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S2第三十五章 神々の接舷

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

AM 03:20 横須賀よこすか基地・北側通行門ゲート

キャサリンが駆るカスタムジープのエンジンが、豪雨と爆鳴の混じり合う大気の中で咆哮を上げていた。タイヤが黒い重油じゅうゆの混じった水たまりを捉え、後輪がスライドする。彼女はブレーキを踏まず、逆にステアリングを叩き込むように回して車体をねじ伏せた。

「Hold on tight!(しっかり掴まって!)」

彼女の叫びは、極限まで張り詰めた、今にも断絶しそうな清醒めざめを孕んでいた。

青い全域立入許可証をスキャナーにかざすと、油圧の音と共にロードブロックが沈み込む。彼女がアクセルを床まで踏み込み、獣のような咆哮と共に車両が突入した。

俺はボンネットを蹴って跳躍し、死神の大鎌デス・サイズを横一閃に薙いだ。左側から肉薄した二体の一九四五年式鬼兵は、鎌の軌跡が通過した瞬間に上半身の構造を失い、崩れ落ちた。黒い油が飛散する中、俺はすでに着地を完了していた。

橋本はしもと、道を作れ」

「鋼鉄班、扇形展開――テルミット、放て!」

橋本が四名の部下を率いて車側から滑り出し、重盾ヘヴィ・シールドを廊下の入り口に一列に並べる。テルミット弾が炸裂し、白い閃光が先行する霊体たちを破片へと分解した。間髪入れぬ短点射バーストが残敵を掃討する。橋本は盾の縁で最後の一体を壁に叩きつけ、その胸元に質量を叩き込んで粉砕した。

「キリがありません、蟻のようにロナルド・レーガンへ群がっています!」橋本が吠える。

「雑魚は放っておけ、一気にアイランド下層へ突入するぞ」

ジープが二号エレベータープラットフォームへ突っ込む。防護扉は三笠みかさの衝突による圧力で無残にひしゃげ、人が一人、横向きに通り抜けられる程度の隙間を晒していた。だが、それでは遅すぎる。

雨瞳ユートン

雨瞳リン・ユートンが後部座席から飛び降りた。その瞳は未だ包帯に覆われているが、彼女の足取りは迷いなく変形した鋼鉄の門へと向かう。三本の指が門に触れた。

「空間が重なり合っているわ。この門には、もはや境界なんて存在しない」彼女が告げる。「目を閉じて私に続いて。ここの重力感覚は人を欺くわ」

彼女が歩き出す。それは隙間を通り抜けるのではなく、まるで水が砂に染み込むように、鋼鉄の板を透過していった。

俺は目を閉じ、彼女の気配を追う。

通り抜ける瞬間、拒絶を伴う冷気が全身を撫でた。自分のものではない空間に無理やり押し込まれたような不快感。直後、足裏に別の甲板の感触が伝わった。目を開けると、そこには煤油灯ランプの灯火、そして百年の時を超えた潮騒の臭い。

――裏世界うらセカイ。すでに三笠の空間重畳区オーバーラップエリアに足を踏み入れていた。

「あの車の臭い、正解だったわね」葉 綺安イェ・キアン西瓜刀すいかとうを抜き放ち、低く呟く。「ミラーの遺品が車に残っている。あの老いぼれた亡霊たちはその臭いを認識して、真っ先に襲ってくるのを躊躇ったのよ」

シキが廊下の隅で壁に向かって空砲を撃ち続けている米軍の負傷兵を、峰打ちで叩き伏せた。無駄のない、静かな一撃。彼女は何も語らず、ただ前を見据えて突き進む。

動力爐リアクターは前よ」葉 綺安イェ・キアンが低く告げる。「臭いが濃くなってきてる」

俺は噛み砕いた禁煙飴の残骸を吐き捨てた。右手の灼熱感はすでに肩まで達している。

「二人とも、臨時通行証チケットの準備はいいか」俺は言った。「ここから先は、現代の火力じゃ通用しねえぞ」


AM 03:45 ロナルド・レーガン・「寄生」通路

「ピー――認証エラー。アクセス権限が無効です」

センサーの緑灯が、どす黒い赤へと変色した。スキャナーの隙間から重油じゅうゆがじわりと滲み出し、その液体の動きは漏洩というより、獲物の臭いを嗅ぐ獣の鼻先に似ていた。

