S2第四十八章:政治は怪談よりも恐ろしい
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
夜はまだ明けない。当直室の白い蛍光灯は、いっそ暴力的なほどにこちらの神経を逆なでしてくる。
真壁は「預留」の影印を牛皮紙の袋に収めたが、俺たちを解放しようとはしなかった。山口についてさらに追及するわけでもない。彼はただ机の側に立ち、窓の隙間から滲み出す死人のような白みが、室内の影を塗り替えていくのを待っているようだった。新しい「フォーマット」が届けられるのを、あらかじめ知っているかのように。
案の定、ドアが控えめに二度叩かれた。
報告のノックではない。それは、決定事項が到着した合図だ。
先ほどの女性調査員が部屋に戻り、一通のホルダーを真壁に手渡した。紙束は決して厚くはないが、先ほどの旧案件の資料よりもはるかに不快な重圧を放っている。彼女は入室するなり、真壁に報告するより先に、俺の右手を一瞥した。
俺は無意識に、その手を膝の裏へと隠した。
真壁はホルダーの中身を二、三秒で走査し、顔を上げた。
「災害時点呼は完了した」と彼は言った。「……次は、二番目の項目だ」
嫌な予感しかしない。
真壁は、その紙を机の上に平然と置いた。中央の一点を、検収官のような指先で示しながら。
——『危険物暫定管理』。
その内容を読み取った瞬間、俺の胃の奥が不自然に収縮した。
二一三号室のことでも、葛西のことでもない。そこには別の、完成されたフォーマットが並んでいた。
『災害時異常担体および高リスク・インターフェース暫定受領書』。
項目は多岐にわたり、書式は完璧だ。これが初めての事例ではないことを物語っている。そして最下段には、隠すこともなくこう記されていた。
——『周士達:高リスク媒介(五体)保持者。霊務局による即時代行管理、および封印を推奨する』。
俺は真壁を睨み据えた。「……どういう意味だ?」
「文字通りだ」真壁の声は、どこまでも平坦だった。
「俺が訊いてるのは、」俺は逃げ道を塞ぐように言葉を叩きつけた。「あんた、俺の右手の『釘』を没収するつもりかってことだ」
「没収ではない。代行管理だ」
……笑わせる。
そんな欺瞞に満ちた言葉、実物を見たことがなくても、その「臭い」だけで正体がわかる。
『代行管理』。その言葉が最も汚らわしいのは、暴力的な刃を綿菓子のような事務用語で包み込み、ゆっくりと相手の四肢を縛り上げようとするその卑劣さだ。
壁際にいたラオガオの顔が、一気に険しくなった。
「霊務局(BEA)様は、相変わらず仕事が早いな。……第三格の話をしていたかと思えば、もう『釘』に手が伸びている」
真壁は否定しなかった。卑屈な釈明すらしない。
「……二つの事象は、最初から不可分だからだ」
彼は受領書を俺の方へわずかに押し出した。視線は紙ではなく、俺の右手の甲を真っ直ぐに射抜いている。
「佐世保に一本、呉に二本、舞鶴に一本、横須賀に一本」
彼は在庫を目録化する倉庫番のように、俺の身体の一部をカウントしていく。
「……計五本。すべて貴殿の手に収まっている。大湊のそれを全体のリスク・チェーンに組み込めば、合計は六本だ」
心臓が、不快なスキップを刻んだ。
単なる情報把握のレベルじゃない。あまりに「完璧」すぎる。
霊務局は今この瞬間に思いついたんじゃない。俺がこれらを揃えて持ってくるのを、虎視眈々と待ち構えていたのだ。
「……それで?」と、俺。
「災害時プロトコルが始動し、二一三号室が覚醒した。今の貴殿は単なる住人でも、関係者でもない。……貴殿は『接合面』だ」
「日本語で言えよ」
「要約すれば、」真壁は声を一段低くした。
「……貴殿は、三枠め(サード・スロット)が別の何かに接続するための『中継点』として機能し始めている。五本の魂釘を身に帯びたままの放置は、もはや規程違反だ」
その言葉が落ちた瞬間、当直室の空気は一気に密度を増した。
最悪なのは、彼が嘘をついていることではない。
その言葉の半分が、残酷なまでに「正論」であることだ。
俺は自分の右手を一瞥した。
黒化した鉚釘が再び燃え上がることはなかったが、皮膚の下で疼くような熱気は引いていない。体温ではない。内側に宿った五つの異質な「点」が、それぞれ独自の不規則な脈動を刻んでいる。
佐世保のそれは陰湿に。呉の二本は互いを拒絶し合う硬い骨のように。舞鶴は重く、横須賀は氷のように冷たい。普段は俺の体内で不貞腐れている連中だが、二一三号室の「夜」を経て、こいつらが今後も大人しくしている保障なんてどこにもなかった。
真壁は俺の思考を透視したかのように、別のモニタリング・シートをめくった。
「火災警報の直前、君の手の温度は三十九度を超えた。こゆきが介入したことで一度は収まったが、銀山を出た後に再上昇している。今夜の二一三号室の覚醒以降、高熱こそ出ていないものの、末梢の異常波形は一向に沈静化していない」
彼は紙面に目を落としたまま、追い打ちをかけるように続けた。
「……今の君は安定しているんじゃない。ただ、それらを力ずくで押さえ込んでいるだけだ」
俺が反論するより早く、ラオガオが遮った。
