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S2第四十五章:模倣者のゲームルール

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

翌日の昼間、基地内は何事もなかったかのように振る舞っていた。

顔を洗う者、食堂へ向かう者、資料を抱えて棟の間を早歩きする者。昨夜のあの問いかけや、台帳をめくる音など、最初から存在しなかったかのようだ。だが、勝手口の受付デスクを見た瞬間、俺は「それ」が終わっていないことを悟った。台帳は開かれたまま、その横に一枚の薄い「挿入紙ルーズリーフ」が添えられている。

近づくつもりはなかったが、先にデスクの傍らに立っていたこゆきが俺を呼んだ。

俺が歩み寄ると、彼女は半歩身を引き、指をさす代わりに視線だけで「それ」を見ろと促した。

それは入居者リストではない。『夜間補填調査票』だった。

各部屋は三つの細いスロットに区切られ、最初の二枠には名前が、三枠めは空欄か斜線で埋められている。二一三号室の欄を見ると、俺とラオガオの名が二枠を占め、弥生やよいは別欄の在室記録に記されていた。

だが、一番右側の枠は空欄ではなかった。そこには、淡い筆致でこう記されていた。

——『未明みめい』。

その二文字を見つめているうちに、頭皮がじわじわと痺れてくるのを感じた。

意味がわからないからじゃない。正反対だ。その言葉が意味する「事務的な殺意」を理解してしまったからだ。

そこには「欠員」とも「無」とも書かれていない。

「存在してはいるが、まだ明らかになっていないだけだ」と、システムが断定しているのだ。

「……二一三号室は、三人で満員フルだよな?」俺は声を潜めてこゆきに訊いた。

彼女は紙を見つめたまま、平坦な声で答える。

「……この場所は、何人が立っているかを数えているんじゃないわ。この部屋に『幾つのスロットが成立すべきか』を数えているのよ」

さらに備考欄へ視線を移した瞬間、心臓が跳ねた。そこにはペン先で何度もなぞられ、削り取られたような古い名前の痕跡があった。半分潰れた文字が、辛うじて判読できる。

葛西カサイ』。

その瞬間、理解した。これは昨夜始まった異常ではない。

二一三号室の「三枠め」は、ずっと以前から、誰かを待ち受けるようにしてそこに存在し続けていたのだ。


その夜、部屋に戻って俺が真っ先に確認したのはベッドではなく、机の上だった。

コップは昨日と同じ三つ。だが、壁側の天板に、もう一つ分の「円形の水跡」が薄く浮き出していた。あたかも、ついさっきまで四つ目のコップが置かれていたかのように。床も同様だ。三足のスリッパの横に、周囲よりわずかに色が薄い、靴底の形をした灰色の染みが残っている。

俺は膝をついてその跡をなぞった。指先に触れる床は、他の場所よりも明らかに温度が低い。

弥生もその横に屈み込み、数秒の沈黙の後、囁いた。

「……『物証』を残し始めたわね」

「存在しない人間のための証拠を補完してるってのか?」

ラオガオは机の上の水跡を見つめたまま動かない。自分の考えを言葉に変換するのを待つように、沈黙を置いてから彼は言った。

「人間を補充しようとしているんじゃない。この『配置』が成立するための、あらゆる外堀を埋めようとしているんだ」

……厄介なことになった。

もしシステムが「人間」を求めているなら、対象ターゲットは明確だ。だが、もしこいつが求めているのが「この枠が成立しているという全方位的な証拠」だとしたら?

