S2第四十六章:膠着打破
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
そう言い捨てると、ラオガオはドアを開けて外へ出た。迷いのない足取りで、廊下の角にある赤い非常ベルのボタンへと突き進む。
俺と弥生も後に続いたが、誰も彼を止めようとはしなかった。ここまで来て、止めることに意味などない。非常ボタンを覆う透明なカバーに、ラオガオが手をかける。ためらいは一瞬もなかった。彼はそれを叩き割り、迷わず押し込んだ。
音そのものは、それほど大きくはなかった。
だが、その一撃で二一三号室の「夜」が終わることを、俺は確信した。
まず、赤い光が点灯した。
廊下の両端にある警告灯が猛然と点滅し、二階全体が粘り気のある赤色に染め上げられる。ワンテンポ遅れて、警報音が炸裂した。基地全体を深い眠りから力任せに引き摺り出すような、暴力的な咆哮だ。それは二一三号室のあの低く掠れた問いかけでも、台帳をめくる薄っぺらな音でもない。標準化され、粗暴で、一切の容赦を排した「火災警報」だ。
これが鳴り響いた瞬間、水面下で進んでいたあらゆる「手続き」は停止を余儀なくされる。
案の定、建物全体が瞬時に「生」を取り戻した。
ドアが次々と開き、金属のノブが壁に激突する音が重なる。ベッドの軋み、罵声、スリッパが床を叩く音、慌ててズボンを穿きながら走り出す狼狽した気配。それらが一気に溢れ出した。隣の部屋からは激しい毒態が聞こえ、向かいの部屋では何が起きたのかと叫ぶ声が響く。階下はさらに混乱を極めていた。ベッドから転げ落ちるような音すら聞こえてくる。
スピーカーの音声が、即座に緊急放送のフォーマットへと切り替わった。定規で測ったような、冷徹で事務的なアナウンスが降ってくる。
『全基地に告ぐ。火災プロトコル始動。各棟は避難経路に従い離室、階下へ集合せよ。当直担当は「災害時ページ」を開き、在位、離位、および——未明を確認せよ』
「未明」という二文字を聞いた瞬間、背筋に鋭い寒気が走った。
入り込んだのだ。
二一三号室という密室に漂っていたあの「異質」が、もはや部屋の私的な規矩ではなく、基地全体の「公式プロトコル」へと引き摺り込まれた。
ラオガオのあの一撃は、呪いを公のシステムへと直結させてしまったのだ。
ラオガオは振り返り、一言だけ告げた。
「行くぞ」
俺たちは人の波に押されるようにして階下へ向かった。
廊下、階段、曲がり角。どこもかしこも、眠りを奪われた人間たちで溢れかえっている。上着を裏返しに着た者、口に歯ブラシを咥えたままの者、誰が非常ベルを鳴らしたのかと毒づく者。他の宿泊棟にも明かりが灯り、向かいのビルからはこちらを伺う影が見える。死んだように静まり返っていた基地全体が、この警報という名の電流によって強制的に再起動させられていた。
一階に辿り着くと、受付デスクではすでに台帳が「災害時ページ」へとめくられていた。
二冊の台帳が並んでいるのが見えた。一冊は通常の宿泊名簿。もう一冊は「災害時清領台帳」だ。二冊は並んで見開かれ、夜風と人々の熱気に煽られてページの端がパタパタと乾いた音を立てている。
さっきまで死人のように微睡んでいたあの中年男は、今や別人のような俊敏さで赤ペンを握り、顔も上げずに怒号を飛ばしていた。
「——在位の者は左の列に並べ!」
「離位の者は理由を先に申告しろ!」
「未明は空欄にしろ。継続調査だ!」
群衆の中に立ち尽くしながら、俺は二一三号室にいた時よりも強い「寒さ」を感じていた。
火災警報が鳴り響いたことで、これまでの「怪奇」や「偶然」といった個人的な違和感はすべて、システムという名の巨大なフォーマットへと吸収されてしまった。
ひとたび災害時ページに書き込まれてしまえば、それが霊的な現象かどうかなど関係ない。ただそこに「枠」があり、埋めるべき「欄」がある。……それだけが、この場所の絶対的な真実になるのだ。
こゆきは列の端に立っていた。俺たちと一緒に階段を駆け下りてきたというのに、受付の男のペン先は彼女の前で迷うように止まり、結局、書き込むべき枠を見つけられないまま、無機質に彼女を通り過ぎた。本人がそこにいるというのに、台帳は頑なに彼女を拒絶し続けている。
その光景を見て、俺の心はさらに重く沈んだ。
これが証明している事実は一つ。台帳が拒絶するものは、たとえ目の前に存在していても無価値であり——逆に、台帳が求めているものは、たとえ姿が見えなくとも「実在」として呼び出されるということだ。
