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201.ディナン  1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

俺たちがディナンに車を滑り込ませたとき、空はもう夜明けの優しさなんて失くしていた。あの、やたらとムカつく午前の白光だ。


優しくもなければ詩的でもない。ただひたすら公平に、全員の疲れ切った顔も、車体の傷跡も、こびりついた血痕も、「昨夜はなんとか死ななかったが、今にも死にそう」な表情も、すべて容赦なく白日の下にさらしてくる。バストーニュの方はまだ誰かが棺桶をひっくり返したばかりみたいな惨状なのに、こちらディナンでは川沿いで犬を散歩させてる奴がいて、テイクアウトのコーヒーを持って橋を渡る奴がいて、観光バスが対向車線をのろのろと滑っていく。まるで世界が俺たちのあの数時間だけ常識を失って、今は何事もなかったような顔で元に戻ったみたいに。


こういうギャップが、俺は一番嫌いだ。


昨夜の砲火も、ドイツ軍の残党も、ナチスの祭壇も、ヘリの包囲網も――全部、高熱に浮かされて見た悪夢だったんじゃないかと、一瞬本気で疑わせるからな。でも左肩がシートベルトにちょっと擦れただけで、すぐに現実を思い出す。違う、夢じゃない。これはクソほど手触りのある現実だ。


林 雨瞳(リン・ユートン)がメルセデス・ベンツのVito Tourerを駆って、ムーズ川沿いを半周した。


一番快適な場所を探したわけじゃない。一番目立たない場所を探した。その判断は素直に買う。人間、ある段階まで生きると嫌でもわかる――ホテルの良し悪しはベッドの広さじゃない。オーナーがどれだけ面倒くさがりか、駐車場がどれだけ人目から外れてるか、監視カメラがどれだけ少ないか。そして「戦場から這い出てきました」って車を二台突っ込んだとき、即座に警察へ電話するような真面目さを持ってないかどうか――そこが一番重要だ。


最終的に俺たちが転がり込んだのは、川沿いにある目立たない古い宿だった。


かつてはそれなりに栄えていたんだろう。今は石造りの外壁と色あせた看板と、やる気なく飾られた窓辺の花鉢と、この世界への興味の大半をどこかに置き忘れてきたような女主人だけが残っている。宿の前には細長い駐車スペースがあり、裏手には半分隠れた小さな中庭があって、ちょうど車二台を押し込める。何より、川岸に近いのに一番賑やかな観光ルートからは微妙に外れている。物資の補充にも困らないし、息を潜めることもできる。


「ここでいい」


林 雨瞳がそう言う。


俺は入口のブラックボード――本日のスープとビールありますとフランス語で書いてある――をちらっと見て、頷いた。


「今の俺、ベッドと水と鍵のかかるドアさえあれば、わりと簡単に説得される」


「生存者基準ね」


「基準じゃない。文明の残骸だ」


K7が後ろから割り込んできて、Vitoよりさらに斜めに車をねじ込んだ。シュトゥルムシュライターのあの車は、この時点でもう「車」というより、「意地と結束バンドだけで形を保っている都市伝説」みたいな代物になっていた。左のヘッドライトは半分欠け、フロントバンパーは個性的な角度に歪み、側面にこびりついた泥と草くずと擦り傷が「さっき何かをぶつけて、さっき何かにぶつけられた」と主張するアート作品だ。車から降りてきた記者三人組の顔色は、その廃車寸前の車と大差なかった。


レミが最初に降りて、膝が抜けてベルギーの地面にキスしそうになる。


後部座席からクレールが蹴りを入れた。


「気絶するならメモリーカード先に渡して」


「気絶してない」レミは車のドアにしがみつきながら言う。顔面蒼白なくせに、口だけはまだ元気だ。「ヨーロッパの平和な大地を、全身で感じてるんだ」


ジュリアンが荷室のドアを開けながら、冷ややかに一言添える。


「その平和な大地に、今うちの車の血が少し滲んでるけど」


ようやく、そのタイミングで女主人がカウンターの奥から顔を上げた。俺たちを一通り眺める。まず車を見る。それから人間を見る。最後に俺の左肩の包帯と、明らかに「これ以上質問されると崩れます」と書いてある葉 綺安(イェ・キアン)の顔を見る。そして、ごく静かな声でフランス語を一言。


