134.人喰いの秩序 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
車列がイタリアに入った途端、天気がまるで別の何かに変わった。
暖かくなったわけでも、良くなったわけでもない。ただ、色が違う。北のほうにあった、あの湿っぽくて灰色がかってて、人間の肺胞をじわじわ削っていくような空気が、ここまで来ると乾いた硬い光に置き換わっている。
道端の斜面にはオリーブの木が見えはじめて、低い石垣、ブドウ畑、太陽に焼かれて白くなった農家。遠くの山の稜線はだらだらと長く伸びていて、誰かが鈍いナイフで地平線にゆっくり切れ目を入れていったみたいだ。映画なら、こんな景色が出てきた時点で「南に近づいた」「文明に近づいた」「秩序に近づいた」ってことになるんだろう。
俺は、ここまで眺めてきて、ひたすらイラついていただけだけどな。
南に行けば行くほど、路面はきれいになり、検問は「それっぽく」なり、出迎えに来るスーツは身体にぴったり合うようになって、帳簿の金も、ちゃんとどこかの「まともな人間」の懐に流れ込んでいきそうな顔をしはじめる。
車列はそのまま幹線道路を滑るように進み、検問の手前にある緩衝地帯に入った。先頭の護衛車がスピードを落とし、後ろのK-7もバックミラー越しにそれに合わせて減速していく。バリケードは軍用じゃない。普通の国境用分流バリアとカメラと背の低い屋根だけだ。だからこそ分かる。この線は戦車を止めるためのもんじゃない。人間をふるいにかけるためのラインだ。合法は通す。非合法は消す。グレーな奴らは、別枠で処理。
助手席の林雨瞳が書類袋を開けて、何枚かの通行証を指先で素早くめくった。
「前導車はいつも通りの手順。護衛車は通常検査。K-7のほうは、神父が自分でやる」
「アイツの"自分でやる"は、他人からするとたいてい気分が悪いけどな」
「それは他人の問題」
そのとおりだ。
前導車が検問レーンに滑り込んでいくのを見ながら、俺は屋根付きのスペースの下にすでに男が二人立っているのに気づいた。黒いスーツ、白いシャツ、濃い色のネクタイ。ジャケットのボタンはきっちり留めてあって、靴はよく磨かれて、髪はきれいに撫でつけてある。肩の線も崩れていない。警官でもなければ税関職員でもない、ただの役人でもない。
こういう連中は、独特の嫌な匂いがする――身分証なんか見せなくても分かる。こいつらはスーツケースには触らない。スーツケースがどこに行くかを決める紙にだけ触る。
そのうち一人が窓の横まで来て、腰を折った。定規で測ったみたいな完璧な笑顔。
「周さん」
俺は先に書類を出したりはしなかった。
「ずいぶん話が早いじゃねえか」
「早いんじゃありませんよ。前のほうで、すでにお話が通っているだけです」そう言ってから、きれいな発音で付け足す。「イタリアへようこそ」
言葉そのものには何の問題もない。問題は、この男の口から出ると、「ようこそイタリアへ」じゃなくて「ようこそ、もう一枚大きな網の中へ」にしか聞こえなくなるってことだ。
俺は書類を渡した。やつはそれを大して細かくは見ない。ただ、俺たちが「やつの手元のリストに載っている予定通りの名前かどうか」を確認している動き。隣に立っているもう一人は、俺の横から車内に視線を滑らせる。後部座席の窓際にレイチェル、その隣に小希。反対側にエリザヴェータ。目が、包丁の背中みたいに冷たい。後ろの席にはマリア(マリア)修女が座っていて、道中ずっと、妙なくらい静かだった。ただあの氷みたいな青い片目で、外のスーツ二人を見ている。医者が、まだ確定診断の出ていない病変を眺めているときの目つきで。
相手は書類を俺に返しながら、笑みを薄めた。
「道中のご無事をお祈りしております」
俺は受け取ったが、「ありがとう」とは返さない。
「余計な心配はいらねえよ」
やつは軽くうなずいて道を空ける。護衛車が先に出て、俺もアクセルを踏んでそれに付いていく。K-7が屋根の下をくぐるとき、バローロ神父は窓を全開にすらしなかった。ほんのわずかな隙間から書類を見せただけだ。スーツ二人はバローロの顔を見た瞬間、笑顔が半分に減り、動きもさらに無駄がなくなる。あれは敬意じゃない。退避だ。自分の手で止められる重さじゃないトラックを見たとき、いちばん賢い行動が、ちょっと脇に寄ることなのと同じ。
検問を抜けたところで、ようやくマリアが口を開いた。
「ここの人たちは礼儀を分かってる」
俺は前を見たまま言う。
「お前の"礼儀"の基準、だんだんカルテみてえになってきてるぞ」
「だって、誰を見たらどくべきか、ちゃんと分かってるんだもの」彼女は言葉を継ぐ。「北のあの黒い法衣たちは、まだ"演じよう"とする。こっちの連中は、もう演じない。神父を見た瞬間に、手を出すべきじゃないって理解してる」
