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S2第三十七章 那須高原

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

AM 11:30 東北自動車道・北上中

灰色の空は、重油に浸された雑巾のように重々しく国道にのしかかっていた。ハイエースの低くリズムを刻むエンジン音は、氷原を這う野獣の鼓動を思わせる。

俺は助手席に身を預け、指の間に半分ほど燃え進んだ煙草を挟んでいた。右手の掌に潜む黒化した魂釘ソウルネイルが、激しく拍動している。ロナルド・レーガンを沈めた後の過負荷オーバーロードした霊圧が、行き場のない溶岩のように血管の中を暴れ回っていた。腿の上のスマホには、新田 ニッタ・ユイのアイコンが踊っている。

『周先生、サスペンションに異常。路面に注意してください』

「海自の娘さんは鋭いねぇ。俺の体内の『サスペンション』がオーバーヒートしてるのを見抜いてやがる」俺は下卑た笑いを漏らした。

「シーダー、その『オーバーヒートしたサスペンション』がいらなくなったのなら、今すぐ物理的に切除してあげてもいいわよ」後部座席から、林 雨瞳リン・ユートンの氷のきりのような声が飛んでくる。彼女はサングラス越しに、空間の共鳴を利用して俺のスマホ画面を「視て」いた。

那須高原なすこうげんはもうすぐ。あそこの殺生石せっしょうせきは、女をたぶらかすクソ男を吸い尽くすって評判だよ」シキが傍らで番刀の背を研いでいる。山霊さんれいの少女特有の殺気が、車内の暖房を一瞬で氷点下まで叩き落とした。

橋本はしもと、ピットインだ」俺は無線機を握りしめた。どこかで圧を逃がさなきゃ、このハイエースは俺の移動霊柩車になっちまう。

老高ラオガオは黙ってウィンカーを出した。


那須高原・駐車場 AM 12:05

那須の風は、硫黄の谷底から染み出した腐敗臭を運んでくる。一昨年、注連縄しめなわを引き裂いて割れた殺生石。そこから漏れ出す九尾の狐の残響は、目に見えない重力となって周囲の生命の呼吸を奪っていた。

車が停まると同時に、神代じんだい 弥生やよいがドアを開けた。

ガオさん、付き合って」

お願いではない。

國城ガオ・グオチェンは彼女を二秒間見つめ、眼鏡を外して襟元に挟むと、鼻腔の奥から低い唸りを漏らした。

「私はさっき、ペンタゴンの長官を三回分はクビにできる交渉を終えたばかりだ。次は土産物屋のガードマンをしろと言うのか」

「那須の手作りチーズは有名です」弥生は楽しげな足取りで、振り返ることもなく歩き出した。「白い恋人のメーカーとのコラボ商品で、今日は限定販売なの」

「白い恋人は北海道だろう。ここは関東だぞ」

「高さん、」彼女は立ち止まり、振り返った。神代家の令嬢特有の、優雅でいて拒絶を許さない微笑みを湛えて。「今朝のあの報告書、六十年前の地質データを調べ直してあげたのは誰かしら?」

老高は一秒、沈黙した。

「……車をロックするまで待て」


土産物屋の冷気は無駄に強く、棚には那須名物が所狭しと並んでいる。和牛ソースに温泉饅頭、そして九尾の狐のキャラクターグッズ。老高は弥生の数歩後ろを歩き、両手をポケットに突っ込み、議会で答弁を待つ時のように、意図的に感情を消した官僚の顔をしていた。

弥生はチーズの箱を手に取り、値段を確認すると、事もなげにカゴへと放り込む。

老高はその数字を横目で追った。

「一箱、二千八百円」

「ええ」

「一箱だぞ」

「四箱買いました」

「神代さん、」老高は老眼鏡をかけ直し、NCISの主任捜査官を追い詰めた時と同じ平坦なトーンで言った。「今日の我々の任務は大湊おおみなとへの北上だ。那須高原で冠婚葬祭の引き出物を買い占めることではない」