レイチェルが俺の後ろから一歩出て、同じく静かなフランス語で返す。早口じゃない。けれど、一切ぶれない。


全部は聞き取れないが、意味はだいたいわかる。道中で小さな事故があったこと。同行者にけが人がいること。部屋を二〜三つ取りたいこと。できればお湯と洗濯と簡単な食事があるところ。そして、裏庭に車を停めたいこと。静かにしておくから、なるべく放っておいてほしいこと。


女主人は二秒ほどレイチェルを見、それからもう一度俺たちの車を見た。


信じたわけじゃない。単に、それ以上詮索する気力がないだけだ。


俺たちにとっては、それでほとんど奇跡だった。


「三階にコネクティングルームが二つ、二階に裏庭向きの大きい部屋が一つ」レイチェルが中国語に切り替える。声は少しかすれているが、内容は整理されている。「裏庭に停めてもいいけど、オイル漏れはダメ、庭で喫煙もダメ、夜十時過ぎて騒ぐのもダメ。警察は呼びたくないし、警察の方から勝手に来る口実も作りたくないって」


「好きね、そういう人」ヴィクトリアがVitoから補給箱を一つ抱えて出てくる。「成熟した社会の最も尊い美徳よ。面倒ごとと適切な距離を保てること」


この道中ほとんど口を開かなかったエリザヴェータが、ここでようやくサングラスを外し、宿の看板を見上げた。


どこへ放り込まれても、その場の空気を自動的に会議室寄りに変えてしまう女だ。今は地味なコートにまとめ髪という控えめな格好をしているが、「普段はこんな安宿には泊まらぬ」という気配まではどうにも隠しようがない。それでも文句は言わず、淡々と告げる。


「まずは裏庭を空けよ。荷物はすべて上げるな。人間を先に分けて、先に洗い、先に傷を診て、先に車を点検いたせ」


思わず拍手したくなった。


こういう人間と組むのが好きな理由はそこだ。世界が滅茶苦茶になればなるほど、口から出てくる言葉が哲学じゃなくてチェックリストになる。


---


部屋に入って最初にやったのは、休むことじゃない。確認だ。


軍か災害現場がやりそうな作業に聞こえるが、昨夜は「全員いるつもりでいたけど、実際には何かがもう欠けてた」場面を嫌というほど見た。だから、追撃から逃れた瞬間に俺が最初にやるのは、必ず人数確認になる。


Vito側、七人。俺、林 雨瞳(リン・ユートン)、希(シキ)、レイチェル、エリザヴェータ、葉 綺安(イェ・キアン)、ヴィクトリア。


K7側、三人。レミ、クレール、ジュリアン。


十人。多くもなく、少なくもなく、それでちゃんと十。


二階の廊下の突き当たりで、俺は背中を壁に預け、左肩に当てたばかりの即席アイスパックを押しつけながら、希(シキ)が点呼みたいな無機質さで一人ずつ名前を呼んでいくのを聞いていた。迷子を心配してるんじゃない。今ここにいる全員が、「まだどうにか動く人間」の範疇に入っているか、それを確認している。


「周 士達(ジョウ・シーダー)」


「生存」


「暫定ね」希が手帳に一本線を引く。「林 雨瞳(リン・ユートン)」


「いる」


「希(シキ)」


「自分は数えるな」


「魂が抜けてても、本人だけ気づかないパターンが一番面倒だから」俺が口を挟む。


「魂抜けても、その前にあんたの肩は縫い終わらせる」希が一瞥をくれてから、次へ進む。「レイチェル」


「います」


レイチェルは三階のコネクティングルームのドアにもたれて立っている。手にはカウンターで借りてきた予備のタオルと、ゴミ袋を二本。見た目だけなら、バストーニュの夜よりずっとましだ。けれどそれは「戦場から拾われてきて、ようやく顔を洗えた」レベルの整い方だ。顔色の悪さも、目の下の暗い輪も消えていない。それでも動きだけはやたらと安定している。もっとひどい場所で、もっとひどい状態のまま仕事を続けることに慣らされてきた体みたいに。


