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194.ひと息つく隙 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

艦砲で洗い流されたバストーニュは、甲板をぶち抜かれたばかりで、まだ沈みきってない鉄の船みたいな匂いがした。


空気の中は焦げた木、砕けた石灰、血、油、火薬——そこに、どう考えても場違いな塩の匂いが薄くねっとりと張りついている。海なんて来てねえのに、先に自分の死骸の汁だけ小包で送りつけてきやがったみたいな匂いだ。


一口吸うたび、喉を鉄のブラシで擦られたみたいにヒリつく。鼻に入ってくるのは煙じゃない。町そのものを粉々に叩き潰して、空に撒き散らした粉だ。


俺たち七人は裏通りを東へ切っていく。足の下にあるのは「道」じゃない。かつてここに「道だったもの」があった、っていう形だけだ。


レンガ、瓦、梁《はり》、ガラス、ひっくり返った石段、折れたドア枠、炭みたいに黒く焼けた家具。それから、元は何だったのか、もうわざわざ確かめる気にもならない肉片。


榛名と霧島のさっきの拡散射撃は、通りを壊したんじゃない。この一帯の町並みから、まるごと一皮、乱暴に剥ぎ取ったんだ。


壁はもう壁じゃない。巨人が爪で真ん中から引き裂いたみたいに割れている。屋根も屋根じゃない。冷えきる前に割れ落ちた殻が、そこら中に引っかかってるだけだ。通りに至っては——通りというより、肉が抉れた傷口だ。


ジャックは俺の右を走っている。耳の横を裂いた血は、もう暗赤色の固まった筋になっていて、顔はちゃんと真っ白。それでも脚が動いてるってことは、少なくとも今のところ、いちばんデカい厄介事にはならないって意味だ。


左後ろには、葉 綺安(イェ・キアン)。息はやたらと整っていて、とてもじゃないが、いまバストーニュ市街戦の余震のど真ん中で命からがら逃げてる奴の呼吸じゃない。深夜の公開収録がクソ滑りして、仕事を片付けて帰るとき、みたいなテンポだ。


袖も裾も、灰と血でぐちゃぐちゃだ。どこまでが自分の血で、どこからが他人の血かなんて、もう分からない。それでも歩幅はぶれないし、目も泳いでない。人としての枠は、まだ割れてない。


希《シキ》は、そこまで体裁よくはいかなかった。


あいつの息は、肺の中にガラスを一掴み突っ込まれたみたいに荒い。十数歩走るごとに、いったん呼吸を無理やり飲み込んで、途中で自分が砕けるのだけは拒否してる、って感じだ。


手にはまだ、さっきのペーパーナイフを握っている。握りしめすぎて指の関節が真っ白だ。


その光景は、見てて無性に悪態をつきたくなる。別に、あいつがみっともないからじゃない。このクソみたいな世界が、小娘ひとりに、そんな玩具みたいな刃物を握らせて、気休め程度の「勇気」を自前で捻り出させてる、その事実がムカつく。


レミ、クレール、ジュリアン。記者三人のほうは、別方向の災害だ。


レミは頭から血を流しながら、それでもカメラだけは離さない。まるで、今日この場で唯一、まだ筋の通った言葉を話してくれそうな存在だ、とでも言わんばかりに抱え込んでいる。


クレールの顔は灰まみれで、右手の甲には一筋の切り傷。血がじわじわ滲んでいる。それでも表情は、さっきまでの「は?」から進化していた。「世界が壊れたのは認める。でも、まずはその壊れっぷりを全部覚えておく」——そんな顔だ。


ジュリアンは、いちばん「普通の人間」に近い。だから、いちばん悲惨だ。


あいつは本気で怯えている。遠くで一発でも新しい砲弾が落ちるたびに、肩がびくつく。それでも歯を食いしばって、俺たちに置いて行かれまいと走る。


この七人が今、ひとかたまりになって逃げているけど、そこに英雄らしい要素は一ミリもない。


地獄に一回呑み込まれて、吐き出された先が「地獄の入口・再入場口」でした、みたいな連中の群れだ。


背中のほうで、また一発、でかい音がした。


さっきみたいに真上から落ちてくる艦砲じゃない。もう少し遠く、街区の外側に向かって、じわじわ広がっていく重爆だ。音の厚みが違う。壁一面を掴んで、別の壁にぶん投げているみたいな音。


