ。瞳にはまだ鋭い光が残っていたが、その声からはもはや、部屋に入ってきた時の氷のような冷たさは消え失せていた。

「ええ、そうよ」彼女は言い、暗示的な熱を帯びた俺の突き上げに応じるように、ゆっくりと、だが確固たる意志を持ってその腰を沈めた。「だから今夜は、ただで済むなんて思わないことね」

その言葉を合図に、彼女自身が再び俺へと重なってきた。

その後の時間は、正気を保つのがやっとだった。

部屋を満たすのは、ひどく乱れた呼吸と、引き絞られた衣類が立てる微かな摩擦音。そして、椅子が床を這うように、鈍く軋む音だけだ。

ユートンは普段、剃刀かみそりのように鋭い言葉を操る。だが、芯から突き乱された今の彼女は、完全な文章を紡ぐことさえできずにいた。彼女は言葉を噛み締め、耐え、俺の名前を低く呪うように呼ぶ。その尾音は次第に甘く粘り、彼女の全身が震えていることを残酷に露呈させていた。

俺はそのすべてを熟知していた。

どの瞬間の抵抗が本物で、どれがただの虚勢なのか。肩を掴む手に力がこもっていないなら、それは俺を止めてほしくないという合図だ。より強く抱きしめ、俺の胸の中に彼女を埋没こませたとき、急き立てられるように吐き出されたあの吐息が何を意味するのかも。

彼女は瞬く間に、俺の愛撫という名の檻に追い詰められていく。

だが、追い詰められてなお屈しないその様は、退く姿よりもずっと淫らだった。

彼女は乱れながらも抗い、喘ぎながらも俺を睨みつける。自分をこんな無様な姿に変えた相手に対して、最後の一息まで意地を通そうとするかのように。

だが、それゆえに彼女が耐えきれず、顔を俺の肩口に埋めて漏らしたその声は、絶望的なまでに官能的だった。

甘えでも、懇願でもない。誰にも見せたことのないはずの秘部を、俺にだけ強引に暴かれ、剥き出しにされた生身の叫び。

そして、俺自身もまた、爆発寸前まで張り詰めていた。

スーツのズボンの生地は限界まで引き絞られ、彼女の身体が動くたびに、最も残酷な方法で俺を苛む。布地越しの摩擦、あと一枚の境界を越えられないという焦燥感に、奥歯が砕けるほど噛み締める。

彼女の腰を抱き寄せ、耳元で途切れ途切れに繰り返される乱れた吐息を聞いていると、不意に何もかもがどうでもよくなった。手順も、報告も、山口も真壁も、霊務局すらも。

俺はただ、彼女を求めていた。

このまま、俺の腕の中で彼女を乱し続け、崩れゆくその様を味わい尽くし、その獰猛で柔らかな声で、俺の名前を呼ばれ続けたいと願っていた。

だが、俺は分かっていた。それが許されないことくらい。ユートンも、おそらくは。

最も理性がかき乱されていたはずのその時、彼女は俺の髪を強引に掴み、顔を上げさせて俺を凝視したからだ。

目尻は明かに赤らみ、唇も俺との接触で乱れていたが、口をついて出た最初の言葉は相変わらずの彼女だった。

「周士達」

「……ああ」俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「五本の魂釘は、絶対に渡さないで」

俺は彼女を見つめた。呼吸はいまだ整わない。

彼女は、俺が今の言葉をただの情緒的な戯言だと聞き流すのを恐れるように、畳み掛けてきた。

「甘えて言ってるんじゃないわ」声はひどく掠れていたが、一語一語が研ぎ澄まされていた。「もし、あんたが勝手に手を離すような真似をしたら……その時は、本当に私があんたを殺してやるから」

その瞬間、胸の奥が激しく締め付けられた。

彼女の語気が鋭かったからではない。その瞳の奥に、隠しきれない水光が揺れていたからだ。

彼女は俺を脅しているのではない。彼女は、俺に乞うているのだ。最も激しい拒絶の形を借りて、最も柔らかな本音を。

俺はたまらず、自嘲気味に笑った。

ユートンの眼差しが即座に鋭さを増す。「……何がおかしいのよ」

「……いや。こんな状態になっても、まだ『甘えてない』なんて言い張るんだなと思ってな」

彼女の耳の付け根が瞬時に朱に染まり、手が振り上げられた。だが俺はその手首を先回りして掴み、彼女を再び胸の中へと引き寄せた。

彼女は短く毒づいたが、結局は抵抗をやめて俺に身を預けた。額を俺の肩に押し当て、その呼吸がゆっくりと鎮まっていくのを感じる。

部屋にはしばらくの間、静寂が流れた。残されたのは、二人の身体から発せられる、なかなか引き切らない熱の余韻だけだ。

乱れがようやく収まりを見せた頃、俺は彼女の肩から滑り落ちたストラップをそっと戻し、乱れた髪を耳の後ろへと払った。

普段なら、彼女が最も触れられるのを嫌う場所だ。だが今の彼女は避けようともせず、半分伏せられた瞳で俺を見つめていた。その瞳には、まだ拭いきれない水気が微かに残っている。

