202.外殻 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ディナンの朝は、不安になるほど静かだった。
心が落ち着く種類の静けさじゃない。昨夜、世界がひっくり返りかけたのを知っているのに、今朝になれば川は流れ、鳥は鳴き、階下の食堂では卵を焼く音がする。バストーニュでのあの地獄絵図が、どこかの地域限定精神病発作で、時間が来たら文明社会が自動的に営業再開したみたいな顔をしている。
目が覚めたとき、最初に感じたのは空腹でも寒さでもなかった。
左肩の傷が、機嫌の悪い間借り人みたいに、朝一番から中で椅子を引きずっている感覚だった。
俺は横になったまま動かず、宿の黄ばんだ天井を数秒見つめて、自分がまだディナンにいることを確認した。ナチスの祭壇の内側でも、バストーニュ北側の灰と血とコンクリートの粉まみれの道でもない。本来なら簡単に区別できるはずだが、この二日を経た今、「目覚めた場所がどこか」への信頼度は、K7のフロントバンパーの固定金具と同程度まで落ちていた。
カーテンの隙間に光がある。
真昼の硬い白じゃない。朝の冷たい淡光だ。外にはまだ霧があるらしく、光に湿り気が混じっている。部屋の他の連中もだいたい目を覚ましているが、誰も急いで声を出さない。この沈黙は戦後に似ている。平和じゃない。今日、自分の部品がどれだけ使えるか、各自が先に確認している時間だ。
希が最初に起き上がった。髪は昨夜悪鬼と殴り合ったみたいに乱れているが、目の覚め方は誰よりも早い。まずベッド脇のメディカルキットを確かめてから、俺を見る。
「まだ生きてる」
「朝の挨拶が温かいな」
「昨日あなたに投入した薬が無駄になってないか確認してるだけ」彼女は布団をめくって降り、歩いてきて俺の左肩の固定テープを押さえた。的確で、痛い。「痛む?」
「答えを知って聞いてるだろ、それ」
「いい反応。神経はまだ生きてる」彼女は頷く。冗談を言っている顔じゃない。「下に降りる前に包帯を替える。今日ブリュッセルに入るなら、最低でも『塹壕から掘り出されたばかり』には見えないようにしなさい」
「生きるより難しい要求だ」
「なら努力して。恥をかくのは私じゃなくて、あなたなんだから」
葉 綺安は向かいのベッドの頭板にもたれ、昨夜飲み残した保温マグを両手で包んでいた。顔色はまだ白いが、昨夜の「触れれば砕ける」状態よりはずっとマシだ。声は少しかすれている。退駕後の沙がれが、声帯にまだ残っているみたいに。
「今日、階段を下りるとき、急がないで」彼女は俺を見て言う。「昨夜、あなたが起きたとき、また肩を引っ張った」
俺は眉をひそめた。
「眠れてなかったのか?」
「眠った」彼女は淡々と言う。「ただ、今のあなたの歩き方は鉄器を詰めた棺桶を引きずってるみたいで、聞こえないわけがない」
ヴィクトリアがドア脇のシングルベッドで寝返りを打って、そのまま起き上がった。先に煙草を取り出してから、ここが禁煙だと思い出して舌打ちし、しまい直す。
「素晴らしいわね、朝からお互いを気遣ってる。まだ完全に冷たい死体になってない証拠だわ」あくびをひとつ。
エリザヴェータはすでに着替えを終え、窓際で袖口のボタンを留めていた。こういう人種は厄介だ。前夜に煉獄から這い出してきても、翌朝には「今日はスケジュールが少し詰まっております」という顔に整えてくる。これは優雅さじゃない。文明で包装された圧迫感だ。
「七時四十分、下に参れ」彼女は俺たちを見もしないで言う。「食堂の隅の席はレイチェルに押さえさせておる。まず食し、会議を開き、それから入城方法を決める。今日は誰一人として勝手な行動は許さぬ」
俺は布団をめくって、ゆっくり起き上がった。
左肩がすぐに報復してくる。
くそ、自分がまだ生きていることを思い知らせる手口が、日に日に上達しやがる。
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宿の食堂は、想像以上に普通だった。
普通すぎた。
木のテーブル、白いテーブルクロス、コーヒーメーカー、温かいパン、バター、ジャム、新聞。窓際には真面目に咲いている小さな白い花の鉢植えまである。昨日までバストーニュの外縁でドイツ軍の実体化残兵と、制御不能な霊的バックラッシュと、政府の封鎖網をかいくぐってきた連中には、この光景はほとんど侮辱に近い。