二一三号室の番が来たとき、受付の男の声が明らかに一拍、遅れた。
男は左手で宿泊名簿を、右手で災害時ページを押さえ、二つの現実を往復するように視線を走らせる。周囲では警報が鳴り響き、放送が避難手順を繰り返しているが、その数秒間だけは、まるでこの広場全体が息を殺して彼の言葉を待っているかのような、奇妙な静寂が支配していた。
「二一三号室——ラオガオ、在位」
ラオガオが短く応える。
「ジョウ・シーダー、在位」
喉の渇きを堪えながら、俺も答えた。
そして、ペン先が三つ目の枠の上で止まった。
その一瞬、俺の鼓動も止まった気がした。受付の男は台帳を見つめたまま、表情を消している。ただ、口角が硬く強張っていた。彼自身、これから口にする言葉を忌み嫌っているかのように。半秒の空白の後、彼は台帳に刻まれた文字を、呪文のように読み上げた。
「……二一三号室、三枠め……未明。継続調査」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の十数組の視線が一斉にこちらへ向けられた。
誰かがいなくなったからではない。他の部屋は「人」を数えているのに、二一三号室だけが「枠」を点呼されたからだ。
名前でも、身分でもない。ただの一つの「枠」。
あいつは、もう人間の形を模倣する必要さえないのだ。ただ台帳の上にその席が確保されていれば、それは「公式な実在」として定義される。
さらに俺を戦慄させたのは、受付の男が読み上げた直後、無意識に俺たちの隣の「空白」へ視線を走らせたことだ。ほんの一瞬だったが、俺は見逃さなかった。それは所在なく泳いだ視線ではない。彼は確かに、そこに立っているはずの、しかし見えない「何か」を確認しようとしていた。
「……顕現れたわね」
隣に立つ弥生が、地を這うような低音で呟いた。
彼女の言いたいことはわかっている。
幽霊が出てきたわけじゃない。二一三号室という密室のルールとしてのみ機能していたあの「欠落」が、今、この基地全体のシステムによって公開承認されたのだ。
その後の点呼の内容は、ほとんど耳に入らなかった。
建物の壁を赤い警告灯がなぞり、消火配管を流れる水の音が鈍く響く。遠くの医療区画にも灯りが点り、本来なら眠りについているはずの部署の人間たちが次々とこちらへ駆けつけてくる。
ラオガオが仕掛けたこの火災警報という一撃は、二一三号室を焼き払うためのものではなかった。あの陰湿な「補填プロトコル」を、無理やり白日の下に引き摺り出すためのものだったのだ。
今この瞬間から、三枠め(サード・スロット)は単なる部屋の空き名札ではなくなった。深夜放送の不気味な問いかけでも、台帳の隅で削り取られた「葛西」の残影でもない。
それは災害時ページに刻まれ、公に点呼され、この場所にいる全員が共有する「公式な手順」へと昇格したのだ。
群衆は宿舎前の広場に押し留められ、受付の男は依然として一列ずつ点呼を続けている。ラオガオは花壇の縁まで歩くと、ずっと咥えていた火のついていない煙草をようやく指に挟み、隣の男から火を借りて深く、肺の奥まで紫煙を吸い込んだ。
俺はラオガオの隣に歩み寄った。耳の奥ではまだ警報が震え、心臓の鼓動も収まる気配がない。俺は彼を凝視し、抑えきれない疑問をぶつけた。
「……どうして、そんなに平然とこんな真似ができるんだ?」
ラオガオは低い石塀に背を預け、紫煙を吐き出すと、ふっと笑った。その笑みは薄く、俺を嘲笑っているのではなく、この事態そのものを冷ややかに眺めているようだった。
「……平然なわけあるかよ」
彼は目を上げ、赤く染まった視界の先——台帳、追い出された群衆、そして今も読み上げられる点呼の声を見つめた。声は小さいが、岩のように揺るぎない。
「こいつはまだマシだ。『論理』ってやつが通じやがる。……昔、刑大時代に相手にしたシリアルキラーの変態どもはな、論理なんて糞食らえって連中ばかりだった」
彼は指先で灰を弾いた。口角には、依然として淡い皮肉が張り付いている。
「論理のままに動いてりゃ、最後は全部こいつ(システム)の思い通りだ」
俺は言葉を返せなかった。
赤い警告灯が明滅する中、俺は確信した。第一夜は、本当の意味で終わったのだと。
俺たちが勝ったわけじゃない。あいつが止まったわけでもない。
ただ、この瞬間から二一三号室の「異変」は、密室の出来事ではなくなった。
