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207.ロッテルダム 2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

怒れば「手配が行き届かず申し訳ありません」と逃げられ、帰れば相手の勝ち、耐えればこちらの渇望が明らかになる。直接の侮辱じゃなく、文明的な檻に閉じ込められ、こっちが「教養のない外様」になるのを待たれている。


希(シキ)が最初に気づいた。


「ここ、水くれる気ないで」


「ああ」


「わざと?」


「ああ」


「ほんなら、ウチここ嫌いや」


「俺もだ」


葉 綺安は肘掛けに凭れ、冷笑。「女王? 議事録の提出先延ばしばっかりしてる自治会長の方がまだマシやな」


ヴィクトリアはさらに苛立っていた。


「東欧で気取った武器ブローカー、南で老朽船二隻で王様気取りのバカ、バルカンでバーを王宮扱いしてるクズども……でも、三時間干し上げて水も出さず、空調と秘書で人をジワジワ責めるタイプは初めてやな。女王病のハイブランドや」


レイチェルは背筋を伸ばして座り、ヤクザの面接に紛れ込んだ新任教師みたいな顔。


「周さん……本当に場所、間違ってないですよね?」


ロビーの向こうの鏡面パネル、反射壁――どの角度からも監視できる構造。


「間違ってない。ただ、相手はこっちに『間違えた』と思わせたいだけだ」


「なんで?」


「自分が逃げてると思われたくないからだ」


妾がようやくカップを置き、静かに言う。


「それに、誰が先に崩れるか見たいのであろうさ」


二時間余りが経ち、ようやくソフィアが現れる。


一人ではない。警備員、アシスタント、最後に本人。すべてがリハーサル済みのような無駄のない動き。濃色のスーツは飾り気がないが、布一寸一寸までが「私は飾りに頼らない。私自身が規格だ」と主張している。


第一印象は「美人」じゃない。


「標準」。


とても高い標準。


頭の先から爪先まで全てが計算されている。髪の落ち方、イヤリングの長さ、歩幅、窓と自分を同時にフレームに収める角度。それは虚栄ではなく、職業意識。自分が「場のための武器」であることを、骨の髄まで理解している。


残念ながら、この武器を俺に向けるのは、方向が悪い。


彼女は一言だけ言う。「お待たせしました」


ヴィクトリアが堪えきれず吹き出す。


「お待たせ? 三時間水も出さずに放置して、それで『お待たせしました』? 港湾式デトックスか?」


ソフィアは彼女を一瞥し、返事はせず、最終的に俺を見る。


変な色気もないし、「あなただったの」みたいな芝居もない。ただの査定。高リスク貨物のコンテナを眺めるような目。


上等だ。安っぽい芝居が一番嫌いだ。


「周さんですね。お会いしたいとのことで」


「どちらかというと、ロビーで飼育されてる気しかしないがな」


彼女の口角がわずかに動く。


「この程度の待機に耐えられないようでは、お話しする価値はありません」


この一言で、今日彼女が何を狙っているか全部分かった。


ルールを定義したいのだ。彼女が上、俺たちが下。彼女が選ぶ側、俺たちが試される側。時間は彼女が支配し、俺たちは忍耐を消費する。この前提さえ通れば、会話の主導権はずっと彼女。


だが俺は、指定された場所ほどテーブルごとひっくり返したくなる悪癖がある。


「耐えるのは得意だ」俺は彼女を見据える。「そうじゃなきゃ、今ごろ生きちゃいない。ただ、客を脱水させるのが人物鑑定だと勘違いしてるなら、ロッテルダムの教育水準を見直す必要があるな」


葉 綺安が横でクスリと笑う。


林雨瞳がこの場にいたら、「開口三句で会議を通夜に変えた」とでも言うんだろう。職業病だ。


ソフィアの隣の女アシスタントの目が明らかに冷たくなる。


ソフィア自身は、最初の印象を修正しているだけの無表情。


「あなた方はお客様ではありません」


「あなたも、女王じゃない」


ロビーの空気が一瞬止まる。


その一拍で、昼の「高所視点」に亀裂が入った。


ここで深入りはしない。昼間のこういう場で真実は語られない。だが、一つだけ分からせておく。俺たちは港の女王に頭を下げに来たわけじゃない。あんたの上の海が、もうすぐ爆ぜるぞと告げに来た。