「……押さえ込んでいるのがあいつなら、それで十分だろう。あんたらの手に負える代物じゃねえ」
「今は災害時プロトコルの最中だ」真壁の声は、どこまでも平坦だ。「災害時における鉄則は、高リスク担体を『個人の意志』に委ねないことだ」
ラオガオが鼻で笑った。
「そのセリフ、神樂機關にも同じように言ってみろ。……あいつら、あんたのツラを真っ平らに叩き潰すぞ」
「神樂機關」という固有名詞が出た瞬間、真壁の瞳に微かな、しかし決定的な変化が走った。
それは恐怖でも嫌悪でもない。——「計算」だ。
その四文字が介入したことで、この「盤面」をどう再構築すべきか。彼の脳内の天秤が、高速で揺れ動いている。
「神樂機關がこの場にいれば、私は直ちに身柄を引き渡すだろう」と真壁。「だが、現実にここにいるのは霊務局(BEA)だ。現場での収容、それが程序だ」
俺はたまらず口を挟んだ。「……あんたらの言う『プロトコル』ってのは、とりあえず奪っておけって意味か?」
「他にあるか?」真壁が俺を射抜く。「君の持っている釘が三枠め(サード・スロット)と完全に同調し、取り返しがつかなくなってから所有権を議論しろとでも?」
その言葉は針のように、俺の骨の隙間に深く突き刺さった。
彼は試しているのだ。俺が恐怖に屈するかどうかを。恐怖に負けて、自らその「重荷」をシステムに差し出すのを待っているのだ。
これが、官僚の戦い方の第一手だ。
暴力で奪うのではない。「差し出さないお前が無責任だ」という罪悪感の皮を、じわじわと被せてくる。
不意に、ドアの側で硬質な金属音が響いた。
ユートンが不織布のカップを手に、門柱に寄りかかっている。入室の際に、カップがドア枠に触れたのだろう。彼女は何も言わず、ただ凍てつくような眼差しで、机の上の「暫定受領書」を凝視していた。
真壁は彼女の存在を無視し、死刑宣告を完遂させた。
「君の選択肢は二つだ。第一に、霊務局に代行管理を認め、神樂機關の到着を待つこと。第二に、拒絶し、高リスク保持者として二十四時間体制の監視下に置かれ、一歩の外出も許されない身となること」
「……どっちも変わらねえだろうが」
「違うな。君が協力するか、我々が君を『管理』するかだ」
呆れて物も言えなかった。
なんて見事な、事務的な脅迫だ。
ずっと沈黙を守っていた弥生が、ここで静かに口を開いた。
「……鉚釘を霊務局に渡すことはありません」
声のトーンは一定で、机を叩くことも、声を荒らげることもない。だが、そのあまりの静寂に、部屋中の視線が一箇所に集束した。
真壁は答えず、ただ彼女を凝視した。
弥生は背筋を伸ばし、一分の隙もなく座っている。その姿勢は習慣というより、長年の規訓によって叩き込まれた「拒絶」の形に見えた。少しでも気を緩めれば、そのまま底なしの「序列」の闇へと引き摺り込まれることを、彼女は本能で知っているのだ。
「……異議があるか。神代弥生」と真壁。
「あります」弥生は言い切った。「五本の鉚釘は基地の拾得物でも、二一三号室の付随品でもありません。その出自は独立しており、貴殿らに管轄権はない」
真壁は頷いた。その反応すらも、計算の範疇であるかのように。
「だからこそ、私は『没収』ではなく『代行管理』という手続きを提示している」
「字面を変えたところで、実態は変わりません」
ラオガオがその言葉に、微かに口角を上げた。
だが、真壁は動じない。彼は机上の書類を脇へ退け、その下から、さらに一枚の薄いリストを露わにした。
それは旧案件の資料でも、後勤の伝票でもない。
——『人事協作連絡表』。
そこには、冷酷なまでに明瞭な一行が記されていた。
『神代家/通神協作窓口』
俺が弥生を振り返ったとき、彼女の瞳に宿っていたのは「拒絶」ではなく、硬い「絶望」だった。遠く離れた場所から、逃れられない鎖で首を絞められたような、そんな表情。
真壁は、そのリストの上に指を置いた。声は相変わらず平坦だ。
「神代弥生。……君ならわかっているはずだ。この案件が本庁へ送られた際、最初に連絡を受けるのが神樂機關だとは限らないということを」
部屋の中が、真空になったかのように静まり返った。
神樂機關を持ち出して圧力をかけるのではないか。最初はそう思っていた。だが、真壁の狙いはもっと深く、より陰湿な場所にあった。神樂よりも厄介で、この国の霊的土壌に深く根を張る、古臭いシステム。
——神代の本家。
弥生は何も言わなかった。ただ、膝の上で組んだ指先にわずかな力がこもる。その動作は極めて小さかったが、俺の目にはあまりに鮮明に映った。普段の彼女は、呼吸のタイミングすら完璧に制御しているような女だ。そんな人間が見せる一瞬の「綻び」は、どんな悲鳴よりも雄弁だった。
真壁は彼女を見据え、その声を寸分の狂いもなく急所に突き立てていく。
「神代家の子女は、宮司の道を歩むか、高等巫女として供されるか。あるいは神樂機關へ入り、出世の階段を登るか。道はそのいずれかだ」
「今の君は、神樂の下部組織で付随案件を処理する立場。地位は低く、権限も浅い。言葉を選ばずに言えば……」
真壁は言葉を切り、残酷な余白を残した。
だが、弥生はその空白を自らの声で埋めた。
「……言葉を選ばずに言えば、『まだ、使い潰されていない』。そういうことでしょう?」
