194.ひと息つく隙 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「足元、ちゃんと見て。」
希は喉をひくりと鳴らしながら、うなずいた。
「見てるよ……。でも、地面に落ちてるもんが、多すぎるの。」
葉 綺安は淡々と言い返す。
「じゃあ、噛みついてこないやつだけ選んで踏みなさい。」
思わず、笑いかけた。
こんな状況で、こんなセリフを平然と口にできる奴は、心が丈夫か、もうずっと前に壊れて静かになったか、そのどっちかだ。葉 綺安は、その両方を半分ずつ持ってるタイプに見える。
クレールは荒く息をしながら、肩からずり落ちてきたカメラのストラップを巻き直している。
「少しだけ分かってきたわ。どうしてあなたたちが、いつも私たちのこと『高いところに突っ立ってるだけ』って罵るのか。」
「やっと進化したじゃねえか。」俺は振り向かずに言う。「おめでとう。『動く的』から、『壁を探せる的』にレベルアップだ。」
「それ、慰めのつもりじゃないわよね。」
「最初から、その路線で売ってない。」
そのとき、後ろのほうでレミが、抑えた声を出した。
「待て。」
全員、足を止める。
レミはしゃがみ込んで、カメラを壁の角からそっと突き出した。そのレンズの向きにつられて、俺も視線をやる。
崩れた板材の山の下に、一人潰されているのが見えた。
ドイツ兵じゃない。ベルギーの保安部隊だ。制服で分かる。胸の上下は、かすかに動いている。左脚は梁の下にまるごと噛まれていて、顔は灰まみれ、目は半分開いたまま、焦点がほとんど合っていない。
ジュリアンが息を呑んだ。
「生きてる……。」
梁のかかり方を一目見て、俺はすぐに察した。
助けられない——じゃない。「今、この時間で救うわけにはいかない」っていう種類のやつだ。
さっきから遠くで、ドイツ語の怒鳴り声が、また筋の通った形で飛び交い始めている。つまり、向こうの混乱はもう、収束に向かってる。
ここで全員で梁を持ち上げる、って選択肢は、七人ともここに釘打ちされるのと同義だ。
俺はしゃがみ込んで、そのベルギー隊員と視線を合わせた。
多分、向こうも全部分かってる。あの目には、助けを乞う色はない。あるのは、戦場じゃよく見る、うんざりするくらいの「理解」だけだ。
「誰が歩けて、誰がここで止まるのか。」
それを、もう割り切っている目だった。
唇がわずかに動く。
顔を近づけると、か細い声が、ようやく耳に届いた。
「東へ……スポーツセンターが……あっちに……まだ……人が……」
「了解。」俺は短くうなずく。「分かった。」
彼はまだ何か言いたげにしたが、出てきたのは血の咳だけだった。葉 綺安は俺を見ている。急かしはしない。ただ、その目が言っている。「時間は、そんなに余ってない。」
俺はその隊員の肩を一度、軽く叩いた。
「ここまで粘ったなら、もう十分だ。」
返事はない。ただ、まぶたが、ゆっくりひとつ、閉じた。
俺は立ち上がる。
ジュリアンの顔から、血の気が一気に引いていく。
「私たち、これで……」
「そうだ。」俺は途中で遮る。「これで行く。」
ジュリアンは唇を噛みしめ、それ以上は何も言わなかった。
戦場のいちばん卑怯なところは、こういうところだ。
心の安らぐ、きれいな道徳の選択肢なんて、まず用意してくれない。たいていの場合、二種類の「醜いほう」の二択しか置いてない。
一つは、もっと多くを巻き添えにして死ぬ道。もう一つは、生きてる奴らの顔を背負ったまま、前に進む道。
どっちが高尚か。そんなもん、神父にでも聞いてくれ。
俺の仕事は一つだけだ。今ここで、まだ足が動く六人を、外まで連れて行くこと。
パン屋を出ると、通りの死体が目に見えて増えてきた。
ドイツ兵、民間人、吹き飛ばされた工兵。機銃のそばでうつ伏せになったハーフトラックの乗員。さっきまで家の中でじっとしていたはずなのに、建物ごと外に振り出されたみたいな連中。
艦砲は、死に方を選ばない。その一点に関してだけは、心底「頼りがいがある」と言えるし、心底ムカつく。