「アントワープの偽造積荷目録、再保険の連結、保税倉庫、名前だけの貨物、ワイスマン」俺は淡々と並べる。「この単語を聞いて何も感じないなら、今日の俺の時間は無駄だったな」


彼女の表情が、初めて微かに変わる。


焦りではなく、背筋を伸ばすような収縮。


当然だ。この単語群は、軽々しく繋げていいものじゃない。


「何を仄めかしておられるのか、分かりかねますが」


「じゃあ、もっと直接言う。ファシスト工業の殻を被った連中が、本来流通しちゃいけないものを海から上げた時、最後に吊るされて見せしめになるのは、一番下で箱を運んでる連中じゃない。高層階から『自分はルールしか扱っていない』と言っていた側だ」


彼女は黙って俺を見る。


ロビーの窓が港を美しい背景パネルに切り取る。クレーン、堤防、運河、コンテナ。全部、絵のように静かだ。その静けさが嘘だと知っているのは、本当に港に棲んだことのある人間だけ。


最後にソフィアは一言、「本日はここまでにしましょう」。


ヴィクトリアが声を上げて笑う。


「やっとか。三時間待たされて三分の面談。効率よすぎる」


葉 綺安はさらに刺す。「自分を飾るのに全部の時間使ったら、中身まで磨り減るのは当然だ」


エリザヴェータはティーカップを持ち、ソフィアを見た。その瞳には意外なほどの興味が宿る。


「第一印象は最悪じゃが、まだ救いようがないほどではない」


ソフィアは妾を無視し、俺だけを見る。


勝利でも軽蔑でもない。針で刺されて、痛いと認めるか決めかねているような冷静さ。


伝わった。昼はここまで。


扉は昼には開かない。昼の扉が見せるのは、どれだけ上手に飾れるかだけ。


ビルを出た時、全員のソフィアへの第一印象は恐ろしいほど一致していた。


クソ。


ハズレ。


演技派。


しかも最高に鼻につく。


ホテルへの帰り道、ヴィクトリアは彼女の頭から爪先まで、接客態度から港湾の礼儀まで罵倒し尽くし、最後にこう締めた。「これがロッテルダムの女王気取りなら、一番の能力は高級オフィスを感情的DV現場に育て上げることやな」


葉 綺安は窓の外の川と橋を見ながら、「もっと怖い人かと思ってた。実物は小手先包んだだけね」と淡々と。


希(シキ)はマイボトルを抱え、「ウチ、あいつ嫌いや。わざとしんどくさせる」とむすっと。


レイチェルは後部座席で、虚脱した顔。


「あの人……いつも、あんなん?」


「さあな。でも今日あれだったってことは、俺たちが運んできた話に怯えてる証拠だ」


「怯えてるのに、わざと干すの?」


「緊張するほど、虚勢張る奴もいる」


エリザヴェータが窓の外を見ながらふと笑う。


「違うのう」


「何が違う?」俺。


「緊張しておるから装うのではない。昼は装わねばならぬから装っておる。この立場の者は、昼に自分など持てぬ。昼のあやつは、秩序そのものに属しておる」


「夜は、本物に近い?」葉 綺安。


妾は目尻を上げた。「聡き者なら、そうなる」


「聡くなかったら?」


「その時は、周 士達《ジョウ・シーダー》が忙しくなる」


そのままホテルに戻る。


夜の拠点は、昼間よりさらに臨時避難所感が強い。全員が上着、ファイル、スマホ、レコーダー、ついでに火種を投げ込み、空気が別の戦場に切り替わる。


「対外モード」から本音モードへスイッチが切り替わる。


林 雨瞳たちのチームも戻った。


ドアを開けるなり、彼女は今日得た資料の束をテーブルに投げ出す。顔を見るだけで、今日が順調じゃなかったのが分かる。


「公開情報からは線が見えるだけで、核には触れられない。船会社代理三つ、通関業者二つ、宗教修復基金窓口一つ、再保窓口一つ。どれも綺麗すぎる。紙やすりで磨かれたみたい」