基地全体が、目覚めてしまったのだ。
第四十八章:防災マニュアル
非常ベルはすぐには鳴り止まなかった。
鳴っては止み、止んではまた鳴り響く。まるで基地全体が、どの程度まで覚醒すべきか自問自答しているかのようだ。宿舎前の広場には人が溢れかえっていた。叩き起こされた住人、夜勤明けの職員、さらには外周の警戒ポイントから大衣を羽織って駆けつけた者まで。赤色の警告灯が一人一人の顔をなぞり、その表情を——まるで病棟から運び出されたばかりの死人のように——一様に白々しく照らし出していた。
受付デスクの前には二本のラインが引かれていた。一本は「在位」、もう一本は「離位」。そして「未明」の者はそのどちらにも並ぶことを許されず、中央の空白地帯に留まるよう命じられていた。
俺は左側の列の端に立ちながら、どうしても中央の「空き地」に視線が吸い寄せられるのを止められなかった。
そこには、今は誰もいない。
だが、問題はまさにそこにあるのだ。
ラオガオは吸いかけの煙草を揉み消し、足元で散る火花を靴底で踏みにじりながら低く呟いた。
「……そろそろ、部屋番号を確認するだけじゃ済まなくなるぞ」
俺は彼を盗み見た。「……ボタンを押す前から分かってたのか?」
「ここまでの事態になるとは思っちゃいなかったがな」と、彼は言った。「だが、災害時ページ(ディザスター・リスト)に載った以上、これはもう『部屋の中』で飲み込めるような話じゃないんだよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、階段口から新たな一団が現れた。宿舎の住人ではない。基地本部の夜勤担当と、濃い色のコートを纏った二人の男女。彼らの歩みは決して速くないが、一歩ごとに広場の喧騒を沈めていくような、重苦しい威圧感を放っていた。
先頭に立つのは、四十代半ばの男。髪を完璧に整え、室内作業が長いことを物語る青白い肌の持ち主だ。その後ろに控える男女の左腕には、黒地に銀文字の腕章が光っていた。
——霊務局(BEA:Bureau of Esoteric Affairs)。
心臓が不快に収縮した。
火災警報によって基地が目覚める。そこまでは想定内だ。だが、霊務局の介入があまりに早すぎる。それはつまり、二一三号室の「三枠め・未明」という報告が、単なる受付のミスとして処理されず、即座に「上の連中」にまで届いたことを意味している。
隣に立つ弥生が、声を潜めて囁いた。
「……来るわ」
「何がだ?」
「宿舎内のトラブルが、公的な『案件』へと昇格する瞬間よ」
三人の男女は受付デスクの前まで歩み寄ると、俺たちには目もくれず、先に台帳を検分し始めた。
受付の中年男は宿泊名簿と災害時ページを並べて差し出し、震える指先で二一三号室の行を指し示した。先頭の男は薄い手袋を嵌めており、ページをめくる音すら立てない。彼は在位者リストを眺め、災害時欄をなぞり、最後に「未明」という二文字の上で指を止めた。
未明。
彼はその文字を数秒間見つめた後、訊ねた。「……誰の回答だ?」
受付の男が喉を鳴らす。「警報後の清領時(点呼)に、私が読み上げたものです」
「そっちじゃない」と男は言った。「最初の『補填問いかけ(エントリー・チェック)』に対し、誰が答えた?」
背筋に冷たいものが走る。
こいつは警報後の話を聞いているんじゃない。警報が鳴る前——つまり、あの真夜中に二一三号室で行われた、あの「声」とのやり取りを、少なくとも一部は把握しているのだ。
「……私が『未補(未登録)』と答えました」
弥生が先に口を開いた。男はそこで初めて、彼女へ視線を向けた。
その瞳に敵意はない。だが、ひどく不快な視線だ。生きている人間を見ているのではない。すでに劣化が始まっている「観測データ」を検分するような、無機質な眼差し。
「……理由は?」
「答えていません」
「なぜ答えなかった?」
「理由を差し出した瞬間、あなた方は『手順』を完了させてしまうからよ」
男はそれを聞いても反論せず、宿泊名簿をめくり直して二一三号室の配置図を確認した。三台のベッド、三つのコップ、三足のスリッパ。そして空白の名札スロット。
すべてを確認し終えると、彼は台帳を閉じ、受付の男に冷徹に命じた。
「……二一三号室を、個別枠に指定しろ」
広場で俺たちを盗み見ていた連中の視線が、一斉に、そして遠慮なく突き刺さってきた。
ラオガオが半歩前に出た。声は淡々としているが、鋭い。