後ろ右側の席に座っている葉綺安が、気の抜けた声を出した。
「言い方がさ、野良犬が獣医見たときの話みたいなんだけど」
「違うわね」マリアはふっと笑った。「どちらかといえば、『経理担当が監査官を見たとき』のほうが近いわ」
林雨瞳がルームミラー越しに彼女を一瞥する。
「今日は比喩が多い」
「場面に合わせてるのよ」
「だったら、黙って合わせて」
珍しく、マリアは言い返さなかった。ただ座席で体勢を変えて、顔を窓のほうに向ける。
こいつはバチカンに近づけば近づくほど静かになる。だからといって「まとも」になってるわけじゃない。むしろ逆だ。さっきまで宙で好き勝手に振り回されていた刃物が、ようやくいちばん相応しい手術室の前にきちんと置かれたみたいなもんで、刃は鈍ってなんかいない。それどころか、余計に冷たくなっている。この静けさのほうが、あいつがずっと口汚くしゃべっていたときより、よっぽど居心地が悪い。口が悪いぶんには、まだ生き物だ。黙ったマリアは、道具だ。
国境を越えたあとは、道は山を迂回しなくなり、幹線を南に向かってまっすぐ進むようになった。道路標識にはミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマの文字が頻繁に現れ、まるで、あらかじめ貼り出された告解の手順書みたいだ。先頭の護衛車は一定の距離を保って走り、そのすぐ後ろをK-7が詰めすぎず離れすぎず付いてくる。バローロ神父の運転はやたらと安定していて、あれはハンドルを握ってるんじゃなくて、「一本の道路そのものを、自分の望む形に押し固めてる」みたいな安定感だ。ときどきバックミラーの中に、あの灰黒色の鋼鉄の怪物が車列の中を滑るように入り込むのが見える。そのたびに周りの小型車が、無意識にわずかに端に避ける。ルールだからじゃない。本能で。
林雨瞳は、新しく上がってきた資料を膝の上に広げた。
「先遣から、節点表が一枚追加で来た」
「どこから?」
「向こうからじゃないわ」彼女は淡々と答える。「昨夜、サン=ヴァレリの捕虜から押収したメモリーカード。さっき検問の前で、護衛車に回収させた。中身の一部がルート写真で、残りが暗号化された転送表」
俺は横目で彼女を見た。
「なんで今言う」
「いま終わったから」
こいつは昔からこうだ。結論を出せるところまで自分の中で整理し終えるまでは、口を開かない。
彼女はその束の中から一枚を抜き取って、俺の目の前に差し出した。赤信号で止まっているあいだに、ざっと目を通す。いくつもの会社コード、倉庫節点、ナンバーの一部だけ拾ったナンバープレート、送金の印。一番下の短い地名の並びを見た瞬間、違和感が出る。
「ローマ近郊か」
「ええ」彼女はうなずく。「しかも、市内に入るだけじゃない。まず外周の倉庫に入ってから分岐してる。霊柩車、コールドチェーン車、宗教修復の専用車、それから、美術品梱包と医療消耗品の補給をやってる会社がいくつか」
俺は前の車列から目を離さずに言う。
「もっと分かりやすく」
「分かりやすく言うと――」林雨瞳は資料を引き戻しながら、淡々と続ける。「これらのペーパーカンパニーは、最終的にすべて"何か"をローマ外縁部に運び込んでいる。何を運んでいるのかは、必ずしも明記されていない。でも、地下施設の設備番号や薬剤ロット、それからいくつかの国境節点の記録を突き合わせると、その一部は最終的に"バチカンの周辺で管理可能な圏内"に入っていく」
「ローマの外で"荷下ろし場"をやってるって話か」
「一つじゃないわ」彼女は言い切る。「しかも、いかにも"秘密拠点"って顔をしてるのは、そのうちの一部だけ。修道院の倉庫、医療ステーション、チャリティの物流センター、葬儀用の冷蔵保管室、宗教文化財の保全倉庫――どれも"ふつう"に見える。でも"ふつう過ぎる"ところが、逆におかしい」
俺は短く鼻で笑った。
「このご時世、いちばんヤバいもんには、たいてい"合法"ってラベルがちゃんと貼ってある」
葉綺安がすかさず乗ってくる。
「領収書付きでね」
「ネクタイもセットだろ」俺が返す。
後部座席のマリアが、そこでようやくまた笑った。
「今日は調子がいいじゃない、周士達。イタリア、あなたに向いてるわよ。ここの人たちは、汚れ仕事にとびきりきれいな包装をかけるのが得意だから」
「今のは、風景の話か? それとも"自分の仲間"の話か?」
「仲間なんかいないわ」彼女はあっさり言う。「あるのは道具箱だけ」
これは事実だ。
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