その声には感情の一片も混じっていなかった。
だが、俺の胸の奥には、どろりとした不快感が沈殿した。
そんな言葉、長年にわたって自分を部品として扱い続けてきた人間でなければ、これほど平坦に口にできるはずがないからだ。
真壁は否定せず、肯定もせず、ただ淡々と続けた。「……自覚があるなら話は早い」
彼は人事連絡表を彼女の方へ押しやった。
「君が協力するなら、この案件は霊務局(BEA)主導として処理し、本家や神樂へは『調整済み』の報告書を送ろう。……だが、もし君が拒絶するなら」
「……あなたは、無加工の記録を上へ流す、というわけね」
「そうだ。二一三号室の前置状況、三枠めの起動プロセス、室内での君の応答順位。そして今夜、君がどちらの陣営に立とうとしたか。……すべてをな」
血が頭に上るのを感じた。
こいつがやっているのは、公務の執行なんかじゃない。
彼女が一生かかっても脱ぎ捨てられなかった、血脈という名の「透明な檻」を上から押し潰そうとしているのだ。
神代家は彼女の盾ではない。背中に張り付いた、逃れられない影だ。
上手くやれなければ影に呑み込まれ、自分らしくあろうとすれば影に引き摺り戻される。
「霊務局のやり口は、相変わらず胸クソ悪いな」ラオガオの声が低く、殺気を帯びる。
「……これを『引き抜き』とは呼ばない。彼女に、自分の立っている『位置』を再確認させているだけだ」
俺は、もう我慢がならなかった。
「……位置だと?」俺は真壁を睨み据えた。「あんたら、今夜はそればっかりだな。ベッドの位置、台帳の欄位、今度は人間の立ち位置か。あんたらにとって、人間はただの記号なのかよ?」
真壁は俺の剣幕に微塵も動じず、ただ冷徹に言い放った。
「……霊務局にとって、正しい位置に立てるかどうかは、君の感情の機微などよりも遥かに優先されるべき事項だ」
吐き気がするほど論理的で、吐き気がするほど連中らしい言葉だった。
それからの数分間、室内には死のような沈黙が居座り続けた。
窓の外はさらに白みを増し、まだ夜は明けていないというのに、壁の隅に溜まった埃までが見えるようになっていた。時折、廊下を過ぎる当直の足音が聞こえる。その規律正しさは、基地が平穏を取り戻したことを示唆していた。
だが、俺は知っている。秩序という代物は、表向きが正常であればあるほど、その内側に鋭い刃を隠し持っているものだ。
俺は椅子に座ったまま、右手を強く握り締め、そして開いた。
五本の鉚釘は皮膚の下で沈黙している。だが、もう手遅れだ。こいつらは「観測」されてしまった。怪物にではなく、もっと厄介な連中——事務用語で人を包み込み、どの部位から解体するかを決定する、システムという名の怪物に。
ユートンは依然としてドアの側に立ち、手に持ったカップからはもう湯気も上がっていない。彼女は口を挟まず、俺が次に何を口にするかをじっと待っていた。
その静寂が、かえって俺の意識を研ぎ澄ませた。もし彼女がここで俺を庇えば、俺はその甘えに逃げ込んでいただろう。だが、彼女は動かない。俺自身が、自分の足でこの盤面に立つのを待っているのだ。
弥生もまた、動かなかった。
彼女は依然として、背筋を硬く伸ばしたまま立っていた。先ほどの「本家」という言葉の礫が、彼女の心に届かなかったわけではない。むしろ、その痛みを知っているからこそ、彼女はそれを骨の奥深くへと埋め込み、自己を鋼のように固定しているのだ。その姿は、極限まで研ぎ澄まされた薄い刃のようで、一見すれば揺るぎないが、いつか中央から音を立てて折れてしまうのではないかという、危うい静寂を孕んでいた。
真壁は「暫定受領書」を俺の方へ、さらにもう一インチだけ押しやった。
「今すぐここで署名しろとは言わない。これはまだ、第一ラウンドに過ぎないからな」
俺は紙に触れず、ただ睨み返した。真壁は表情を動かさず、医師がリスクを告知するような、事務的な無機質さで続けた。
「だが、よく考えることだ。五本の鉚釘は、神樂機關にとっては『資産』だが、霊務局(BEA)にとっては『管理すべきリスク』だ。そして、一部の人間にとっては——」
彼は机の上の、あの山口が残した「記号」を一瞥した。
「——さらなる高みへ登るための、絶好の『交渉材料』に他ならない」
……理解した。
彼は暗示しているのではない。手の内をわざと見せているのだ。
霊務局が欲しているのは、安全保障などという綺麗な言葉ではない。五本の鉚釘、そして大湊に眠る一本を加えた、計六本の「力」そのものだ。それが手元にあれば、彼らは神樂機關に対しても、あるいは政治的な盤面においても、圧倒的な優位に立てる。
「……つまり、俺の暴走が怖いんじゃなくて、これが自分たちの手の中にないのが怖いってわけか」
俺の問いに、真壁は即答しなかった。
その沈黙が、何よりも饒舌な肯定だった。彼は沈黙を数秒だけ泳がせ、最後にこう締めくくった。
「……私が恐れているのは、君がその事実に気づいた時には、すでに手遅れになっていることだ」
俺が言い返そうとした瞬間、弥生が椅子を引く音が響いた。
ガ、と床を擦る短い音が、この凍りついた室内の空気を切り裂く。それは、彼女が割り振られた「座席」から、自らの意志で逸脱した合図だった。
