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200.痛い目を見て学ぶ  1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

空はまだ白み始めたばかりだというのに、バストーニュはすでに音に乗っ取られていた。


砲声じゃない。


その音なら昨夜もう嫌というほど聞いた。今も耳の奥には、鉄粉が鼓膜にへばり付いたみたいな残響がこびり付いている。本当にこの街を「戦場」から「事故現場」に変えつつあるのは、別種の、もっと文明的で、もっと手順立っていて、そしてもっと神経に障る音だった。サイレン、ローターの唸《うな》り、拡声器のがなり声、ディーゼルエンジン、金属製のバリケードがアスファルトを引き摺《ず》る耳障りな音——。


俺はプール管理用の通路の外にある、今にも壊れそうなプラスチック椅子に腰掛けていた。左肩は包帯を巻き直され、さっき打ったばかりの鎮痛剤は、やる気のないバイトみたいに形だけタイムカードを押しに来ただけで、残りの痛みは相変わらず通常営業を続けている。外から白い光が幾層にも差し込んでくる。割れたガラス、土嚢《どのう》の隙間、ドア口に積み上げられた折り畳みテーブルを抜けて、最後は床の血痕と泥にまみれた足跡の上に落ちる。その光景は、安っぽい犯罪ドラマのセットみたいだった。


だが今回はセットじゃない。


今回は、本当にお上が来たのだ。


ベルギー警察の一人が外周の隙間から足早に入ってきた。反射ベストの上から臨時のプレートキャリアを着込んでおり、顔には疲労が滲《にじ》んでいるが、声だけは誰かに後ろから物差しで押し立てられているみたいに硬い。


「外周は全面封鎖だ。連邦警察が第一線を引き継ぎ、軍が第二線を担当する。編制外の武装勢力、未登録の民間人員、メディアおよび外国人目撃者はすべて一か所に集める。身元の確認と事情聴取が終わるまで待機してもらう。」


聞いてまず浮かんだ感想は「ようやく誰かが引き継いでくれた」じゃなかった。


「クソッ」だった。


この一文を人間の言葉に翻訳すると、たぶんこうだ。「今夜はよく頑張りました。それじゃあ引き続き、別の形式で地獄をどうぞ」。


林 雨瞳(リン・ユートン)は傍らに立ち、昨夜から握りしめている地図をまだ手にしていた。端が毛羽立つほど折り畳まれている。彼女がこちらを見る。その目が平板すぎて、一目見ただけで分かった——考えていることは俺と同じだ。


俺たちみたいな人種が大人しくここに残って「手順」に従った場合、待っているのは一通りの調書では済まない。


昨夜の戦いには、あまりにも多くのものが絡み合っている。ドイツ軍の実体化、ナチスの祭壇、異常な火力網、時空を跨いだ残影、外国人の死傷、軍の介入、メディアの目撃、そして——本来、現代ヨーロッパの戦場に存在するはずのない連中が、幽霊も人間も一緒くたになって暴れ回った事実。この手の話が正規のシステムの中に落ちたとき、まず訊かれるのは「痛いかどうか」じゃない。「お前は何者だ」「どこに属している」「どこまで知っている」「昨夜何をした」「もう一度、いや十度くらい繰り返して話せ。内容は一字一句変えるな」。


せっかくナチスの祭壇から這《は》い出してきたというのに、今さら別種の、もっと粘ついていて、もっと臭くて、もっと斬りにくい泥沼に潜り込む趣味はない。


外のローター音がどんどん低くなる。


ドアが押し開けられ、冷たい空気と埃が一緒に流れ込んできた。ジャックが顔を突っ込み、髪を風に乱され、誰のものとも知れない乾いた血の筋を頬に残している。顎《あご》をしゃくって見せた。


「自分の目で見といた方がいい。」


椅子から立ち上がると、左肩に焼けたペンチを当てられたみたいな痛みが走った。悪態を一つ吐き、それでも彼の後に続く。希(シキ)は止めようとしかけたが、俺の顔を見て目を白く剥き、新しい弾性包帯を一巻き胸に押しつけてきた。