中に入った瞬間、コーヒーとベーコンを焼く匂いがして、胃が情けなく目を覚ました。
レイチェルはやはりもう席を取っていた。一番奥の壁際、正面入口の視線を外しつつ、外の駐車スペースが見える位置だ。目の前には手書きのリストと簡単な地図、それにディナンからブリュッセルまでのルートの下書きが並んでいる。鉛筆の跡が深く、今朝描いたものじゃない。
記者三人組も来ていた。
レミは寝不足の幽霊、クレールは怒る暇もない幽霊、ジュリアンは感情を全部骨の中に押し込んだ幽霊みたいな顔をしている。十人が一つのテーブルに集まって、地獄ツアーの朝礼みたいな光景になった。
女主人がコーヒーと温かいパンをテーブルに置くとき、俺たちを見る目は昨夜と同じハイレベルな無関心を維持していた。どこへ行くとも、何をしているとも、なぜ誰かの肩が非合法移植手術直後みたいに包まれているとも聞かない。フランス語で一言だけ聞いて、レイチェルが卵とハムとスープと少しフルーツを頼むと、女主人は背を向けて去った。普通の面倒な客として。国際的な厄介事の処理をしている連中としてじゃなく。
最初の料理が運ばれると、エリザヴェータは一秒も無駄にしなかった。
「十分以内に人、薬、車、データを片付ける。残りは移動中に話す」彼女は言う。「まず負傷状況から。希」
希はスプーンを置いた。臨時で法医学法廷に引き出された検死官みたいな表情で。
「周 士達。左肩、擦過傷に二次裂傷。炎症あり、現時点では抑制下。今日は車に乗れる、話せる、判断できる。銃を担いで突撃は不可、無理な長距離運転も不可。葉 綺安。退駕後の脱力、声帯軽度損傷、神経疲労。今日は彼女を再度オーバーロードさせるものには一切触れさせない。他の全員は主に睡眠不足、脱水、筋肉緊張、精神疲労。今日その場で死にそうな人間はいない。これがグッドニュース」
一拍置いて、全員を見回す。
「バッドニュースは、全員、もう一回バストーニュ級のことが起きたら、まとめてご先祖様に会いに行きそうな顔をしてること」
レミが静かに手を挙げた。
「ご先祖様なら、まあ受け入れられます。ドイツ軍にはもう会いたくない」
「じゃあ今日は口を閉じて、オカルト的確率を上げるな」希はコーヒーを一口飲んでから、追撃。「それから、周 士達が午後に発熱したら、彼の『まだ平気』発言権を全部剥奪する」
「お前、共産党より専制的だ」
「あなたは共産党より信用できない」
レイチェルが手書きの表をテーブルの中央へ滑らせた。
「補給状況。水、食料、現金、薬品、着替え、洗面用品は昨夜一回転したが、止血レベルで完全じゃない。医療消耗品はブリュッセル入城後に補充。Vitoの燃料は問題なし。K7は走行可能だが、左前サスペンションとフロントバンパーの固定が不安定で、バストーニュ式路面には不向き。バッテリー、充電器、メモリーカードは再分散済み。ナチスの祭壇から持ち出した破片は現在三重封印、Vitoの最内部機材ケースに隔離」
「補足」林 雨瞳が手元の紙ナプキンを広げた。昨夜まとめた略図が描いてある。「ブリュッセルはバストーニュの拡大版じゃない。あそこは火点が多いんじゃない。視線が多い。監視カメラ、交差点カメラ、駐車記録、ホテル登記、電子決済、記者、情報機関、使い走り、全部バストーニュより密度が高い。今日入る第一原則は、速さじゃない。清潔さ」
ペン先で図の上のいくつかの丸を叩く。
「公的機関に近づかない。病院に近づかない。正規ホテルのフロントを使わない。どの車も目立つ場所に直接停めない。まず目立たない拠点を確保。短期レンタル、民泊、古いアパート、現金で処理できる場所が理想。入城ルートは二段階。同時に着かない、同時に停めない。Vitoが先行、K7は四十分後。途中で尾行がついたら、Bプランで切る」
俺はハムを一口噛みながら、あることをはっきりと感じた。
バストーニュの圧力は正面から来た。戦車、機関銃、砲撃、崩れた壁、ナチスの祭壇。全部が顔面に向かって直進してくる。死にそうだったが、少なくともシンプルだった。ブリュッセルは違う。まだ出発もしていないのに、林 雨瞳の話を聞いているだけで、あの街が背の高い、整然とした、鍵のかかった書類棚の列に思えてくる。人間をラベル通りに分類して押し込もうと待ち構えている場所。
戦場は人を殺す。
書類棚は人を食う。
違いは、前者が早くて、後者が文明的だということだ。
エリザヴェータが俺を見た。
「意見は?」
