192.退却戦 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
速さじゃなく、確実さ。死んだ兵と生きた兵が混ざった三個の楔形分隊が、建物の壁に体を擦りつけるように前進し、角に出るごとにまず手榴弾を投げ込み、MG42で通りを抑え、最後に二人組の歩兵が建物の中へ切り込んでクリアリングする。でたらめな突撃じゃない。古臭くて、熟練していて、一歩下がるごとに何かを払わされるタイプの市街戦だ。
そして中央のセンターラインでは、俺たちがスタックさせたパンターの脇に、新たな影が現れていた。
パンターではない。
もっと性質が悪い。
指揮型のハーフトラックだ。普通の251より車体が高く、アンテナフレームが火光の中で忌々しい骨組みみたいに浮かび上がる。前には出すぎず、全体を見渡せる位置で停車。周囲に伝令兵と観測兵が横一線に並ぶ。鐘楼のあの軍装の男は高所から降りてきて、崩れた壁と煙のあいだを通り抜け、そのハーフトラックへ向かって歩いていく。
その進路上では、ドイツ兵たちが、生者も死者も関係なく、自然に道をあけた。
その光景を見た瞬間、背筋が冷たくなる。
あの男が特別に怖いからじゃない。秩序が戻ってきたからだ。
さっきまでのドイツ軍は、いくら凶暴でも、どこか「戦場の残響を無理やり現実に押し込んだ」みたいな荒さが残っていた。だが今は違う。誰かが、この一帯の混沌をもう一度指揮系統に組み込んだ。死者は単なる死者じゃなくなり、戦車はただ突っ込むだけの塊じゃなくなる。敵軍全体のシステムが、もう一度電源を入れられた。
「やべえな。」ジャックが低く言う。
「その表現は甘すぎる。」
「じゃあ別バージョン。」彼は指揮ハーフトラックへ歩いていく軍官を見据えたまま言う。「もしあいつが俺の想像通りの階級なら、これから始まるのは町の中の撃ち合いだけじゃない。バストーニュ戦場全体の司令中枢が、この町に重心を移してくる。」
神崎もそれを見ていた。
手の軍刀がわずかに上がり、初めて「相手を見つけた」顔になる。
「あれは普通の少佐じゃない。」
「わかるのか。」俺が訊く。
神崎は淡々と言う。「軍隊がどう道をあけるかを見ればいい。あれは勇将じゃない。勇将の命を、他のコマと一緒に計算する側の人間だ。」
直後に、山口が最後の一言を撃ち込んできた。
「周 士達、確認。敵の上位指揮単位が現れた。そのリズムから判断して、少なくとも戦闘団本部級。さらに上位の装甲集群の残存指揮系統に接続している可能性がある。今この瞬間から、バストーニュ市街は遭遇戦ではなく、攻城戦だ。」
聞き終わって、俺は笑うしかなかった。
嬉しいからじゃない。人間が一定以上の不運に叩き込まれると、脳みその笑い機能だけが乾いたまま動き続ける、あの笑いだ。
「結構。」俺は言う。「俺たち、ついに『幽霊に追われてる』段階から、『組織があって、砲兵がいて、装甲がいて、司令部まで揃ってる幽霊に追われてる』レベルに昇格したわけだ。」
ジャックまで、二度ほど笑った。
「昇進おめでとう。」
前方、東側の路地群が突然火を吹いた。ドイツ工兵がどこかの建物に火をつけたらしい。西側からも三連発の爆音。どこかの防御節点が、一つ丸ごと引き剥がされた音だ。イヤホンの中では林 雨瞳が、人員の再配置をもの凄いスピードで回し始めている。Mercier Motel側では、ロビーを完全に本物の臨時司令所へと作り替えていた。フロント、レストラン、倉庫、駐車場。それぞれ、元の用途とは全く違う役割を与えられている。
もともと車で来た観光客と、運の悪い旅行者の面倒だけ見ていればよかったモーテルは、今や戦場の縁に打ち込まれた一個の「脳」になっていた。
そして俺には、その脳がこれからコンセントを抜きたくなるレベルまで酷使される未来が、はっきり見えていた。
俺は銃に新しいマガジンを突っ込み、神崎とジャックを振り返る。
「いいニュースから行こう。もう敵がどう攻めてくるか、こっちで想像する必要はなくなった。」
ジャックが訊く。「悪いニュースは?」
俺は鐘楼の下、指揮ハーフトラックへ歩いていくドイツ高級将校と、その背後で再整列し、鉄の奔流みたいに展開していく第二波実体攻勢のラインを見据え、火薬混じりの冷たい息を吐いた。
「悪いニュースは、これからは『どうやったら丸ごと食われずに済むか』をこっちで考え続けなきゃならないってことだ。」
言い終えるのと同時に、俺たち三人は同時に動き出していた。
三十秒でも遅れれば、バストーニュ市街の中でようやく再編された防御節点が、一つ、また一つと消えていく。