キャサリンはその場にへたり込み、無効を告げるカードを見つめた。

「嘘よ……ミラーがくれた、最高権限のはずなのに……」

「よせ、」俺は吐き捨てた。「この船はもうアメリカのものじゃない。明治って名前に書き換えられて、あんたのカードなんて認識しちゃいねえんだ」

通路は、すでに変異を遂げていた。

単なる「幾何学的な不一致」などではない。壁を走る光ファイバーは、節動を繰り返す太い黒色の管へと置換されている。その脈動は機械的なものではなく、巨大な何かの「心拍」そのものだ。三笠みかさの方向から何かを吸い上げ、深部へと送り届ける血管。天井から垂れ下がっているのは消火ノズルではなく、中身が空になった米軍の制服だ。服の形だけを保ち、中の人間はすでに吸い尽くされている。

生存者などいない。あるのは「容器」だけだ。

大気を震わせる明治軍歌が輪郭を持ち始めた。電磁イズではなく、実体を持った合唱がどこからともなく響き渡る。

橋本はしもと鋼鉄班こうてつはんは後衛だ。入り口を封鎖しろ。重油をこれ以上中へ通すな。……ここからは俺たちがやる」

「了解――後方火網、展開!」橋本の咆哮が響く。鋼鉄班は俺たちに背を向け、通路の後端で重盾ヘヴィ・シールドの壁を築いた。機関銃の銃口が、床を這い回り、深部へ伸びようとする黒い血管をなぎ払う。

眼前の防護扉が暗闇の中で待ち構えていた。数トンの質量を持つ、油と錆に塗れた鉄塊。その表面には、腐食によって刻まれた不気味な符文ふもんが浮かんでいる。俺には読めない文字だが、掌の三つの傷跡――飛龍ひりゅう扶桑ふそう青葉あおばが、激しく共鳴を始めた。それは、ある「同類」を認識した時の振動だ。

「林 雨瞳リン・ユートン、」俺は問いかけた。「あの門の向こうに、何がいる」

彼女はその門に手を添え、二秒間、沈黙した。

「動力炉室よ」彼女は言った。「――かつてはね」

シキが深く息を吸い込むと、その古銅色の肌に暗紅色の呪文が浮かび上がった。牛小琴ニュウ・シャオチンの霊圧が脊髄を駆け上がり、爆発する。それは骨が霊圧に押し広げられる軋みであり、人間の喉ではなく、巨大な何かが地鳴りを上げるような重低音の共鳴だった。

足元の甲板が一ミリほど沈み込む。

重力場グラビティ・フィールドが、すでに展開されていた。

綺安イェ・キアン西瓜刀すいかとうの刃をなぞれば、馬三娘マー・サンニャンの寒気が周囲で蠢く黒い重油を一瞬で凍結させる。刀身に宿る血光は、燃えるような熱ではなく、黄泉の国から吹き抜ける凍てつくような冷気だ。

「ロナルド・レーガン……ってことは、ここはアメリカ領土か?」俺は不敵な笑みを浮かべた。「諸君、開工しごとだ。俺たちの台湾タイワンの面に泥を塗るんじゃねえぞ」

「ふん、言われなくても」シキが応じる。

彼女の拳が防護扉の正中心へと叩き込まれた。

数トンの鋼鉄の門がひしゃげ、ひしゃげ、そして縁のボルトが弾け飛ぶ。門全体が内側へと吹き飛び、黒い油の塵が舞い上がった。


AM 03:55 ロナルド・レーガン・核心動力炉室

そこは、もはや動力炉室ではなかった。

いや、動力炉室でありながら、同時に「別の場所」でもあった。中央に鎮座し、幽玄な青い微光を放つ核反応炉には、今や巨大な三笠みかさ主魂釘(ソウルネイル)(メイン・リベット)が突き立てられている。鉄錆に覆われた百年の呪いが、心臓を釘で打ち抜くように、炉の核へと突き刺さっていた。黒い重油の管がその魂釘(ソウルネイル)から四方八方へと伸び、現代の鋼鉄と明治の残骸を縫い合わせている。その縫い目からは、光を帯びた黒い血が滲んでいた。

東郷トウゴウは、反応炉の頂に立っていた。一九〇五年式の黒い海軍大礼服を纏い、直立不動の姿勢。紫色の光に照らされた顔の半分は枯骨と化し、独眼シングルアイが俺たちの侵入を射抜く。