彼女は真壁を見据え、その声を氷のように研ぎ澄ませた。
「……私の家は、あなたたちの研ぎ石ではないわ」
「私の居場所も、五本の鉚釘を買い叩くための代価にはさせない」
「それに、周さんが持つ力についても——」
彼女は言葉を切り、俺を見た。
その瞳に宿っていたのは、依存でも、救いを求める弱さでもない。
これまで自分を縛り付けてきた家系や、本家や、過去という名の「透明な檻」に対し、初めて彼女自身の足で一歩を踏み出そうとする、硬質な覚悟だ。
「……それを霊務局が扱うか否か、今この場で、あなたたちの書類ごときが決めることじゃない」
部屋の中が、真空になったかのように静まり返った。
真壁は彼女を数秒間凝視した。その瞳の奥には、檻の中で鳴くことをやめた鳥が、突然羽ばたき始めたことへの戸惑いと、それすらも観測対象とするような冷淡な好奇心が混じり合っていた。
やがて、彼は受領書を回収し、丁寧に牛皮紙の袋へと戻した。
「いいだろう。……『人間』については、一旦は通してやろう」
「だが、『モノ』については、まだ合意ではない」
真壁は袋を小脇に抱え、ドアへと歩き出した。
俺の傍らを通り過ぎる際、彼は足を止め、こちらを見ることなく、ただ冷たい吐息のように言葉を落とした。
「……今回は第一ラウンドだ。次からは、私よりも遥かに『言葉の通じない連中』がやってくるだろう」
「その時までに、誰がどの側に立つべきか。……精々、間違えないことだ」
ドアが開かれ、外の死人のような白みが一気に流れ込んでくる。
彼が去った後の当直室は、急激に密度を失い、空虚な空間へと戻った。
ラオガオが壁から背を離し、堪えていた毒を吐き出すように盛大な舌打ちをした。
「……ちっ、反吐が出る。あいつらの論理ってやつはよ……」
ユートンが部屋に入り、ぬるくなった白湯のカップを俺の手に押し付けた。乱暴な動作だが、そこには彼女なりの、言葉にならない焦燥と保護欲が混じっていた。指先に伝わるカップの温度が、現実の冷たさをかえって際立たせる。
弥生はまだ立っていた。
窓から差し込む白光に照らされた彼女の横顔は、以前よりも透き通り、そして壊れそうなほどに硬くなっていた。
真壁が試したのは、鉚釘の所有権だけではない。
「家族、名声、地位、そして仲間の命」。
それらを秤にかけられたとき、神代弥生が自ら檻の扉を閉めるのか、それとも、血を流してでもその先へ進むのか。
その「審判」の続きは、まだ黎明の闇の中に隠されている。
天が白み始める頃、基地内には「事態は収束した」という欺瞞に満ちた空気が漂い始めていた。
外の放送は止まり、広場の群衆も散り散りになっている。残っているのは当直の職員と、運悪く足止めを食らった数人の居残り組だけだ。遠くでモップをバケツで濯ぐ音が響き、まるで火警(火災警報)など最初から「予定されていた訓練」だったかのように、すべてが日常の裏側に収容されていく。だが、俺は知っている。
真の「値踏み」が始まるのは、いつだって警報が鳴り止んだ後だ。
俺とラオガオ、弥生は、当直室の隣にある小さな会議室に留め置かれた。室内には長机が一台と、数脚のパイプ椅子。窓の外の空は死人のように白く、雪が降る前に光が世界を腐食させていくような、不吉な明るさに満ちていた。右手の五本の鉚釘は沈黙しているが、皮膚の裏側で五つの牙がそれぞれ独自の脈動を刻み、俺の神経を逆なでし続けている。
ユートンは中に入らず、ドアの側に立って腕を組んでいた。俺の生死を確認しに来ただけで、寄り添うつもりなど毛頭ないと言いたげな、冷徹な佇まい。
壁に背を預けたラオガオは、火のついていない煙草を咥えたまま、先ほどよりも険しい顔で沈黙を守っている。机の端に座る弥生は、背筋を硬く伸ばし、折れそうなほどに張り詰めた空気を纏っていた。
そこへ真壁が入室してきた。手には深灰色のファイル。
彼は着席するなり、俺の顔も見ずに数枚の書類を机に広げた。一枚目は先ほどの「暫定受領書」。二枚目は初見のものだが、そのタイトルを見ただけで胃の奥が冷えた。
——『災害時高リスク媒介・優先受領内示』。
最下段の署名欄。印影こそないが、あらかじめタイピングされたその名は、呪いのように鮮明だった。
——山口。
「……本人が来る前に、書類が先に届くとはな。あいつ、随分と手が早いじゃないか」
ラオガオの声は、岩を削るような殺気を帯びていた。
「……効率の問題ではない」真壁は平然と告げた。「……あいつは、最初から待ち構えていたんだよ」
俺は署名を睨み据えた。「……何を待ってたんだ?」
真壁はようやく俺を射抜くように見た。
「二一三号室が目覚めるのをだ」と彼は言った。「……君の持つ五本を、公式な災害時プロトコルへ引き摺り出す瞬間をな」
喉の奥に、苦いものがせり上がってきた。
予感していた最悪が、事務用語という形で確定された瞬間だった。
真壁はファイルをさらにめくった。
そこにあったのは公文書ではなく、内部の転送記録だ。発信時刻は警報解除の直後。内容は簡潔かつ、徹底的な「排除」の論理に貫かれていた。
『二一三号室・三枠めの継続調査を再開せよ』
『周士達が保持する五枚の港湾系鉚釘を「高リスク・インターフェース」に指定』
