S2第三十六章 北へ
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
AM 06:00 横須賀・メルキュールホテル 最上階エグゼクティブスイート
リビングの空気は、ナイフで切り裂けそうなほど重く澱んでいた。
NCIS特捜班の主任捜査官スミスは、両手を組み、テーブルの上に置かれた不完全なロナルド・レーガンの損害管理記録を凝視していた。彼の両脇を固める武装捜査官たちの手は、一度として腰のホルスターから離れることはない。
「高さん、残骸の周辺で採取されたサンプルによれば、あの黒い粘着物質からは極めて高濃度の、既知のいかなるアイソトープにも属さない放射性周波数が検出されている」スミスの声は掠れ、拒絶を許さぬ圧迫感を孕んでいた。「そして、君のところの『セキュリティ・コンサルタント』である周さんは、原子炉区域に最後にいた人物だ。彼の身柄を直ちに引き渡してもらいたい」
高 國城は、慇懃な動作でスーツのボタンを外し、深褐色のカウハイド・ソファーに深く腰を下ろした。彼は懐から、神楽機関と内閣情報調査室(CIRO)の二重鋼印が押された「レッドヘッダー(特秘文書)」を取り出し、静かに差し出した。
「スミス捜査官。周さんの話を始める前に、まずは責任の所在について議論しましょう」
彼は一貫して、官僚特有の含みを持たせた中国語を用い、通訳を介して一文字ずつ、言葉を吟味しながら出力していく。
「この文書は、六十年前に行われた横須賀基地拡張工事の秘密ファイルです。貴方たちが立っているこの埋立地は、当時、明治時代の祭祀霊脈を直接踏み潰す形で建設されました。今回の三笠による『共鳴』は、本質的には地質応力が引き起こした超大規模な圧電効果――。早い話が、基地そのものが自らの意志で空母を食らったのですよ」
「Bullshit!」スミスがテーブルを叩いて立ち上がった。
「それがデタラメかどうかは、君の報告書がペンタゴンの面目を保てるかどうかにかかっているんだ」老高は視線すら上げず、凍てつくような冷徹さで言い放った。「『超自然的攻撃』と書けば、議会は即座に在日米軍予算をカットするだろう。『テロ攻撃』と書けば、なぜセメントで固めた骨董品一隻すら止められなかったのかを説明しなきゃならん。だが――もし君が、神代家が保証するこの『地質学的および構造的崩壊』の報告書にサインするなら話は別だ」
老高は身を乗り出し、スミスの瞳をロックした。
「ロナルド・レーガンの沈没は、不可抗力による工業事故だった。君のところの英雄――キャサリン大尉は貴重なデータを持って生還した。米軍は技術的に敗北したのではない、ただ地殻変動に屈しただけだ。この報告書を提出すれば、君はグアンタナモへ送られることもなく、神代家からの保険補償金で調査チームを再建できる。……分かるかね?」
スミスの喉仏が大きく上下した。「英雄キャサリン」と「技術的無敗」。その二つのワードは、彼の急所を的確に撃ち抜いた。政治的に正しい生存者は、いつだって死に絶えた真実よりも価値がある。
「……時間は、どのくらい必要だ?」彼はようやく腰を下ろし、消え入りそうな声で問うた。
「三秒だ」老高は官僚特有の空虚な微笑を浮かべると、相手が持ってきたオリジナルの調査草案を奪い取り、代わりに神楽機関が用意した青いバインダーを差し出した。「これを写せ。米軍の『名誉』に配慮して書き直してある。……いい取引だったよ、捜査官」
客を送り出す際、老高は親切心を見せるように相手のネクタイを整えてやった。
ドアが閉まると同時に、彼は吐き捨てるように毒づいた。
