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S2第三十八章 銀山奇譚:溶け残る残滓

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

PM 17:25 山形県やまがたけん・国道13号

トヨタ・ハイエースのエンジンが、雪の峡谷で低い喘鳴ぜんめいを漏らしていた。その音は両脇にそびえ立つ異常な高さの雪壁に跳ね返り、俺たちの太陽穴を絶え間なく打ち据える。国道13号は、暮れなずむ闇の中で細長く、汚らしく、逃げ場のない「白い食道」へと変貌していた。まるで山そのものが、俺たちが滑り込んでくるのを静かに待っているかのようだ。

老高ラオガオの両手は、研磨紙のような質感でハンドルを死守していた。過度の緊張で白くなった指関節は、まるで死人のそれだ。口に含んだニコチンガムはとうに苦味しか残っていないだろう。

「ちっ、この雪壁……埋まっているのは車じゃねえ、『因果』だな」老高は前方のハイエースが残す二点の赤い尾灯を睨み、鉄片を擦り合わせるような声で毒づいた。

俺は助手席に深く沈み込み、右手をダッシュボードに置いていた。掌の魂釘ソウルネイルが、焼けた廃鉄を骨に叩き込まれたような拍動を繰り返している。近くに黒い重油じゅうゆのような何かが蠢くたびに、この釘は焦燥を強めていくのだ。ダッシュボードの防滑マットからは、すでにプラスチックが焦げる嫌な臭いが漂い始めていた。

後部座席の空気は、さらに重く澱んでいる。

俺の真後ろには、神代じんだい 弥生やよいが座っていた。官僚的なまでに整った二級戦術巫女服を纏い、彼女はその存在感だけで車内の気圧を数段引き下げている。強化繊維の接縫シームが、彼女の呼吸に合わせて極限まで張り詰めた弓弦のような軋みを漏らす。冷徹なその横顔も、今は車内の霊圧と生理的な熱によって、不自然な潮紅を帯びていた。

ガオさん、神代家の指定駐車場は入り口の左側です」彼女の声には、依然として一分の起伏もなかった。「通り過ぎないでくださいね」

「分かってるよ、お嬢様」老高が舌打ちし、ハンドルを微調整した。

最後列の林 雨瞳リン・ユートンは、静寂そのものだった。

深い色のサングラスをかけ、幽紫色の長い髪が肩から流れ落ちる。その髪は暗がりの中で微細な粒子のように揺らめき、まるで人形ひとがたを維持するための位相の残光アフターグロウに見えた。彼女の右手の紫輪しりんが点滅するたび、俺の右手の釘が呼応して熱を帯びる。性質の異なる二つの力が、車内という密室で互いに牙を剥き合っていた。

ふと彼女を見ると、ユートンは顔を上げぬまま、指先を戒台リングへと押し当てた。それは『我慢しなさい』という無言の警告だった。

車窓の外、雪は止む気配を見せない。

鉛色の空の下、雪壁は整列した葬列の参列者のように冷たく立ち並ぶ。前方の白鷹山しらたかやまの輪郭が霧の奥から浮上したが、それは山の形というより、内側から捏ねくり回された「白い皮膜」のようだった。

その瞬間、右手の釘が猛烈な熱を発した。

風景などではない。俺は確信した。

あそこには「何か」がいる。待っているのではない、隠れているのでもない。奴らはすでに網を張り終え、俺たちがその中に飛び込むのを、嘲笑いながら見届けているのだ。

「……もうすぐだ」老高の声が一段と沈む。

一号車の尾灯が雪幕の奥で、消え入りそうな血の跡のように揺れた。その先は、銀山温泉ぎんざんおんせんの入り口だ。

「ああ」

俺は短く応じ、それ以上は語らなかった。老高ラオガオがアクセルを力任せに踏み込むと、二号車のエンジンは低く唸りを上げた。タイヤが積雪を蹂躙し、車内の人間たちの呼吸、秘密、過去の負債、そして未だ発現せぬ凶兆をまるごと飲み込んで、その狭まりゆく白い峡谷へと突っ込んでいった。

前方、白鷹山しらたかやまの雪影が音もなく歪んだ。

風でも、光の屈折でもない。それは、あらかじめ張られていた「網」が、獲物の魂を捕らえようと震えた合図だった。

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PM 18:35 銀山温泉ぎんざんおんせん・石畳通り入り口

雪はもはや、観光ポスターにあるようなロマンチックな背景ではなかった。それは確かな重量と、悪意に満ちた意志を持って、鉛色の天幕から俺たちを叩き潰そうと降り注いでいた。

