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208.夜の女王 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

俺はロッテルダムの高層ビルの屋上、風の中に立ち、ソフィアを見ていた。


昼間のバージョンは、ガラス張りのビル一棟分と、秘書と、警備と、待合室の空調と、水一杯出さない文明的拷問の積み重ねでできた代物だった。あの時の彼女は港湾業界の御神体《ごしんたい》みたいなもので、微笑みながら人を干物に仕上げ、規則の杓子《しゃくし》で二、三発殴りつけて、制度に感謝しろと言わんばかりだった。


夜のバージョンは違う。


夜の彼女は、もう少し人間に近い。


より善良という意味じゃない。


より危険という意味だ。


人間が高慢さを維持することすら面倒になった時、残る可能性は二つしかない。本当にこちらを恐れていないか、こちらより大きな何かを恐れているか。


俺は後者だと睨んでいる。


テラスの風は強い。港の方から巻き上がってきて、水気と軽油の匂い、遠くのワイヤーロープの冷たい鉄錆《てつさび》、それと高層ビル特有の空虚感を運んでくる。左が街、右が港。左は灯り、右は闇。左は人間が「秩序を築いた」と自称する場所で、右はその秩序が実際に金を稼ぐ場所だ。


ソフィアは低いロングソファに横向きに座り、片方の靴は脱ぎ、もう片方はつま先に引っ掛けたまま。世界に対して礼儀を最後まで履き切るのが面倒だとでも言うように。着ているのは昼間の株主総会向けスーツではなく、もっと体に沿った、柔らかく、しかし読みにくい濃色のドレス。安っぽい誘惑じゃない。昼間の「お手を触れないでください」という硬い殻を一部脱ぎ捨て、その下の、本当の体温もあれば本当に噛みつく牙もある何かを少しだけ覗かせている感じだ。


彼女は俺を見る。視線が顔から肩、肩から手へと移り、今夜の俺が交渉しに来たのか、清算しに来たのか、それともこのビルの上から彼女を投げ落としに来たのかを値踏みしている。


「来たわね」と彼女は言った。


「屋上まで呼んどいて、行かなかったら失礼すぎるだろ」俺はポケットに手を突っ込み、彼女から三歩ほどの距離に立つ。「それに気になってた。昼間の女王陛下が真夜中になったら、客に水ぐらい出す気になるかどうか」


彼女の口角がわずかに動く。


笑いに近い、でも認めたくないという煩わしさにも近い表情。


「昼間から、ずっとその水にこだわってたのね」


「水にこだわってるんじゃない」俺は言う。「怖いくせに相手を審査してるふりをする奴を見てるのが嫌なんだ。そういう芝居、見すぎると飽きる」


彼女はすぐには返さず、テーブルのグラスを手に取ってゆっくりと揺らした。


ガラスの中の酒の色は暗く、港区の夜の一番汚い層を注ぎ込んだみたいだ。


「飲む?」


「毒盛りたいのか、酔わせたいのかによる」


「あなたを殺したいなら、毒は使わない」彼女の口調は平坦だ。


「その台詞、何人かに言われたことがある」俺も同じ温度で返す。「大体、言った後に死ぬのは相手の方だったけど」


今度こそ、彼女は本当に笑った。


昼間の精密で標準化された礼儀的な笑いじゃない。短くて、少し掠《かす》れていて、生きている人間の笑いだ。俺みたいな外道がここまで生き残っているのが、自分でも不合理だと思っているような笑い方。


彼女はグラスを置き、代わりにアイスバケツからミネラルウォーターを一本取り出して、こちらへ投げてくる。


受け取る。


冷たい。


上等だ。少なくともこの女は、夜になれば人間に水分が必要なことぐらいは分かっている。


「はい、水」と彼女。


「神の御恩に感謝するよ」俺はキャップを開けて一口飲む。「で、真夜中に呼んだのは、昼間のカスタマー対応のやり直しをするためか、それともようやく本当のことを話す気になったか、どっちだ?」


「昼間、あなたは随分と重い言葉を使った」


「俺はいつもこうだ。今日はたまたま核心を突いただけだ」


風が俺たちの間を吹き抜け、彼女の肩に垂れた髪を少し乱した。


彼女は直さない。


それも夜のバージョンの違いだ。昼間のソフィアは完璧な正解で、髪が一本乱れることすら失格に見えた。今の彼女は、少し乱れることを自分に許している。だからこそ、俺は余計に油断できない。