「こっちは女王様の実物を拝んできた」とヴィクトリア。


「どうだった?」林 雨瞳。


「クソ」葉 綺安即答。


「クソやな」希(シキ)も頷く。


「しかも、ミネラルウォーターも出さない嫌がらせ付き」ヴィクトリア。


林 雨瞳は珍しく、冷笑を浮かべる。「じゃあ、第一印象は一致してる」


俺は昼のロビーでの一連を簡単に説明した。


彼女の登場、ペース掌握、最後の三分で会話終了――林 雨瞳の口元はどんどん一直線に。話し終えると、一言だけ。


「昼のバージョン、不合格」


「やっとまともな講評出た」とヴィクトリア。


葉 綺安はベッドに腰掛け、指でテーブルを叩きながらゆっくり。「一番嫌なのは高慢さじゃない。高慢な奴なんていくらでもいる。本当に不愉快なのは、境界線を自覚していながら最初に小細工でこっちを足元に置けるか試したこと」


「置けなかったけどな」と俺。


「だから、今夜は寝つき悪いやろ」とエリザヴェータ。


その直後、フロントからノック。


夜十一時、ドアが二回。


荒いノックじゃなく、抑制された「ビジネスホテル夜勤」の教科書的ノック。蹴破られるより厄介、礼儀に包んだ面倒事の合図。


ドアを開けると、フロントの兄ちゃんが濃紺の封筒を手にしている。封蝋《ふうろう》は銀色、刻印は王冠と波。


見た瞬間、送り主が誰か分かる。


兄ちゃんも普通の配達じゃないと分かってる顔。俺に封筒を差し出し、声を潜める。


「周様、これは『必ずご本人に』とお預かりしました」


「誰から?」


一瞬迷って、「名前は……ありません。ただ、使いの方がこう伝えていました——女王が、深夜にご自宅でお待ちしています」


「女王」の一言は、これ以上大きな声を出したらホテル全体の宿泊費が上がるんじゃないかと心配するほど低い。


受け取った時点で、部屋の女性陣は全員聞きつけている。


瞬時に、空気が多層的な静けさに変わる。


音が消えたわけじゃない。それぞれの火種が、自分の持ち場でスタンバイに入ったような静けさ。


ドアを閉め、封を切る。


中身は厚手のカード。一言だけ。


「零時。ワールハーフェン外縁。私邸。貴方だけ。」


署名はなし。王冠と波の印だけ。


カードをテーブルに置く。


葉 綺安が、意地の悪い笑みを浮かべた。


「へえ」葉 綺安(イェ・キアン)が言った。「昼間に人を干物にしてから、夜に個人指名。なかなかやるじゃない。海の女王様、接客は壊滅的でも、時間帯の選び方だけは一流ね」


林 雨瞳(リン・ユートン)の視線が、カードをその場で凍らせそうなほど冷たくなる。


「『貴方だけ』?」彼女はその三文字を検死でもするように読み上げる。「昼は取締役会気取り、夜は突然の個人召喚。そのパターン、大抵は何かやらかす寸前の人間にしか見ない」


希(シキ)の顔が一気にしょんぼりと落ちた。


「行くん?」


「たぶん行かないといけない」


「ウチ、嫌や」


「分かってる」


ヴィクトリアは壁にもたれ、腕を組んでふんと鼻を鳴らす。


「いいじゃない。昼は私たちを見下して、夜は周 士達(ジョウ・シーダー)を名指し。何よ、港の女王様は深夜カスタマーサービスでも始めるつもり? それとも、またあんたのコレクションに女が一人増えるわけ?」


「俺の女じゃねえよ」


「『今は』ね」返事が速い。


「ヴィクトリア」俺は彼女を見る。


「何よ。事実でしょ」彼女は盛大に白目を剥いた。「あんたってさ、どこ歩いてても厄介な女ばっか拾って帰ってくるじゃない。コンビニのポイントカードみたいに。アイドル、ハッカー、吸血鬼、機械工、社交界の貴族、で、今度はロッテルダムの港の女王様。言っとくけど、アタシ一ミリも驚いてないから」