効率はいい。効率が良すぎて、一人ひとりのために、こっちの良心が立ち止まってやる時間すら奪っていく。
右前方で、壁一面が突然崩れ落ちた。地面が一度、どん、と跳ねる。
新しい艦砲じゃない。さっきの一斉射のあと、建物たちが「遅れてやってきた葬式」を勝手に始めているだけだ。
こういう二次崩落は砲撃よりタチが悪い。リズムなんかお構いなしに落ちてくる。
「この建物は、まだ持つ」なんて、一秒前に決めた見通しを、丸ごと積み上げたレンガで否定してくる。
俺たちが壁沿いに駆け抜けたちょうどそのとき、通りの先に、ドイツ兵が三人、突然姿を現した。
散兵だ。頭から埃をかぶり、一人はヘルメットも失くしていて、顔中血塗れ。おそらくどこかの拠点から吹き出されてきたところなのだろう。
俺たち七人と目が合う。一瞬、向こうの顔が固まり——そこからようやく、状況を理解した。
俺のほうが早かった。
一発目は、いちばん前のやつの胸を正面から抜いた。そいつは壁に叩きつけられるように吹き飛ぶ。
ジャックの二発目は、半寸ほど逸れて、左側の兵士の肩をかすめた。だが、それでも十分だった。体勢が崩れる。
葉 綺安は、そいつが踏ん張り直す前に飛び出した。近くに立っていた半分壊れた扉を、蹴り飛ばす。板ごと、ドイツ兵を瓦礫の山に押し倒した。
三人目は背中を向けて逃げかけた。クレールが短く悲鳴を上げ、レミは条件反射みたいに、カメラをそっちへ向ける。
俺は追いすがって、そいつの背中に一発叩き込んだ。
奴は前のめりに倒れながら、まだ前を見ていた。自分が、たった半秒、逃げ遅れただけで命を落としたという現実を、最後まで信じたがらない顔だった。
四発。
残り、八発。
俺はしゃがみ込んで、三人のポケットと装備を素早くまさぐる。ドイツ軍の弾は出てくるが、今、俺たちの銃にそのまま食わせられる型じゃない。代わりに、手榴弾が二つ、見つかった。
一つをジャックに押しつけ、もう一つを自分のポーチにねじ込む。
「朗報だ。」俺は言う。「これで俺たちの火力は、機嫌の悪い郵便配達員二人分に、ちょっとした爆裂サプライズが付いた。」
ジャックは、手の中の手榴弾を見下ろした。
「お前、これを結婚指輪にして渡したりしねえだろうな。」
「安心しろ。そこまで審美眼は腐ってねえ。」
レミは足元の三つの死体を見つめて、低い声を漏らした。
「息一つ乱れてないな。」
「今は感慨に浸ってる場合じゃないからだ。」
「いや、そうじゃなくて……お前、撃ち終わった後が、今日六十件目のクソ雑用を片付けた事務員みたいな顔してた。」
俺はちらりとそいつを見た。
「ようこそ戦場へ。ここは人殺しを事務処理に変えるのが得意な場所だ。」
ジャックは黙り込んだ。
この一言は、しばらくあいつの頭の中に引っかかり続けるだろう。それでいい。今日のこのクソみたいな出来事を、誰かが帳簿につけておかなきゃならない。
さらに前へ進むと、砲声が目に見えて減り始めた。
止んだわけじゃない。別の場所へ移っただけだ。
つまり、山口側の第一波主要掃討が終わったということだ。88ミリ高射砲と多連装ロケット、その二つの巣はだいたい念入りに叩き潰されたはず。市街地側の拡散射撃も一段落ついた。バストーニュの上空にはまだ煙があり、火があり、時折低空をかすめるエンジン音がある。だが、さっきまで通りごと海上火力に押さえつけられて犯されていたあのリズムは、耳元から少し遠い場所へ後退していた。
悪い知らせは——そろそろドイツ軍が正気を取り戻す頃だということだ。
案の定、前方のどこかの街角から、より組織立った号令の声が聞こえてきて、続いて短い笛の音。ドイツ語なんざ分からなくても、意味は察しがつく——誰かが散った人員をかき集め、戦線を引き直し、まだ生きている犬どもを呼び戻して、もう一度こっちに噛みつかせる準備だ。
俺はイヤホンを押さえて試してみた。
最初はノイズだけ。焼け落ちた虫の巣みたいな音が中で這い回っている。続いて、林 雨瞳の声がようやく割り込んできた。
「士達。」
思わず笑いかけた。
「お前が生きてるってのが、今日いちばん建設的なニュースだ。」
「そっちの座標。」