駐車場から石畳の入り口までわずか八十メートル。だが俺は、半ば凝固した黒い重油じゅうゆの中を彷徨うような感覚で歩いていた。一歩ごとに積雪が乾いた悲鳴を上げ、冷たい雪解け水がブーツの隙間から足首を侵食する。右手の魂釘ソウルネイルが放つ三十八度の燥熱そうねつと、足元の冷気が神経を削り合う。

隣を歩く神代じんだい 弥生やよいに視線を移す。

彼女の黒いハイヒールブーツは、驚くほど積雪に沈んでいなかった。足運びは極めて安定しており、まるで雪面ではなく神代家だけに視える「結界」の上を歩いているかのようだ。二級戦術巫女服は、腰、背中、そして胸元の不敵な質量に至るまで、極寒の中でさえ一切の乱れを見せない。

「神代家伝来の特注ブーツです、ジョウさん」彼女は前を見据えたまま、俺の視線を察して告げた。「防霊圧透過ソール、積雪沈下防止機能付きです。神職者は、穢れの中でも儀態ぎたいを失ってはなりませんから」

「俺にも貸してくれねえか?」俺は味の抜けたニコチンガムを噛みながら、投げやりに言った。

「周さんには入りません」彼女は抑揚のない声で即答した。

老高は俺の右側を歩き、両手をジャケットのポケットに深く突っ込んでいた。その肩のすくめ方は、人生を精算されかかっている借金取りの会計士のようだ。談判の席で罵声を浴びせるのには慣れていても、深山の温泉街で雪を漕ぐのは専門外らしい。

橋本はしもと新田ニッタは先に入ったようだ」老高が前方へ顎をしゃくった。

一号車の連中は、すでにあの木造建築の中へと消えていた。門前の提灯は大雪の中で揺らぎ、不自然なほど暖かな橙色を放っている。まるで古い時代の誰かが、後から来る者を「ここは安らげる場所だ」と欺くために吊るした罠のようだった。

提灯には、三文字が記されている。

銀山閣ぎんざんかく

「名は体を表す、か」俺は目を細め、その揺れる光を見つめたが、安らぎなど微塵も感じなかった。

見上げれば、神楽・銀山閣が雪の中に鎮座していた。風雪と歳月に磨かれた木造の外壁は、温潤でありながらどこか昏い光沢を放っている。窓格子、軒角、長廊、立柱。すべてが「完璧すぎるほどに」古く、現実感を喪失させていた。それは単なる旅館ではなく、時間そのものに長らく供物として捧げられ、ついに自我を持ってしまった「怪異」のように見えた。

後方から、微かだが極めて安定した足音が聞こえる。

振り返ると、エリスが黒傘を差して雪幕の奥から現れた。傘を低く構え、その先端が雪面に描く軌跡は、定規で引いたように完璧な直線だった。彼女の纏う「絶対零度」の冷気は、この雪とは異質なものだ。雪は散り、彼女は収束する。雪は落ちるが、彼女は落ちない。

雨瞳リン・ユートンがその半歩後ろを歩いていた。

サングラスを直し、幽紫色の長い髪は白雪と灯火の間で不確かな粒子感を帯びている。彼女は何も言わず、石畳など視界にすら入れていない様子で俯き加減に歩く。だが、袖口の下で彼女の紫輪しりんが鋭く明滅し、俺の右手の熱と衝突して、俺の耳元でだけパチリと不快な音を立てた。

この場所の雪は、甘すぎる。

硫黄とひのき、そして古い時代の女給たちの香水に、誰かが「心地よく、このまま留まりたくなる何か」を密かに混ぜ込んだかのような匂いだ。

「行きましょう」弥生が淡々と告げた。

俺たちという、それぞれが異なるかおを持ち、異なる因果を背負った魂の集団は、現実感を喪失させるほど重く沈んだ雪を踏みしめ、「神楽・銀山閣かぐら・ぎんざんかく」という名の木造の巨大な胃袋へと一歩ずつ足を進めた。門から溢れ出す暖気は、灯火と湯気の甘い香りを孕み、あまりに礼節を知りすぎた手のように、遠来の客から上着や雪靴を脱がせ、ついでにその警戒心までも丁寧に預かろうとしていた。

バカンスだと?