「ある」俺はフォークを置いた。「まず俺たち自身を、人間に見せる必要がある」
テーブルの何人かが、俺を見た。
「詳しく」ヴィクトリアが眉を上げる。
俺は口元を拭い、自分、レミ、ジュリアンを指さし、それから窓の外の二台の車を示した。
「今の俺たちが何に見えると思う? 戦場から這い出してきて、鎮痛剤とコーヒーと嘘だけで持ちこたえてきた厄介ごとの集合体だ。この状態でブリュッセルに入るのは、潜伏じゃない。自首だ。服を替える。車の外装をもう一度洗う。目立つ血痕と擦り傷はできる限り消す。記者チームは、誰が記者に見えて、誰が見えないか先に決める。葉 綺安は今日できるだけ表に出ない。希は医療担当の枠を守って、余計な質問を引かない。エリザヴェータ、ヴィクトリア、レイチェルが対外説明を担当。俺と林 雨瞳は必要なときだけ出る。それから――」
一拍置いて、レミの方を見た。
「バストーニュの映像、今日中に第一段階の切り分けをやれ」
レミの顔が、瞬間的に覚醒した。
「公開版と非公開版ってことですか?」
「そうだ」俺は言う。「公開版は十分にリアルでありつつ、俺たち全員を書類棚の底層に送り込まない程度のリアルさに留める。ナチスの祭壇の内側がどんな構造か一目でわかるものは駄目だ。ドイツ軍の火力網が現代の街区にどう接続されているかがわかるものも駄目だ。簡単に言えば、混乱は残す、戦闘ダメージは残す、制御不能な状況は残す。ただし、絶対に表に出せない核心だけ抜く」
クレールがすぐに続けた。
「非公開版は?」
「完全バックアップを分散保管」俺は言う。「一部は車内、一部はオフライン、一部は暗号化して隠す。誰かに食われるとしても、一口で全部飲み込まれるな」
ジュリアンはずっと黙っていたが、ここで小さく頷いた。
「最初のタグ分類は私がやる。戦地記録、民間混乱現場、政府接収、異常映像の四カテゴリ。最も機密性の高い層は公開版に入れない」
「もう一カテゴリ追加して」林 雨瞳が言う。「人物識別。私たち、ジャック、まだ現場にいる人間の具体的な身元に繋がる映像は、全部先に抜く」
ジャックという名前が出た瞬間、テーブルが一秒だけ静まった。
あのテキサス人は今ここにいない。でもバストーニュのあの夜に彼が撃った一発一発も、吐いた悪態も、最後に残した私書箱の番号が書かれた紙も、まだ俺のポケットにある。こういう人間は、どこかの当局の報告書に添付資料として貼り付けられるべき存在じゃない。
レミが頷く。
「わかりました。ブリュッセルで落ち着いたら、まずそれをやります」
エリザヴェータがナイフで皿の縁を軽く叩いて、話を本筋に戻した。
「では規則を定める」彼女は言う。
彼女が規則を口にするとき、テーブル全体が自然と静かになる。声が大きいからじゃない。空気をそのまま会議の議事録に整理してしまうような能力があるからだ。
「一、ブリュッセル入城後、公的機関には一切近づかぬ。警察、病院、公営宿泊施設、観光案内所、メディア窓口、すべて避けよ。二、対外説明は昨夜定めた通りを一律使用。国際ドキュメンタリーチームと同行者。途中で地域的暴力事件と交通事故に遭遇し、一時的に入城して態勢を整える。三、役割分担を明確にする――」
目を上げて、一人ずつ指名していく。
「レイチェル、ヴィクトリア。対外窓口じゃ。話すこと、借りること、買うこと、人と向き合うこと、すべて担え。林 雨瞳。ルート、監視、撤退、後手の管理。希。医療と薬品。葉 綺安。今日は休養に専念し、自ら表に出るな。記者三人組。映像切り分けと情報収集、ただし単独行動は禁ずる。周 士達――」
俺を見て、半秒止まる。
「そなたは、どの情報に触れる価値があり、どこが一目で罠とわかるかを判断する役目じゃ」
「かなり抽象的な職種だな」
「あなた自身が抽象的だから」ヴィクトリアが言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
エリザヴェータはテーブルを悪口大会にさせず、続けた。
「それから、破片に触れるのは固定の三名のみ。周 士達、林 雨瞳、葉 綺安。他の者は余計な手を出すな。特にレミ」
レミが無実の顔をする。
「なんで特に僕?」
「面倒ごとをやたら近距離で撮りたがる職業病があるからよ」クレールが冷たく言う。
「それはプロ意識です」
「それは自殺願望と言う」
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