192.退却戦 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
俺は、ちょうどその文句を言おうとしていたところだった。
耳を貫くノイズのあと、林 雨瞳の声が無線に戻ってくる。
「士達、ホテルの撤収を開始する。」
俺は半秒だけ黙り、前のパンターがさらに車体一つぶん前へ出るのを見つめてから口を開く。
「撤収先は。」
「Centre Sportif Porte de Trèves - Piscine。K7トラックは使えるぶん全部出す。データと医療は先行。ホテルは殻だけ残して、人間は残さない。」
「ああ。」
自分でも驚くくらい、あっさりと返事が口から出た。
急に悟ったわけでも、人格が向上したわけでもない。今ここでMercier Motelを「命の依り代」として守り続けるのは、八八ミリに解体されかけている建物に、全員の命を殉葬させるのと同義だ。節点は使うためにある。祀るためじゃない。回せるなら回す。回せなくなってからが「守る」だ。
ジャックが俺をちらりと見た。
「中の連中、全員下げるのか。」
「ああ。」
「じゃあ、俺たち、かなり面倒なことになるな。」
俺は顎で前方をしゃくる。
「そのセリフ、今年聞いた中で一番、頭を使わずに言える正しいことだ。」
向こうもバカじゃない。
ホテルが動いた瞬間、たとえトラック一台、搬送ライン一本、後送チーム一組だけでも動いた瞬間に、敵はそのリズムを嗅ぎ取って、即座に押し込んでくる。八八ミリが外殻を剥ぎ、ロケット弾が通路を裂き、迫撃砲が出口を塞ぎ、パンターとハーフトラックが正面から圧をかけ、工兵と歩兵が側面の建物から潜り込んでくる。
要は、人間を地面に押さえつけて、片手で喉を締めながら、もう片方の手で腹を刺しておいて、「どこか痛いところは」と親切そうに聞いてくるのと同じだ。
俺はイヤホンを押さえた。
「神崎。まだ生きてるか。」
向こうからは銃声、足音、荒い呼吸が聞こえる。その隙間から、神崎忠明の声が短く、平板に飛び込んできた。無駄な一音もない。
「生存。南東路地群で交戦中。敵工兵の建物突破は速い。銃剣と手榴弾で一本潰した。そっちは。」
「ホテルが動く。動かせる実体地上兵力を、バス停裏とホテル北側へ突っ込め。守るんじゃない。噛め。敵歩兵を噛みついて離すな。火炎放射器を、本館から百メートル以内に近づけるな。」
「了解。」
俺はもう一つの回線を開いた。
「山口。あの空飛ぶ年寄りは、まだ何度か動けるか。」
湖上前線司令から届く山口多聞の声は、相変わらず、アフタヌーンティーの相談でもしているみたいに落ち着いている。
「飛龍は切線しかできない。砲撃を肩代わりすることはない。敵の高所指揮層は、すでにホテル周辺のリズムをロックし始めている。こちらからは二分後、東側上空で一度だけ殘影を滑り込ませる。敵の観測と測定射撃を二十秒ほど乱せるだろう。それ以上は、お前たち自身で血を出せ。」
俺は笑ってみせた。
「励ましの言葉が上手いな。」
「周 士達。」
「なんだ。」
「ホテルの玄関先で死ぬな。それは笑い話としてもレベルが低すぎる。」
俺は口角を上げる。
「安心しろ。どうせ死ぬなら、もっと冷房の効いた場所を選ぶ。」
◇
バストーニュ市街の路地戦は、ドイツ軍が実体化した瞬間から、ただの撃ち合いではなくなっていた。
互いに相手を、最も見苦しい距離まで引きずり込んで殴り合う試合だ。