雪の中で微かに揺れる「銀山閣」の提灯を見つめる俺の口内で、ニコチンの残り香が急激に薄れていくのを感じた。

この場所の臭いは、地獄よりもずっと、反吐が出るほど甘ったるい。


PM 19:05 銀山閣・朧月おぼろづき別館廊下

木造旅館の二階に位置する朧月別館は、本館の喧騒が嘘のような別世界だった。

廊下の灯火は意図的に落とされ、昏い橙色の光が百年前の紅木と畳の間に落ちて、すべてを大正時代の古い絵葉書のように染め上げている。二枚の障子門を隔てた先では、本館「大正の華」で佐藤さとう石川いしかわがすき焼きの肉質について論争する声や、神代弥生じんだい やよいの公文書のように平坦な指示が微かに聞こえてくる。あちらには人の声があり、熱があり、鍋がある。生者の証がそこにはあった。だが、俺の立つこの廊下は、決して邪魔をしてはならない「何か」が息を潜めるための場所のように静まり返っている。

俺は壁に背を預け、指先で一本の巻き煙草を弄んだ。

ライターが「カチリ」と鳴り、炎が窓ガラスに小さな暖色を映し出す。二口ほど深く吸い込み、タールとニコチンを肺の中で戦わせてから、三口目にいく前に携帯灰皿へと押し付けた。神代の場所だ、あまり不作法を通すわけにもいかない。

代わりにニコチンガムを口に放り込んだ。化学的な辛味が舌の根で弾けた瞬間、違和感に気づいた。

窓の外では雪が降り続いている。だが、ガラスに浮かぶ結露は濁った白ではなく、得体の知れない「氷藍ひょうらん」を帯びていた。反射でも天候のせいでもない。何かが窓を一枚隔てた向こう側から、執拗に冷気を室内にねじ込んでいるのだ。

次の瞬間、左手の人差し指に嵌めた幽紫の指輪リングが激しく震えた。

霊圧に反応するいつもの振動ではない。何かが内側から、狂ったように戒台を叩いているような衝撃。氷藍色の細い筋が突如として走り、極限の寒気が指節を貫いた。白い霜が肌の文様に沿って這い上がり、袖口までもが硬く凍りついた。

眉を潜め、言葉を発するよりも早く、微かな声が届いた。

「あの……」

紙門の隙間を吹き抜ける風のように、細く、乾いた声。

「旦那様……申し訳、ございません……」

首を向けると、廊下の端にいつの間にか一人の女が立っていた。

俺から二歩と離れていない場所。最初からそこにいたかのような、不自然なまでの静止。純白の絹の和服が、薄暗い灯火の中で冷徹な光を放っている。深藏青しんぞうせいの帯が、彼女の身体にあまりに明確な曲線を描き出していた。それは俗な豊満さではなく、寒気を積み上げて形作られた雪そのもののような、重々しい存在感。

彼女の手には一本の白い骨傘ほねがさが握られていた。畳の縁に突かれたその先端は、削ぎ落とされた指骨のように細く、白い。結い上げた氷藍色の長い髪からは、霧のような氷の粒が零れ落ちている。奇妙なのは、彼女に威圧感など微塵もなく、むしろ不意に他人の貸切フロアに迷い込んでしまったことを、心底申し訳なさそうに縮こまっていることだった。

俺は左手の指輪に目を落とした。

氷藍の光は消えず、寒気は針となって骨の隙間に刺さる。だが、俺はそれを無視した。霊圧環境が乱れた場所では指輪の感応がバグるのは珍しくない。機械の狂いより、俺は自分の眼を信じる。そして今、俺の眼の前にいるのは、精巧すぎるほどに整い、そして致命的に人との接し方を知らない様子の女だけだ。

「出たなら出たで、謝り続けるな」俺は上着のポケットに手を突っ込み、いつもの不機嫌な口調で言った。「このフロアは貸切だ。どこの部屋から迷い込んだ? それとも旅館の者か?」

彼女は俯き、言葉を紡ぎ出すのに精一杯の様子だった。

「いいえ……わたくしは、ここの者ではございません……」彼女の声はさらに細くなった。「ただ……雪を、眺めたかっただけでございます」

俺は眉をひそめた。「雪を?」

彼女は小さく頷く。その仕草すら、結い上げた髪が乱れるのを恐れるかのような、過剰なまでのしとやかさを伴っていた。

「廊下が冷えます……申し訳ございません……ここへ立ち入るべきではないとは、存じておりますが……今宵の雪は、あまりに綺麗でございましたから……」

彼女がゆっくりと顔を上げた。そのかおは、薄い霜を幾重にも重ねて削り出したかのように、精緻で、そして透き通っていた。何より異常なのはその双眸だ。白に近い淡い藍色の瞳、その奥には雪の結晶のような細かな紋様が刻まれている。それは装飾などではなく、生者の眼球には決して宿らぬ絶望的なまでの清潔さ。彼女が窓外を見やる時、それは雪を眺めているのではなく、二度と触れることのかなわぬ「何か」を、ただ空虚に追っているように見えた。