彼女を見つめていると、胸の奥に奇妙な静謐が訪れた。

今夜が始まってから、初めて本当の意味で息がつけたような気がした。

「ユートン」俺は低く呼びかけた。

「……また『ありがとう』なんて言ったら、今度こそ出ていくわよ」

俺は鼻で笑い、首を振った。「違うよ」

「……じゃあ、何?」

俺は少しの間沈黙し、最後に一言だけ告げた。「……分かった」

彼女が今夜、なぜここに来たのか。

彼女が口にした「五本の魂釘は渡さないで」という言葉が、決して口先だけのものではないことも。

さっきのあの失控が、ただの一時的な衝動ではなく、彼女が今もなお俺を想い続けているという証拠であることも。

そして――扉が再び、一筋だけ開かれたことも。

彼女は二秒ほど俺を見つめた。俺の「分かった」が、果たしてどの意味での「分かった」なのかを判別しようとしているようだった。やがて、彼女は追及するのを諦めたように俺のシャツの襟元を強引に整えた。その動作は荒々しかったが、まるで不格好な宝物を守るかのような、そんなぎこちない慈愛に満ちていた。

「……分かればいいのよ」

そう言い捨てると、彼女は俺の膝から降りた。

立ち上がった拍子に僅かに身体が揺れる。俺が手を貸そうとすると、彼女は鋭く俺を睨みつけ、自らテーブルの角を掴んで踏み止まった。それから、俯いたまま衣服の乱れを整え始める。

その姿は一瞬にして、いつもの林雨瞳へと戻っていった。さっきまでの、あの理性を失った睦み合いが、俺一人の白昼夢だったのではないかと思わせるほどに。

だが、彼女の唇に残る隠しきれない赤みと、こちらを見ようともせずに俺のジャケットを投げ寄せてきたその動作が、すべては現実であったことを雄弁に物語っていた。

彼女は、感情をしまい込むのがあまりに上手すぎた。そして、元の自分を装うことも。

俺はジャケットを受け取り、片方の袖を通した。その瞬間、ドアの外で重々しくも、どこか事務的な二回のノック音が響いた。

真壁の声がドア越しに届く。すべてを察していながら、あるいは何も知らないフリをしているかのような、平板な声だ。

「時間だ。周士達、林雨瞳。当直室へ戻れ」

俺とユートンの動きが、同時に止まった。

部屋に充満していた、俺たちがかき乱したばかりの熱は、その一言で再び骨の奥底へと押し戻された。

ユートンは最後の一つのボタンを留めると、俺に顔を向けた。その瞳はすでに完璧なまでに冷徹さを取り戻しており、ただ一言、低い声を残す。

「……さっきの続き、馬鹿なことは言わないでよ」

俺はジャケットを羽織り、彼女を見つめた。「馬鹿なことってのは、例えば?」

「自分を先に売り飛ばそうとするあらゆる言葉よ。……すべてね」

俺は微かに笑い、頷いた。

彼女は俺を一度睨みつけるとドアへと歩み寄り、ノブに手をかける直前で、再びその動きを止めた。

振り返ることはなかった。ただ背中を向けたまま、消え入りそうなほど微かな声で付け加える。

「……それと」

「ああ?」

「私がさっき、どっちの側に立っていたか。……それだけは、間違えないで」

その瞬間、鼓動が一つ跳ねた。

言葉の重みのせいじゃない。不意に悟ったのだ。――彼女はただ俺の死を止めに来たのではない。彼女は「お前は一人じゃない」と告げに来たのだ。

言い終えると、彼女はドアを開け、先に廊下へと踏み出した。

俺もその後に続く。廊下の白い蛍光灯が容赦なく降り注ぎ、さっきまでの半時間が、まるで最初から存在しなかったかのような冷たさで俺たちを迎えた。

真壁は廊下の突き当たりに立ち、新しく取り寄せた書類に目を落としていた。その傍らでは女調査員が低い声で報告を続けている。弥生はすでに席に戻っており、窓際に立っていたが、その顔色は一晩中眠れなかったかのように蒼白だった。少し離れた場所では、シキがタブレットを抱え、俺の姿を見るなり鼻を鳴らした。何か言いたげだったが、今は言葉を飲み込んでいるようだった。

絡み合った因縁は、何ひとつ解けていない。

山口の手は止まらず、霊務局が退くこともない。五本の魂釘は、いまだに俺の肉体に深く突き刺さったままだ。

だが、当直室へと歩を進める俺の肩には、先ほどまでユートンが触れていた体温が、ジャケット越しに確かに残っていた。

その熱は決して大きくはなかったが、驚くほど確かな芯を持っていた。

その微かな温もりを感じていると、不思議と確信できた。今夜この先、真壁がどんな策を弄しようと、山口がどれほどの圧力をかけてこようと――少なくとも、ひとつの事実はすでに刻まれている。

俺は一人でここに立っているのではない、と。

そして、当直室の扉が、再び俺の前で開かれた。


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