192.退却戦 4
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
バストーニュ中心部から少し東に入った路地では、ロケット弾が落ちたばかりで、空気に焦げた推進薬の匂いが残っていた。粗悪な花火に屍油を混ぜて町中に噴きつけたみたいな匂いだ。
山口多聞は湖上前線指揮の延伸節点に置いた臨時観測卓の前に立ち、標図員が次々と更新していく市内の熱点を見ていた。飛龍の残影は高空の雲の後ろをゆっくりと旋回している。あれは思い通りに急降下できる神の兵器じゃない。戦場に介入する能力だけを辛うじて残した、空の亡霊だ。視線を断ち切ることができる。一瞬だけリズムを崩せる。誤認させることができる。だが、どの路地のドイツ装甲も肩代わりすることはできないし、血を流している人間の前に立ちはだかることもできない。
山口多聞はそれを正確に理解していた。だから無駄にしない。
「東側上空、残影切線の準備。」平静に命じる。
隣の伝令員が応じる。「はっ。」
「パンター本体への無効な妨害はしない。観測チェーンを直接断ち切れ。鐘楼の高所と、ホテル正面の測定射撃の視界を、二十秒だけずらす。」
「了解。」
山口多聞はMercier Motel周辺で密度を増し続ける赤い円を見つめた。目に波紋はない。
「周 士達。『守る』のではなく『持ちこたえる』とはどういうことか、本当によく分かっているだろうな。」
誰も答えない。
これは誰かに言う言葉じゃないからだ。
◇
もちろん、わかっている。
守るというのは、立ったまま相手に貫かれるのを待つことだ。
持ちこたえるというのは、悪態をつきながら、時間を向こうの口から力ずくで奪い取ることだ。
問題は、今夜の向こう側の歯が、あまりにも良すぎることだ。
右側のハーフトラックは嫌らしい位置に嵌まり込んでいる。前方のパンターは、路地口に陣取って砲塔と車体で俺たちを死角に押し込む、熟練したチンピラみたいだ。ドイツ歩兵は左側の建物群を抜きにかかり、工兵は壁を爆破して通路を作ろうとしていて、火炎放射器班はその後ろでじりじりと前へ出てくる。左側の民家を抜かれたら、Mercier Motelの外周は「包囲される」んじゃない、「こじ開けられる」だ。
無線に、息を切らした声が割り込んできた。前方の観測手だ。
「北側……北側に大型の牽引輪郭……一門じゃない……少なくとも二門の八八ミリが陣地転換中……」
そのまま爆音。通信が途切れた。
俺は短く罵った。
ジャックはマガジンを確認している。動きが速い。
「ここを完全に封じ込めるつもりだ。」
「ああ。」
「お前の頭の中の『不健全な方法』が、あまりバカじゃないことを祈る。」
「期待を裏切るかもしれない。」
俺は左を見た。
窓枠を撃ち砕かれたクリーニング店の建物、その裏壁の向こうに細い路地があって、ハーフトラックの右後方へ回り込める。だがその細い路地も今は空じゃない。少なくともドイツ歩兵が一組、中で動いている。工兵もいる可能性がある。正面から行けば終わりだが、裏壁を抜けていけば、まだ一分の余地がある。
「左のクリーニング店を抜けて、あのハーフトラックの尻に噛みつく。」俺は言う。
ジャックは俺を見た。スプーンで戦車をこじ開けようとしている人間を見る目だ。
「スーパーにパンを買いに行くみたいな言い方だな。」
「簡単じゃないから、お前を連れてくんだ。」
「これ、連れてくって言うのか。一緒に地獄へ引きずり込むって言うんじゃないのか。」
「大袈裟に言うな。せいぜい途中で片足なくすくらいだ。」
俺はイヤホンを押さえる。
「林 雨瞳、第二陣は出たか。」
「二台は出た。一台が後方路地の残骸に引っかかってる。ヴィクトリアが障害物を除去中。レイチェルとエリザヴェータが最後の機材を搬送中。あと三分、最大で。」
「『最大で』ばっかり言うな。」
「ドイツ軍が礼儀を持ち合わせていないから。」
俺は息を吸い込み、前方を睨みつけた。
「聞け。俺とジャックはこれから左へ切り込んで、クリーニング店の裏路地からあのハーフトラックを叩く。その隙に、残ってる連中を全員出せ。K7は走れるなら走らせる。走れないなら爆破する。振り返るな。」
イヤホンの向こうで、一拍だけ沈黙があった。
「わかった。」林 雨瞳が言う。
一言だけだ。
気をつけろとも言わない。無茶するなとも言わない。戦場で一番時間を無駄にするその手の言葉を、彼女は一切使わない。俺も、あの「わかった」の中に別のものがたくさん詰まっていることは分かっている。ただ今は、誰もそれを開けている暇がない。