「また傷口が開いても、私のせいじゃないからね。」


「安心しろ。今、どのパーツも全部裂けそうだから。」


「だったら、一番どうでもいいところから裂きなさい。」


口の端を引き上げ、外周の遮蔽物を抜けた。


そして理解する——バストーニュは終わったのだと。


少なくとも、「俺たちが主導権を持つ形」での戦いは、終わった。


体育館北側の一帯は、数時間前までは炎と煙と崩れた壁とドイツ軍の残影、そして瀕死の俺たちがしがみついていた場所だ。だが今や、三色三種類の、どれも同じくらい冷たい光に切り分けられている。第一線はパトカー——青い回転灯が吐き気を催すほど点滅し、車体同士が頭を向かい合わせて主要交差点を封鎖している。第二線は軍用車両——塗装は抑えめで、抑えめすぎて逆に「交通整理に来た連中じゃない」と誰にでも分かる。第三線は、人だ。


ベルギー陸軍・特殊部隊群《とくしゅぶたいぐん》、SFG。


今までは報道や写真でしか見たことがなかった連中が、目の前に纏《まと》まった数で現れた感想は一つだけだ——こいつらは、話を聞きに来たんじゃない。


動きは静かで、装備も派手さはない。ヘルメット、ナイトビジョン、ヘッドセット、プレートキャリア、短銃身ライフル、レーザーサイト、背中には医療ポーチと爆薬袋。どれも定規で測ったみたいに揃っている。普通の部隊と違うのは、「超常災害の現場に来た」人間に見られがちな戸惑いが一切ないことだ。そこにあるのは、ただ、「高い不確実性を伴う脅威への対処」を前提とした集中だけ。屋上に張り付いている者、街角を低姿勢で切り込んでいく者、体育館周辺の視界の高所を片っ端から取っていく者。さらに遠くには、いまだにヘリがホバリングし、腹部のライトで街路を往復して照らしていた。まだ死に切っていない問題を探すみたいに。


一機が低空を掠めたとき、ローターの風圧で地面の灰と紙片が一斉に舞い上がった。反射的に目を細めると、昨夜の臨時指揮卓から飛ばされた地図の断片が、空中で二回反転し、有刺鉄線にぶつかってから黒い水溜まりの中へ落ちていくのが見えた。


まるで儀式だ。


前半はナチスの祭壇とドイツ軍の残兵が現実を接収し、後半は国家という機械が現実を回収していく。どちらも人を押し潰すことにかけては達者だ。ただ、着ている制服が違うだけ。


ジャックは俺の隣に立ち、タクティカルベストの前ポケットに両手を突っ込み、火の付いていない煙草を咥えたまま、締まりつつある封鎖線を見て鼻を鳴らした。


「おめでとう。大人が来た。」


「もう一ラウンド撃ち合った方がマシだ。」


「言霊を舐めるな。宇宙は冗談を真に受ける。」


返事はしなかった。視線は、その外側に並んだ白いテントに向かっていた。この手のテントには見覚えがありすぎる。避難所か、鑑識用のテントか、その両方だ。そばにはカメラが設置されているが、レミたちのように「画」を撮るためではない。公式記録用の固定カメラだ。さらにその外側にはスーツ姿の人間が立っていて、軍と警察の背後から、こちらを温度のない目で見ている。炎の中から這い出してきた人間は、この人たちにとって、まず「資料」であり、次に「人」だ。


胃が一瞬、反転した。


傷のせいでも、疲労のせいでもない。あまりにもよく知っているからだ。一度あのテントに入れられれば、今日中にここを出ることはない。今夜起きたこと——最初の狂った迫撃砲から、ナチスの祭壇が崩れ落ちるときの「音とも言えない何か」まで——そのすべてが、無数の質問に細切れにされて顔面に投げつけられる。口を閉ざしすぎれば「隠している」と判断され、喋りすぎれば「危険人物」と見なされ、ちょうど良く喋れば——それが一番厄介だ。『協力的であり、かつ事情をよく理解している』という評価は、『扱いにくい存在』というラベルとセットだからだ。