南東の路地群で、神崎忠明は第101特別陸戦隊の先頭を率いて、壁の半分が吹き飛んだ民家に飛び込んだ。一階のリビングは豚舎みたいにひっくり返っていて、ソファの下に血のついたテーブルクロスが挟まっている。外ではハーフトラックの車載機銃が向かいの家の窓を叩き続け、木片とガラス片が雹みたいに室内へ降りそそぐ。
神崎はそちらを見なかった。耳を使っていた。
壁の向こうの足音を聞く。
二歩長く、一歩短く、停止。
バストーニュの市民じゃない。
訓練された歩調だ。壁に沿って近づき、銃口を先に出し、呼吸は押し殺している。
神崎が手を上げる。陸戦隊員三人が即座に散開した。次の瞬間、壁の向こう側で鈍い爆発音。ドイツ工兵が隣家に設置した爆薬で壁を抜きにかかったのだ。粉塵が舞い上がるより早く、ドイツ兵が一人、銃剣を前にして穴から飛び込んでくる。
刺突が先に来た。
神崎は退かなかった。銃口を外に逸らし、ほとんど胸を合わせる距離まで踏み込み、刃を喉の付け根へ突き上げる。空いた手でそのまま敵の死体を前へ押し出し、その影に隠れるように後続への視界を潰す。背後の陸戦隊二人が即座に死体の両脇から発砲し、銃火でダイニングを真っ白に染めた。
ドイツ側も容赦がない。一人目が倒れても、二人目、三人目がその背中を踏み越えて押し込んでくる。距離は二メートルもない。銃剣、銃床、手榴弾、血、歯、木片。全部が同じ一メートル四方の空間に詰め込まれる。
そこに綺麗な戦術なんて存在しない。先に相手を壁の中へ押し戻したほうが、生き残るだけだ。
神崎は、ドア枠の手前に引っかかっていた死体を蹴りどけ、低く命じた。
「深入りするな。三十秒後、裏口から路地へ回れ。側面へ噛みつく。『まだ別の小隊がいる』と敵に思わせろ。」
「ですが大尉——」
「いないからこそ、そう見せる。」
外で再びロケット弾の叫びが屋根をかすめていく。
誰かが罵り声を上げた。
神崎は顔を上げることなく、血の付いた刀身をドイツ兵のコートで拭った。
「急げ。ドイツ軍の胃袋は、今夜は殊の外いい。前菜で終わる趣味はない。」
◇
ホテル西側で、林 雨瞳は最後のバックアップレコーダーを防振ケースに押し込み、金属の留め具を締めた。
レイチェルはケーブルの束を肩へ回し上げ、息を弾ませながら言う。
「K7トラック、動けるのは三台だけ。四台目はフロントアクスルをやられてる。無理。」
「切り捨てる。」林 雨瞳は即答した。
「車に医療物資がまだ二箱残ってる。」
「運べるだけ運べ。運べないぶんは爆破する。」
エリザヴェータはすでに裏口を押し開けていた。冷気と煙塵が一緒に流れ込んでくる。外の中庭では、K7トラックが後退中で、車体後部がもう少しで倒れた街灯に当たるところだった。臨時後送要員が二人、担架を荷台に引き上げている。別の一組はバッテリーケースと無線機を幌の下に押し込んでいて、その速さは車泥棒と見分けがつかない。
ヴィクトリアは側窗から身を離し、短銃のマガジンを交換した。
「北側の路地は、もう長くないわ。ドイツ軍のハーフトラックが路地口まで入ってきた。機銃が窓を試し撃ちし始めてる。」
レイチェルが振り返る。「じゃあ士達は——」
林 雨瞳は、ケースをそのままレイチェルに押しつけた。
「文句は言う。でも持ちこたえる。」
「なんでいつも、そんなに確信できるの?」
林 雨瞳は、窓の外のある方向へ一瞬だけ視線をやった。
「外にいるあのクソ野郎は、私たちがまだ全員出ていないとわかってる限り、絶対に引かないから。」
エリザヴェータが車のドアを引き開け、冷たい声で一言添えた。
「なら、あいつの踏ん張りを無駄にしないことね。」
◇
俺の踏ん張りが無駄になるかどうかはともかく、向こうは俺を白骨コレクションに加えたいらしい。
パンターがまた一段、前へ出てきた。