彼は口を開いた。広島弁の混じった、古風な日本語が響く――。

「此ノ『レーガン』ナル鋼鉄ノ城、我ガ時代ニ在レバ……日ノ本ハ永劫ニ無敵、海ノ果テマデ我ガ軍門ニ降伏セシメン」

そして、彼は俺を絶句させるような言葉を続けた。

引渡人ひきわたしにんヨ、ワイズマンノ導キニ従ヘ。我ト共ニ新タナ大東亞ノ秩序ヲ築カヌカ? 臺灣タイワンハ、再ビ貴殿ラノ樂園トナラン」

一秒半ほど、俺は呆然とした。

それから、笑いが込み上げてきた。苦笑ではない。あまりに馬鹿げた冗談を耳にした時に、肺の底から溢れ出すような笑いだ。

「はははははは――っ!」

肩を震わせて笑い転げた。右手の釘がまだ焼けるように熱いが、構うもんか。ひとしきり笑い終えると、俺は視線を戻した。

「楽園だと?」俺は言った。「ジジイ、そんな植民地時代の古臭いネタ、今の三歳児でも騙せねえよ。この時代遅れの骨董品アンティークめ――」

俺は右手の人差し指を突き立てた。極めて冷静に、まっすぐ東郷を指差す。

「俺の楽園はここにある」隣に立つ女たちを指し示す。「いいか、この連中が俺のすべてだ。やるならやる、やらねえならさっさと失せろ」

東郷は一秒間、沈黙した。

そして、刀を抜いた。

名刀「一文字」が鞘を走り、黒い重油の旋風を巻き起こす。その風が反応炉頂の塵をなぎ払い、紫光に照らされた刃は「百二十年待ち続けた」殺意を宿して冷たく輝いた。

不逞ふていノ輩メ……死ネ!!」

「二人とも、」俺が命じる。「バラせ」

シキ(牛小琴)が先陣を切った。助走なしの一歩。その踏み込みが甲板を捉えた瞬間、動力炉のプラットフォームが局所的な重力場によって三センチほど陥没した。

東郷の放つ一太刀目が彼女の脇腹を狙う。シキは避けず、左腕を突き出して強引に受け止めた。接触点に地府の呪文が白い閃光を放ち、剣気を削ぎ落とす。衝撃に半歩押し戻されながらも、彼女はその勢いを利用して旋回し、右手の番刀を振り抜いた――。

狙いは東郷ではない。彼を護る周囲の衛士陣形を横一閃に薙ぎ払う。

その一撃に込められた重力場グラビティ・フィールドが外部へと拡散し、衛士陣の三体が同時に構造を喪失した。腰から上が砕け散り、黒い油が飛散する。床に叩きつけられる湿った音が、静まり返った動力炉室に響く。

東郷トウゴウは半歩、後退した。今夜、彼が初めて見せた「退却」だ。

だが、牛小琴ニュウ・シャオチンの猛攻は止まらない。彼女は重力の指向性を斜め下へと切り替え、残る二体の衛士を甲板へと圧殺した。反応炉の底座に押し付けられた彼らは、這い回る黒油に飲み込まれ、音もなく消滅した。

同時に、葉 綺安イェ・キアン――馬三娘マー・サンニャンが動く。

その身のこなしは、狭い室内で鋭い折れ線を描く。直線的な突撃ではなく、左右へ瞬時に転身し、足跡を刻むたびに立ち位置を変える。馬三娘が放つ陰司いんしの粛殺たる気場に、東郷と反応炉を繋ぐ黒い血管群が、恐れをなしたかのように一節ずつ縮退していく。

「――仕掛けるわよ」

西瓜刀すいかとうの円弧が空中に七つの灰色の切線を刻んだ。それらは精密に、反応炉の心臓部に突き刺さった三笠みかさ主魂釘(ソウルネイル)(メイン・リベット)周囲の血管群を捉えた。一太刀ごとに接続点が断たれ、東郷の霊圧核心が揺らぎ始める。彼をこの動力炉に繋ぎ止めていた百年の執念が、一本、また一本と引き剥がされていく。

名刀「一文字」が馬三娘へ振り下ろされる。彼女は西瓜刀でそれを迎え撃ち、刃と刃が激突した。馬三娘の「呪いの周波数」が刀身を伝わって逆流する。東郷の剣筋が乱れた。それは技術の衰えではない。彼の「信念」という周波数が干渉されたのだ。

馬三娘は陰司の鬼将。彼女が背負う権威は単なる戦力ではなく、死者を冥府へと連れ戻し審判にかける「秩序」そのものだ。百二十年の軍神は、己よりも遥かに古く、逃れられぬ絶対的な「法則」を初めて突きつけられた。