そしてあの高位指揮単位は、すでにこちら側へと視線を向け始めていた。
◇
Mercier Motelの外側に築いた即席防御線は、さっきまではかろうじて「防御線」と呼べる代物だった。
二十分もすれば、残るのは倒れきっていない壁の断片と、撃ち抜かれた車の殻、そして「まだ死ぬ順番を譲る気がない」連中だけになるだろう。
俺はひっくり返った自販機の陰に腹這いになり、冷たい鉄板に頬を押しつけていた。口の中は粉塵まみれ。耳の奥には迫撃砲が置いていった耳鳴りがこびりついている。単にうるさいというんじゃない。誰かが頭蓋の内側を金属スプーンでこすっているみたいな、骨に触る音だ。一発一発は大したことないのに、借金みたいにいつまでも残る。
ジャックは俺の左側、壁に肩をくっつけてしゃがみ込み、銃口を通りの角に立ちこめた白灰色の煙へ向けていた。初参加の歴史オタクが浮かれていた頃の顔は、もうどこにもない。紙やすりで擦ったあとの板みたいにカサカサで、突っ張って、固い。だが目だけは、さっきよりずっと据わっている。
前の角で、一両のパンターがゆっくりと砲塔をこちらへ向けてきた。
焦ってはいない。
焦る必要がないのだ。
後ろからハーフトラックが次々と通りへなだれ込んでくる。履帯が歩道の花壇も石段も縁石も一緒くたに噛み砕き、タイヤはガラスと「人間の暮らしの最後の体面」を一緒に踏み潰す。機銃班が車体後部から飛び降り、両側の建物へ散開。工兵は爆破装具を背負って、まるで水道検針に来た葬儀屋みたいな足取りで前進。
さらにその後ろにいる連中が、特に腹が立つ——火炎放射器班だ。あれは武器なんかじゃない。「さっさと死んでください」と背中に大書した嫌がらせ道具だ。
「今回は、偵察って雰囲気じゃないな。」ジャックが低く言う。
「そうだな。棺桶一式ごと持ってきておいて、様子見なんてあるかよ。」
そう言った瞬間、背後から一段と重い轟音が響いた。
迫撃砲じゃない。
パンターでもない。
低くて、長くて、悪意の塊みたいな一撃。錆びた大槌を誰かが町の反対側から地球の芯まで叩き込んで、その残響で空気が震えているみたいな音だ。
俺は顔を上げ、その方向に視線をやった。何も見えない。ただ、バストーニュの冬の白い空の一角で、雲が一瞬ブルッと震えた。
ジャックの顔色が変わる。
「八八ミリ高射砲だ。」
俺は口の中で血と砂を噛みながら、口角を少しだけ上げた。
「いいね。そこまで引っ張り出してきたか。今日のメニューはフルコースだな。」
次の瞬間、Mercier Motelの外周に積み上げたバスの残骸とコンクリートブロックのバリケードが、まとめて貫かれた。
爆散じゃない。眩しい穴を一つ、力ずくで穿たれた。石と鉄筋と割れた窓枠とコンクリート片が、巨人のパンチをまともに食らったみたいに後方へ吹き飛ぶ。さっきまで遮蔽物に張りついて撃っていた日本陸戦隊員が二人、その衝撃に丸ごとさらわれ、一人は看板の柱に叩きつけられ、もう一人は銃ごと花壇に落ちて、土と血が一塊になった。
「旅館本体を直射してるんじゃない。」ジャックが歯を噛みしめる。「防御節点の殻を剥いでる。」
「見りゃわかる。まだ目は生きてる。」
無線の向こうで、林 雨瞳の声がさらに抑えたトーンで入ってくる。それでも安定感は揺らがない。
「士達、北東側に八八ミリ高射砲、複数。距離は少なくとも一・五キロ以上。高地外縁か開けた道路上に展開しているはず。一門ではない。西側では迫撃砲二組が依然として修正射撃中。南にはロケットの熱源。数が、おかしい。」
俺は眉をひそめる。「『おかしい』?」
一瞬だけ、あちらが黙った。
「きれいすぎる。バラ撃ちじゃない。列を揃えてる。」
返答する前に、空の向こうから、人生で二度と聞きたくないタイプの音がやってきた。
砲声じゃない。
悲鳴だ。
長く引き伸ばされた金属の喉音を伴う絶叫が、列をなして空を裂いてくる。酔っぱらった悪霊の群れが、真っ赤に焼けた鉄櫛で夜空を梳いているみたいな音。地面に落ちる前から、背中の毛が全部逆立つ。
ジャックが一瞬だけ空を見上げ、唇の色を失った。
「41式多連装ロケット迫撃砲だ。」
「くそ。」俺は吐き捨てる。「本当に家財道具全部持ってきやがった。」
第一波のロケット弾が、Mercier Motel北側、二ブロックほど先に降った。
家々が一斉に、巨人に踏み潰されたみたいにへしゃげる。窓、ドア、屋根瓦、煙突、屋根に積もった雪、木片、そして肉片が一緒くたになって空へ飛び散った。第二波はもっと近い。バス停裏の中継節点に直撃。爆発は一発じゃない。連続だ。ドン、ドン、ドン、ドン、と、誰かがこの町の背骨を手でつかんで、節々を順番に折っているみたいに。