「……用があるならここで聞け。犯人扱いして連行するような真似はよせ」
男はそこでようやくラオガオに視線を移し、二秒ほど沈黙した。
「非常ベルを鳴らしたのは、あんたか?」
「ああ」
「理由は?」
「二一三号室内部に、局所的な処置が不可能な持続的異常が発生したためだ」
「異常の形式は?」
ラオガオは思考を挟まず、即座に返した。「配置の自己修復、深夜の補填問いかけ、および名簿への自動記載」
男はそれを聞いてもすぐには記録せず、ただ一度、ラオガオを値踏みするように見た。まともな会話が成立する相手かどうかを確かめるような視線。半秒後、彼は隣の女に命じた。「書け。二一三号室、災害時プロトコル移行への前兆あり、と」
……厄介なことになった。
これは単なる「幽霊屋敷」の話じゃない。二一三号室の異変が、ついにこの基地の「運用システム」そのものに干渉し始めたことを、連中が公に認めたということだ。
俺たちは受付デスクの裏にある、小さな事務室へと連行された。
押送というわけではないが、火災現場の中に突如として「立ち入り禁止の境界線」を引かれたような気分だ。ドアを閉めても外の喧騒は漏れ聞こえてくるが、その音はまるで厚い水層を隔てたかのように、ひどく遠く、不明瞭になった。
室内には折り畳み椅子が四脚、ホワイトボード、古びたスチールキャビネット。机の上には飲みかけの、冷え切ったインスタントコーヒー。本来なら当直の役人が居眠りや書類作成をするだけの場所が、霊務局(BEA)の連中が立った瞬間、冷徹な尋問室へと変貌した。
七三に分けた髪を整えた男が、腕章を外して机に置いた。シャツの袖口からのぞく白い生地が、異様に清潔で鼻につく。
「自己紹介は省こう。時間の無駄だ」と男は言った。「……私は真壁だ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
廊下の突き当たりのあの人影。
放送が途切れた後の、あの咳払い。
そして、あの夜にこゆきが俺の背後で囁いた、あの二文字。
俺たちの勘違いじゃなかった。
あいつは、本当にそこにいたのだ。
俺は言葉を返さず、彼を見据えた。その名が口にされた瞬間、室内の空気が一気に薄くなったように感じられた。
真壁は災害時ページを広げ、二一三号室の行を指先で押さえた。故障した機械がいつから異音を発し始めたかを訊ねるような、無機質なトーンで切り出す。
「……最初から話せ。まず、最初に『配置』が狂った瞬間からだ」
ラオガオは出しゃばらず、俺に視線を向けた。現場の当事者である俺の口から語らせるべきだという判断だ。
俺は息を整え、台帳のページを見つめながら、初夜からの出来事をゆっくりと反芻していった。入室時の違和感、ドア裏の守則、自律的に動くコップやスリッパ。フロア全体による「検算」の音。外から問われる『現位幾人』という声。そして階下でめくられる台帳、三枠めに刻まれた「未明」という文字。
俺が話している間、真壁は一度も口を挟まなかった。ただ、異常な速さでノートに記号を書き込んでいく。その筆致は内容を記録しているというより、事象を「カテゴリー」へと解体し、欄に嵌め込んでいるようだった。時間、位置、トリガー、レスポンス。そして、第三者による観測の有無。
話している途中で、俺はラオガオが言っていた「論理」の本当の意味を理解した。
一度システムに吸い上げられれば、俺たちの恐怖すらも、冷たいフォーマットの一部として編文化されてしまうのだ。
弥生が俺の漏らした細部を補完していく。彼女の報告は、俺よりも正確で、そして凍りつくほど冷徹だった。深夜の問いかけへの回答。原因の秘匿。放送プラグ抜去後の観察者の出現。配置の学習から、睡眠時の生体サンプリングへの移行——。
ラオガオは時折、短く、しかし鋭い判決文のような一言を添える。
「……まずは配置を学び、次に配置を成立させるための『人間』を学んでいる」
「人を補充するのではなく、その『枠』が成立するための全証拠を補完しようとしているんだ」
「……どんな対策を講じても、一巡(一ターン)経てばこいつの教材にされる」
そこまで聞いた時、真壁のペン先がようやく止まった。
彼は目を上げ、ラオガオを見据えて問う。
「……なるほど。では、君が非常ベルを鳴らしたのは、事態が抑えきれなくなったからではない、ということか」
ラオガオが答える。
「……これ以上抑え続けていれば、次はこいつ(システム)が公式の点呼を要求してくる。……そう判断しただけだ」
