S2第四十四章:大湊基地——本州最北の厳寒地
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
車が主道から側道のスロープへと切り替わる頃、基地の灯火はすでに消されていた。
外に音はない。ただ、タイヤがゆっくりと砕石を噛み潰す感触だけが、シャーシを通じて足の裏に硬質に伝わってくる。ラオガオは自らハンドルを握り、両手は白くなるほど強く固定されていた。この緩やかな坂道ですら、警戒を解くことはできないらしい。俺は後部座席の窓に寄りかかり、外を眺めた。
……清潔すぎる。
灰白色の宿舎が二列に並び、壁面は洗いたてのように滑らかで、窓枠は不自然なほど垂直に固定されている。路側の白線は、夜中に誰かが定規で引き直したかのように、あまりに真っ直ぐだった。
勝手口の脇には、ビニールクロスで覆われた受付デスクが置かれ、その下には古びた台帳と一本の赤ペンが押し込まれている。ペンは無造作に置かれているのではなく、台帳の背の中央に正確に横たわっていた。まるで、書き手が一時的に席を外しただけで、すぐに戻ってくるとでも言いたげに。
俺はバッグを肩にかけ直し、その建物を見つめて吐き捨てた。
「クソが。成功嶺の軍キャンプかよ。今にも誰かが笛を吹いて、夜中の点呼に呼び出されそうな空気だ」
俺の冗談に反応する奴はいなかった。
隣に立つ弥生は、宿舎よりも先に受付デスクを凝視していた。
「……ここは人を待っているのではないわ。人が『配置』されるのを待っているのよ」
彼女が低く呟く。
ラオガオがエンジンを切り、バックミラー越しに俺たちを見た。
「降りるぞ。荷物は自分で持て。散らかすなよ」
車を降りて気づいた。宿舎の造りだけでなく、空気そのものが軍キャンプのそれに似ているのだ。
運動場のような騒がしい活気じゃない。一度洗浄され、乾燥させ、収納された後に残る、わずかな湿り気の匂い。勝手口に鍵はかかっておらず、鉄扉を押し開けると、短く、手入れの行き届いた油の音が響いた。受付の小窓には黄色い電球が灯り、中には一人の中年男が座っている。顔色は紙のように白く、垂れ下がった隈がひどい。夜勤というより、もう何年も眠っていないような顔だ。
男は俺たちを見ず、先に台帳をめくった。
紙が擦れる音は小さかったが、この静寂の中ではかえって耳に障る。ラオガオが名を名乗ると、男は台帳から特定のページを探し、赤ペンで何度かチェックを入れながら、俺たちを一つずつ部屋番号へと仕分けしていった。
ラオガオ、俺、弥生は「二一三号室」。
ユートン、シキ、キアン、アストリッド、リン・シャオウェイは反対側の区画。
だが、こゆきの番になった時、男のペン先が止まった。彼は顔を上げ、彼女を一度見ると、また前のページをめくり直した。彼女を押し込める「枠」を探しているようだった。だが、二、三枚めくった後、彼は欄外に淡々と一筆書き加え、こう言った。
「彼女は、枠外だ」
聞き間違いかと思った。
こゆきは俺たちのすぐ隣に立ち、バッグを背負い、指先で上着のジッパーを弄っている。街灯に照らされた彼女の影は長く伸び、そこに実在している。俺たちの誰よりも静かに、最初からそこにいたはずだ。
それなのに、台帳は彼女に「一マス」すら与えない。
弥生が台帳を見つめ、平坦な声で訊ねた。
「枠外というのは、一時的な未入居ですか? それとも、数に含まれないということ?」
男は答えなかった。ただ、赤ペンを「二一三」の後のわずかな余白に置いた。まるでそこには本来、別の何かが書かれるはずだったかのように。
ラオガオが渡された鍵を握りしめ、言った。
「……上へ行くぞ」
二一三号室は、二階の廊下の突き当たりにあった。