俺は笑った。
「そんなにあっさり了解するな。俺が消耗品みたいじゃないか。」
「もともと、ノイズが多くて故障率の高い消耗品よ。」
「くそ、せめて廃棄伝票には書いておいてくれ。」
「生きて帰って、自分で書きなさい。」
通信が切れた。
俺は壁に背中を預けて、熱い息を一つ吐いた。そして自分がまだ笑えることに、少し驚いた。
ジャックが横目で見てくる。
「今、罵られたよな。」
「ああ。」
「なのに、なんで嬉しそうなんだ。」
「まだ罵る余裕があるってことは、向こうが最悪の状態にはなっていないってことだ。」
俺は銃を肩に担ぎ直して、自分の体を一度確認した。袖口が裂けている。手の甲に、ガラスで引いた傷が二本。膝の外側は、さっき飛んだ石に当たったらしく、じんじんと痺れたままだ。ジャックも大差ない。右の頬に灰黒色の擦り傷が一本増えて、外套の袖が破れていて、目の中は血の筋だらけだ。
俺たちは今、肩を並べて戦う英雄には、まったく見えない。トラックに轢かれたあとも意地で立ち続けている、二人の運の悪い人間に近い。
前方からまた機銃の一連射。自販機の外板に穴が開き、中の缶が転がり出てくる。糖分と燃料の匂いが混ざって、戦場製の最悪なカクテルの匂いがした。
「準備はいいか。」俺は訊く。
ジャックは口の中の血混じりの唾を吐き出した。
「いや。」
「よし、俺もだ。」
◇
ホテルの裏庭で、K7トラックがようやく残骸の死角から引きずり出された。
ヴィクトリアが一蹴りで、タイヤに噛み込んでいた鉄棒を吹き飛ばし、振り返って怒鳴った。
「乗れ!早く!」
レイチェルが最後の記録機材の箱を抱えて荷台へ飛び込み、エリザヴェータは医療バッグと弾薬箱を中へ放り込んで、そのまま自分も飛び乗った。林 雨瞳は車のドアの脇にまだ立っていて、ホテルの本棟を振り返った。
未練じゃない。数を取っている。
どの窓にまだ明かりがあるか。どの射線がまだ断続的に動いているか。どの壁がまだ崩れていないか。どの区画の正面圧力が今一番重いか。
彼女には聞こえた。
外の銃声のリズムが変わっていた。全体が小さくなったんじゃない。一点だけ、急に激しくなって、密度が上がっていた。まるで誰かが意図的に、自分の体で火力を引きつけているみたいに。
レイチェルが荷台から手を伸ばしてくる。
「雨瞳!」
林 雨瞳はすぐに乗らなかった。
イヤホンを押さえ、低い声で言う。
「士達、左のクリーニング店の裏壁の向こうに排水溝がある。お前が入ろうとしている路地まで繋がってるかもしれない。完全な道じゃないけど、這っていける。」
イヤホンの向こうから、短い笑いが返ってきた。
「俺が犬穴を通るルートまで調べてくれてたのか。優しいな。」
「無駄口叩くな。チャンスは一回。」
「一回で十分だ。二回目は有料になる。」
林 雨瞳は一度だけ目を閉じ、それからドアを開けて助手席に乗り込んだ。
「出して。」
K7トラックのエンジンが一度大きく唸り、ホテル裏の道へ飛び出していく。二台目が続き、三台目は引き摺られた鉄板を一枚ぶら下げながら、よたよたと後に続いた。中庭には、運び出せなかったものが残っている。壊れた発電機、開封済みの医療材料が二箱、半壊した予備アンテナ一式、そして諦めるしかなかったホテルの看板。
看板が煙の中で一度だけ揺れた。まるで、まだ倒れたくないと駄々をこねている酔っぱらいみたいに。
◇
俺には聞こえた。
エンジンの音じゃない。リズムに、一拍の空白が生まれたのだ。
ホテルの裏側の線が動いた。
その瞬間、前方のパンターの砲塔もわずかに振れた。車を見つけたわけじゃない。ドイツ軍の前進歩兵の火線全体が、突然もっと積極的になったのだ。これが意味することは一つ。節点が移動していると察知して、今ここで全圧力を叩きつけ、俺たちを影ごと釘付けにするつもりだ。
「時間がない。」俺は言った。
ジャックが頷く。
俺たちは同時に身を低くして、左側のクリーニング店へ向けて動き出した。
自販機の陰から飛び出した瞬間、背後が爆ぜた。
迫撃砲の直撃で、あの鉄の箱が捻じ曲がった廃鉄の塊に変わった。飛び散った金属の破片が俺の背中すれすれをかすめていく。焼けた刃で皮膚を引っぱたかれたみたいな感触だ。俺はほとんど前につんのめったが、ジャックが腕を掴んで、クリーニング店の砕けたドア枠の陰へ引きずり込んだ。
室内は滅茶苦茶だった。
洗濯機が二台ひっくり返り、床には血と水が染み込んだシーツが散乱している。天井の穴からは灰が落ち続けている。隅にドイツ兵の死体が一体、うつ伏せで転がっていた。後頭部に穴が開いている。さっきの日本陸戦隊員が置いていったものだろう。反対側の壁には、新しく爆風で開いた亀裂があって、そこを抜ければ裏の厨房に出られる。その先が、林 雨瞳が言っていた排水溝だ。