真壁は数秒の沈黙の後、満足げに、そして極めて微かに頷いた。
「……あんたの判断は正しかった」
その四文字が真壁の口から漏れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
霊務局(BEA)が介入してきた以上、まずは火災報知器の乱用を責められるか、事態の誇張を疑われるものだと思っていた。だが、真壁は違った。彼は俺たちの報告を、冷徹なまでの肯定で受け入れたのだ。
その意味するところは、ただ一つ。
もしラオガオがあのボタンを押していなければ、二一三号室の「三枠め」は、あの密室の中で、俺たちの預かり知らぬ形で「完成」させられていたはずだということだ。
基地内に鳴り響いていた警報が、ついに止まった。
だが、静寂が戻ったその瞬間、基地の空気はかえって緊張を孕んだ。音が消えたことは「緊急事態」の終わりではなく、本格的な「処理」の始まりを意味していたからだ。
真壁は災害時ページの裏側から、一枚の薄い紙を抜き取った。それは宿泊名簿でも避難者リストでもない、もっと古く、使い込まれた「補填調査票」だった。紙は灰色に煤け、角には何度も折り畳まれた痕跡がある。最上段には、こう記されていた。
『宿舎区欠員継続調査/旧案件併記』
俺の視線は、即座にその右下に書かれた名前に釘付けになった。
——葛西。
文字は不完全だ。一度塗り潰され、その上から再びなぞられたような歪さがある。隣には日付らしき数字が添えられていたが、あまりに薄く、ただ「続列(継続)」という二文字だけが、死人の指のように紙にへばりついていた。
真壁は俺たちにそれ以上見せようとはせず、手掌でその名前を隠した。
「二一三号室で起きていることは、新しい現象ではない。……ただ、これまでは基地全体で処理しなければならないほど、事態を『引き摺り出した』者がいなかっただけだ」
「……以前にも、あの一枠を埋めようとしたってことか?」俺の声が強張る。
真壁は俺を見据え、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも饒舌だった。肯定も否定もせず、ただ俺が「最悪の答え」に辿り着くのを待つような、残酷な間。
やがて、彼は重い口を開いた。
「……何度も補填は試みられた。だが、一度として完了したことはない」
事務室の中が、蛍光灯のハミング音だけが聞こえるほどの静寂に包まれた。
弥生が微かに瞳を動かし、鋭く問いを重ねる。
「……完了しなかったのは、対象が消失したから? それとも、プロトコルが中断されたから?」
真壁は調査票をファイルに戻した。その声は平坦だが、先ほどよりもいっそう冷淡に響く。
「……完了の間際になると、いつも決まって、基地内の誰かが『目覚めて』しまうからだ」
その一言に、首筋の産毛が逆立った。
広場では、今も点呼が続いている。名前を呼ばれ、解放され、あるいは留め置かれる人間たちの喧騒。だが、俺は気づいてしまった。火災警報を鳴らして事態を公にしたことで、俺たちは逃げ場を失ったのだ。俺たちは、前任者たちが成し遂げられなかった「継続調査」の歯車の中に、正式に組み込まれた。
真壁は台帳を閉じ、俺、ラオガオ、弥生の三人を見渡して、短く、そして決定的な断罪を下した。
「今この瞬間をもって、二一三号室を封鎖する」
「貴殿ら三人の、単独での帰室を禁ずる」
「それから——」
彼は机を指先で一度、トン、と叩いた。次の言葉に拍子をつけるように。
「夜が明けるまでに、君たちの知る『葛西』のすべてを吐き出してもらおうか」
閉じられた災害時ページを見つめながら、俺の胃の奥で、どろりとした不吉な予感が渦を巻いていた。
警報が止んだ後の基地は、以前よりもいっそう「覚醒」していた。
先ほどまでは混乱し、苛立っていた群衆も、静寂の中で統制された動きを見せ始めている。広場の空き地は、受付デスクによって三つの列に切り分けられた。左は「在位」、右は「離位」。そして中央は、「留空」。
中央の空白地帯には、誰も立っていない。
だが、その無人地帯こそが、どの列よりも異様な存在感を放っていた。
あそこは人間が立つ場所ではない。あそこは「台帳」のために用意された場所だ。今はまだ名もなき存在だが、システムが「存在しない」と認めることを拒絶した、あの『未明』という名の怪物のための席。