面倒事そのものは怖くない。


だが、終わりの見えない面倒事は、さすがに御免だ。


背後から、林 雨瞳が歩いてきて、俺の反対側に並んだ。俺を見はせず、外の封鎖がどう収束するかを眺めているようだった。


「さっき、自称・連邦検事局調整官の男が二人、私の所に来た。」彼女が言った。


「それで?」


「お前はまだ意識が戻ってないと伝えた。」


「感謝する。」


「まだ早い。」声は淡々としている。「お前が目を覚ましたら、真っ先に『完全な説明』を求めると言ってきた。進入経路、交戦の詳細、遭遇した敵の種類、未知物質との接触の有無、それからお前の言う『祭壇』——」


「ナチスの祭壇だ。」口を挟む。


彼女が横目で俺を見る。


「この状況で、まだ用語にこだわる余裕があるのね。」


「そこを間違えられると、後で延々と説明させられる。説明が増えるのは御免だ。」


ジャックが笑う。砂紙でガラスを擦ったような乾いた笑いだ。


「そこは同意だ。誤ったラベリングは人を殺す。」


林 雨瞳は彼を無視して続ける。「もう一つ。SFGの側からも要求が来ている。昨夜、北側の掩体と外周で戦闘に参加した全人員の洗い出し、武器の出所、弾薬の消費量、映像記録の提出。レミのカメラは今、相当に危険な立場にいる。」


振り返る。


レミはカメラを抱きしめるように抱えており、生まれたばかりの子供みたいに扱っている。顔色は死体と大差ない。クレールとジュリアンは壁にもたれかかり、二人の目にはっきりと書いてあった——大事な現場は何度も取材してきたが、今回の「大事な現場」は、あっさり証拠物件に格下げされかねない、と。


ディーゼルと朝靄《あさもや》の混じった冷たい空気を、肺の奥まで吸い込む。


「残せないな。」


林 雨瞳が頷いた。


「私もそう思っていた。」


覚悟が形になってしまえば、あとは早い。


人間、逃げるときにいちいち格好をつける必要はない。どこかで熱い独白をかませる必要もない。ただ、遠くの白いテントと二人のスーツ、低空を這うヘリを見れば、それだけで冷静に理解できる。今逃げなければ、次に死ぬのは体じゃない——時間であり、自由であり、まだ隠し終えていないすべてのものだと。


踵《きびす》を返して中へ向かう。


「希、動ける奴は全員叩き起こせ。十分で撤収準備だ。」歩きながら怒鳴る。「ヴィクトリア、補給品を詰め直せ。二台分に分散。レミ、元データのカードは全部バラせ。複数箇所に分散して隠せ。クレール、ジュリアン、自分たちが『たまたま居合わせただけの一般人』だと証明できる物を用意しろ。できない物は先に隠せ。葉 綺安(イェ・キアン)は?」


「着替え中。」通路の奥から希(シキ)が顔を出した。両手にはまだ消毒液が付いている。「正確に言うと、『自分がまだ人間だ』って証明するための作業中。」


「結構。急がせろ。出るぞ。」


通路は一瞬だけ静まり、そのあと蜂の巣を蹴り飛ばしたみたいに動き出した。


ヴィクトリアが最初に反応し、くるりと向きを変えて箱を運び始める。普段はバーのカウンターで世界を皮肉りながら酒を舐《な》めていそうなタイプだが、本当に撤退が必要なとき、その身のこなしは誰よりも軽い。レミは一瞬だけ呆然とし、それからカメラとメモリーカードのポーチを抱えて臨時のストレージルームへ消えた。クレールとジュリアンも一度目を合わせただけで、すぐに荷物をまとめ始める。記者は真実を愛するが、真実を国家機構に没収されることまで愛しているわけじゃない。


希(シキ)は残り半箱の鎮痛剤と二本の抗生物質をメディカルバッグに押し込み、眉をひそめながら俺の方へ歩いてきた。


「その体で運転する気?」


「必ずしも俺が運転するとは限らない。」


「でも確実に無茶はする。」


「人格的魅力の一部だ。」


「医療的には大惨事の一部。」彼女は俺の肩の包帯を確認し直す。一つ一つの動作は重くないが、見事に痛いところばかりを的確に突いてくる。「最低でも四十八時間のまともな処置が必要。」