「聞け。」俺は声を落とす。「出たら、すぐに車を狙うな。右後方に必ず歩兵の援護がいる。俺が最初の視線を引きつける。お前は機銃手を探せ。」
「お前が最初の視線を引きつける?」ジャックが俺を見る。「バーで酒を注文するみたいな言い方だな。」
「似たようなもんだ。ただし、このグラスは俺に噛みついてくる。」
「お前、本当にクソ野郎だな。」
「今さらの話だ。」
外からまた一段と重い轟音。八八ミリ高射砲がまたどこかの建物を解体した音だ。壁全体が揺れ、灰が真っ直ぐ落ちてくる。
俺は裏の厨房へ向かった。砕けたタイルを踏みながら、割れた排水溝の前で立ち止まる。
狭い。
汚い。
まるで運命が俺の体型に合わせて設計したみたいな通路だ。
振り返ってジャックを見る。
「先に行くのはどっちだ。」
ジャックは溝を一瞥して、顔が真っ暗になった。
「決まってんだろ。お前が先だ。棺桶の引き出しみたいな場所は、まずお前に試してもらわないと。」
「筋が通ってる。」
俺はしゃがみ込み、銃を先に押し込んでから、自分の体を溝へ押し込んだ。冷たい泥水がすぐに膝から浸み込んでくる。タール、土、それから何かが腐った匂いが鼻を直撃する。前へ這い進みながら、借金まみれで下水道を逃げるしかない野良犬になった気分だった。
後ろからジャックも入ってきて、小声で罵り続けている。
「もし今日ここで死んだら、英雄的突撃で散ったとか言うなよ。」
「安心しろ。歴史的な死に方だったって言う。」
「うるさい。」
排水溝の先は、半分崩れたレンガ壁の隙間に繋がっていた。
俺はゆっくりと頭を出した。
見えた。
ハーフトラックが、右前方二十メートルも離れていない位置に斜めに止まっている。車体を路地口に噛ませて、機銃がホテル外周のラインを塞いでいる。後側には二人のドイツ歩兵。一人は壁の角にしゃがんで弾倉を交換しているところで、もう一人は前方へ向けて何か怒鳴っている。その向こうには、パンターの側後方の視角がある。あいつはまだ主要道路を睨んでいて、こんな下水道から誰かが這い上がってくるとは、これっぽっちも思っていない。
俺はゆっくりと銃口を上げた。
そのとき、空が一瞬、暗くなった。
夜が深まったんじゃない。
何か巨大な影が、高空の雲の向こうからバストーニュ東側を掠め、通り全体の光を一瞬だけ引き歪めた。ドイツ軍の観測点がほぼ同時に半拍遅れた。パンターの砲塔まで、何かに干渉されたみたいに、偏角が一瞬だけ止まった。
飛龍の残影だ。
二十秒。
山口多聞のジジイは言った通りにやった。一秒も余計には出さない。
俺は口角を上げた。
「よし、開店だ。」
俺はまず、ハーフトラック後側で弾倉を交換し終えたばかりの歩兵を一発で仕留めた。ジャックがほぼ同時に撃ち、二人目の肩を貫いた。そいつは車体に叩きつけられる。ハーフトラックの機銃が即座に向きを変えようとしたが、車体と路地口の幅に挟まれて、動きが一瞬遅れた。
その一瞬だ。
俺は排水溝から完全に飛び出して、突っ込んだ。
「ジャック!」
「いる!」
前方でドイツ兵が怒鳴り、銃声が飛んでくる。弾丸が壁を弾き回る。ジャックが車頭へ向けて連続で撃ち込み、機銃手を一度縮ませた。俺は車尾へ飛びつく。手榴弾のピンはすでに抜いてある。履帯の下へ押し込もうとした——
その瞬間、前方の主要道路から、パンターのエンジンが唸り声を上げた。
ようやく気づいた。
しかもパンターだけじゃない。
もう少し遠い路地の角から、二台目のハーフトラックの影が顔を出している。その後ろでは、ドイツ歩兵が壁の隙間から滲み出るみたいに、一層また一層とこちらへ包み込んでくる。迫撃砲が半拍止まった。停戦じゃない。俺たちの新しい位置を掴み直している。もっと遠くでは、八八ミリ高射砲と四一式多連装ロケット迫撃砲が、バストーニュ全体を蓋の閉まりかけた棺桶みたいに圧し続けている。
俺は目の前のハーフトラック、右前方で向きを変え始めたパンター、そして背後のMercier Motelがあった方角——もう撤収は完了している——を見渡して、思わず笑いたくなった。
運命というやつは、本当にタイミングの選び方だけは一流だ。
この戦いが、一番嫌で、一番すっきりした一手まで辿り着いた。
退けない。
隠れられない。
口先だけでは、命は買えない。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