コップ、スリッパ、シーツの皺、呼吸音、寝返りの気配。ドアの向こうからの問いかけに応える声や、深夜のマットレスに刻まれる重みの沈み込み。その全てを、システムは「配置の正解」として収集し、合成しようとする。

中身が誰かなんて、こいつにはどうでもいいのだ。ただ、その「枠」が埋まっているという事実さえ成立すれば。


深夜二時過ぎ、またしても「問いかけ」が訪れた。

今度はドアの外ではない。

階下の放送用スピーカーが「ザッ……」と、古い回路を無理やり繋ぎ合わせたようなノイズを吐き出した。続いて、男の声が平坦な、あまりに事務的な響きで室内に降り注ぐ。

『二一三号室。三枠めの補填登録エントリーの有無を確認する』

全身が凍りついた。

昨夜の声はまだ「見回り」の体裁を保っていた。だが今夜のこれは違う。これは点呼ではない。台帳の空白を埋めるための、純粋な事務作業だ。部屋の中に浮遊していたあの「欠落」を、システムは明確に「登録可能なスロット」として定義し、呼びかけたのだ。

ラオガオはすぐには答えなかった。

代わりに、弥生が口を開く。

「……未登録(未補)です」

スピーカーは二秒ほど沈黙した。まるで、次の入力欄を待っているかのように。

案の定、次の問いが放たれる。

『未登録の理由を述べよ』

その四文字を聞いた瞬間、胃の底に鉛を流し込まれたような感覚に襲われた。

理解してしまった。こいつが何を欲しがっているのかを。

こいつは真相しんじつを問うているのではない。

俺たちが「次の欄」を埋めるための言葉を差し出すのを待っているのだ。

外出、出向、消息不明、一時離脱、病欠。

俺たちが何らかの「理由」を口にした瞬間、未明みめいだった空白は、確定したプロセスへと書き換えられる。その言葉を足がかりにして、システムという名の歯車が、次の一枠を強引に回転させ始める。

ラオガオが歩み寄り、放送用スピーカーのプラグを、力任せに引き抜いた。

スピーカーの音が途切れた。

だが、沈黙が訪れたその瞬間、廊下の突き当たりから極めて微かな「咳払い」が聞こえた。

それはもはや、機械的なノイズではない。

まるで、言い切れなかった言葉を喉の奥に飲み込んだ「生身の人間」が、そこに立っているかのような響き。

俺は即座にドアを開け、外を睨みつけた。廊下は無人だ。ただ、突き当たりの階段口に、逆光を背負った人影がぼんやりと佇んでいた。背丈は高くもなく、低くもない。動かず、退かず、ただそこにいる。距離がありすぎて、それが人間なのかどうかすら判然としない。ただ、その立ち位置が、あまりに意図的に「そこに残された」ように見えて、不気味だった。

「……真壁まかべよ」

背後で、弥生が低く呟いた。

俺は振り返らなかった。今、視線を外せば、あの影がそのまま俺の背後に転移してくるような、そんな予感があったからだ。


その晩を境に、二一三号室は人間の「状態」までもが変数として組み込まれ始めた。

誰が先に眠るかによって、翌朝のシーツの皺の寄り方が変わる。誰かが深夜に水を飲めば、コップの縁に淡い水跡が浮かぶ。誰かがドアの側に長く立てば、床のあの灰色の染みが、わずかにドアの方へ滲み出す。

「……サンプリングしているんだな、この部屋は」と、ラオガオ。

「いいえ。一つの『スロット』を成立させるための作法を学んでいるのよ」と、弥生。

弥生の言葉は抽象的すぎて実感が湧かなかったが、翌日、廊下の入り口に立ったこゆきが、感情のない声で放った一言がすべてを氷解させた。

「……この場所は、『枠』を埋められるものにしか興味がないわ。枠に含まれない人間は、石ころと同じ。いないものとして扱われるだけ」

その言葉を聞いて彼女を振り返った俺の背筋に、冷たいものが走った。

こゆきはそこにいる。歩き、話し、俺たちを見ている。だが、あの台帳にとって、彼女は存在しないも同然だ。逆に、二一三号室のあの顔も体もない「三枠め」は、夜を追うごとに、より鮮明に「実在の気配」を増していく。

就寝前、俺は再びドアの裏の守則に目をやった。第六項の『未詳(不明者)は暫列し、欠員(不足者)は継続して調査せよ』という一文が、夜灯の下で死神の鎌のように黒々と光っている。