葉 綺安が氷点下の声で被せる。「あんたの人生、クソみたいな後宮ソシャゲよ。ただし普通の人はガチャ回すのに課金するけど、あんたは不運だけで当ててる」


思わず笑ってしまった。


「随分と優しくない例えだな」


「似合うもの」と彼女。


希(シキ)はそういうゴミトークには混ざらない。もっと直球だ。ベッドの端に座り込み、膝を抱えたまま、くぐもった声で言う。


「ウチ、あの人嫌いや。昼間わざと嫌な思いさせて、夜に一人だけ呼び出すやろ。ああいう人、ロクなもんちゃう」


「ロクでもないのは確か」と林 雨瞳。「でも本当に真夜中に単独で会う気なら、昼のバージョンがもたなくなった証拠でもある」


「ほんなら、ウチが一緒に行く」とヴィクトリア。


「カードには『あなただけ』って書いてある」俺はカードを指先で弾いた。


「文法がおかしいってことにしときゃいいのよ」


「それはならぬ」今度はエリザヴェータが口を挟んだ。


相変わらず悠々とした調子で、手からティーカップも離さない。この部屋に満ちた酸っぱい空気も、妾《わらわ》には単なる別種の茶香にしか思えないらしい。


「誰も同行してはならぬ」


葉 綺安が目を細める。「理由は?」


「この書状そのものが、あやつの第二幕じゃからな」妾はカップをテーブルの端に置き、ゆっくりと言う。「昼の幕はすべての目のためのもの。威を張り、場を仕切り、自分が女王であると証明するための演目。夜の幕こそ、真に語りたいことのための舞台じゃ。今ここでぞろぞろ押しかければ、あやつはまた昼の殻を被り直すだけじゃろう」


林 雨瞳はカードを見つめ、反論しなかった。


エリザヴェータが正しいと分かっているからだ。


世の中には、そういう「扉」がある。人数で押せば開く類いではない。人が増えるほど、かえって重く閉じる扉。


レイチェルは椅子の端に座り、視線を俺たち一人一人の間でさまよわせてから、自分の今日一日の精神状態を的確に表す一言をぽつりと漏らした。


「私……場所、間違えて来ちゃいました?」


誰もすぐには返さなかった。


あまりにも的を射ていたからだ。


二秒ほど置いてから、俺はようやく言う。


「今さらそれ言うってことは、もうだいぶ順応してるってことだ」


彼女は心底辞表を書きたそうな顔をした。


俺はカードをポケットにしまい、立ち上がって着替えに向かう。


背後から、酸の飛沫《しぶき》は止まらない。


葉 綺安。「港の夜景に騙されないで。高そうに見えても、中身はゴミって物はいくらでもあるから」


ヴィクトリア。「今度また水出さなかったら、冷蔵庫ぶっ壊してきなさいよ」


希(シキ)。「あんた、あんまり遅く帰ってこんかったら、ウチがあの女ん家ぶっ潰しに行く」


林 雨瞳は最後に一言だけ投げた。「女として見るな。扉として見ろ」


ジャケットを羽織りながら振り返る。


「分かってる」


彼女は冷ややかに俺を見る。「本当に分かってなさい」


---


日付が変わる少し前、俺は一人で外に出た。


夜のロッテルダムは、昼間以上に「まだ動いている機械」だった。港から吹いてくる風には、塩、軽油、河川の匂いと鉄錆《てつさび》が混じっている。道路は清潔で、街灯は安定して灯り、遠くには橋のシルエットが黒い水面をいくつもの区画に切り分けている。この街には、戦場みたいな露骨な破壊の威圧感はない。その代わりにあるのは、もっと性質の悪いもの——すべてが正常に機能しているからこそ、異常はより深く隠蔽《いんぺい》される、という現実だ。


車がワールハーフェン外縁の高級住宅街に入ったところで、ようやく「プライベートレジデンス」という言葉の、一般人とは違う意味を理解した。


単に広いわけじゃない。


富裕層の「境界」感覚が、形になった空間だ。


水辺に並ぶ高層ビルは、それぞれ自前のフェンス、自前の出入口、自前の警備、自前の防音ガラスに囲われ、それぞれ別個の世界になっている。外は港、航路、コンテナ、クレーン、誰かの労働。内はフローリングと石材とワインとエレベーターと眺望と遮断。建物そのものが宣言だ。——私は海の上に立つが、海には触れない。