『直ちに媒介と人員の分離を推奨する』
『神代弥生を優先協作対象に設定せよ』
最後の一行を見つめる俺の視界が、怒りでわずかに歪んだ。
「優先協作対象」——。
代行管理よりも響きはいい。だが、その裏側にある意味は、管理よりもいっそうえげつない。それは「協力」の名の下に、相手を駒として固定し、その意志を剥奪するということだ。
「人員と媒介の分離だと?」ラオガオが冷たく笑う。「……爆弾の解体でもしてるつもりかよ」
「山口の陣営にとっては、その通りだ」と真壁。
「あんたはどうなんだ?」俺は真壁に問いかけた。
真壁は、しばしの沈黙を置いた。
今回は事務的な言葉で煙に巻くこともしなかった。彼は「分離を推奨する」という一行に指を置き、二度、静かに叩いた。
「……山口のやり方は、まず『人とモノを切り離す』ことにある。モノをどこへ収容し、人をどこへ廃棄するか。それを決める主導権を握るために、まず切断するんだ」
「……あんたは違うのか?」
真壁は俺を一瞥した。
「……私は、性急な切断は好まない」と彼は言った。「……安易に切り離せば、それはもはや『案件』ではなく、単なる『査収(荷物の受け取り)』に成り下がるからだ」
部屋の中が、真空になったかのように静まり返った。
俺はようやく理解した。
真壁宗一郎は、決して俺の味方ではない。
彼はただ、山口とは「喰い方」が違うだけなのだ。
山口はスピードを重視する。まず俺から五本を剥ぎ取り、その現物を交渉材料として上に売り込む「略奪者」だ。
対して真壁は、支配を重視する。案件そのものを自分の管理下に置き、プロトコルという名の檻で俺ごと封じ込め、外部からの干渉を一切許さない「統治者」だ。
どちらの道も、俺の尊厳なんて一ミリも考慮しちゃいない。
違うのは、付けられた「値札」の種類だけだ。
「……一方は荷物を奪いたがり、もう一方は盤面を支配したがる。大した違いだぜ」
ラオガオが吐き捨てるように言った。
真壁は否定しなかった。
「……大違いだ」と真壁は言った。「少なくとも私は、六本の『接続』がどう転ぶかを確認する前に、五本を誰かの引き出しへ直送するような真似はしたくないんでね」
心臓が、不快なスキップを刻んだ。
六本。
ついに、あいつの口からその数字が出た。
「……大湊の一本も、最初から計算に入れてるのか?」俺は訊ねた。
「私ではない」真壁は冷淡に告げた。「……山口だ」
三枚目の資料が差し出される。それは断片的な通信ログの抜粋だった。
『……五本を先行収容せば、大湊の一本を補填可能。六本の合流前、神樂の接触を阻止せよ』
それを見た瞬間、俺は乾いた笑いを漏らしそうになった。
おかしくて笑ったんじゃない。事態があまりにドス黒く、もはや「建前」すら機能していない現実に、笑うしかなかったのだ。
「……あいつ、事件を解決する気なんてさらさらねえな」ラオガオの声は、研ぎ澄まされた刃のように冷え切っていた。「六本を揃えて、上への献上品にするつもりだ」
「……そうだ」真壁は否定しなかった。その潔さが、山口への嫌悪をより際立たせていた。
廊下から微かな足音が聞こえ、ドアが二度叩かれた。
真壁は振り返らずに「入れ」とだけ応じる。
入室してきたのは調査員ではなく、一台の小型録音通信機だった。黒い筐体に無数の配線が繋がれ、どこかの通信室から強引に引き剥がしてきたような無骨な代物。女性調査員がそれを机に置き、スイッチを入れる。
シュルル、という薄いノイズの後に、男の声が平坦に響き渡った。
『……真壁』
高くも低くもない、抑揚を抑えた声。だが、一聴しただけで理解できる。それは自分の言葉を他人が最後まで聞くのが「当然」だと思っている、支配者の響き。
——山口。
本人はそこにいない。だが、室内には冷たい風が吹き抜けたような不快な沈黙が落ちた。
「……耳が早いな、山口」真壁は動じない。
『……早いのではない。君が遅すぎるんだ』山口の薄ら笑いが、ノイズ越しに伝わってくる。『警報が止まってからどれほど経つ? まだ人間と「資材」を切り離していないのか』
「……案件はまだ、精査の途中だ」
『案件?』山口は、その言葉の響きを愉しむように繰り返した。『真壁、君の悪い癖だ。手柄を「育てる」ことに固執しすぎる。……一部の代物は、育てるものではなく、ただ「受け取る(接ぐ)」べきものなんだよ』
首筋に、嫌な汗が滲む。
こういう手合いが一番厄介だ。一見すればプロトコルの話をしているようで、その実、死体から肉を削ぎ落とす順序を議論しているに過ぎないのだから。
「……周士達と五本の釘は、まだ私の管轄下にある」と真壁。
『分かっている。だから忠告に来たんだ。あまり手を伸ばしすぎるな。五本の釘、そして六本目は、基地が長期的に抱え込めるリスクではない。……旧案件のプロトコルに引き摺り込めば、神樂の鼻を早く利かせることになるぞ』
「……神樂の介入が怖いか?」
『……未完成の「商品」を抱えて、焦って忠誠を誓おうとする輩が出るのが、私は一番不快なんだよ』
その一言で、室内の温度がさらに数度下がった。
これはもう、二一三号室の怪談でも、五本の鉚釘のリスク管理でもない。