放送のフォーマットが切り替わる。もはや避難を促す粗暴な叫びではない。一語一語を正確に、冷徹に刻む、儀式のようなアナウンス。
『全基地、第二次点呼を開始する』
『各棟は災害時ページに基づき、在位、離位、および未明を報告せよ』
『点呼が完了するまで、隊列からの離脱を一切禁ずる』
俺は左側の列の端で、喉の渇きを覚えながら、中央の空白地帯を見つめ続けていた。
隣に立つ弥生が、視線を台帳に固定したまま囁く。
「始まったわね」
「……何がだ?」
「部屋の中の『内規』が、基地の『公規』に正式に接続されたのよ」
広場の向こうを見やった俺の心臓が、また一段と深く沈み込んだ。
やって来たのは、宿舎の管理員でもなければ、ただの夜勤担当でもなかった。
先頭を歩く男は濃灰色のコートを纏い、歩みは決して速くない。だが、彼が近づくだけで、受付デスクを囲んでいた喧騒が潮が引くように道を開けた。背後に控える男女の左腕には、黒地に銀文字の腕章。その二文字は、遠目からでも呪いのように鮮明に読み取れた。
——霊務局(BEA)。
この手の組織が最も忌々しいのは、事態を解決することではない。これから起きる出来事に、どのような「名前」を与えるかを決定する権限を持っていることだ。
そして一度彼らによって名付けられた事案は、もはや単なる「怪談」では済まされなくなる。
受付の男は、宿泊名簿と災害時ページを並べて差し出し、震える指先で二一三号室の行を指し示した。
先頭の男は薄い手袋を嵌めており、ページをめくる音すら立てない。彼は宿泊名簿を検分し、次に災害時ページへ視線を移し、二一三号室の欄で止まった。吹き込む夜風が紙の端を激しく叩いていたが、彼が手を置いた瞬間、台帳は石のように動かなくなった。まるで、今は大人しくしているのが身のためだと、紙の一枚一枚が理解しているかのようだ。
群衆の間からでは細かい文字までは読めない。だが、白い光に照らされた二一三の行だけが、異様に鋭く切り出されているのが見えた。最初の二枠は力強く書き込まれているが、三枠めだけが、周囲よりも一段と淡い色をしている。本来なら曖昧であるはずなのに、あえて誰かがその「不透明さ」を強調するために、上からなぞったかのような筆致。
男は数秒間その文字を見つめ、受付の男に問うた。
「……誰が、最初に災害時ページを開いた?」
男は虚を突かれたように固まった。そんなことを訊かれるとは思っていなかったのだろう。
「……警報が作動した後、マニュアル通りに私が」
「私が訊いているのは、」男が顔を上げた。声はどこまでも平坦だ。「今夜、このページを最初に『顕現』させたのは誰だ、と言っているんだ」
受付の男は喉を鳴らし、答えに詰まった。
俺は最初、その問いの意味が分からなかった。だが、隣の女性調査員が小型ライトで紙面を照らした瞬間、理解した——二一三号室の三枠めにある『未明』の二文字は、今夜の混乱の中で書かれた新しいインクの色ではなかった。赤ペンの跡は新しいが、その下にある淡い文字はもっと古い。まるで、ずっと以前からそこに置かれていた言葉が、火災警報というトリガーによって再び「目覚めた」かのような。
背筋に、悍ましい寒気が走る。
今夜の警報が「未明」を呼び出したんじゃない。
「未明」という枠が、誰かが自分を呼び上げるその瞬間を、ずっと待ち構えていたのだ。
ラオガオが半步前に出た。声は冷ややかだ。
「今さら初めて見たようなフリはよせ。手遅れだろ」
男はそこで初めて、ラオガオに視線を向けた。「……ベルを押したのは、あんたか」
「ああ」
「理由は?」
「二一三号室内部に、局所的な処置が不可能な持続的異常が発生したためだ」
「形式は?」
ラオガオは一切の虚飾を排して答えた。
「配置の自己修復、深夜の補填問いかけ、および名簿への継続記載」
男はそれを聞くと、隣の男性調査員に命じた。
「記録しろ。二一三号室、災害時清領プロトコルへ正式移行。三枠めは別途、管理下に置く」
「調査」でも「観察」でもない。正式な「接管」。
その四文字が放たれた瞬間、俺は確信した。二一三号室にはもう戻れない。少なくとも、今夜は。
俺たち三人が列から呼び出されたとき、広場の視線が粘つくように絡みついてきた。
野次馬根性などではない。他の部屋が「誰がいて、誰がいないか」という次元で右往左往している中で、二一三号室だけが「その枠が一体何なのか」という異次元の問いに直面しているからだ。
