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201.ディナン  2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

夕方になるころ、ようやく「まともな静けさ」と呼べるものが、最初の一片だけ降りてきた。


宿の裏の路地は、そのまま川べりに出る。新品の包帯を肩に巻き、上から傷を目立たせない程度の濃い色のジャケットを羽織って、ゆっくり坂を下りていくと、自分のことが、「戦地でバラバラにされた部品を、無理やり人型に戻した機械」みたいに思えてくる。


ムーズ川は、ひどく静かだった。


静かすぎて、悪態の一つもつきたくなるレベルで。


川面には数隻の船。対岸の岩壁と城の高台は、夕暮れの光で何枚にも切り分けられている。橋の上では、まだ観光客が写真を撮っている。少し離れて見るぶんには、ディナンは「ポストカードとマグネットの売り場をよくわかってる欧州の小都市」にしか見えない。距離を詰めると、その同じ景色の片隅に、肩をぐるぐる巻きにされた密輸傷病兵が一人、欄干にもたれて立っている。バストーニュの夜を、頭の中から少しでも削り取ろうとして。


当然、削り取れはしない。


ポケットの中には、ジャックが置いていった紙切れがまだ入っている。


取り出して、あらためて見る。そこにある郵便受けの番号は、インクの乗りも乾ききっていて、余計な言葉は一つも足されていない。本人そのままの、「用があるなら来い。それ以外はいらない」という、不愛想な性格が紙にまでにじんでいる。おかしな話だが――バストーニュの件が一応の終わりを迎えてからここまで、ちゃんと実感が湧かなかった「何か」が、このディナンの川辺でこの紙を見た瞬間、ようやく形を持ち始めた気がした。


戦場はいつか終わる。交戦も終わる。政府の接収も、やがて視界の外で静かに完結する。だが人間というのは、あの一夜と一緒にきれいに封印されてはくれない。一枚の紙になる。一つの私書箱になる。「いつか連絡が来るかもしれない」という通知になる。あるいは、ある日ニュースを見ていて、ふと思い出す、あの殴りたくなる顔になる。


「まだ呆けてる余裕があるの」


振り返ると、林 雨瞳(リン・ユートン)が三歩後ろに立っていた。


いつの間に下りてきたのか。両手に紙コップのコーヒーを一つずつ持っていて、片方をそのまま俺に差し出す。欄干のそばに立つ姿は、相変わらず「いつでも撤退計画を組み直せます」という雰囲気をまとっていた。この街がバストーニュという言葉を聞いたことすらないみたいに静かでも、彼女だけは別の時間軸で動いている。


コーヒーを受け取り、一口飲む。苦みが、現実を叩き直してくれる。


「呆けてるんじゃない」俺は言う。「まだ同じ世界にいるか、確認してた」


「結果は?」


「一応、いる。たぶん」紙コップを軽く揺らす。「ただ、この世界のコーヒーはちょっと残念だな」


彼女は笑わない。俺のポケットの紙切れをちらっと見る。


「ジャックの?」


「ああ」


「なくさなかったのね」


「怪我してるだけで、頭はまだ動いてる」


「似たようなもんでしょ、たまに」


言い返そうとして、結局やめた。川面を眺めながら言う。


「バストーニュの方は、今ごろ俺たちが戻るのに一番向いてない段階に入ってるだろうな」


「軍警の接収。証拠採取。口封じ。情報分類。報告書作成」彼女は天気予報を読み上げるみたいに並べる。「わかってる」


「ブリュッセルも、大して変わらない」


その一言で、ようやく彼女がこちらを向いた。


「つまり、まだ首都には入りたくない?」


「もっと格上の問題の山に、自分から飛び込みたくないってことだ」俺は欄干に背中を預ける。肩が、じわじわと脈打つように痛む。「ブリュッセルのメリットはわかってる。医療、情報、人脈、設備、潜伏先、協力者候補。デメリットも同じくらいはっきりしてる。監視カメラ、入退記録、ホテルの登記、各国の目、当局の神経過敏、それから、バストーニュの警察よりよっぽど手際よく人間を拘束できる組織が何個も待ち構えてる」


林 雨瞳(リン・ユートン)がコーヒーを一口飲む。


「エリザヴェータは、行くべきだと思ってる」


「知ってる」


「死にに行きたいわけじゃないのよ、あの人は」林 雨瞳(リン・ユートン)は言う。「あの人の論理はこう。バストーニュが一つの節点でしかないなら、その先の線を手繰れる場所は、ディナンにはない。もっと大きな都市、もっと上の層の中にしかないって」