廊下全体を照らすのは、寒々しい白色の蛍光灯だ。寿命が近いのか、時折チッ、と小さな音を立てるが、光量に乱れはない。どのドアも同じ高さ、同じ古さ、同じプレートの色をしている。ただ、二一三号室だけは隣の二間よりも扉が清潔だった。まるで、たった今しがた濡れ雑巾で拭き上げられたかのように。
ラオガオが鍵を開け、俺と弥生が先に足を踏み入れた。
一目見た瞬間、生理的な不快感が走った。汚いわけでも散らかっているわけでもない。
「正解」すぎるのだ。
三台の鉄製ベッドが壁に沿って並び、脚の位置は定規で測ったかのように揃っている。三つの白磁のコップは机の上に伏せられ、飲み口はすべて同じ方向を向いている。三足の青いスリッパはつま先を外に向け、角度まで統一されていた。毛布の折り目は鋭く、水筒は壁に密着し、デスクライトは机の幾何学的な中心に置かれている。コンセントに刺さったコードの弛み(たるみ)すら、ミリ単位で計算されているかのようだ。
それは「整理整頓」などという生易しいものではなかった。
住むための場所ではなく、何かの「検収」を待つための陳列棚だ。
俺は荷物を足元に置き、ドアを閉めようと振り返った。
その時、ドアの裏側に貼り付けられた一枚の紙が、視界に飛び込んできた。
紙は端が黄ばみ、角が丸まっている。何年もそこに貼り付けられていた証拠だ。そこに書かれているのは、単なる宿泊の心得などではない。短く、そしてあまりに不気味な七つの「夜間守則」だった。
二一三号室・夜間守則
一、消灯後、各自は指定の位(場所)にあること。
二、離室、移床、借位の際は、あらかじめ補登(申請)を行うこと。
三、夜巡の応対者は、現位に基づき報告すること。
四、名札、ベッド、杯具、スリッパの配置を違えてはならない。
五、深夜の問いかけには実直に答えよ。代答(身代わり)は禁ずる。
六、未詳(不明者)は暫列し、欠員(不足者)は継続して調査せよ。
七、夜明けまで、室内の配置をみだりに変更してはならない。
俺は四項目めを読んだところで、乾いた笑いを漏らした。
「……ハッ、スリッパやコップの向きまで指図かよ。ここは宿舎か、それとも倉庫か?」
弥生は笑わなかった。彼女はその紙を凝視し、しばらくして静かに言った。
「……人を管理しているのではないわ。これは、『配置』を管理しているのよ」
ラオガオは紙の端を指で押さえ、それが後から貼り直されたものではないかを確認するように触れた。剥がす様子はなく、ただ一言。
「……触るなよ。今はここの流儀に従う」
荷物を下ろした瞬間、その不快感はいっそう鮮明になった。
人が入ったことで部屋が活気づくどころか、むしろ人間が入り込んだせいで、部屋中のモノたちが「本来あるべき場所」を証明しようと必死に自己主張し始めたかのようだ。俺がバッグを適当にベッドの脇へ投げ出そうとすると、即座にラオガオから「脚に触れさせるな」と鋭い声が飛ぶ。弥生も上着を椅子の背にかけようとして、一度躊躇い、結局自分で抱え直した。
デスクの脇には名札を差し込むスロットがあった。使い込まれた木枠の溝は滑らかだが、今は空っぽだ。ただ、その細い隙間だけが、まるで誰かが定期的に磨き上げているかのように異様に清潔だった。
三台のベッド、三つのコップ、三足のスリッパ。
表面上はすべて揃っている。だが、ドアの前に立って部屋を眺めると、どうしても「埋まっていない」感覚が拭えない。
それは奇妙な感覚だった。
存在しないはずの「もう一枠」を、部屋そのものが今も待ち続けているような。
俺は机に歩み寄り、空の名札スロットを覗き込んだ。暗い隙間は、ちょうど一枚の細長い紙を飲み込む程度の幅しかない。一人の人間が、そこに名前として存在するのに十分な、あまりに狭い空間。
「……なぁ。この部屋、元々は『何人』で使ってたんだ?」
俺の問いに、ラオガオはすぐには答えなかった。