ブローカーの中で最も危険な状態というのは、銃を持っている時じゃない。


靴を脱いでいる時だ。


それは「対外モード」から「あなたをどう処理するかを本気で考えるモード」に切り替わったという意味だから。


「座って」彼女は向かいの一人掛け椅子に顎《あご》をしゃくった。


俺はすぐには座らない。


「椅子に爆弾でも仕込んでると思ってる?」と彼女。


「座った瞬間に、また『お願いしに来た側』の芝居が始まるのが嫌なんだ」俺は歩み寄ったが、彼女が指定した椅子ではなく、隣の別の椅子を引きずってきて、角度を変えて座る。「俺は気が短いんで、長く付き合いすぎると、あんたの風景に傷がつく」


彼女は俺が動かした椅子を一瞥し、目の奥で何かが素早く閃《ひらめ》いた。


苛立ちじゃない。


どちらかといえば——なるほど、やっぱり指定通りには座らない人間か、という確認に近い。


上等だ。


今夜の場が自分の一方的な配牌じゃないと彼女が気づいた時点で、話し合いの余地が生まれる。


腰を落ち着けると、テラスに数秒の沈黙が降りた。


眼下の港はまだ動いている。クレーンの信号灯がかすかに見えて、静止した星のようなものと、黒い水の縁に刺さった針のようなものとが混じっている。この街の夜は本当には眠らない。ロッテルダムが眠らないのはロマンのためじゃない。コンテナが自分で歩かないし、金も眠ることを知らないからだ。


ソフィアが先に口を開いた。


「昼間、ワイスマンの名前を出したわね」


「ああ」


「その名前が何を意味するか、分かってて言ってる?」


「『何を意味するか』より、『まだどれだけ残っているか』の方が気になる」俺は水のボトルを膝に乗せ、彼女を見る。「ファシストってのはゴキブリと同じだ。踏み潰したと思っても、電気を消したら壁の隙間から這い出てくる。普通のゴキブリは米を食うだけだが、こいつらは装甲車を走らせて、呪術を使って、工業の外殻に老いた亡霊《ぼうれい》を詰め込んでくる」


「工業の外殻」という四文字を聞いた瞬間、彼女の睫毛《まつげ》が微かに揺れた。


ほんの僅か。


でも俺には見えた。


「やっぱり外してなかった」


彼女はソファに背を預け、肘を肘掛けに当て、視線を俺の顔からゆっくり街側の灯りへと滑らせる。


「あなたは今日、私が奴らのために働いていたかを聞きに来たわけじゃない」と彼女。


「違う」


「私が誰のために扉を開けたかを聞きに来た」


「そうだ」


しばらく彼女は黙った。


演技のための間じゃない。本当に、どこから話し始めるかを測っている。あるいは、俺の手札がどれだけあるかを確かめている。昼間の「待たせる」とはまるで違う種類の停止だ。昼の待機は武器。今の沈黙は天秤《てんびん》だ。


俺も急かさない。


本当に焦るべきなのは俺じゃないと分かっているから。


彼女が俺を呼んだということは、すでに一つのことに気づいているはずだ——昼間の高慢な「干し上げ戦術」では、目の前のこの線が燃え続けるのを止められない、と。


「まず一つ、はっきりさせておく」ようやく彼女が口を開く。「私はいかなるイデオロギーのためにも働かない」


「その台詞、港の人間はよく使う」俺は言う。「密輸業者も使う、武器商人も使う、独裁政権の引っ越しを手伝う銀行も使う。みんな『物流だけやっている、立場は関係ない』と言う。でも最終的に、立場はみんなあんたたちの船に乗って渡っていく」


彼女は俺を見る。目が少し冷たくなった。


「あなたは本当に、物事を嫌な言い方でしか表現しないのね」


「きれいな言い方をしてたら、昼間三時間も干されなかった」


「昼間のあれは必要だった」


「必要なもんか」俺は鼻を鳴らす。「昼間のあれは、先に姿勢で勝ちたかっただけだ」


彼女は否定しなかった。


これは少し評価が上がった。


厄介なのは、自分でも白昼の演技だと分かっているくせに、夜になっても意地を張り続ける人間だ。ソフィアは少なくとも、今ここで昼間の殻を被り直すのが愚かだと理解している。