「エリザヴェータ」


「ここじゃ」


エリザヴェータは窓際の古い木の椅子に座り、さっきレイチェルが手に入れてきたローカルマップを眺めている。「ここじゃ」の一言でさえ、半ば通達の響きがある。かつてこの声に、何人もが息をひそめてきたんだろうと、自然に想像させる言い方だ。


「葉 綺安(イェ・キアン)」


「……いる」


ベッドの端に座っている。長い髪はまだ完全には乾いていない。顔色は車の中にいたときよりはマシだが、人間らしいゾーンには戻りきれていない。退駕後の疲弊は、ちょっと寝たくらいで抜けるもんじゃない。体を丸ごと持っていかれて、好き勝手に使われたあと、家具を全部ひっくり返した状態で返却された、みたいな感覚に近い。喉には冷えきった糸みたいな薄い痕が一本増えている。声も、まだ本調子とは程遠い。


「ヴィクトリア」


「いるわよ。それも、ここにいる大半よりはマシな状態でね」


「そこは誰も疑ってない」林 雨瞳(リン・ユートン)が即座に返す。


「もっと頻繁に口に出していいのよ?」


希(シキ)がページをめくり、階下に向かって声を張る。


「K7組、自分たちで名乗れ」


すぐに、力の抜けたレミの声が返ってきた。


「生存」


「かろうじて生存」


「生きてるのかどうかは、あまり自信ないけど、とりあえず生存扱いで」


思わず吹き出して、左肩に響いて、笑いを飲み込む羽目になる。


十人。よし。この一点に関してだけは、まだ破綻してない。


人数がそろっていると確認できたら、次は一人ずつ、その実情をテーブルに載せていく番だ。こっちの方が人数確認なんかよりよっぽど残酷だ。人間ってのは、生きてさえいれば反射で「現役」枠に放り込まれがちだ。でも実際には、「たまたままだ倒れてないだけ」の奴がどれだけ多いか。


最初に捕まったのは、当然ながら俺だ。


「あんた、座れ」


「その言い方、日に日に獣医に近づいてない?」


「今のあんた、私が見てきたどの負傷兵よりも、『噛みつきそう』って意味では危険だから」希はベッドの上にメディカルキットを広げ、手袋をはめると、そのまま俺を椅子にねじ込んだ。「上着脱いで。左から」


大人しく従う。服を引きはがした瞬間、昨日と今日の酸っぱい臭いと、血と薬品と汗が混ざったにおいが一気に噴き出す。自分で自分を訴えてもいいレベルだ。希(シキ)が包帯をほどくと、部屋の空気が一段階静かになった。


傷は、想像していたよりひどかった。


擦り抜けたあたり一帯が赤く腫れているだけじゃない。縁も少し盛り上がっていて、二度目に裂けた部分は、止血とデブリ取りで力任せに押さえ込まれたせいで、見た目だけなら下手くそな料理人にズタズタにされた肉みたいだ。救いなのは、化膿もしていなければ、妙に黒くもなっていないこと。それさえなければ、この先に話し合うのがブリュッセル行きかどうかじゃなくて、「どこへ埋めると景観を損ねないか」になるところだ。


希(シキ)はしばらく無言で見てから、眉間にしわを寄せた。


「いい知らせ。まだ腐ってない」


「サンキュー、心の支えになるな」


「悪い知らせ。炎症は確定。今から二十四時間以内に、銃持って二百メートルでも走ってみなさい。ここで殴り倒して、このベッドに縛りつけるから」


「お前、前はそんな暴力的じゃなかった」


「前はあんたも、ここまで率先して死に場所探してなかった」


そう言ってから、作業に取りかかる。アルコール。洗浄。薬。消毒。ドレッシング。再固定。やること自体はいつも通り。けれど、痛みの方は一切割引されてくれない。一手ごとに、「昨夜のあれは映画のCGじゃなくて、お前が本当に足を突っ込んだ地獄だぞ。そのツケを今払ってるんだぞ」と丁寧に教え込まれる感じだ。