「チーズは霊圧を活性化させます」弥生は表情を変えず、那須和牛の瓶詰めをさらに二つ追加した。「それに全員、徹夜明け。美味しいものを食べないと。高さん、あなた自身も朝食を抜いていますよね。見ていましたよ」

老高は、二度と口を開かなかった。

老高はポケットから財布を取り出すと、心の中でスミスへの請求書に一筆書き加え、神楽機関かぐらきかんの予備費使用リストをさらに一枚めくった。

会計を終えた弥生やよいが、標準的な神代じんだい流の余裕ある微笑みを浮かべて、彼に紙袋を差し出した。「ガオさん、今朝はありがとう」

老高はそれを受け取り、チーズを提げて外へ歩き出す。その声は那須の風よりも平穏だった。

「……次から任務に出る時は、地獄のガイドブックでも持参してくれ。これじゃ鬼の補給物資まで担がされる羽目になる」


ハイエース車内 同時刻

橋本はしもとたちはすでに「那須和牛まん」を標的に土産物屋へ突撃を敢行していた。無線からは、組織的な強襲作戦を彷彿とさせる略奪の喧騒が聞こえてくる。

「陰気が強い場所なら、陽気で押し返せばいいのよ」

彼女たちには、いつだって口実が必要なのだ――俺は心の中でそう毒づき、口には出さなかった。

雨瞳リン・ユートンが猛然と目を見開くと、幽紫色の指輪から光を屈折させるほどの強烈な周波数が放たれた。一瞬にして、車内の音と光景が現実から切り離される。外からは静止した黒い箱車にしか見えないが、その内部には大気を発火させるほどの熱量が閉じ込められていた。

先陣を切ったのは雨瞳だった。彼女は一歩で助手席に跨り、俺の腰に直接腰を下ろすと、黒のタートルネックを引き下げた。怒りに赤らんだ肌が露わになる。指先が俺の首筋を捉え、空間位相特有の重力負荷グラビティ・プルを伴いながら、強引に俺の霊圧へと同調リンクした。

同時に、シキが身を翻して襲いかかる。古銅色の太腿が俺の腰を万力のように締め上げ、彼女の全身が俺の顔面を覆うように圧し掛かってきた。その力感は、もはや筋力トレーニングの域だ。

「――っ!?」

視界が瞬時に暗転する。肌の熱、重量、圧迫感が一気に爆発し、黒化した魂釘ソウルネイルがかつてない熱能を放出した。陽圧の衝撃に耐えかね、シート越しに伝わってくる雨瞳の細かな震えが、俺の末梢神経を焼き尽くしていく。

「空間位相、二重畳み込み(フォールディング)」

断層フォールトの中で響く彼女の声は、空霊くうれいでいて冷酷だった。車内の酸素は希薄になり、代わりに硫黄と汗、そして霊力が混じり合った濃密な気配が充満する。

交代スイッチ

雨瞳の号令と共に、狭い助手席で重力に逆らう位移シフトが起きた。二人は優雅さと蛮力を兼ね備えた動作で位置を入れ替える。今度はシキの太腿が俺の腹部を固定し、その拍動が黒化した釘を狂わせる。雨瞳は沈黙したまま身を屈め、冷冽で空間を歪ませるほどの重量を、俺の顔面の正中心へと叩きつけた。

精神と物理、二重の窒息。俺の後頭部で紫輪しりんが激しく点滅し、意識が彼女の位相空間へと強制的に吸い込まれていく。体内へ過剰に蓄積された陽圧は、二人の女たちの略奪によって、一寸刻みに分配され、枯渇していく。

「……ジョウ・シーダー」雨瞳が俺の肩に伏せ、汗に濡れた紫髪を散らす。その瞳は迷走しながらも、依然として鋭い。「新田ニッタに手を出したら……本当に殺すわよ」

九尾の狐の縄張りで行われたこの「戦前調律プレ・チューニング」は、極限の圧迫と熱能の中で、俺たちの戦闘タンクを完全に満たした。最後の一波が車内で弾けた時、窓ガラスの結露は一寸先も見えないほどに厚くなっていた。