霊務局(BEA)という巨大なシステムの内部で、誰がこの「巨大な利権」を抱えて出世の階段を登るかという、醜い共喰いの序曲だ。
椅子に座りながら、俺は冷徹な事実に直面していた。
俺の右手の五本は、もはや異常現象の媒介ではない。
こいつらは「貨物」であり、「権力」であり、上層部への「通行手形」なのだ。
それを手に入れた者は、神樂機關に対して圧倒的な交渉権を得る。
そして俺という人間は、まだその貨物から「剥ぎ取られていない」だけの付随物に過ぎない。
山口はそこで話を止めなかった。
彼は室内に誰がいるかを、あらかじめスキャンし終えているのだろう。
スピーカーから漏れる声が、より精巧な「慇懃さ」を帯び始める。その丁寧さは、どんな脅迫よりも、俺の神経を逆なでしてくる毒液のようだった。
「……神代弥生さんも、そこにいるんだろう?」
部屋の中が、真空になったかのように静まり返った。
弥生は席を立たず、応えもしなかった。だが、俺の目には見えていた。彼女の背負った「秩序」という名の鎖が、いっそう強く、彼女の細い肩を締め上げるのを。
山口は彼女の回答など必要としていないかのように、独り言のような滑らかさで続けた。
『……分かっているはずだ。この件が基地内部に留まっているうちは、まだ「言葉」でどうにでもなる。だが、もし神樂機關に先を越され、あるいは——神代の本家へ「無加工の記録」が届くような事態になれば、それはもはや報告書一枚で済む話ではなくなるんだよ』
俺は弥生を見た。
彼女の顔から表情が消え、瞳は死人のように白濁して見えた。それは実験動物を眺める時の冷徹さではない。何かに、遠く、暗い場所へと力任せに引き摺り戻される者の絶望だ。
『神代の娘として生まれ、宮司や巫女、あるいは神樂の職にある者が「外から眺める」ことなど許されない。今の君が沈黙し、中立を装うことは、実質的には何の回答にもなっていないんだ。この種の案件において、「加担しない」ことは、そのまま「敵対」のカテゴリーに分類されるのだから』
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がいっそう空虚になった。
あまりに的確すぎる指摘。
それが単なる脅しではなく、彼女が一生をかけて抗い、そして屈してきた「現実」そのものだからこそ、逃げ場がなかった。
弥生がようやく口を開く。声は震えていないが、ひどく平坦だった。
「……霊務局(BEA)の側に立て、ということ?」
山口の薄ら笑いが、ノイズを伴って響く。
『……私は、君により「相応しい居場所」を提示しているだけだ。神樂の下でいつまでも「附随」のラベルを貼られたまま、泥を啜り続けるのは不本意だろう? 今ここで協力し、この件を霊務局の管理下に留めることができれば、すべては変わる。君にとっても、本家にとってもね』
俺は拳を握りしめた。
こいつがやっているのは交渉じゃない。
彼女がひた隠しにしてきた最も柔らかい部分に、事務的なナイフを突き立て、ゆっくりと抉っているのだ。
本家、附随、立ち位置。
一つ一つはただの言葉に過ぎない。だが、それが官僚の舌の上で転がされた瞬間、それは逃れられない「檻」へと形を変える。
弥生はただ、座っていた。
背筋をあまりに真っ直ぐに伸ばしているせいで、少しでも気を緩めれば、そのまま瓦解してしまいそうな危うさがあった。彼女は痛くないのではない。痛みに慣れすぎたせいで、悲鳴の上げ方を忘れてしまっただけだ。
「山口、いい加減にしろ」
真壁が、ようやく言葉を挟んだ。
『おや、心外だな。君は「手順」で彼女を操り、私は「居場所」で彼女を導こうとしている。何が違うというんだ?』
「……貴様は、事案を私物化しようとしているだけだ」と真壁。
『君だって同じだろう?』
二人のやり取りが熱を帯びるにつれ、表面上の冷静さが剥落していく。
真壁は「管理権」を。山口は「全利権」を。
そして弥生は、その巨大な二つの歯車の間に挟まれ、磨り潰されようとしている。
俺は、開くつもりもなかった口を開いた。
正直に言えば、この局はもはや俺の手にある五本の鉚釘だけの問題ではなくなっていた。人としての尊嚴、誰に定義されるかという不快な、そして致命的な選択。
だが、山口の「中立も敵対だ」という言葉を聞いたとき、胃の奥から熱いものがこみ上げてきた。
あまりに正論で、あまりに卑劣なその理屈が、弥生のこれまでの人生を蹂躙していることに、我慢がならなかった。
俺は通信機を睨みつけ、言い放った。
「……おい。霊務局ってのは、他人の人生を『査定』するのが、そんなに楽しいのか?」
山口が、一瞬だけ沈黙した。
まるで、部屋の中にまだ「生きた貨物」が残っていたことを、今さら思い出したかのように。
「周士達、」山口が告げる。『君が賢明なら、今すべきことはただ一つ。五本の釘を大人しく差し出すことだ。これ以上、お互いの面子を潰し合うような真似はやめておこうじゃないか』
「お互いの面子?」俺は吹き出しそうになった。「あんた、現場にいやもしないくせに、俺の面の心配までしてくれてるのかよ」
真壁は口を挟まず、制止もしなかった。ただ座ったまま、俺がどこまでこの男を煽り散らすのかを検分している。
山口の声は依然として揺るぎない。その安定感が、かえって吐き気を催させる。