事態が「個人の安否」から「欄位の定義」へと跳ね上がったとき、周囲の人間はかえって恐怖を覚える。人の過ちは言い訳ができるが、システムの空欄は言い逃れができない。欄位が一度書き込まれれば、それは行き場所を求めて増殖を始めるからだ。
受付デスクの裏にある狭い事務室。ドアが閉まると、外の喧騒は一気に遠のいた。
室内には折り畳み椅子が四脚、ホワイトボード、旧式のスチールキャビネット。机の上には飲みかけの、冷めきったインスタントコーヒー。だが霊務局の三人が立つだけで、そこは事務室ではなく、冷徹な「記録台」へと変貌した。
先頭の男がコートのボタンを外し、過剰なほど整ったシャツを露わにする。語り口は事務的な引き継ぎのようだ。
「……真壁だ」
姓だけを告げ、それ以上は名乗らない。
その名を聞いた瞬間、心臓を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われた。
放送が途切れた後の、あの咳払い。こゆきが背後で囁いた、あの二文字。
すべてが一点に繋がった。
俺たちの被害妄想じゃない。
あの程序の淵で俺たちを凝視していた「観測者」は、確かに実在したのだ。
真壁は災害時ページを平らに広げ、二一三の行を指で押さえながら、俺たちを見た。
「……最初の『不備』から話せ」
その言葉に、ラオガオも弥生も口を挟まなかった。彼らはまず、俺に視線を向けた。
こういう場では、言葉の巧みさなんて意味をなさない。実際にあの部屋で眠り、コップが自律的に滑る音を聞いた「当事者」が、最初の歪みを正確に証言する必要がある。
俺は息を吸い、入室の瞬間から語り始めた。
ドア裏の守則。
三台のベッド、三つのコップ、三足のスリッパ。
コップが自ら戻り、スリッパのつま先が外を向く。
フロア全体が同調し、深夜のドア越しに『現位幾人か』と問われる。
そして階下の受付で台帳がめくられ、三枠めが『未明』として定義される――。
俺が話している間、真壁は一度も口を挟まなかった。ただ、機械的にペンを走らせる。その記帳の仕方はひどく不快だった。物語として記録しているのではない。事象を細分化し、時間、位置、トリガー、レスポンス、目撃者、そして公的プロトコルへの介入の有無……それらを冷酷にカテゴリーへと解体していくのだ。
彼の手にかかれば、あの夜の出来事は「怪異」ではなく、すでに自律的な増殖を始めた「システム」として再構築されてしまう。
弥生が、俺の漏らした空白をさらに凍りつくような正確さで補完する。
「最初の問いかけには私が『未補(未登録)』と回答しました。理由は秘匿。その後、異常は配置の修復から、睡眠時の生体サンプリングへと移行しました」
真壁のペン先が、そこで止まった。
「……生体サンプリングだと?」
ラオガオがそこで初めて口を開く。「まずは配置を学び、次に配置を成立させるための『人間』を学んでいたんだよ」
真壁は二秒ほどラオガオを凝視し、問いを重ねた。
「……なるほど。では、君が非常ベルを鳴らしたのは、事態が抑えきれなくなったからではない、ということか」
「……これ以上抑え続けていれば、次はあいつ(システム)が公式な点呼を要求してくる。……そう判断しただけだ」
事務室の中に、半秒ほどの空白が落ちた。
真壁が、極めて微かに、しかし満足げに頷く。
「……あんたの判断は正しかった」
その四文字を聞いた瞬間、俺の胃の奥に鉛のような重みが沈殿した。
もし彼が「やりすぎだ」と責めてくれたなら、まだ事態は騒動の範疇だっただろう。だが、彼は「正解」だと言った。それはつまり、もしラオガオが火急の処置を取らなければ、二一三号室のあの「三枠め」は、密室の中で俺たちのあずかり知らぬ形で『完成』させられていた――という最悪の推測を肯定したことに他ならない。
外の放送が再開された。
避難を促す粗暴な叫びではない。災害時プロトコルに則った、冷徹な清領(点呼)の儀式だ。一棟、一層、一房。整然と、そして無慈悲に、世界が秩序を取り戻していく音が響く。
『一棟二階、二一一号室――在位』
『一棟二階、二一二号室――在位』
『一棟二階、二一三号室――』
そこで、アナウンスが途切れた。
俺の背筋が、鉄の棒を入れられたように強張る。
事務室の中には、蛍光灯のハミング音だけが流れていた。真壁は台帳の二一三の行を指で押さえたまま、その言葉が「公式な現実」として舞い降りるのを待っていた。半秒の後、スピーカーが再び呼吸を始めた。
『二一三号室、原室封鎖。三枠めは――列候。継続調査とする』