「その話は、今日を生き延びてからだ。」


彼女は睨《にら》みつけ、それ以上は何も言わなかった。分かっているからだ。今の俺たちには、ベストな選択肢を選ぶ余裕なんてない。選べるのは、「テントの中に閉じ込められずに済む可能性が一番高い選択肢」だけだ。


葉 綺安が更衣スペースから出てきたときには、すでに目立たない色の服に着替えていた。髪は結い直され、顔色はまだ霊安室から出したばかりみたいに青白いが、退駕《たいが》直後のあの空虚さはだいぶ薄れている。足取りにはまだ少し頼りなさが残るが、誰の肩も借りていない。


俺を見るなり、開口一番がそれだった。


「逃げるのね。」


疑問形じゃない。確認だ。


「ああ。」俺は言った。


「妥当な判断だわ。」声は少し掠《かす》れている。「私も、昨夜どうして自分の声が『何百年か前に死んだ女の声』だったのかを、制服組に説明する気はない。」


「『唱法《しょうほう》専門の女優です』って言っておけば?」


「その場合、『ナチスの祭壇の中で唱法専門の女優と一緒にドイツ軍の呪術コアを破壊した』と、お前が認める羽目になる。」彼女は一瞥《いちべつ》して、口許をわずかに上げた。「あまりにバカげてる。却下。」


笑おうとして、肋骨の横腹が痛み、顔が途中で固まった。


荷造りは思ったより早く終わった。誰もが知っているからだ——これは旅への出発じゃない。次の「息継ぎができる場所」を掴みに行く行軍だと。Vito Tourerは体育館西南側の即席シェルターの影に停められている。車体側面には新しい弾痕が二本と、破片で抉《えぐ》られた長い傷が残っていた。フロントガラスの右下にはクモの巣状のヒビが入っているが、まだ運転席の視界を完全には潰していない。K7の方はもっと悲惨だ。フロントバンパーが曲がり、左前のヘッドライトが割れ、ボディにはどこから飛んできたのか分からない金属片が刺さっている。それでもタイヤは生きており、ラジエーターもまだ息をしている——祖先の徳とやらが残っていたらしい。


外の封鎖はさらに締まりつつある。


隙間から覗くと、SFGの隊員二人が地元警官と低い声で会話しており、指でタブレット上の地図を示しているのが見えた。別の方向では医療用ヘリが着陸し、担架が降ろされ、灰塗れの消防士たちが事情聴取を受けている。そのさらに向こうには、衛星中継車が二台。クソ、ニュースまで匂いを嗅ぎつけてやって来た。


時間は、もう多く残っていない。


本当なら、西南側の薄暗い路地を狙って一気に抜けるつもりだった。だが二歩進んだところで、肩に痙攣《けいれん》が走り、その場でご先祖様の顔が見えかけた。ジャックがすぐに支え、珍しく何も言わない。それがかえって落ち着かなかった。


「お前にはあと一分必要だ。」彼は言った。


「欲しいのは『官僚のいないヨーロッパ』なんだが。」


「一分じゃ足りないな。」


Vitoのリアゲートの陰で、ようやく「戦後初のまともな深呼吸」をひとつする。外では今もヘリが旋回し、パトライトの光が車体に反射してはね返ってくる。その光がジャックの顔——灰と血で汚れた顔——を明滅させていた。


こういう場面では、本来なら何か言うべきなのだろう。


例えば、ありがとうとか、達者でなとか、「今度はこんな場所じゃなくて」みたいな言葉だ。だが目の前の男を見て、最初に浮かんだのは別の考えだった。今夜こいつがいなければ、俺はとっくにナチスの祭壇内層のどこかの支柱にこびり付いた何かになっていただろう、という現実的な想像だ。