車は一つ目のゲートで止められた。


多くは聞かれない。カードの印章と俺の名前だけ確認して、すぐ通される。


二つ目が駐車場。


三つ目がエレベーター前。


四つ目で、ようやく「人」が立っていた。


ダークスーツを着た女執事。年齢は読めない。愛想を売る気配が一切ない顔だ。俺を一瞥してから、短く言う。


「周様。こちらへどうぞ」


「ここの女王様って、いつも人に会うの、こんなに面倒なんだ?」


表情は動かない。「彼女が人と会うことは、あまり多くありません」


「じゃあ、今日は光栄なわけだ」


「そうとも限りません」


笑いがこみ上げる。


いいね。執事クラスでも、この口の悪さ。ここの給料体系には、態度教育も含まれてるってことだ。


エレベーターは上へ向かう。


表示される数字は速くはないが、妙に安定している。この「安定」そのものが贅沢品だ。エレベーターの中にいると、上昇しているというより、地面との繋がりを一層一層剥がされている感覚になる。階が上がるほど、外の世界はミニチュアになり、人の良心は「下の連中と同じ空気を吸う必要なんてない」と勘違いしやすくなる。


扉が開いた先にあったのは、まず廊下。


その突き当たりにガラス。


さらに歩を進めると、その向こうは風だ。


普通のバルコニーとは違う。高層、臨港、夜風に水分と鉄錆の匂いが混じっている。時に街側から、時に埠頭《ふとう》から吹き上がってくる。そこに立つと、二つの夜を同時に見ることになる。一方には計算され尽くしたロッテルダムの街の灯り。もう一方には、クレーンとコンテナヤードが浅い眠りに落ちた鋼鉄の獣群のように沈む港。


ここは住居じゃない。


展望台だ。たまたまベッドが置いてあるだけ。


あるいは、「この視界を居住空間として買える側」の証明装置。


女執事は屋上テラスの縁にある半屋外のスペースまで俺を案内すると、そこで足を止めた。


「奥様がお待ちです」


そう告げると、音もなく引き下がる。


空けられた方向に目を向ける。


テラスの向こうに、低いロングソファ、暖色のフロアランプ、半分飲まれたグラスと数枚の書類が載った黒いサイドテーブル。夜風が薄いカーテンをふわりと膨らませ、海の吐息みたいな白い揺れをつくる。灯りの下に、力の抜けた人影。一歩手前の怠惰、と呼んでいいくらいの緩さだ。


それが、俺が初めて見る「本当の」ソフィアだった。


昼間、警備と秘書とガラスとロビーとフォーマットでガチガチに固められていたバージョンではない。


夜のバージョン。


彼女はロングソファに横向きに座り、片手で額を支え、足元のヒールは脱ぎ捨て、濃い色のドレスの裾が風に揺れている。わざと艶《なまめ》かしさを見せているわけでも、高嶺の花ぶっているわけでもない。ただ、張り詰めたものを引っ込めた結果として、真に「高所生物」と呼ぶべき疲労と危うさが露わになっている。


柔らかいわけでも。


優しいわけでもない。


昼間は牙を隠し、夜になってようやく肩の力を抜いた獣——その方が近い。


足音に気づいても、すぐには振り向かない。手のグラスを、テーブルにそっと戻す。


それから顔をこちらに向ける。


港の風が背後から吹き、街全体の塩と鉄を連れてくる。


「来たわね」と彼女は言った。


俺は風の中に立ち、昼間は俺たちをコンテナ扱いで干し上げ、夜には屋上に呼び出した女を見つめながら、ようやく実感した。このオランダ編の本当の「扉」が、今になってようやく一筋だけ開いたのだと。


そして、なぜ「真夜中にしか会うべきじゃない人間」というものが存在するのかも分かった。


昼の彼女は、秩序のものだ。


夜の彼女は、恐怖のものだ。


ポケットに手を突っ込み、一歩踏み出す。


風が強くなる。


左に街。右に港。ガラスと黒い水が夜を真っ二つに裂いている。


ソフィアは怠そうな目で俺を眺める。前振りなど投げ捨てる気満々の、厄介事そのものみたいな視線だ。


彼女の前で足を止める。


その瞬間、ロッテルダムの夜全体が、一度に静まり返った気がした。

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