「列候」という響きに、頭皮が総毛立った。
未明でも、暫列でも、ただの空席でもない。
それは「リストアップ済み」であることを意味する。つまり、そいつは今、この瞬間、公式に「後続の処理を待つ待機列」へと並べられたのだ。
真壁は災害時ページをめくり、中から一枚の古びた灰色の紙を抜き取った。紙は乾ききり、角は多くの人間に触れられたせいか、鈍い光沢を放っている。最上段の文字が、俺の網膜に焼き付いた。
『宿舎区欠員継続調査/旧案件併記』
真壁の指が、ある一点で止まる。
——葛西。
その名は一度塗り潰され、その上から執拗に再定義されたかのような、歪な筆致だった。今夜の出来事にしてはあまりに古く、それでいて今もなお脈打っているかのような生々しさがある。
「二一三には、昔からこの『枠』があったのか?」俺の喉は、砂を噛んだように乾いていた。
真壁はすぐには答えなかった。彼はその古い紙を丁寧に押し広げ、それから俺を見据えた。
「昔からあったのではない」と真壁は言った。「……かつて、あんたたちと同じ場所まで辿り着いた者がいた、というだけだ」
「……結果はどうなった?」
真壁の回答は、物語としての起承転結を拒絶する、単なる「注釈」のようだった。
「……一度として、完了に至ったことはない」
弥生が食い気味に問いを重ねた。
「……完了しなかったのは、対象が消失したから? それとも、誰かがプロトコルを断ち切ったから?」
真壁は彼女を一瞥した。声のトーンは変わらないが、その響きは先ほどよりもいっそう冷淡に、鋭利さを増していく。
「……完了の間際になると、いつも決まって基地内の誰かが『目覚めて』しまうからだ」
その一言に、首筋の産毛が逆立った。
広場では依然として点呼が続いている。登録が行われ、人間たちが部屋へと戻され、留置され、あるいはカテゴリーを書き換えられていく。基地は一見、秩序を取り戻したかのように見えた。だが、俺は気づいてしまった。本当の絶望は、騒ぎを大きくしたことじゃない。俺たちは、前任者たちが成し遂げられなかった「継続調査」という名の巨大な歯車に、正式に噛み合わされてしまったのだ。
その時、ドアが低く二回ノックされた。女性調査員が半歩外へ出ると、廊下に立つ何者かが声を潜めて何かを告げた。
俺の耳に届いたのは、ただ一つの固有名詞。
「——山口」
真壁の表情が、初めて微かに動いた。感情ではなく、殺気がより鋭くなったような変化だ。彼は遮るように言い放った。
「……抑えておけ。山口の方にこの件を触らせるな」
その言葉は囁くような音量だったが、スピーカーの警報音よりも不快に俺の鼓動を乱した。
これが単なる「一室の怪異」でも、一過性の「古い未解決事件」でもないことが確定したからだ。その背後には「人」がおり、「派閥」があり、誰かが触れれば局面を全く別の方向へ引き摺り込もうとする「意図」が渦巻いている。
真壁は古い調査票をファイルに収め、災害時ページを閉じた。そして俺たち三人を見据え、断固たる処置を下した。
「今この瞬間をもって、二一三号室を封鎖する」
「貴殿ら三人の、単独での帰室を禁ずる」
「室内の全備品——ベッド、杯具、スリッパ、名札スロット——をすべて検収対象とする」
「……それから、夜が明けるまでに君たちが知り得た『葛西』のすべてを吐き出せ」
立ち上がった俺が事務室を出ようとした時、広場へ戻される新たな一団とすれ違った。
列の端にいたユートンが、遠くから俺に視線を投げた。声は発しなかったが、俺がドアを通り抜ける際、彼女は無造作に手を伸ばし、半端に開いていた俺の上着の襟をぐいと引き上げた。
「邪魔よ」とでも言いたげな、あまりに素っ気ない動作。
彼女の指先は氷のように冷たかったが、触れられた首筋の皮膚は、逆に焼けるような熱を帯びて耳の後ろまで広がっていった。
彼女は何も言わなかった。
だが、わかっていた。彼女もまた、理解してしまったのだ。
今夜終わったのは火災警報ではない。二一三号室が「自分たちの問題」として処理できた、最後の猶予が終わったのだ。
この瞬間から、あの「第三格」は災害時ページに刻まれ、旧案件と接続され、霊務局の管理下に置かれ、そして——特定の誰かに触れさせたくない「秘密」となった。
一度公になった毒は、もはや部屋の中に留まってはくれない。
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