俺はその刹那の隙を見逃さなかった。

死神の大鎌デス・サイズを突き出す。斬るのではない、かぎだ。東郷の「一文字」を握る腕を強引に引っ掛け、その斬撃の軌道を力任せにねじ曲げる。刃面が霊圧の最も薄い横截面をなぞり、彼の召喚周波数をさらに半分、断ち切った。

そこへ、牛小琴の重拳が叩き込まれた。

前方への一撃ではない。上から下へ、三倍の重力を拳大の面積に凝縮した、必殺の圧砕。

「――ッ!」

爆音ではない。構造物が限界を超えて軋む、低く重い音が響いた。万力で硬い物体を粉砕した時のような、決定的な破壊の音。

東郷の身体が吹き飛び、反応炉背後の放熱フィンへと叩きつけられた。「一文字」が手から離れ、甲板の上を滑って綺安の足元で止まる。

馬三娘は静かに歩み寄り、西瓜刀を彼の喉元に突き立てた。

「この魂、汚染甚だしい。日本の冥府へ移送し、審判に処す」

彼女はそう告げると、俺を振り返った。「……この者に、あの魂釘(ソウルネイル)を吐き出させなさい。あれはこの船の腫瘍よ」

俺は大鎌を引き、東郷の前へと歩み寄った。独眼、紅い光、百年。その視線の高さに合わせ、俺は腰を下ろした。

「東郷のジジイ、」俺は言った。「いくさは終わりだ。船も沈む。俺に大鎌で抉り出されるのがいいか、それとも自分から差し出して、大将としての最後の体面を守るか?」

東郷の独眼から、紅い光がゆっくりと引いていく。彼はしばらく俺を見つめていたが、やがて長く、重い溜息を漏らした。その音は人間のそれではなく、船底の腐り果てた鉄が共鳴するような響きだった。

「我ガ魂ハ……三笠ト共ニ……永久ニ消エズ」

その口角が、不気味な弧を描いた。

その歪みが生まれた刹那、俺は直感した。最悪が来る、と。

「クソったれ!(我操!)」

「下ろした」はずの彼の右手が、関節の可動域を完全に無視した角度で自らの胸腔へと突き刺さった。そのまま三笠みかさ主魂釘(ソウルネイル)を掴み――引き抜く。黒い重油を撒き散らし、接続管をブチ切り、彼と動力炉を繋いでいた百二十年分の怨念ごと、生々しく引きずり出した。

「大日本帝国……万歳バンザイ!!」

東郷の残骸がその咆哮と共に漆黒の竜巻へと変じる。半空に躍り出た主魂釘(ソウルネイル)はもはや錆びた鉄塊ではない。容器を失った「黒いブラックホール」だ。それは動力炉から核燃料を、冷却水を、あらゆるエネルギーを貪欲に喰らい尽くし、この船ごと道連れに消え去ろうとしていた。

警報アラート!! 炉心温度上昇、制御不能! 冷却サイクル破綻――」

動力炉の幽玄な青光が、一瞬で死を告げる暗紅へと塗り潰される。

小琴シャオチン三娘サンニャン、ずらかるぞ! ここが吹き飛ぶ!」俺はキャサリンを抱き起こし、後方へ怒鳴った。「橋本はしもと! 重装備を捨てて全速撤退だ!!」

「まだ暴れ足りないんだけど――っ!」シキは毒づきながらも、すでに走り出していた。足元の甲板は高熱で軟化し、シロップを踏みつけるような不快な音を立てている。

「時間がないわ、」葉 綺安イェ・キアンが告げる。「自己吞噬セルフ・イーターが始まっている」

天井からは煮え滾る重油が滴り落ち、肩を焼く。俺はキャサリンを庇いながら疾走し、橋本率いる鋼鉄班はケブラーベストをかなぐり捨て、軽火器のみを手に俺たちの背を追った。

「出口――あの緑の光よ!」キャサリンが前方を指差す。「最後の脱出ルートだわ!」

最前線を走る林 雨瞳リン・ユートンが、虚空を力任せに引き裂いた。空間の位相が彼女の前で幾何学的に不安定な「穴」を描き、その縁が激しく震え、収縮していく。彼女はその中へと足を踏み入れた。

「離れないで、このまま空間を繋いで脱出するわ」彼女が鋭く告げる。「急いで!」

俺はキャサリンを抱えたままその中へ飛び込んだ。背後では東郷の最期の執念が、黒雲と火炎の津波となって押し寄せていた――。

直後、肌を刺すのは冷たい雨と、横須賀の闇。



AM 04:15 横須賀港よこすかこう・救命ボート

「ゴオオオオオン――――!!!」

ロナルド・レーガンが最期の断末魔を上げた。艦体は中央から無残に折れ、紅い光と黒い重油が海面に数十メートルの水蒸気の壁を突き立てる。その衝撃波がボートを激しく揺らしたが、なんとか転覆は免れた。