彼は事件現場を検分する鑑識官のような手つきで部屋を一周し、最後には名札スロットの前で立ち止まった。木枠を指でなぞり、低く呟く。
「今夜はここのルール通りに寝るぞ。信じるわけじゃない。こいつが何を『欲しがっている』のかを見極めるだけだ」
外の廊下から、窓の隙間を抜けて風が吹き込んだ。
ドアの裏側の守則が小さく震え、紙の端が木門をカサリとなぞる。
まるで、ドアの向こう側の誰かが、満足げに頷いたかのような音だった。
その時、俺はようやく理解した。
この場所の異常さは、「空虚」にあるのではない。
「保留」されているのだ。
すべての配置を完璧に保ち、何かが「帰ってくる」のを、あるいは誰かが「埋まる」のを、この部屋そのものがじっと待ち構えている。
俺たちは結局、交代で不寝番(夜番)をすることにした。
最初の番はラオガオだ。
消灯後、建物全体が異様なほど静まり返った。音が消えたわけじゃない。あらゆる音が極限まで「薄く」引き延ばされているのだ。遠くの配管を流れる水の音、窓の隙間から漏れる風の溜息、階下のどこかで金属が熱膨張で軋む微かな音。だが、それ以外は何もない。まるでこの宿舎の夜は、人間が眠るための時間ではなく、万物が「元の場所」へ戻るための時間のようだった。
俺も意地で起きていようとしたが、まぶたが重くなり始めた頃、ラオガオが動き出した。
彼はベッドにもドアにも触れず、まず最も小さなモノから手をつけていった。机の上の白いコップを右へ五センチほどずらし、俺のベッド脇のスリッパを左右逆に入れ替え、毛布の角を少しだけ引っ張り出して、あの鋭い折り目を台無しにする。作業を終えると、彼は壁際の影に退き、火をつけない煙草を指に挟んでじっとその様子を眺めていた。
俺は机の上のコップを凝視した。いくらこの部屋が不気味でも、目の前で何かが起きるなんて本気で信じていたわけじゃない。だが、三分も経たないうちに、そのコップが卓上で「スッ」と音を立てて滑った。
跳ねたわけでも、振動したわけでもない。まるで机の下から誰かが指一本で押し戻したかのように、ゆっくりと、正確に元の位置へ。
俺の意識は一気に覚醒した。
口を開く暇もなく、今度はスリッパが床を擦って半回転し、つま先を再び外側へ向けた。毛布の端は、布自体が自律的な記憶を持っているかのように、じわじわと収縮し、元の折り目へと吸い込まれていく。
喉が乾くのを感じながら、俺は声を押し殺して訊ねた。
「……風か?」
ラオガオは机から目を離さず、短く答えた。
「風は、スリッパのつま先をどっちに向けるべきかなんて知らねえよ」
二回目の試行で、ラオガオはより「人為的」な混乱を仕掛けた。
今度は単にずらすだけじゃない。俺のコップを弥生の側に寄せ、誰かが暗闇で飲み間違えたかのように偽装した。スリッパは一足を大きく開き、もう一足を重ね、急いでベッドを下りたような乱れを作った。湯沸かしポットの横のタオルも、あえて逆方向に畳み直す。
今度はモノがすぐには動かなかった。代わりに、部屋の中に「別の音」が響き始めた。
まず、階下で金属製のテーブルが床を擦る音がした。
続いて、隣の部屋からコップが机に当たる、コツンという軽い音が聞こえる。
さらに、廊下の突き当たりで誰かが壁を指の関節で叩いた。トン、トン、ツー。二短一長。
ただの偶然だと思いたかった。だが、その音はあまりに整然と連鎖していた。各部屋が勝手に目覚めたんじゃない。このフロア全体が、互いの「配置」を照らし合わせ(チェックし)、修正し合っているのだ。
弥生もそれに気づいていた。彼女は天井を見上げ、囁くように言った。
「……二一三号室だけが直しているんじゃないわ。フロア全体が、『核』を合わせているのよ」
彼女の指摘は、あまりに正しかった。