「それも知ってる」俺は息を吐く。「問題は、今の俺たちが、その層に入れてもらえる顔をしてるかどうかだ」


彼女は俺を見て、珍しく、すぐに口を開かなかった。


この沈黙は、彼女にしては珍しい。だから俺には、彼女が本当に考えているのだとわかる。きれいな答えを待っているんじゃない。


しばらくして、彼女は言う。


「今は、してない」


「サンキュー。自信の育て方が上手すぎる」


「でも、修正がまったく効かないわけでもない」彼女が欄干に肘をのせる。「あなたの肩を抑える。葉 綺安(イェ・キアン)に一晩。希(シキ)がメディカルキットを再整備する。レイチェルとヴィクトリアが表向きの説明とルートを練り直す。記者たちも、データを切り分ける時間が必要。問題は行くか行かないかじゃない。いつ入るか、どの身分で入るか、入ってから誰に当たるか、もし尾行がついたときにどう抜けるか。それだけ」


これが、彼女と話したいと思う理由だ。


慰めはくれない。でも、構造をくれる。今みたいに全員がばらばらになりそうな状態では、励ましより構造の方が、ずっと役に立つ。


俺は頷く。


「じゃあ今夜は決めない。みんな、もう少し頭を繋ぎ直してから、明日また話す」


「私もそう思う」


彼女は飲み終えた紙コップを握り潰して、戻ろうとした。二歩歩いたところで、足を止める。


「もう一つ」


「何だ?」


「今夜、一人でナチスの祭壇から持ち出した破片に触ろうとするな」


「そんな暇があるように見えるか、俺が」


彼女は無表情に俺を見る。


一秒考えて、俺は言い直す。


「……わかった。前科があるのは認める」


「それでいい」


彼女が階段を上っていく。俺はその場に残って、冷めたコーヒーをもう一口飲んだ。この街は、まったく理不尽なほど平和だった。


---


夕食は宿の一階でとった。


女主人が大鍋で煮込んだビーフシチューと、ジャガイモと、武器にできそうなくらい硬いパンと、もう一鍋の温かいスープを出してくれた。正直、味は特別どうということもない。それでも、バストーニュからここまで這いずってきた俺たちの口には、ほとんど救済に近かった。


十人で、長テーブルを二つ並べた。


不法入国者と戦地ボランティアが、どこかの国境沿いの食堂で肩を寄せ合っているような光景だ。だが誰も見た目を気にする体力は残っていない。みんな黙って下を向いて、まず体が必要なものを詰め込んで、それから少しずつ、人間としての言語機能を取り戻していく。


最初に口を開いたのはヴィクトリアだった。


スプーンを置いて、テーブルの全員を見渡す。どこか非公式な戦後総括をやっているみたいな顔で。


「はっきり言っとく。今日死ななかったのは、今安全だということじゃない。バストーニュの政府接収は、面倒ごとに制服を着替えさせただけで、消したわけじゃない。ディナンは息継ぎの場所。幕引きじゃない。だから今からお風呂に入ろうが、寝ようが、泣こうが、吐こうが、ぼーっとしようが、全部やっていい。ただ、私たちは今、休憩中なのよ。引退じゃなくて」


「その前置き、PowerPointがあれば完璧ね」レミがパンを齧りながら言う。


「スライド作りはあなたに任せるわ」彼女は即座に返す。


エリザヴェータが食卓布を丁寧に整えながら、ヴィクトリアよりさらに直截《ちょくせつ》に言った。


「妾《わらわ》は、明日以降、できる限り早くブリュッセルへ入るべきと考える」


テーブルが、一段階静かになった。


誰も意外だとは思っていない。ただ、この女が口を開いたということは、頭の中でもう二ページ先まで地図を描き終えているということだ。


彼女は全員を見渡し、一語一語を丁寧に置いていく。


「理由は単純じゃ。一つ、ディナンは短期滞在には向くが、長くは使えぬ。街が小さすぎる。見知らぬ顔は目立ちすぎる。宿も、車も、人相も、買い物の一つ一つも、記憶される。二つ、情報・医療・連絡先、これらは小さな街では止血程度にしかならぬ。先へ進む力にはなれぬ。三つ、もしバストーニュが単独の事件ではないなら、次に価値ある情報が流れるのは首都と国際的な回路の中じゃ。川べりの宿の食卓には、残らぬ」