「ったく、これだから洋鬼子どもは……台湾の議会よりよっぽどタチが悪いぜ」
AM 07:30 横須賀・神代ホテル側室
リビングからは、未だに老高の官僚じみた怒声の余韻が伝わってくる。
キャサリンは窓を背にして立っていた。着替えたばかりの海兵隊大尉の制服。太平洋艦隊が階級を飛び越えて直接下した昇進命令書が、乱れたシーツの上に重々しく置かれている。ブラインドの隙間から差し込む朝陽が彼女の肩を叩き、就役したばかりの軍艦のように――鋭く、硬く、過剰なまでの重量を秘めていた。
俺は彼女の背後に歩み寄る。右手の幽紫色の指輪が、影の中で低く唸りを上げていた。
「こっちを向け」
彼女はゆっくりと向き直った。その双眸に宿っていた海兵隊特有の冷徹な光は崩壊し、そこには死線を越えた者特有の、生理的な依存心だけが残っていた。制服の下で、修長な脚がわずかに震え、激しい鼓動がその胸元を突き動かしている。
「手を開け」
彼女が掌を差し出す。俺はその手首を掴み、熱を帯びた指輪を掌紋の中心へと力任せに押しつけた。
「――っあ!!」
紫の閃光が炸裂した。魂を抉るような衝撃が神経の末端を駆け上がり、キャサリンは短い悲鳴を上げて俺の体に崩れ落ちた。その確かな重みが俺の中に沈み込む。熱く、生々しい感覚と共に、俺の霊圧が一段と激しく沸き立った。
俺は空いた右手で彼女の顎を掴み、強引に視線を合わせる。俺の瞳の奥では、黒化した魂釘の残火がいまだにくすぶっていた。
「これは勲章じゃない、キャサリン。お前の魂に繋いだ犬の鎖だ」彼女の耳元で囁く。煙草の匂いが、彼女の首筋から漂う香わしい汗の香りと混ざり合う。「ペンタゴンで良からぬことを考えるか、あるいは俺が望んだ時――この印が、死よりも恐ろしい苦痛をお前に教え込む」
「Chou...」彼女の吐息が俺の頬を焼き、乱れていく。彼女は自ら襟元をはだけ、朝陽に染まる肌の上へと俺の手を導いた。
制服の冷たく硬い質感が、その熱を抑え込む。この背徳感は、剃刀の刃のように鋭い現実味を帯びていた。
「もしここが地獄なら……」彼女の爪が俺の腕に深く食い込む。その声には、破滅的なまでの渇望が宿っていた。「いっそ、あなたの手で殺して……」
俺は冷笑し、その印が彼女の経脈へ完全に浸透するのを待たず、侵略的な深吻で彼女を沈黙させた。
ドアの外では、林 雨瞳が壁に寄りかかっていた。垂れ下がった紫の髪が彼女の表情を隠している。部屋の中から漏れ聞こえる衣擦れの音と重い呼吸を聞きながら、彼女は自分の指輪を静かになぞった。
「……勝手になさい」彼女の声は氷のように冷たかった。「泥舟に乗った以上、これくらいの乗船券(船票)は彼女に払ってもらわないとね」
AM 09:20 国道4号・北へと向かう車内
情欲に溺れ、俺の傀儡と化したキャサリンを送り出し、俺たちは横須賀を後にした。
二台の特装版ハイエースが、雪の混じる国道を力強く進んでいく。
老高がハンドルを握り、俺は助手席で手元の三笠の釘を見つめていた。釘の灼熱感はエアコンの冷気に抑え込まれ、窓外の景色が猛スピードで背後へと流れ去っていく。後部座席では、ユートンがスマホを眺め、希が番刀を磨き、弥生や綺安、小葳たちは泥のように眠りについていた。二号車は静まり返っている。
無線機が鳴った。
「老高さん、実に見事な手際でした。さすがは元巡査部長だ」橋本 健一の声がスピーカーから流れ、そこには勝ち誇ったような軽やかさが混じっていた。「NCISの連中は今頃、エレベーターの中で地殻変動が科学的なのか、それとも三笠の祟りの方が報告書として書きやすいのか、人生の迷路を彷徨っているでしょうよ」
老高は前方を見据えたまま、表情一つ変えない。