この部屋で最も吐き気がするのは、モノが動くことそのものではない。モノたちが「見て」すらいないのに、どこかが歪めば即座に別の場所から音が補完される、その異常な連動性だ。
このフロアは個別の部屋の集合体ではない。まるで巨大な一枚のパズルだ。誰かのコップが傾き、誰かのベッドが乱れれば、隣室も、階下も、建物全体がそれを「不備」として検知し、瞬時に共有する。
ラオガオは吸い殻を押し潰し、地を這うような声で言った。
「……まずはモノを管理し、次にモノを介して人間を管理する。そういう魂胆か」
その時は単なる彼なりの推測だと思っていた。だが、彼がその時点でこの場所の本質をほぼ見抜いていたのだと、俺は後になって知ることになる。
俺は自分の直感を確かめるため、あえて自ら「不備」を作り出してみた。
枕を向かいのベッドへ移し、わざと他人の指定席に腰を下ろす。この「配置」がどこまで人間という個体を監視しているのかを試すためだ。だが、腰を落ち着けた瞬間に廊下から足音が響いた。
速くもなく、重くもない。しかし、迷いのない足取りは俺たちの部屋の前でぴたりと止まった。
外の人間はノックもしない。ただ、数秒間の沈黙が流れる。その数秒の間に、ドアの裏の守則が風に煽られ、第五項の『深夜の問いかけには実直に答えよ。代答は禁ずる』という一文が剥き出しになった。
次の瞬間、予期していた通り、ドア越しに声が投げかけられた。
「二一三号室。現位、何名か」
喉の奥で礫を転がすような、低く掠れた声。宿直の役人とも、半夜に巡回する仲間とも違う。まるで、紙に書かれた文字を機械的になぞっているだけの「音」だ。
背筋に氷を押し当てられたような寒気が走る。
ラオガオが歩み寄り、俺を間違った席から引き剥がすと、外へ向かって答えた。
「三名だ」
外は半秒ほど沈黙し、再び問う。
「各員、原位にあるか」
ラオガオは俺が乱した枕を一瞥し、言い放つ。
「……復位済みだ」
外の気配はそれ以上追及せず、ゆっくりと遠ざかっていった。一歩一歩、こちらが嘘をついていないか、誰かが言い直さないかを確かめるような足取りで。
俺はベッドの傍らに立ち、胸を締め付けられるような圧迫感を感じていた。
あいつは、サボりや夜更かしを監視しに来たわけじゃない。もっと冷酷で無機質な事実——「位置がデータと合致しているか」を確認しに来たのだ。
夜が更けるにつれ、俺たちの誰もが眠りにつけなくなった。
ラオガオはこれまでの試行の結果を、紙に短く書き留めていく。
『コップ、靴、毛布。偏り、誤り、補完。音源は階下、隣室、廊下』
彼の字は元々汚かったが、その夜の筆跡はまるで鋭利な刃物で削り出したかのような、異様な切迫感を帯びていた。
弥生はベッドの端に座り、ラオガオのメモを見て静かに補足した。
「……ルール違反者を探しているのではないわ。このシステムは、ただ『配置の空白』を恐れているのよ」
その言葉が、部屋の温度をさらに数度下げた気がした。
俺は再び、あの空っぽの名札スロットに目をやった。三つのベッドに三人が座り、三つのコップが並び、三足のスリッパが揃っている。表面上、二一三号室に欠けているものは何もない。
だが、見れば見るほど、確信が深まっていく。
この部屋は、何かが「奪われた」から空虚なのではない。
何か「あるべきもの」が、まだここへ辿り着いていないのだ。
午前二時を回る頃、階下の受付デスクで、台帳をめくる音がはっきりと響いた。
本来なら届くはずのない距離だ。だが、その音はまるで俺たちの耳元で紙をめくったかのように生々しく伝わってきた。
ラオガオがペンを止め、ドアの方向を睨みつけながら低く呟く。
「……記録が始まったな」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