たぶん、向こうも似たようなことを考えたのだろう。咥えていた火の点いていない煙草をポケットに戻し、片方の手袋を半分まで引き剥《は》がし、灰と血で汚れた指先を出す。


「公式のコーヒーに付き合うつもりは、ないんだな。」


「ご名答。」俺は言った。「この人生で一番"愛国的"になれる瞬間は、おそらく今みたいに官僚手続きから全力で逃げ出す瞬間だ。」


「実にヨーロッパ的な結論だ。」


「アメリカ人に言われたくない。」


「笑ってないさ。感心しているんだ。」


彼はチェストポケットから小さな防水ノートを取り出し、最後のページを破り取ると、ペンで素早くアルファベットと記号の列を書き殴り、それを差し出した。


「俺の個人アドレスだ。大学のでもなければ、政府に覗かれている方でもない。」


受け取り、俺も自分のノート——すでに角が一つ欠けているやつ——から一枚破り取る。手が震えて字は少し汚くなったが、まだ心電図には見えない程度には読める。


「これが俺のだ。送れるし、受け取れるが、秒で返信する保証はない。」言う。「もしある日、どこかの街に『存在してはならない部隊や祭壇』が現れたり、お前の物理の教科書が誰かに雑巾代わりにされていると感じたら——」


「まずはお前がその近くにいないか確認するメールを送る。」


「そういうことだ。」




ジャックは紙を折り畳み、チェストポケットの内側に押し込んで、軽く叩いた。


「了解。もしお前がある日、どこかの学術会議で大量死が発生したり、テキサス州のどこかの郡で『今世紀には存在しないはずの部隊』の目撃証言が出たら、俺も真っ先にお前に連絡する。」


「国際的なクソ事案通報システムでも構築する気か。」


「今夜、俺たちはそうやって知り合ったんじゃないのか。」


その一言で、俺はようやく笑った。


大きな笑いじゃない。傷口が引き攣《つ》れて、痛みという形で正直に代償が返ってきた。それでも笑った。


そのまま俺たちは二秒、そこに立ち尽くした。どちらも抱き合わなかった。ありがたいことに、今の俺は全身どこを触られても痛い状態だし、こいつも爆発現場でお涙頂戴の芝居をするタイプには見えない。


最後に彼は手を上げ、拳を俺の胸に軽く当てた。傷口は避けて。


「次は、こんな場所で会うな。」


「次はお前が場所を選べ。」俺は言った。「ベッドあり、お湯あり、怨念《おんねん》の染み付いた工業用外殻なし——それくらいの条件は出してくれ。」


「要求が高いな。」


「俺は趣味のある人間だ。」


「まだ生きている問題製造機、が正確だ。」


「お互い様だろ。」


外から足音が近づいてきた。速い。ジャックが首を傾けて確認し、顔が一段冷えた。


「軍の将校二人と警察一人、一直線にこっちへ向かってくる。行け。」


頷き、振り返ってVitoのスライドドアを引く。


林 雨瞳(リン・ユートン)はすでに助手席に収まっており、手書きの道路略図を広げている。葉 綺安(イェ・キアン)は二列目の窓側に座り、傍には希(シキ)の医療バッグ。希(シキ)本人はその隣で薬を数えている。後部座席にはレミ、クレール、ジュリアンが詰め込まれており、三人の顔には「シャワーを浴びたい。でもどうやら先に逃げないといけない」と書いてある。ヴィクトリアはK7の方から手を振って、出発できると合図した。


ドアを閉めた瞬間、外から誰かがフランス語で何か叫んだ。続けて英語に切り替わる。


「Sir! We need to speak with——」


そのままエンジンをかけた。


Vitoのディーゼルが朝靄《あさもや》の中で低く震える。やる気はないが今日もう一仕事すると腹を括《くく》った老犬みたいな音だ。K7もライトを点けた。二台は正門へは向かわない。今あそこは手続きと権力の縄張りだ。林 雨瞳の指示通り、体育館西側の器材搬入口の裏手を抜け、砕けたレンガと廃棄された鉄骨が散乱するサービス通路を通り、半壊したフェンスに沿って低く滑り出す。