「奴らには、他に掴める梯子がないからな」俺が無線機を手に取り、言葉を継いだ。「地質崩壊を選ばなけりゃ、『米軍が百年前の水兵に全滅させられました』とでも書くか? スミスが馬鹿でない限り、あの青いバインダー(藍皮書)を聖書より熱心に丸写しするはずだ」
俺は後部座席を一瞥し、全員がそれぞれの世界に浸っているのを確認してから、おもむろにスマホを取り出し、追加したばかりのLINEを開いた。
アイコンは雪原に置かれた一挺のライフル。
新田 唯。
指先を動かし、手短にメッセージを打ち込む。
『前方の状況は? 那須のチーズケーキが美味いらしいが、一つ取っておこうか?』
直後に無線機が反応した。新田の隣に座り、彼女の端末が光るのをその目で見た橋本 健一からだ。
「周さん、下心が透けすぎてますよ。新田は後部座席で銃身の手入れ中だ。ケーキに構ってる暇はありません」
五秒と経たず、スマホが震えた。
新田 唯:『チーズケーキはカロリーが高すぎます。進路に異常なし。ただし湿度が異常です。山形県入りする頃には濃霧が予想されます。……周先生、自重してください』
ちっ、つれねえな。二、三言話したって罰は当たらねえだろ。
「チーズケーキは高カロリー、ね。じゃあ『新田ちゃん』とのLINEは、さぞかし甘いのかしら? 周・士・達?」
希の、山の霊気を纏った手が後部座席から猛然と伸びてきて、俺の左頬を正確に鷲掴みにした。顎の骨を砕かんばかりの握力。怒りに赤らんだ古銅色の肌から、野性的な熱気が後頭部へ吹き付ける。
「痛てて! シキ、力を抜け……これは戦術的な連絡だ……」
「戦術的な連絡にスイーツが必要なの? 個人の裏垢を教え合う必要があるわけ?」
林 雨瞳の幽紫色の髪が、風もないのに不気味に逆立った。右手の紫輪がキィィンと耳障りな低鳴を上げ、俺の右こめかみ付近の空間位相が歪み始める。彼女の指先が、氷の針のように俺の太陽穴を刺した。
「横須賀での霊圧をもう消化しきったようね? 精力が余って宣洩が必要なら、私たちが手伝ってあげましょうか?」
「ユートン……落ち着け……」
「落ち着け? 私たちが後ろで大湊の釘を解析してる間に、あんたは助手席で海自の狙撃手とイチャついてるわけ?」
シキがさらに力を込め、俺の顔面がパン生地のように引き延ばされる。「キャサリンの件は任務として認めてあげたわ。でもこの新田唯は一体どこの誰の『必要な犠牲』なわけ? 排湾族の番刀の背と、あんたの面の皮、どっちが硬いか試してみる?」
車内の気圧は絶望的なまでに低下し、フロントガラスには微かな亀裂が走り始めていた。
橋本の方からも、オープンのままだった無線機越しに一部始終が聞こえていたのだろう。短く、そして楽しげな乾いた笑い声が聞こえたかと思うと、火の粉が飛んでくるのを恐れるように即座に通話が遮断された。
「ジョウ・シーダー、二択よ」林 雨瞳の声は、万年氷河のように静まり返っていた。「今すぐそのスマホを窓の外へ放り投げるか。それとも今夜、銀山温泉で、私とシキの手であんたを『分身』させてあげましょうか。――物理的に、真っ二つにね」
「捨てる! 捨てるから! なあ!」俺はスマホをグローブボックスに放り込み、両手を挙げて降参した。「老高! 飛ばしてくれ! さっさと銀山温泉まで!」
老高は振り返らない。
アクセルをわずかに踏み込み、一言だけ漏らした。
「……お前、あの子と戦術の話はできないのか?」
誰も、その問いに答える者はいなかった。
車はただ、黙々と北へ向かって走り続ける。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