廊下の気温が、明確に数度下がった。

暖房の唸り声すら、彼女が連れてきた冷気には抗えない。彼女から漂うのは香水ではなく、あまりに冷え切った檀香びゃくだんの残り香。清潔で、薄く、そして粘りつくようなその香りは、目の前の女が「隣の部屋から出てきた客」ではなく、遥か遠い、遥か昔の雪の中からここまで歩き続けてきたのだという、最悪の錯覚を俺に抱かせた。

「窓ならそこにある」俺は顎で外を指した。「見たいなら勝手に見ろ。だが、邪魔はするなよ」

彼女は俺の無愛想な言葉に、一瞬だけ呆然とした様子を見せた。そして、深く、慎ましく頭を下げた。

「……ありがとうございます」

彼女が窓際へ小半歩、身を寄せた。その動作は綿毛のように軽やかだったが、俺は確かに感じた。足元の畳が、極めて重厚な「何か」に踏みしめられたかのように、乾いた軋みを上げたのを。彼女との距離が縮まる。和服の襟元から覗く蒼白なうなじ、そして寒さのせいか、わずかに赤らんだ鼻先。

左手の指輪が発する氷藍の光は、もはや警告の域を超え、俺の虎口を刺し貫こうとしていた。だが俺はそれを「霊圧の乱れ」として片付けた。目の前の存在を異常だと認めるより、ただの「冷え性に悩む看雪の客」として扱う方が、俺にとっては都合が良かったからだ。

「これ以上寄るな。足、踏んでるぞ」

彼女は弾かれたように身をすくめ、慌てて半歩下がった。

「申し訳ございません……」

また謝罪か。

「もういい」俺はガムを奥歯で噛み直し、自分でも不可解なほどに声を和らげた。「五分だけ付き合ってやる。五分経ったら部屋に帰れ。銀山ぎんざんの夜、廊下をうろつく奴にろくな末路は待ってねえぞ」

彼女は答えず、ただ微かに唇を噛んだ。

窓の外では雪が降り積もり、その白さが旅館を押し潰さんばかりの厚みを見せている。彼女は俺の傍らで、静止した絵画のように佇んでいた。その細い冷気と、消え入りそうな檀香だけが、じわりと俺の肌に染み込んでくる。

その瞬間、俺の脳裏にはひどく俗っぽい念が浮かんでいた。

――今の観光客ってのは、雪を見るためなら命さえ惜しくないってわけか。


PM 19:12 銀山閣・朧月別館廊下

白衣の女と窓辺に立って五分が経とうとした時、背後の障子門が前触れもなく左右に滑った。

木枠が擦れる「ギィィ」という耳障りな音が、冷え切った大気に響く。

振り返ると、そこには林 雨瞳リン・ユートンが立っていた。

例の濃いサングラスをかけ、幽紫色の長い髪は廊下の灯火の下で、焦点の合わない粒子のように揺らめいている。彼女の右手の紫輪しりんが、車内よりも鮮烈な深紫の光を放っていた。それは、位相の焦点が絞られつつある前兆だ。

「……何をしているの?」

声は冷たく、低かった。怒鳴り声よりも、その静寂の方がよっぽど俺の毛穴を締め上げる。

「夜景を見てるんだよ」俺は味のなくなったニコチンガムを噛みながら、不機嫌に返した。

「……一人で?」

「当たり前だろ」

俺は隣の女を証人に立てようと、当然のように首を巡らせた。雨瞳に「隠し事」を疑われるのは御免だったからだ。

だが。

首を巡らせた瞬間、俺の背筋に氷のくさびが打ち込まれた。

隣が、からになった。

白衣の女も、傘も、氷藍色の長い髪も、すべてが消失していた。窓辺に残されたのは、霧散しきらぬ薄い霞と、ガラスに刻まれた幾筋かの雪結晶の形をした氷紋だけだ。まるで誰かが、霜を纏った指先で内側からそっと触れたかのように。その足元、畳の縁には二筋の微かな木履ぽっくりの跡が残り、暖房の熱に晒されて刻一刻と淡く消えようとしていた。

跡形もない。まるで最初から、そこには何も存在していなかったかのように。

「……ご覧の通りだ」俺は前を向き直し、努めて不遜な声を絞り出した。

雨瞳ユートンは答えない。

彼女はただ二歩、前へ踏み出した。畳を噛むヒールの音は極めて静かだったが、廊下全体の空気がそれに合わせて張り詰めた。彼女は俺の傍らで立ち止まると、窓の外も俺の顔も見ず、ただ静かに視線を落として俺の靴先へと手を伸ばした。