駐車場 AM 12:35

雨瞳が空間遮蔽クローキングを解除した時、車内の空気はもはや液体に近かった。霊圧の残響、硫黄の臭い、そして三者が激突した後に残る生臭い甘みが、狭い空間に沈殿している。

「ふぅ……」

俺は助手席に深く沈み、震える指でベルトを締めた。黒化した釘は今や深淵のように静まり返っているが、いつでも大和級を切り裂けるほどの厚みのある重量感を宿している。雨瞳は乱れた紫髪を整え、包帯の縁からは隠しきれない潮紅が覗いている。シキはミネラルウォーターを煽り、その肌には真珠のような汗の粒が光っていた。

その時、ドアが「シャッ」と音を立てて力任せに開け放たれた。

タクティカルブーツを履いた神代じんだい 弥生やよいが乗り込んできた。手には買い込んだばかりの那須なす手作りチーズ。戦術巫女服が買い物帰りでわずかに乱れている。彼女は補給ついでに「進捗視察」に来たのだろうが、車内に一歩踏み出した瞬間、その端正な眉が猛然と吊り上がった。

「ちょっと待ってください……ジョウさん」

彼女は鼻をひくつかせ、疑いの眼差しを俺たち三人の間で往復させる。そして最後は、いまだに紅い痕が残る俺の顔面で止まった。

「この車……どうしてこんなに、イカいかくさいんですか?」

クリティカルヒットだ。車内の三人は瞬時に石像と化した。

「げほっ! ごほっごほっ!!」俺は口に含んだミネラルウォーターで危うく溺死しかけた。

「イカ? ああ、それは――」脳細胞をフル回転させ、俺は傍らにあった開封済みの炭火焼きイカの袋をひっ掴んだ。「そうだ! 那須高原名物、殺生石せっしょうせき焼きイカだ! シキがお腹空いたって言うから、三人で一袋食い尽くしたんだよ。こいつは匂いがキツいよな、なあ?」

「そうそうそう!」シキの反応は最速だった。イカの束を掴んで口にねじ込み、咀嚼しながら不明瞭な声を上げる。「もぐもぐ……弥生やよい姉さん、これ本当に生臭い……いや、鮮度が最高なんだよ!」

「空間位相の摩擦は、有機物の酸化に似た臭いを発生させるの」林 雨瞳リン・ユートンは表情一つ変えない。幽紫色の長い髪が真っ赤に染まった耳の付け根を隠しているが、口調だけは物理学のレポートを読むかのように冷静だ。「さっき紫輪しりんの安定性をテストするために、原子レベルの切断を繰り返したわ。この臭いは、空間の焦げた跡よ」

弥生は俺が握り潰したイカの袋を疑わしげに見つめ、次いで異常なほど厚く結露した窓ガラスへ視線を移した。そして最後には、優雅でいて含みのある溜息を漏らした。

「周さん。このイカがどれほど『新鮮』だったかは知りませんが、戦前準備が少し激しすぎたんじゃないですか? サスペンションを一つ使い物にならなくするなんて、神楽機関かぐらきかんの修理費も安くはないんですよ」

――あんたたち、巫女だからって舐めないで。中で何をしてたかなんてお見通しなんだから。そんな無言の圧力が突き刺さる。

「弁償する! ちゃんと弁償するから! 老高ラオガオの経費で落とす!」俺は慌てて老高にエンジンをかけるよう促し、大排気量の咆哮でその場の空気をかき消そうと試みた。

『チリン』

スマホが震えた。新田 ニッタ・ユイのLINEだ。

新田 唯:『周先生、衛星モニタリングによれば1号車内の湿度が98%に達し、不明なアルカノイド反応を検知しました。外気導入への切り替えを推奨します。さもなくば、車内人員の判断力に支障をきたす恐れがあります』

「クソッ、出せ! 車を出せ!!」

ハイエースが咆哮を上げ、「イカの臭い」が充満した那須高原の霧を突き破って走り出した。

背後の殺生石は、いまだにそこに鎮座している。今となっては、あの石の亀裂が、俺を嘲笑う口元にしか見えなかった。


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