「前に見張りは?」俺は訊いた。


「消防の後送車がさっきまで出入りしていたが、今は大半が北側に吸い込まれている。」林 雨瞳は前を見据えたまま言う。「完全に無人とは保証できないが、正面よりはずっとまし。」


「今日は書類を持っていない人間なら誰でも、まともに見える。」


車体が突き出た鉄柵に擦れ、歯の浮くような金属音を立てた。後部座席の記者三人が同時に息を呑む。葉 綺安は瞼《まぶた》一枚動かさなかった。窓に寄りかかり、精神だけがかろうじてオンラインを維持しているような佇《たたず》まいだ。


サービス通路を回り込んだ先に、廃棄されたスタンド席が仮置きされた空き地が現れた。その先に、本来は整備車両の出入り口として使われていた幅の狭い門がある。半開きで、チェーンは誰かに切られており、傍には倒れたカートと泥の足跡だけが残っていた。


見張りはいない。


本当に、誰もいない。


その事実に、危うく馬鹿げた感動を覚えそうになった。


国家機構がどれだけ精密に組み上げられていても、現場が混乱すれば必ず一つ、泥の中から這い出た人間用の見苦しい穴が残る。


「今だ。」林 雨瞳が言った。


アクセルを踏み込む。


Vitoがその狭い門を強引にくぐり抜け、サスペンションが跳ねて車体全体が揺れ、左肩が視界の白飛びと引き換えに抗議した。バックミラーの中でK7がぴたりとついてくる。タイヤが泥水を跳ね上げ、フロントの半壊したヘッドライトが朝靄の中で鬼火のように揺れていた。


街灯があり、監視カメラがあり、検問所がある大通りへは向かわない。農道に毛が生えた程度の砂利道を伝い、外へ向かって滑り出す。右手には低木と砲撃で歪んだ木製フェンス、左手には夜露を残した低い草の斜面が続く。さらに遠く、バストーニュの稜線《りょうせん》にはまだヘリが低空飛行する影が見え、青いライトが霧の中でぽつぽつと点滅している。鬼門から引きずり戻されたばかりの街が、今まさに新しい名前を付けられ、新しいファイルに収められ、新しい封をされていくように。


長くは見なかった。


未練があるからじゃない。


あの場所はこれから、警戒線と現場鑑識と軍の報告書と守秘義務協定と、誰かが永遠に認めない夜の記録に属していく。俺たちが手を出せる局面じゃない。見続ければ、ただ吐き気が増すだけだ。


ジャックは追ってこなかった。追ってくる必要もなかった。


俺たちの別れは、破り取った二枚の紙と、別れの挨拶にしては地味すぎるゲンコツの一つと、一晩かけて死体と鋼架と炎の中で積み上げた信頼の中に、ちゃんと収まっている。それで十分だ。男は時として余計なことを言わない方がいい。特に、もう一言足すと格好悪くなるか、聞き苦しくなるか、あるいは離れがたくなると分かっているときは。


後部座席は静かだった。


Vitoがバストーニュ外周の最後の視界を完全に抜けてから、レミが後ろで小さく呟いた。


「Holy shit……本当に逃げ切った。」


「銀行強盗みたいな言い方しないで。」クレールが掠《かす》れた声で言う。


「実際そう見えるだろ。」ジュリアンは窓の外を見たまま、顔色がまだ戻っていない。「しかも金庫を爆破した直後みたいな。」


ハンドルを握る手のひらが汗ばんでいた。それでも口の端が少し上がった。


「少なくとも今回は、最初に爆破したのは俺たちじゃない。」


林 雨瞳が前方の道路を見据えたまま、静かに付け加えた。


「ただ、最後に一番大きいのを解体するのを手伝っただけ。」


車は誰も見張っていない境界線を伝い、外へ向かって進んでいく。朝靄がエンジンフードの前で少しずつ裂けていく。背後のヘリの音とサイレンはすぐには消えなかった。丘と、森と、距離に少しずつ飲み込まれながら、終わったばかりの戦争が未練がましくもう少しだけ追いかけてくるように。


だが、結局は振り切った。


少なくとも今は。


少なくとも、この朝だけは。

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