彼女の言っていることは、完全に正しい。


正しい言葉というのは往々にして一番歓迎されない。特に、まだ向き合いたくない部分を的確に踏んできたときは。


「『できる限り早く』の部分には反対だ」俺は言う。


エリザヴェータが目を上げる。最初からそう来ると知っていたような顔で。


「理由を述べよ」


「理由その一、今の俺が首都に入ったら、歩く厄介ごとにしか見えない」俺はフォークで自分の肩を指す。「理由その二、葉 綺安(イェ・キアン)はまだ回復できていない。希(シキ)のメディカルキットも補充が終わっていない。理由その三、車は走れるが、まだきれいでも退屈でもない。理由その四、記者三人組が持っている映像は爆発物だ。整理する前にブリュッセルへ持ち込むのは、不発弾を一箱抱えてショッピングモールに入るのと同じだ」


レミが手を挙げる。


「不発弾を抱えてショッピングモールに入るべきじゃないという点については、全面的に支持します」


「黙って食べなさい」クレールがパンを彼の前に押しつける。


そこへレイチェルが割って入った。声は小さいが、よく機能する。


「二つの意見は、そこまで対立していないと思う」彼女は言う。「エリザヴェータが言っているのは、ゴールはブリュッセルだということ。周 士達(ジョウ・シーダー)が言っているのは、今入るのは早すぎるということ。だとすれば、議題は『行くか行かないか』じゃなくて、『どうやって行くか』のはず」


エリザヴェータがそちらを見る。反論しない。


それは、その切り方を受け入れたということだ。


レイチェルは続ける。


「明日、物資の補充が終わって、車が安定して、人前に出られる外見になって、データが切り分けられて、説明の口裏が合っている状態で、入城のタイミングと接触窓口を決める。そうすれば、リスクはずっと下がる。逆に言えば、ここで長引かせすぎると、小さな街の目立たない優位性も削れていく。ディナンは一泊から一日半。長期滞在には向かない」


「一日半」希(シキ)が言う。「私が必要なのは最大で一日半。それだけあれば、メディカルキットを補充して、必要な薬を揃えて、少なくともこの人が次の瞬間に感染症で譫言《うわごと》を言い出さない程度には仕上げられる」


「今の俺、話は筋が通ってるだろ」俺は抗議する。


「そう。それが一番怖いのよ」


葉 綺安(イェ・キアン)がスープを半分飲んで、ようやく口を開いた。


「私も、明天すぐに入りたくない」声はまだかすれているが、朝よりは安定している。「怖いからじゃない。割に合わないから。マー・サンニャンが退くのが急すぎた。今夜、自分で確認しないといけない。何か尾を引いてるものが残っていないか。もし残っていたら、それを抱えてブリュッセルに入るのは、見えない問題を大都市に持ち込むことになる。それは馬鹿げてる」


ヴィクトリアが頷く。


「愚かな首都観光客にはなりたくないわ、私も」


林 雨瞳(リン・ユートン)がナイフとフォークを置く。


「現時点での合意はこう。ディナンに短期滞在。最低一泊、最長一日半。その間に四つのことを終わらせる。一、負傷者の処置と休養。二、補給と車両整備。三、映像とデータの分散。四、ブリュッセル入城前の身分と接触先の確定」


言い終えて、こちらを見る。


「追加はある?」


少し考えてから、俺は言う。


「ある。五つ目。今夜から交代で車を見張る」


テーブルの何人かが、すぐに顔を上げた。


「誰かが追ってきてると思ってるの?」ジュリアンが聞く。


「怖いものはいろいろある」俺は言う。「一種類は人間。もう一種類は、人間かどうかもわからないもの。バストーニュから持ち出した破片も、車も、どちらも気になる。今夜の裏庭は、必ず誰かが交代で見ていないといけない」


エリザヴェータが最初に頷く。


「同意じゃ」


レイチェルが言う。「シフト表は私が作る」


ヴィクトリアが言う。「前半は私が見る」


林 雨瞳(リン・ユートン)が言う。「後半は私」


「俺は?」俺が聞く。


テーブル全員が、同時にこちらを見た。


希(シキ)が静かに笑う。


「あなたは寝る係」


この採決は民主主義とは程遠かったので、俺は黙るしかなかった。


---


午後九時を過ぎたころ、ようやく全員がそれぞれの場所へ散っていった。


三階のコネクティングルームはVito組が使い、二階の大部屋は記者三人組に渡した。エリザヴェータは窓際のシングルベッドを選び、ヴィクトリアは当然のように一番ドアに近い位置を確保した。深夜に下りやすいからだ。レイチェルは紙とペンとリストを広げ、明日補充する物資、分散させるデータ、洗う衣類、買い出しのルートを、全部一覧にまとめていく。この人は黙っているときは負傷者みたいに見えるが、仕事を始めると行政システムそのものになる。