俺はタオルを噛んで耐え、横でヴィクトリアがガーゼを三角に折りたたみながら見下ろしてくる。


「毎回思うけど」彼女は淡々と言う。「その体でよく今まで死ななかったわね。医療科学に対する侮辱だわ」


「ヨーロッパ人って、どうしてそう、『トラウマを取り扱いました』みたいな口調で心配するかな」


「違う」エリザヴェータが顔も上げずに口を挟む。「これは、そなたが自業自得であるという確認じゃ」


俺は横を向いて、彼女を睨む。


「そこはせめて、上流階級らしく優しい言い回しで」


「今の妾《わらわ》は、これでもだいぶ控えめにしておる」


葉 綺安(イェ・キアン)がベッドの反対側から、その様子をじっと見ていたが、希(シキ)が最後のパッドを取り替え終える頃になって、突然口を開いた。


「昨日、内側の最後の角、曲がる前に、また左肩ぶつけたでしょ。鉄骨に」


一瞬、言葉に詰まる。


「……よく覚えてるな」


「私の方にも、ちゃんと痛みが来たから」そう言って視線をそらす。その言い方は、ただの物理現象の説明みたいに淡々としていた。


部屋の空気が、一拍だけ沈む。


これは気まずさじゃない。今のひと言の奥に、どれだけいろんなものが詰まっているか、全員がわかっているのに、今、そのどれにも手を伸ばす余力がないだけの沈黙だ。


希(シキ)が最後のテープを留め、俺の手の甲を軽く叩く。


「よし。これであんたの機能は『走り回ってよし』から『移動可、ただし期待値は低い』に降格」


「その評価、わりと心にくるな」


「もっと心にくるバージョンも用意してあるけど?」


そう言って、次の患者へ向き直る。


葉 綺安(イェ・キアン)。


俺と違って、彼女の体にはひと目でわかる「戦場の穴」はない。問題はそこじゃない。退駕の後にくる虚脱、全身のだるさ、喉の異常、霊圧が引いていくときの、「中身を一度根こそぎえぐり出されてまた詰め直された」みたいな反動。希(シキ)は脈を取り、瞳孔の反応を見て、首筋に指を当て、それからペンライトで喉の奥を照らす。


「声帯に少し炎症。肉体疲労は重度。神経反応は全体的にスロー」希(シキ)が淡々と診断する。「今日は、何にも乗せないこと。幽霊も、ジョークも、例外なし」


葉 綺安(イェ・キアン)はぬるい水を一口飲み、まだかすれた声で返す。


「……別に、普段から歓迎してるわけじゃない」


「マー・サンニャンは、前金も取らずに出入りしてない?」


「だいたい命を取ってく」


「ずいぶんヘルシーな関係ねえ、それ」


俺はそのやり取りを横で聞きながら、妙な種類の安心感に気づいていた。


安心って言っても、別に安全になったって意味じゃない。やっと時間ができた、ってだけだ。「まだ走れるか」から、「どこまで壊れてるか」に、物差しを変えて考え直すだけの余裕が。戦場じゃ、そんなの聞いてるヒマはない。走れるなら、それで「正常」扱いになる。一度足を止めると、人間はまた人間に戻る。裂け目も、震えも、「まだ平気」と口にするたびにかかる負荷も、ひとつひとつがちゃんと重さを持ち始める。


一階の記者トリオも、それぞれのやり方で同じことをやっていた。


レミは打撲と寝不足だけ。なのに、一番壊れかけているのもあいつだ。ああいうタイプは、普段アドレナリンとゴシップで命を繋いでいる。静かな環境に放り込まれた瞬間、電源ケーブルを抜かれた家電みたいに、一気に電圧が落ちる。クレールは肘にあざ、膝は擦りむき。でも、足元は意外なほどしっかりしている。ジュリアンで一番厄介なのは、精神の方の疲弊だ。目の焦点は常に合っているし、受け答えも正確だ。ただ、その「覚醒」が硬すぎる。長く見ていると、次の瞬間にでもぷつんと切れて、そのまま再起動しなくなりそうな、そんな危うさがある。


レイチェルが階下に降りて、三人に薬を簡単に分けてカメラバッグの確認をしてやり、しばらくしてまた戻ってきた。ついでにドアを静かに閉める。


「三人とも、まだ大丈夫」彼女は言う。「でもレミは睡眠が必要。クレールはシャワー。ジュリアンには、もう少し度数の高いものを」


「この宿に酒はあるか?」俺は聞く。


「ビールと、ウィスキーが少し」


「上等だ」俺は言う。「文明社会がまだ存続する価値のある証拠だな」

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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