火が通りから通りへと一気に駆け上がり、白灰色だった戦場全体を、ぐつぐつ煮えたぎる鉄錆色のスープに変えていく。
俺の背中に当たっている自販機の鉄板まで震えた。
「やってくれるな。」血の混じった唾を吐きながら言う。「ドイツ軍様は今日は攻城だけじゃ飽き足らず、地獄展示会まで同時開催かよ。」
ジャックは返事をしない。
目の前のパンターが、動き出したからだ。
ロケット弾幕と迫撃砲の制圧射撃に守られながら、前へ出てくる。突進じゃない。一番腹の立つタイプの、きっちりした歩みだ。砲塔をわずかに振って、車体を斜めに通りへ突き出し、右側の視界を歩兵に、左側を後方のハーフトラックに預ける。すべて、定規で測ったような動き。ハーフトラックは建物の壁すれすれを通って機関銃班を降ろし、即座に窓と路地口を制圧。工兵は側面の建物に張りつき、明らかに建物内部を抜けてMercier Motelの胴体側面から穴を開ける気だ。
これは奇襲じゃない。
手術だ。
しかも執刀しているのは、八十年前に死んだくせに、人の体の壊し方だけは忘れていない連中だ。
◇
Mercier Motelの中は、もう宿泊施設の面影はなかった。
フロントカウンターはひっくり返され、カーペットには泥と血と足跡と空薬莢が混ざり合っている。壁には観光ポスターがまだ掛かっているが、静かな湖畔の写真は、今となっては嫌味にしか見えない。臨時司令区画はレストラン裏に設置され、窓はベッドの板、クローゼットの扉、砂袋で完全に塞がれている。テーブルの上にはバストーニュ市街図が広げられ、びっしりと書き込みがされていた。赤い線、黒い円、青い矢印が互いに食い込み合い、精神に問題のある外科医がカルテの上で暴れた跡みたいになっている。
林 雨瞳はその地図の脇に立ち、袖を肘までまくり上げていた。指先はインクと灰と血に汚れている。目はよく光っていた。熱でじゃない。冷たさでだ。その冷たさは「無感情」ではない。感情はすでに別のところへ使い切っていて、残ったすべてを「生き延びる計算」に回している。
レイチェル(レイチェル)は外した無線機ユニットを抱えていて、手の甲に擦り傷があり、口には短く切ったテープを咥えている。エリザヴェータは書類や予備バッテリー、救急箱を大きなキャンバスバッグに詰め込んでいて、その手つきはまるで発車寸前の列車に飛び乗るつもりの乗客のように速い。ヴィクトリアは半分割れた窓の隙間に立ち、短銃を胸元に沿わせながら、外の火の光を一つ残らず追っている。
また一度、建物全体が揺れた。シャンデリアが鳴り、天井から粉が地図の上にぱらぱらと落ちる。
レイチェルが顔を上げ、強張った声で言った。「今の、迫撃砲じゃない。」
「わかってる。」林 雨瞳は言う。「八八ミリ高射砲が外殻の解体に入った。ロケット弾は節点間の移動線を潰してる。ホテル自体は、もう守りきれない。」
エリザヴェータは手を止めずに、ただ短く問う。「撤退先は?」
林 雨瞳は指先を地図の東側へ滑らせ、その一点を押さえた。
「Centre Sportif Porte de Trèves - Piscineへ下がる。体育館とプールのブロックは厚みがある。駐車スペースも広い。ここより視界が開けていて、転送ポイントとしても優秀。K7トラックで動けるやつは全部出す。出せないやつは置いていく。データ最優先。医療が第二。人間が第三。装備は、運べたぶんだけ。」
ヴィクトリアが振り向く。「殿は誰がやるの?」
林 雨瞳は彼女を見ることもなく、別の撤退ルート図を引き抜いてテーブルに広げた。
「誰、じゃない。どの区画かだ。最前列は現行のホテル警戒要員に五分持たせる。バス停裏の路地が遮断された時点で第二列にバトンタッチ。そこから先は神崎側の地上部隊が引き継ぐ。士達とジャックは最外周で正面の視線を抑える。ドイツ側が中枢をまだここだと信じている限り、八八ミリで建物そのものを水平射撃してくることは避けられる。」
レイチェルが息を飲む。「周くんを囮にする……?」
林 雨瞳の声は、刃の背のように平らだった。
「囮じゃない。あれは周 士達だ。あいつ自身も、そうする。」
外でまた重い砲弾が落ち、建物全体が軋んだ。
ヴィクトリアが鼻で笑う。
「どうせあのクソ男、こう言うわね。『また公費で消耗品扱いかよ』って。」
林 雨瞳はそこで初めて顔を上げ、淡々と言う。
「だからこそ、急いで撤退する。さもないと、本当にそれを言う時間ができる。」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