俺は顔に張り付いた海水を拭った。右手の釘からは白い煙が立ち昇っている。痛みはすでに麻痺し、ただ微かな熱だけが、そこに「何か」があったことを物語っていた。

橋本は血の滲む額を押さえ、ボートの縁を掴みながら遠方を指差した。

外人ガイジン、見ろ」

東郷が消滅した途端、三笠みかさは急速に風化し始めた。肉眼で追えるほどの速度で、艦体構造が数分のうちに内側から崩壊していく。明治の残夢を道連れに、それは音もなく沈み込み、後には海面に広がるどす黒い重油の染みだけが残された。

「終わったの……?」シキがボートの底に倒れ込む。足の細かな切り傷から血が滲み、牛小琴ニュウ・シャオチンの霊圧が静かに引いていく。

「いや、」俺は言った。「ようやく始まったところだ」

基地から響き渡る警報の紅い光を見つめ、海風に濡れた紙巻き煙草を口に咥える。三度目の火花でようやく火が灯った。

「俺たちはアメリカの空母を沈めちまったんだ。神楽機関かぐらきかんがこいつを揉み消してくれなきゃ、俺たちの余生はグアンタナモの監獄行き確定だぜ」

ボートの隅で、キャサリンは俺が貸した上着を必死に抱きしめ、燃える海面を見つめていた。その瞳に宿っていた「何か」が火光と共に沈み、やがて彼女は俺を見上げた。

「次はあんたが俺を助ける番だぜ、キャサリン」俺は極めて親切そうな笑みを浮かべて言った。「あんたの番だ」


AM 05:30 横須賀某軍事病院・臨時隔離病棟

窓外の朝焼けは黒煙に染まり、オレンジと紫の混じり合った不気味な色を呈している。ロナルド・レーガンの沈没が引き起こした重油の波が、規則正しく岸辺を叩いていた。まるで昨夜の貸しを精算しろと迫るように。

ベッドに座るキャサリンの腕には包帯が巻かれ、その眼差しからは昨夜までの海兵隊員としての迷いが消えていた。野性は残っているが、その奥にはさらに深く、鋭い「何か」が根を張っている。

「NCIS(海軍犯罪捜査局)の連中が廊下に来てるわ」彼女は声を潜めた。「報告書はすでに送った。――ミラー中尉は私を守るため、三笠から溢れ出した未知のバイオハザードに呑まれた。民間警備コンサルタントであるあんたが私を救出し、レーガンの爆発は三笠の残骸による炉心熱暴走が原因。……そう書いたわ」

俺は窓辺に寄りかかり、手元に残った空の禁煙飴の包み紙を弄んでいた。

「いいか、キャサリン」俺は言った。「除隊なんて口にするな。あんたは『英雄』として振る舞うんだ。ミラーはあんたと、この基地を守るために犠牲になった。その栄光を背負って上へ登れ。登れば登るほど、俺を助けられることも増える」

彼女はじっと俺を見つめ返した。

「……どこまで登ればいい?」

「アジア全域の米軍を動かせる位置までだ」俺は彼女の肩に右手を置いた。釘の余熱が彼女の身体を微かに沈ませる。「これからはあんたが俺の目であり、耳だ。そして、俺があんたの唯一の退路になる」

廊下に軍靴の音が近づく。捜査官たちが来る。

キャサリンは瞬時にその眼差しを隠し、背筋を正した。地獄から生還した「米軍の英雄」へと、一秒足らずで変貌してみせた。

「……了解したわ」

俺は手元にない煙草を揉み消す仕草をした。

雨瞳リン・ユートンが壁に空間の裂縫きれつを刻み、その中から彼女の声が響く。大きな事件が終わった後の、どこか投げやりで軽やかな響き。

「シーダー、日本側がパニックになってるわよ。神代じんだい 弥生やよいも来てる。あんたが空母を沈めたって聞いて、ホテルの屋上で祝宴の準備をしてるわ。――葬儀の準備かもしれないけど、彼女自身もまだ決めかねてるみたい」

俺は最後にキャサリンを一瞥した。彼女が短く頷くのと、NCISがドアを蹴り開けるのは同時だった。俺はすでに裂け目へと足を踏み入れている。

「ったく、これだから女ってのは……」

亀裂が閉じ、病室が消える。窓の外では、まだ朝焼けが燃え続けていた。


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