「東側の裏通り。スポーツセンターの合流点まで、あと二、三ブロック。七人、全員稼働可能。ドイツ軍は艦砲を食らい終わって、今ちょうど魂を拾い集めてるところだ。」
向こうで半秒ほど間が空いた。何かと照合している沈黙だ。
「付近の熱源確認。大通りは不可。右へ。連棟住宅の裏、小庭を抜けて旧プール外周フェンスへ。そっちのほうが綺麗。」
俺は右側の半壊した家並みをちらりと見た。
「その『綺麗』ってのは、今の文脈だと死体が少ないって意味にしか聞こえないんだが。」
「その意味。」
「分かりやすくて助かる。」
「それと、神崎がそっちの外周に噛みつきラインを引いてる。でも長くは持たない。ドイツ軍装甲にまだ残存車両あり。開けた場所に出ないで。」
「了解。」
林 雨瞳の声は変わらない。手術刀でガラスを軽く叩いたような、あの冷たさのままだ。
「士達。」
「なんだ。」
「さっき山口に撃たせた一斉射、バストーニュ中に響いてた。」
俺は口の端を歪めた。
「悪かったな。今日はちょっと音量がデカすぎた。」
「生きて帰ってきてから軽口叩いて。」
通信が切れた。
俺はイヤホンを押し戻し、振り返って全員を見渡した。
「聞け。右に切る。住宅の裏庭を抜けて、旧プールのフェンスに出る。速く動け、だが乱れるな。今この辺が静かなのは、ドイツ軍が折れた牙を拾い集めて、もう一度口の中に嵌め直してる最中だからだ。」
希が息を呑んだ。
「あの……山口さんのさっきのやつ……また来るかな?」
俺は少し考えた。
「また来るかどうかは、今いちばん重要な問題じゃない。」
「じゃあ、何が重要なの?」
俺は前方のまだ立っているボロボロの家屋を見据えた。
「重要なのは、あいつが次に撃つとき、俺たちが『ついでに吹き飛ばされる背景』にならないことだ。」
レミがレンズの灰を拭いながら、低い声で言った。
「そのセリフ、帰ったらメモしておく。」
「まずは、メモを書く机まで生き延びろ。」
葉 綺安はすでに右側の狭い隙間へと踏み込んでいた。俺が続き、ジャックが最後尾に回る。
住宅の裏側は想像以上に荒れていた。庭の塀は半分崩れ、物干し綱には煙で黒く燻された洗濯物が数枚ぶら下がったまま。風が吹くと、中身の空っぽな人間の皮みたいに揺れる。
地面にはひっくり返った乳母車が一台。車輪がまだゆっくり回っていた。さっきの衝撃か、それとも風の悪戯か。
こういう小物が特にタチが悪い。死体よりもよっぽど、ここがついさっきまで生きた人間が住んでいた場所だったことを、しつこく思い知らせてくるから。
ジュリアンが通りすがりに一瞥して、呼吸が明らかに乱れた。
クレールが肩を叩く。
「見ないで。」
ジュリアンは低く返した。
「分かってる。」
それでも、見てしまった。
人間ってそういう生き物だ。見てはいけないと分かっているほど、脳みそは卑しい真似をしたがる。
二つ目の庭を抜けたとき、遠くにスポーツセンター一帯の外縁がようやく見えてきた。
はっきりした建物の輪郭じゃない。ただ、比較的原型を留めている、骨組みだけになるまで徹底的に叩かれていない一帯のシルエットだ。地獄の中を延々と走り続けて、ようやく「窓ガラスが全部は割れていない家」を見つけたような気分だ。
安全じゃない。
でも、少なくとも「場所」としての体裁は保っている。
そのとき、別の音が耳に届いた。
ドイツ歩兵の足音でも、ハーフトラックのエンジン音でも、砲声でもない。
履帯が再び石畳を噛む、あの規則正しい重低音。
遠いが、十分に安定している。
装甲戦力がまだ生きていて、改めて射角を探り直している。
俺は足を止めて、振り返り、バストーニュの上空にまだ漂っている煙の塊を一度見上げた。
さっきの混乱は、もうすぐ終わる。
ドイツ軍は全滅したわけじゃない。ただ一時的に、誰だったかを忘れさせられていただけだ。今、そいつらは自分の名前を思い出しかけている。
俺は灰混じりの息を吐き出し、低く言った。
「走るぞ。速く。」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