彼女は脚の角度を変えた。裾が膝の線に沿って少し開く。誘惑のためじゃない。ヒールを脱いだ人間は自然と楽な姿勢を選ぶ、それだけだ。だが、この高層の強い風のせいか、テラスの灯りが柔らかすぎるせいか、その「楽さ」は昼間の隙のない完璧さよりも、かえって圧力がある。


ようやく彼女が「生きている人間」に見えるからだ。


生きている人間には体温がある。


体温があるものは、色々なことを面倒にする。


「私がこのラインにどうやって関わったか、知りたい?」と彼女。


「関わったのがいつかより、いつ間違えたと気づいたかが聞きたい」


彼女の指先がグラスの縁でわずかに止まった。


「アントワープで、おかしな保険証券が出始めた」と彼女は言う。「証券の内容が偽物なんじゃない。本物すぎて、普通の貨物に見えなかった。低磁場免責、霊的汚染除外、夜間単独輸送、宗教修復材専用倉庫、指定転送窓口。一つ一つ見れば理由をつけられる。でも全部が同じ貨物に束ねられていたら、異常だ」


俺は黙っていた。


彼女が自分から保険証券の話を持ち出したということは、もう核心へ向かって動き始めている。


「最初は、教会系のグレー輸送をやっている誰かだと思った」と彼女は続ける。「この業界では、歴史が長くて、コネが深くて、金が汚いほど、何でも『修復』『保存』『原址返還』『リスクヘッジ転倉』の名目で包める。宗教文化財のラインは、一番クリーンではないけど、一番危険でもない。そういう認識だった」


「それで扉を開けた」


「私が開けたのは航路の窓口よ。倉庫の扉じゃない」


「大きな違いか?」


彼女は俺を見て、少し冷たく言う。「私の業界では、大きな違いがある」


「棺桶の中からは、あまり分からないけどな」


今度は笑わなかった。


風が吹いて、テーブルの書類の端が捲《めく》れた。俺は目の端に見慣れた単語をいくつか捉える——Antwerpen、liability、ecclesiastical restoration、special handling。いいね。今夜彼女は、手ぶらで雰囲気を演出しに来たわけじゃない。


「ベルギーの金は、最終的にスイスに入る」と彼女。


「それは知ってる」


「私が思ってたより、あなたは知っている」


「そのムカつく顔だけで今日まで生き残れたと思うか?」


彼女は細く息を吐いた。笑っているのか堪えているのか、判断がつかない。


「スイスは金庫」と彼女は言う。「入り口じゃない。金が入ったら、クリーンで静かで合法な形に洗われる。でも貨物は違う。貨物は必ず動く。動く限り、誰かがサインして、タイムウィンドウを確保して、通関させて、名前を書き換えなきゃいけない」


「オランダが入り口だ」


「オランダは口よ」彼女は俺の言葉を修正する。「入り口は優しすぎる。ここは口。飲み込んで、名前を変えて、吐き出す。海に出た後は、多くのものが元のものではなくなっている」


「ロンギヌスの槍も含めて?」


彼女がようやく、まっすぐ俺を見た。


その瞬間、テラスの風が一秒だけ止まったような気がした。


「やっぱり、それが目的だったのね」


「俺が追っているのはその『物』じゃない」俺は言った。「俺が追っているのは、それを使おうとしている連中だ。もしワイスマンのナチス残党どもの手に渡ったら、それは単なる文化財盗難じゃ済まない。人が死ぬ。大勢だ。宗教神話の話じゃない。あいつらが、どんな遺物でも兵器に再包装して、その兵器でファシズムの死肉に餌をやるからだ」


ソフィアの手から、ようやくグラスが離れた。


置く動作は静かだ。


だが、その仕草《しぐさ》にはこう書いてある——もう「何かを持っているふり」で自分を隠せる段階じゃない、と。


彼女は立ち上がり、裸足のままテラスの手すりまで歩いていく。


夜風が裾を持ち上げ、姿が薄く延びる。この角度から見ると、彼女は女王というより、自分の港の上に立っていて、海の中に「自分の手数料の範囲外の何か」がいると、やっと気づいた人間に見えた。


「私は、完全な槍には触れていない」と彼女。


「じゃあ、何に触れた?」


「名前よ」


細めた目で彼女を見る。


「人間の言葉で言え」


「私が扱ったのは、名前と、権限と、航路と、窓口」彼女は振り返らずに続ける。「本体そのものを、全部見せてくれる奴なんていない。それが最初に気づけなかった理由。『聖遺物』という名札を付けて船に乗せたわけじゃないの。分解されて、分散されて、別々の合法な名目に包まれて動いている。宗教修復用の資材、金属補修パーツ、封印箱、温湿度コントローラー、木製の支持架台、特殊合金の防振カバー。その一つ一つだけを見れば、全部筋は通る。でも、同じタイミングで、同じルートを、同じ再保険窓口を通って一緒に動くこと自体が、おかしい」