葉 綺安(イェ・キアン)はシャワーを浴びてから分厚い毛布にくるまり、ベッドの端に座って窓の外を見ていた。まだ完全には日常の言語に戻りきれていない、そういう座り方だ。希(シキ)は薬とガーゼと医療消耗品を一つずつ仕分け直しながら、俺と他の連中が今日いかに殴られて当然の行動を取ったかを、ぶつぶつ呟き続けていた。林 雨瞳(リン・ユートン)はノートPCを抱えてテーブルに座り、ルートと監視カメラの分布予測とブリュッセルへの入り方を何パターンか書き出している。その顔は、バストーニュから逃げてきた人間のものじゃなかった。少し面倒な出張の準備をしている人間の顔だった。


俺はベッドに横になり、左肩を少し高くして、熱と疲労が一緒に這い上がってくるのを感じながら、それでもまだ眠気は来なかった。


こういうときに、人間は空洞になりやすい。


空洞になると、いろんなものが浮かんでくる。


ナチスの祭壇の内側で見た、あの濡れたように光る黒。ドイツ軍の切片が撃ち抜かれてもまだ二歩歩いた、あの動き方。バストーニュの外縁部で警光と機体が街を再び囲い込んでいく様子。ジャックが残した紙切れ。ディナンの川べりで、何も知らない顔で写真を撮っていた観光客たち。そして今、同じ部屋の中で、それぞれ息をしている、この人たちの気配。


横を向いて、部屋を見渡す。


葉 綺安(イェ・キアン)は横になっているが、眠ってはいない。レイチェルはまだ書いている。ヴィクトリアはドア脇でスマホを眺めている。何を読んでいるのかはわからない。エリザヴェータは目を閉じているが、眠っているわけじゃない。明日の判断に使う力を、静かに蓄えているような閉じ方だ。林 雨瞳(リン・ユートン)の背中はテーブルの前でまっすぐだ。希(シキ)はメディカルキットの整理をようやく終えて、顔を上げたら俺がまだ目を開けているのを見つけて、眉をひそめながら近づいてきた。


「また寝てない」


「人生について考えてた」


「今のあなたの人生に一番必要なのは、熱を下げることよ」


彼女は額に手を当て、それから首の横も触って、確認してから少し息を吐いた。


「上がってはいない。ちゃんと体に従ってるじゃない」


「いつだって従ってる」


「それ、警告ラベルにすべき言葉ね」


そう言って、薬を一錠俺の手に押しつけ、ぬるい水を半分入れたコップを添えた。


「飲んで、寝る。夜中に傷が疼いたら、黙って我慢しないで呼ぶこと」


薬を飲み込んで、戻っていく彼女の背中を見ながら、俺は聞いた。


「希(シキ)」


「何?」


「明日以降、本当にブリュッセルに入ったとして、お前はどっちだと思う。マシになる方か、ひどくなる方か」


彼女は少し止まった。振り返らない。


「両方」彼女は言う。「大都市ってのは大抵そういうもの。病院はましになる。敵も賢くなる。部屋は暖かくなる。面倒ごとも格上になる。あなたが一番よくわかってるんじゃないの、そういうこと」


俺は苦く笑う。


「わかってることと、好きなことは別だ」


「じゃあ好きにならなくていい」ようやく彼女が振り返って、一瞬だけこちらを見る。「まず生きてること」


古くさい言葉だ。それでも、ちゃんと効く。


横になって、廊下の木の床がかすかに鳴るのを聞いた。たぶんヴィクトリアが前半のシフトに入るために下りていくのだろう。窓の外のディナンは静かで、遠くに川の音と、夜遅い車が石畳を踏む音が混じっていた。この静けさには、まだ慣れない。でも慣れないからこそ、思い知らされる。俺たちは本当に、一時的にバストーニュから離れた。


一時的に、だ。


明日はまだ、補給がある。車の洗浄がある。K7の修理がある。データの切り分けがある。ルートの確定がある。説明の口裏合わせがある。ナチスの祭壇から持ち出した破片に新しい反応が出ていないか確認がある。そして何より、ブリュッセルという、もっと大きくて、もっと明るくて、もっとうまく人間を食う場所に、自分たちを送り込むかどうかを、もう一度決めなければならない。


でも、それは明日の話だ。


今夜は、壁がある。ベッドがある。ドアがある。交代の見張りがいる。お湯が出る。そして、かろうじて繋ぎ直した隊形がある。


今の俺には、それで十分、勝利に近い。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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