その修長な指先が、つい先ほどまで誰かが立っていた空間をなぞり、俺の靴の爪先をかすめる。その時、俺はようやく気づいた。右足の甲に、融けきらぬ数片の氷晶がこびりついていることに。細く、白く、それはまるで誰かが丹念に切り出した雪花のようだった。この距離、この室温。普通の雪なら留まっていられるはずがない。

雨瞳の指先が、その氷晶の上で二秒間、静止した。

「……雪じゃないわね」彼女は淡々と告げた。

「じゃあ何だ? 旅館がサービスで撒いたデコレーションか?」

彼女は俺を無視し、指先をわずかに持ち上げた。雪花の氷晶は砕けることも落ちることもなく、見えない糸に引かれるように、靴の表面から数センチ浮き上がった。深紫の戒光が彼女の指節で一閃すると、その物体は空中で不自然な氷藍ひょうらんを帯びて輝いた。あまりに清潔すぎて、かえって吐き気を催すような色だ。

「鮮度の高い霊の残渣ざんさよ」彼女の声は平坦だった。まるで検死報告を読み上げるかのように。「残留時間は三分以内」

俺の口内のニコチンガムが、急激に苦味を増した。

「……つまり、さっきまであいつがここにいたってことか?」

「いたどころじゃないわ」雨瞳が氷晶を指先で捻り潰すと、紫光と共にそれは音もなく霧散した。「――至近距離まで接触していたわね」

その言葉に、眉間が跳ねた。

無意識に足元を見やる。畳の縁の微かな跡はすでに消え失せ、薄い湿り気だけが残っていた。まるで誰かが凍てつく寒さを纏って遠くから歩み寄り、俺の目の前で足を止め、何も奪わずにただ自らの存在の一部だけをここに置いていったかのように。

雨瞳が顔を向けた。サングラス越しではあるが、その視線が俺の足元から左手の指輪へと這い上がってくるのが分かった。

「……触れたの?」

「いいえ」即答した。

一拍置いて、俺は付け加えた。「……たぶんな」

雨瞳は短く、冷ややかな鼻笑いを漏らした。

「ジョウ・シーダー。その答え方、現場で事情聴取を受けている中年の飲酒運転者そっくりよ」

「……法を犯した覚えはねえよ」

「それが人か、幽霊ゴーストか、あるいは『別の何か』だったかによるわね」

言い返そうとした瞬間、左手の人差し指に嵌めた幽紫の指輪リングが、再び微かに震えた。今度は先ほどのような凍てつく衝撃ではない。短く、極めて軽く――まるで誰かが副槽サブ・スロットの扉を、遠慮がちにノックしたかのような感触。

俺と雨瞳は、同時に手元へ視線を落とした。

氷藍の細い筋が戒台を走り、瞬きする間に消えた。

廊下の空気が一段と冷え込む。窓の外では大雪が降り積もり、ガラスに映る俺たちの影の背後に、極めて淡く、薄い、白の輪郭が浮かび上がった。反射のさらに深淵に佇むその影は、半秒ほどで雪の色へと溶けて消えた。

俺は何も言わなかった。雨瞳も、口を閉ざした。

暖房の唸る音だけが響き、本館からは佐藤さとうたちがすき焼きの肉の厚さで揉める喧騒が聞こえてくる。だが、この朧月おぼろづき別館の廊下だけは、旅館から切り取られ、過冷却された水の中に沈められたかのようだった。音さえもが、薄く、遠い。

「戻るわよ」ようやく雨瞳が口を開いた。感情を排した声だ。「今夜はもう、一人で歩き回らないことね」

「……心配してくれてるのか?」

「警告よ」

彼女は背を向け、歩き出した。幽紫色の長い髪が、粒子状の残光を引いて闇に溶けていく。俺は一人その場に残り、自分の靴先と、窓に残る消えかかった霜の紋様を見つめた。女が立っていた場所には、今も微かな檀香びゃくだんが漂っている。雪の下に長く埋もれていた古い夢のような、不在でありながら確かにそこに掛かっている、執拗な残り香。

俺は左手をポケットに突き刺した。指輪の表面には、いまだに名残惜しげな冷気が纏わりついていた。

この瞬間、俺は初めて理解した。

銀山ぎんざんという場所は、俺たちに「部屋」を割り振ったのではない。

ここは、俺たち一人一人のために――扉を叩く「何か」を、あらかじめ選び抜いていたのだ。


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