衝撃が足の裏から頭のてっぺんまで突きあがってくる。両側の崩れかけた壁から、粉になった何かがぱらぱら落ちた。それでも俺は振り返らない。


この状況で振り返るのは、首の可動域の無駄遣いだ。見える未来は、「まだ燃えてる」か「いまから崩れる」の二択しかない。


俺は顔を一度雑にぬぐってから、低く言った。


「まだ動けるか?」


すぐには、誰も答えない。


俺は足を止めて、振り返り、六人の顔を順に見る。


「もう一回聞くぞ。生きてる奴は、声出せ。」


ジャックが、まず、灰混じりの血を地面に吐き捨てた。


「生きてる。今のところはな。」


葉 綺安(イェ・キアン)は、あっさりしている。


「死んでない。」


希《シキ》は息を荒げながら、こくこくうなずいた。


「まだ……だいじょうぶ……っ。」


レミが、カメラをちょいと持ち上げる。


「こいつが生きてるうちは、俺も生きてるってことで。」


俺は二秒ほど、無言でそいつを見た。


「いっそ、それと結婚でもしたらどうだ。」


レミは口の端を無理やり吊り上げた。額を走る血の筋が、それに合わせて引きつる。


「今日生きて帰れたら、真面目に検討する。」


クレールは、白目を剥きかけながらも、律儀にツッコミを入れる。


「私は生きてる。……けど、今はもう、生きてるって本当に『良いニュース』なのかどうか、すごく疑わしくなってきたわね。」


「さっき『戦車に取材したい』とかほざいてた時点よりは、だいぶマシだ。」と俺。


最後に口を開いたのはジュリアンだった。声は震えている。


「わ、私も……まだ、ここに。」


「よし。」俺はうなずく。「七人全員、生存。この数字を、これ以上みっともないほうに減らすな。」


そう言って、また前を向いて歩き出す。


こういう、生存確認の点呼は乱暴だ。だが、戦場では乱暴なやり方にもちゃんと利点がある。


一人ずつ脈なんかとってる暇はない。まして、気の利いた慰めのセリフを用意してる余裕なんか、もっとない。


声が出る。ついてこられる。悪態の一つも吐ける。それなら、まだ「使える」。


前方の路地は、もともと低い商店が並んでいるはずだった。今残っているのは、左手に半壊したパン屋が一軒分、右手には、めくれ上がったレンガの壁。そして真ん中には、ひっくり返ったドイツ軍のオートバイが一台。


その横に、ドイツ兵が二人、転がっている。一人は背中から下が、半分どこかへ行ってしまっている。もう一人はまだ「形」が残っていて、どうやら死ぬ前、自分で壁際まで這って行こうとしたらしいのが分かる。


その体勢は、正直すぎて、見ていて気分が悪い。


さっきの一撃で、ドイツ軍は本気でぶっ壊された。


ただ死体の数が増えたって話じゃない。それまで噛み合っていたはずのリズムが、綺麗に断ち切られた、ってことだ。


普段のやつらは、歩兵と戦車がぴったり噛み合った、気味の悪いほど整った前進をする。だが今は、その連携の真ん中を、誰かが包丁でざっくり叩き割ったみたいになっている。


豹《パンサー》はまだ走っているところもあるし、ハーフトラックも健在だ。だが、あるやつは崩れた壁に履帯を噛まれて空回りし、あるやつは、ただの燃える鉄の棺桶に成り果てている。


ドイツ兵たちは、ところどころでバラバラに散らばっている。まだ声を張り上げて命令を飛ばしているやつもいれば、ただ頭を抱えて遮蔽物を探しているだけのやつもいる。中には、どこかの建物の中から吹き飛ばされてきたばかりに見える奴もいて、通りの真ん中に立ち尽くし、空を見上げて呆然としていた。


自分たちが今、砲撃を食らったのか、海に叩き潰されたのか、その区別すらついてない顔だ。


この一瞬の混乱は、すごく価値がある。


ドイツ軍はバカじゃない。少し時間をやれば、連絡線を引き直し、観測役を立て直し、まだ動ける装甲と歩兵をかき集めて、もう一度「噛みつく口」を形にしてくる。


だが、その前に。この艦砲がめちゃくちゃに叩きつけていった一帯には、ごく短い、隙間みたいな時間が生まれる。


全員、自分がまだ戦場にいることは理解している。だが、次の命令をどこから受け取ればいいのか、その線が、数分だけ、ぼやける。


今、俺たちは、その数分を食いつぶしている最中だ。みっともない食い方だが——必要な食い方だ。


俺は壁沿いに身を寄せ、角からそっと先をのぞいた。


通りの突き当たりで、ドイツ軍のハーフトラックが一台、まだ燃えている。火は車体の裂け目から舌を出し、時折、中に残っていた弾薬が、未練がましく小さく爆ぜる。


その脇に人影が二つ。一人はもう動かない。もう一人は、まだ生きていて、どうにか影の中へ逃げ込もうと、ゆっくり、惨めなくらいのスピードで這っていた。二度這って、二度止まり、また少し這っては、そこで固まる。


俺は、とどめを刺さなかった。


急にお人好しになったわけじゃない。今は一発一発が、もっと「見た目によろしくない相手」のために取っておかなきゃならない。


ジャックが横に寄ってきて、通りの先を眺める。


「これ、撤退には見えないな。」


「撤退じゃねえよ。」俺は言う。「デカいハンマーで、まとめてぶっ叩かれて、頭が真っ白になってるだけだ。」


「お前の友達は、いつもこんな救い方をするのか?」


「友達じゃない。債権者だ。」


ジャックは、ちらりとこっちを見る。


「さっき、お前が何をどうやったのか、いまだに分からない。」


「それでいい。」俺は肩をすくめる。「分かったところで、脳のリソースの無駄だ。」


ジャックは、冷たい息を一つ吸い込んで、まだ何か言いたげにしたが、最後には飲み込んだ。この辺の我慢強さは嫌いじゃない。


こいつはバカじゃないし、鬱陶しくもしつこくもない。本当に鬱陶しくなるのは、敵の火線がもう鼻先に迫ってるのに、「あの戦車は何年式だ」とか聞き出そうとする時だ。


今みたいな局面では、「とりあえず走る」が最優先だと理解している。


半壊したパン屋の中を抜けると、そこには本来なら漂っているはずのない「香り」がまだ残っていた。


焼きたてのパンのいい匂い——ではない。窯、粉、焦げた木枠、そして血。その全部を無理やり混ぜあわせて、似て非なる何かに仕立てた匂いだ。


床にはぺちゃんこになったクロワッサンが一つ。その周りに、割れたガラスと、人間の腕が一本、無造作に転がっている。


この街が今いちばん得意としているのは、日常と死体をひとつの鍋にぶち込んで、「さあ、どっちが元の素材だったでしょう」ってクイズを出してくることだ。


希《シキ》は中に入るとき、床の血を踏んで滑りかけた。葉 綺安(イェ・キアン)がすかさず肘を掴んで、自分のほうへ引き寄せる。

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