『……忠告だ。今の君は単なる保持者ではない。君は接合面であり、リスクであり、そして誰かが上へ登るための「正当な理由」そのものなんだよ。五本の釘が君の手にある限り、一時間ごとに変数は増大し続ける。そして、神代弥生さんも——』
彼は言葉を切り、沈黙を置いた。
その「溜め」が、たまらなく卑劣だった。
次に放たれるナイフが、再び彼女へ向けられることを確信したからだ。
『……彼女が今ここで選ばなければ、後はもう、選ぶ権利すら残されていないだろう』
事務室の中が、電流のハミング音だけが響く静寂に包まれた。
理解してしまった。これが第一段階の、真の脅迫。
「選ばなければ敵だ」と明言するのではなく、「お前にはもう、選ばないという選択肢など残されていない」と突きつける。
弥生が、ようやくゆっくりと立ち上がった。
その動作は小さかったが、部屋全体の空気が一瞬だけ凍りついた。
彼女は真壁を見ることも、俺を見ることもせず、ただ一台の通信機を凝視していた。その先にいる一人の男ではなく、自分を元の檻へ引き摺り戻そうとする「システムの声」そのものと対峙するかのように。
「……山口さん、」彼女の声は平坦で、そして凍てついていた。「……さっきの言葉、半分は正解だわ」
山口は応えない。
「神代の娘に、外から眺める場所なんて最初から用意されていない。……それは痛いほど理解している」
彼女は一呼吸置き、言葉を継いだ。
「……だからこそ、確信しているわ。あなたは今、私に居場所を与えようとしているんじゃない。……私の代わりに『檻』を選ぼうとしているだけだって」
室内で動く者は誰もいなかった。
俺は彼女を見つめ、胸の奥がゆっくりと引き裂かれるような感覚を覚えた。
その言葉が、単なる反論ではないことを知っていたからだ。
それは「承認」だ。自分を縛り続けてきた檻の存在を、彼女はついに公の場で認めたのだ。
通信機の向こう側で、二秒ほどの沈黙。
やがて、山口の淡い笑い声がノイズに混じった。
『……だとしたら、残念だよ。檻というものはね、君が認めようが認めまいが、最初からそこに存在しているものなんだ』
その傲慢な一言に、俺の身体が反射的に前へ出ようとした。
だが、その肩をユートンの手が力強く制した。
重みはないが、岩のように揺るぎない拒絶。
「安易に動くな。奴らのフォーマットに乗せられるだけよ」……彼女の指先が、そう告げていた。
俺は奥歯を噛み締め、その衝動を無理やり胃の奥へ押し戻した。
最後は、真壁自身が通信を遮断した。
叩きつけるような動作ではなく、ただ事務的にスイッチを切る。まるで、規定の範囲を超えたノイズを処理するように。
部屋は一瞬で静まり返った。
真壁は黒い筐体を脇へ押しやり、数秒間、テーブルの木目を見つめて沈黙した。
追い打ちをかけるのか、山口の論理をなぞるのか。だが、彼の口から出たのは意外な一言だった。
「……あいつの流儀は、私のそれではない」
弥生は応えず、背筋を伸ばしたまま立ち続けている。
だが、俺には真壁が示した「境界線」が見えた。
彼は五本の釘を諦めたわけではない。
この案件を自分の掌中で転がしたいという欲求も捨てていない。
善意に目覚めたわけでもない。
ただ——山口のように、人間を直接「値札」として扱うような、品性のないやり口を嫌悪しているのだ。
彼は「手順」による支配を望み、山口は「現物」による議价を望んでいる。
不潔であることに変わりはない。だが、その「溝」は確かに存在していた。
「……随分と潔いタイミングで切りやがったな」ラオガオが皮肉たっぷりに吐き捨てる。
真壁は反論しなかった。彼は暫定受領書を再び広げたが、今度は俺の方へは差し出さなかった。
「五本の釘については、引き続き注視させてもらう。それがこの案件の『核』だからな」
彼は視線を弥生へと移した。
「……だが、君が今ここで霊務局の側に立たないからといって、山口のように即座に『神樂の回し者』としてカテゴリー分けするような真似はしない」
弥生が、ようやく彼を見た。「……今日は、ということ?」
真壁はその視線を逸らさなかった。
「……今日は、だ」
その一言は、いかなる拒絶よりも不快だった。
それは「許し」を意味しない。ただの「延期」だ。
君は自由になったのではない。
どちらの側に呑み込まれるべきか、その「決断」を下すためのわずかな時間を与えられたに過ぎない。
俺は椅子に座ったまま、右手をゆっくりと握り締めた。
俺の手にある五本の鉚釘、弥生を縛り付けるあの「本家」、そして山口が手中に収めようとしている大湊の六本目。すべてが盤上に並べられた。二一三号室、葛西、三枠め、災害時ページ——それらの怪異は、今やより醜悪な権力闘争の「駒」へと変質していた。
誰がプロトコルによって案件を支配するか。
誰が人事で人間を縛り上げるか。
そして、神樂機關が到着する前に、誰がより多くの「チップ」を揃えるか。
窓の外が、ようやく白み始めた。
心を安らげる黎明ではない。夜を耐え抜いた万物が、人ならざる歪な輪郭を露わにする、死人のような白さだ。その光が差し込むにつれ、机の上の書類、壁際の埃、そして全員の顔に刻まれた疲弊が、容赦なく暴かれていく。