俺も立ち上がり、彼女の隣まで歩いた。ただし、触れ合わない距離で止まる。


微妙な距離だ。


一歩詰めれば、交渉の質が別物になる。


一歩離れれば、見えなくなる情報が増える。


彼女の体から酒の匂いがした。だが薄い。酔い潰れるためじゃなく、夜を夜らしくするための分量だ。それとは別に、上等な香水の残り香《が》、風、そしてすぐには名付けられない何かの匂いがする。甘くもないし、柔らかくもない。どちらかといえば、「長い時間をかけて自分を秩序の一部に調律してきた人間の皮膚に残る、冷えた金属の匂い」に近い。


「おかしいと自覚したのは、いつだ?」俺は訊く。


「遅すぎる頃に」彼女は言った。


「それは答えになってねえ」


彼女は振り向き、昼には見せなかったものを初めて目に宿した――苛立ちと疲労、それから素直に機嫌の悪さ。


「この立場で、全件自分でコンテナ開けて中身を確認できると、本気で思ってる?」と彼女。


「この立場だからこそ、開けちゃいけない扉ぐらい把握してると思ってた」


「私は、単なるグレーな教会物流だと思ってた」


「で、結果は?」


「結果として、アントワープから『名前だけの貨物』一式が流れ込み、ロッテルダムがそれを飲み込む口になり、ドイツで誰かがそれを再組立てするのを待っていた」


その一言で、頭の中の線が一気に一本につながる。


ベルギーは名目を洗う。


スイスは金を沈める。


オランダは飲み込み、名前を変え、吐き出す。


ドイツ――ドイツで、組み立てて使う。


それこそがワイスマンどものやり口だ。


遺物を金庫に仕舞い込んでありがたがるんじゃない。工業の外殻、呪術のプロセス、軍事残骸に埋め込んで、再び運用可能な兵器に変える。


俺は彼女を見る。


「やっと、自分が開けた扉を間違えたって認めたわけだ」


彼女はすぐには噛みついてこなかった。


しばらくしてから、ごく小さな声で言う。


「……ええ」


か細い。


けれど、はっきりと聞こえた。


言い訳でも。


修飾でもない。


ただの、単純で、彼女にしては稀少な肯定。


そう。


彼女は間違った扉を開けた。


風が俺たちの間を抜ける。


この夜で一番価値があるのは、彼女の手元の書類でも、ドイツの情報でもなく、この「ええ」という一語なんじゃないか――ふとそんな気がした。


ソフィアみたいな種類の人間が、一番口にしない言葉だからだ。


「情報が不完全だった」とか、「当時の判断が甘かった」とか、「窓口が利用された」とか、「プロセスが流用された」とか、「私はゲートを開けただけで、中身は関知していない」とか。体面を守るための専門用語なら、いくらでもあるだろう。


それでも彼女は言わなかった。


ただ、「間違えた」と認めた。


それで十分だ。


一度それを認めた後に出てくる情報は、単なる取り引き以上のものを含む。わずかでも、本人の感じている危機が混ざる。


俺は手すりに背を預け、横目で彼女を見る。


「で、ドイツのどこだ?」


彼女は、俺が一息つく余地も与える気がないことを確認するように、視線をよこす。


「本当に、傷口を追いかけてくるのね」


「他にどうしろって? 『誰にでも間違いはあるよ、次からナチスに海路貸さないよう気をつけてね』とか慰めてほしいか?」


今度は、完全に呆れ笑いだった。


笑い終えると、風で頬にかかった髪を耳の後ろへ払う。なんでもない仕草なのに、この時間、このテラス、この街のてっぺんという条件が揃うと、「なんでもなさ」がいちばん危険に見える。


「あなたみたいな人間、普通の世界だったら、滅茶苦茶嫌われてるでしょうね」


「残念ながら、出会いが異常な世界だっただけだ」俺は言う。「全員どこか壊れてる。俺はただ、他のやつよりそれを口に出すだけ」


二秒ほど俺を見ていた彼女は、ふいに半歩近づいてきた。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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