俺は理解した。この場所は、最初から「お前が誰か」なんて確認する気はないのだ。

ただ、そこに「空席」がある。だから、埋まるまで調べ尽くす。……それだけだ。

これ以降、ラオガオは安易な試行を禁じた。

コップが滑り、スリッパが揃い、フロア全体が同調する。それらの情報はもう十分だ。これ以上こちらから刺激を与えれば、システムに新たな「学習素材エサ」を与えるだけになる。

「手の内を見せすぎるな。こいつは俺たちが思っているよりずっと学習が早い」

そこで、今度は弥生が動き出した。

彼女の手法は、正面からシステムと争うことではない。責任の所在ラインをあえて歪ませるのだ。コップそのものには触れず、その横にある折り畳まれた紙を動かす。スリッパを揃えるのではなく、その影にある古い新聞紙を半インチだけずらす。ベッドの配置は変えず、その足元にある椅子の角度をわずかに狂わせる。

順手じゅんてで元に戻したくなる」ような、微細な因果関係の操作。

彼女は試そうとしていた。モノそのものではなく、モノに付随する「人間が無意識に行う動作」の違和感を、この宿舎がどう処理するかを。

最初の夜、その効果は現れた。

室内での異常な物音はなく、階下の台帳もめくられなかった。

コップもスリッパも定位置のままだ。だが、部屋全体に形容しがたい「歪み」が生じていた。まるで、座り方の重心がわずかにズレているのに、誰からも指摘されないまま時間が過ぎていくような、不快な非対称。

だが、二回めの試行で事態は一変した。

コップが自ら向きを変える際、ついでと言わんばかりに横にあった紙までもが、より「整然とした」位置へと引き寄せられた。スリッパが外を向く動作に合わせ、その影の境界線すらもが「配置の一部」として上書きされる。弥生やよい原体オリジナルには触れなかった。だが、システムは彼女の「周辺を動かす」という手法そのものを飲み込み、あたかも最初からそうあるべきだったかのように処理したのだ。

弥生は机の傍らで立ち尽くし、やがて絞り出すように言った。

「……この場所は、あえて仕掛けた『不手際』すら、正解として記録し始めたわ」

その手法は、ここで死んだ。

二回め以降、原体に触れないという「作為」そのものが、配置の一部として固定されてしまったからだ。


次は俺の番だ。

弥生よりも雑で、そして焦っていた俺が選んだのは、いっそう暴力的な手段だった。いかなる関係性も成立させない。机を斜めに引きずり、椅子を倒し、コップをベッドの下に隠し、スリッパを片方はドア裏、もう片方は窓際へと放り出す。毛布は丸め、水筒は横倒し。ゴミ箱すら壁角から蹴り飛ばした。

綺麗に散らかす必要なんてない。誰にも、そしてシステムにも「修復の糸口」を掴ませないほど、徹底的にバラバラにする。最短距離も、標準位置も、戻るべき場所も。理論上、何が「正解」か判定できなければ、復位ふくいは不可能なはずだ。

一瞬、自分が優位に立ったかのように思えた。

だが、すぐに気づく。違う。

二一三号室は、俺が散らかし終えるのを待ってなどいなかった。奴は「先読み」を始めたのだ。

俺が机に歩み寄ると、手が届く直前にコップが数センチほど自ら転がり、落ちもせず、かといって乱れもしない絶妙な位置に停止した。

スリッパを拾おうと腰を浮かせれば、靴は半歩分だけ先に滑り出し、俺の立ち位置を強制的にずらしてくる。

毛布に至っては、俺の指先が布の端に触れた瞬間、内側からバネが弾けたように収縮した。俺が次にどこを掴み、どう引っ張るかを、布そのものが熟知しているかのような動きだった。