真壁は書類を一ページずつ、丁寧にファイルへと収めていった。その動作は、紙を整理しているのではなく、まだ語られぬ、しかし語り尽くされるべき「毒」を一時的に封印しているかのように見えた。
「……一時間の休憩だ」と彼は言った。
誰も答えない。
彼は受領書を最下段に押し込み、山口の名が記された提案書を折り畳むと、ようやく俺たちを振り返った。
「……一時間後、五本の釘について話を再開する」
彼は一度言葉を切り、視線を俺から弥生の顔へと移した。
「……君のこともだ」
その声に重みはなかったが、通信機越しの山口の言葉よりも、はるかに俺たちの神経を逆なでした。
山口は強いたが、真壁は「留めた」のだ。
一時間の空白。自分で考えるための、余白。だが、それが寛大さでないことは誰もが理解していた。それは次のプログラムが執行される前に、自らの「価値」を天秤にかけさせるための、残酷なカウントダウンだ。
彼はファイルを脇に抱えて立ち上がり、ドアの前で足を止めた。振り返ることなく、淡々と一言を落とす。
「……今選ばないということが、何も選んでいないことを意味すると思わないことだ」
ドアが開かれ、外の凍てつく空気が室内に雪崩れ込んできた。
廊下は先ほどよりも静まり返っている。二次点呼は完了し、微かな足音が階段の向こうから聞こえるだけだ。基地は眠りに戻ったのではない。ただ、声を潜めただけだ。その静寂は、事態がまだ終わっていないことを、そして次の波が夜明けと共に押し寄せることを、不気味に予感させていた。
真壁が去った後、室内には長い沈黙が居座り続けた。
ラオガオは咥えていた火のついていない煙草を指で抜き取ると、二秒ほど見つめてから力任せに折り、屑籠へと放り捨てた。乾いた音が、張り詰めた沈黙の中で異様に大きく響いた。
彼は俺を見ることも、弥生を見ることもなく、ただ一言だけ吐き捨てた。
「……一時間後だ。次からは、さっきみたいな『綺麗事』じゃ済まなくなるぞ」
そう言い残すと、ラオガオはドアを押し開けて出て行った。顔を洗う場所を探しに行ったのか、あるいは単に、この部屋に充満する「書類の死臭」から逃れたかっただけなのかもしれない。
室内に残されたのは、俺と弥生、そしてドアの側に立ち続けていたユートンだけだった。
弥生はまだ、立っていた。
さっきまで椅子に深く腰掛けていたはずなのに、立ち上がった彼女の姿は、以前よりもいっそう危うく見えた。背筋を伸ばすのは姿勢の問題ではない。それはもはや、彼女の生存本能に刻まれた「習慣」だ。家系に、体制に、過去に押し潰されようとしても、彼女は端正であることしか選べない。だが、その過剰なまでの自律が、今の彼女をあまりに薄く、脆いものに変えていた。誰かが指先で触れれば、張り詰めた表面が繊細な亀裂の音を立てて崩れてしまうのではないか——そんな予感が、室内の空気を重く沈ませる。
俺は口を開こうとしたが、言葉が見つからなかった。
五本の鉚釘の話はあまりに硬く、山口の陰謀はあまりに汚い。そして「神代の本家」という話題は、彼女が最も触れられたくない傷口に手を伸ばすようで、どうしても躊躇われた。
俺より先に動いたのは、ユートンだった。
彼女は室内へ歩み寄り、手に持っていたぬるくなったカップを机の上に置いた。コツ、という小さな音が、苦い沈黙を切り裂く。彼女は俺を、そして弥生を順に冷ややかに見据え、不機嫌そうに吐き捨てた。
「……あと一時間よ。いつまでもここで『証拠品』みたいに並んでいたいなら、勝手にすればいいわ」
毒を含んだ一言だったが、それがかえって、この淀んだ空気に風を通した。
俺はカップを手に取った。陶器の表面には、かろうじて温もりが残っていた。その微かな熱は、机に並べられたどの書類よりも、残酷なまでに「現実」の感触をしていた。
弥生がようやく身動ぎし、椅子を元の位置へと戻した。だが、再び座ろうとはしなかった。彼女はただ、何もない机の表面を見つめている。そこには、俺たちの誰もが二度と見たくない「何か」が、今もへばりついているかのように。
数秒の沈黙の後、彼女が極めて小さな声で漏らした。
「……一時間は、短いわね」
誰も、答えなかった。
彼女が言っているのは、物理的な時間の話ではない。
システムによって強引に切り出された、緩衝地帯のような空白。一息つくことだけを許され、その実、次の波が飲み込みに来るのを待つだけの「隙間」のことだ。
窓の外の白みは、いっそうその輝きを増していた。
当直室、会議室、廊下、そして宿舎。基地全体が、一時的な安息に包まれている。だが、それは嵐の前の静寂に過ぎない。誰かが親切心でドアを閉めてくれたおかげで、次の暴力が始まるまでの数分間だけ、自分が自分であるという「錯覚」を許されているだけなのだ。
分かっている。一時間後、五本の釘も、二一三号室も、山口も、神代の家も、何一つとして軽くなってはいないだろう。
今はただ、刃が喉元からわずか半インチだけ離されたに過ぎない。
呼吸をするには、十分な距離。
だが、逃げ出すには——あまりに、足りない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