今度は主砲を使わない。車載機銃と後続歩兵の火力で、壁面をまとめて洗い始めた。ハーフトラックが右側の路地口に食い込むと、車上機銃がホテル二階と周辺の高い窓へ向けて弾幕を張り始める。外壁が、百羽のキツツキに同時に仕事をさせたみたいな音を立てる。ドイツ歩兵が二組、その制圧射撃に隠れながら路地口を横断し、左側の民家に張りついた。工兵が爆破装具を提げてその後ろに続く。その手際のよさを見ると、あの時代に奴らを訓練した連中を先に一発撃っておけばよかったと思う。
「建物の中を抜けてくるつもりだ。」ジャックが言う。
「わかってる。」
「お前はいつも『わかってる』しか言わない。」
「お前が言うのは、全部すでに知ってることだからな。」
彼は一度息を吸い込んで、罵声を飲み込んだ。
無線がまた光る。
「士達、ホテル第一陣、撤収完了。」林 雨瞳が言う。
俺は前方のパンターの観察口を見据えたまま答える。
「見えた。」
実際には車は見えていない。裏庭の方角を車体の後部がかすめていくのが見えただけだ。K7トラックはホテル後方から抜け出て、予定ルートで東へ向かっている。向こうがこちらの前線火力点を睨みつけている限り、あの車たちは次の節点まで生きて走り切れる。
条件は、俺たちが十分にうるさくいることだ。
俺は身を乗り出し、工兵を壁際で指揮しているドイツ軍の下士官に照準を合わせ、引き金を引いた。
そいつの頭が傾き、鉄帽が吹き飛んで、糸の切れた人形みたいに壁の角へ崩れ落ちた。隣の二人がすぐさま散開し、一人がこちらへ向けて一連射してくる。自販機の外板がドンドンと鳴り、鉄の破片が耳のすぐ横をかすめた。
ジャックが即座に二発返して、そいつを壁の陰へ押し戻す。
「もう少し顔を出したら、墓碑銘を考えてやらないといけなくなる。」
「短くしといてくれ。俺は長い文章が嫌いだ。」
言い終わった瞬間、左後方の三階建て民家が突然爆ぜた。
建物全体が崩れたわけじゃない。二階を八八ミリ高射砲に直接貫かれ、外壁ごと床板がまとめて落ちてきたのだ。中にはさっき転進したばかりの日本陸戦隊員が一組いて、一人は瓦礫に丸ごと埋まった。腕だけが一瞬外へ伸びたが、次の瓦礫の波がそれを飲み込んだ。もう一人が煙の中を転がり出てきたが、顔の半分が血まみれのまま立ち上がる前に、ドイツ軍の機銃が腰から下を連続で叩いた。見えない鉄槌に何度も打ちつけられるみたいに、体が揺れ続けた。
俺はその光景を見て、奥歯を噛んだ。
これが、八八ミリ高射砲が前に出てきた後の違いだ。
ただ人を殺すんじゃない。
お前がかろうじて身を隠せていた壁、建物、角度、運。そういうものを一枚ずつ、順番に剥いでいく。「死にやすくなる」んじゃない。「生きていられる場所がなくなる」んだ。
「士達!」林 雨瞳の声が再び割り込んでくる。「第二陣、発車する!」
「出せ。」
「北側路地口の陥落、三分以内の可能性がある。」
「なら急がせろ。」
俺は言いながら、ジャックに顎をしゃくった。
「右のハーフトラックを抑えないと、後方の撤収ラインが丸ごと掃き飛ばされる。」
ジャックは火力配置を一瞥し、眉間にしわを寄せた。
「抑えるだけじゃ足りない。あの車の止まってる位置が絶妙に嫌らしくて、機銃が路地口全体を封殺してる。後ろから歩兵も来てる。パンターが向きを変えない限り、あいつはずっと火を吐き続ける。」
「パンターは向きを変えない。」
「じゃあ?」
俺は一度だけ笑った。
「じゃあ、かなり不健全な方法を考えなきゃいけない。」
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