首筋に、嫌な汗が滲む。

こいつは、俺の「散らかし方」を学んでいるんじゃない。

俺が「行動を起こすための予備動作(起手)」を学習し、その選択肢を根こそぎ奪い取っているのだ。

ラオガオがその様子を見て、吐き捨てるように言った。

「……手法を学ばれたんじゃない。お前の『初動』を読まれてるんだよ」

クソったれな正論だ。言い返す言葉も出てこないほどにな。


ここに至り、ラオガオもまた、小細工が通用しなくなったことを悟った。

だが、彼はあえて最後の一手を打った。彼は紙に四文字、叩きつけるように書き記した。

——『不給布場(配置を許すな)』。

意味は単純だ。二拍ツービート以上続く状況がシステムに学習されるなら、状況そのものを一拍ワンビートで破壊し続ける。形を成した瞬間に壊し、関係性が生まれる瞬間に断ち切る。システムに「認識・登録・流用」の隙を一切与えない。

その策は、最初は凄まじい効果を発揮した。

コップが止まれば、ラオガオが蹴り倒す。

毛布が折り目に落ち着けば、俺が引き剥がす。

スリッパが揃えば、弥生が弾き飛ばす。

どこかが「安定」しようとする兆しを見せた瞬間に、俺たち三人がかりでそれを叩き潰す。

それはもはや「謎解き」ではなかった。配られた答案用紙を、書き込まれる前に千切り捨てるような、剥き出しの消耗戦。

だが、その力技も、たった一度しか通用しなかった。

第二回めの試行から、外の反応が劇的に変わった。

階下の受付デスクはモノが安定するのを待たずにページをめくり、廊下の足音も俺たちが動き終えるのを待たなくなった。俺たちがそれぞれの位置に立ち、次の破壊アクションを仕掛けようとしたその瞬間、音のほうが先にやってくるのだ。

ラオガオがいつ壊すのか、俺がどこに蹴りを入れるのか、弥生やよいがどの角度から状況を検分するのか——それらすべてが、すでに「配置の一部」として抄録サンプリングされていた。

廊下から、短く不快なスピーカーのノイズ。続いて、低く掠れた声が降ってきた。

『二一三号室。続接つぎてを。』

その二文字が室内に落ちた瞬間、俺たち三人の動きが完全に止まった。

これまで、この場所の最も吐き気がする部分は、欠落を補い、位置を調べ、空白を「実在」へと押し広げることだと思っていた。だが、その瞬間、本当の恐怖を理解した。

こいつは、俺たちが「こいつを阻止しようとする挙動」そのものまで、システムに組み込もうとしているのだ。


これ以上、議論の余地はなかった。

理解すべきことはすべて理解した。この場所の最も厄介な点は、ルールが自律的に変わることでも、存在しないものを存在させる力でもない。一巡(一ターン)でも耐え抜いた手法は、最後にはすべて「教材」へと成り下がるという事実だ。

こちらが鮮やかに動けば動くほど、システムはそれを完璧に模倣トレースする。この部屋がある限り、机がある限り、台帳がめくられる限り、俺たちは新しい「エサ」をこいつに与え続けることになる。

俺は下段のベッドに腰を下ろし、手の平にべっとりと滲んだ汗を拭った。胸の奥がひどく重苦しい。

「……何をやっても、全部こいつの教材になるってわけか」

ラオガオはドアの側に立ち、三台のベッド、三つのコップ、そしてあの空っぽの名札スロットを、長い沈黙とともに見つめていた。

弥生も急かすことはせず、ただ彼の背中を見つめている。

やがて、ラオガオが口を開いた。

「……なら、もう何もしねえ」

その言葉は、決して諦めではなかった。むしろ、ようやくこのクソッタレな盤面を見切った者の響きだ。

こんな連中と「手」を競い合うこと自体が、システムを補完する手助けになっていたのだ。

ラオガオはポケットから一本の煙草を取り出し、火をつけずに咥えた。そして俺と弥生を振り返り、平然と言い放つ。

「俺は降りる。……このゲームは、おしまいだ」


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