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S2第三十一章 泥濘

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

「パシッ」

乾いた音が一つ。

続いて二つ目。今度はさらに重い衝撃が走った。

老高ラオガオの、タコで硬くなった手のひらが震えていた。俺を睨みつける彼の眼球には血が走り——それは怒りというより、この街の殺気に煽られ、自分でも制御しきれなくなった焦燥のようだった。

俺は熱を持った頬を撫で、歯で切れた口内の肉を舌先で転がした。鉄錆のような、古びた血の味が口の中で弾ける。右手の掌に潜む魂釘ソウルネイルがその暴力に反応し、拍手喝采を送るかのように微かな金属振動を上げた。

周士達ジョウ・シーダー……今の言葉、人間が吐くセリフか?」老高は荒い息をつき、指の間のタバコはすでに握り潰され、無残な紙屑と化してテーブルに散らばっていた。

「真実ってのは、いつだって耳障りなもんですよ、高隊長」

俺は立ち上がり、彼と、それから橋本はしもと 健一けんいちを冷ややかに見下ろした。「あんたら二人、さっきまで高みの見物を決め込んでたじゃねえか。火の粉が自分に降りかかってから、慌てて捜査開始か?」

返事など待たず、俺は上着をひっ掴んで出口へと向かった。

神代じんだい 弥生やよいの横を通り過ぎる。彼女は床に跪き、割れた陶器の破片を拾い集めていた。ニットの裾には味噌汁が跳ね、その顔色は供え物の紙のように真っ白だ。彼女はこのレストランの霊圧がどす黒く変質していくのを感じ取っている。だが言葉にできず、ただ何かを強く握りしめられたような眼差しで、俺を見つめていた。

俺は足を止めなかった。

「老高、利息は俺が回収してくる」振り返らずに告げる。「喧嘩の続きなら、帰ってから受けてやるよ」


PM 18:30 三笠公園みかさこうえん

一日中、そこにいた。

巨大な三笠みかさの艦首の下で、右手の釘は狂ったように回転し、骨が軋む音を立てていた。だが、何も得られない。手がかりも、術式の残滓も。ただこの鋼鉄の巨獣は、正午の陽光を浴びて冷徹に佇んでいるだけだ。何も語らず、何も差し出さない。

まるで俺を嘲笑っているかのようだった。

「クソが……」

コンクリートに固められた艦底に唾を吐き捨て、俺はその場を後にした。


PM 21:30 どぶ板通り・「Rusty Anchor」バー

すでにストレートで四杯、煽っていた。

店内にはバーボンとカビた革の臭いが充満している。俺はカウンターの最も暗い隅に座り、右手の釘をテーブルの下で神経質に弄んでいた。その瞳には、視界に入るものすべてを敵と見なすような昏い光が宿っている。それが俺自身の意志ではないと分かっていても、もはや区別するのも億劫だった。

「五杯目よ。……お客さん、手が血まみれだわ」

左隣に座っていた女が声をかけてきた。

キャサリン。後で知ることになる彼女の名だ。色褪せた深紅のベルベットドレスに、不釣り合いなオーバーサイズのアメリカ軍野戦ジャケットを羽織っている。鎖骨に散らばる金髪と、慢性の不眠を物語る充血した瞳。

どうやら彼女も、何らかの「クソッタレな日常」から這い出してきたばかりのようだ。

「血なんてどうでもいい」俺は顔を向けた。「重要なのは、火だ」

彼女は怯まなかった。自嘲気味に微笑むと、血の滲む包帯に包まれた俺の右手に、そっと自分の手を重ねた。指先は冷え切っていたが、掌には微かな体温があった。

「私の恋人は基地で当直についているの」彼女は低い声で言った。「彼もきっと、あんたみたいにコンクリートの壁に向かって発狂しているはずだわ」

その後、俺たちはバーの裏路地にある薄暗いアパートの階段室へと向かった。


PM 22:15 アパートの階段室

ゴミの酸っぱい臭い、湿り気を帯びたカビの気配、そして剥き出しの粗い煉瓦壁。

そこに慈しみなど存在しない。ただ破壊があるだけだ。これは愛ですらなく、性愛ですらさえない。横須賀よこすかの黒い霧の中で溺れかけている二頭の野獣が、互いの体温を通じて「まだ生きている」ことを確認しようとするだけの、絶望的な足掻きだった。

彼女は押し殺した喘ぎを漏らし、頭をのけぞらせる。金髪が湿った煉瓦に張り付く。

その時、階下から急き立てるような、重々しいブーツの足音が響いた。

「CATHERINE! I TOLD YOU TO STAY HOME!(キャサリン! 家にいろと言っただろうが!)」

逆上した大柄なアメリカ軍憲兵が階段を駆け上がってくる。基地の混乱を突いて持ち場を離れた彼は、容赦ない怒りをぶつけてきた。抵抗する間もなく衝撃が走り、視界が歪む。そのまま冷たい雨が降る路地へと突き出され、背後で激しい足音が遠ざかっていった。


PM 23:45 横須賀市街・雷雨

激しい雨が横須賀の街を叩き、すべてを洗い流そうとしている。アスファルトの上で動けずにいると、泥と雨水の混じった重苦しい空気が肺を満たす。掌に刻まれた痣のような感覚が、今の惨めな現実を強調していた。

不意に、降り注ぐ雨が遮られた。

目の前には深い紺色の長傘。傘の先から滴る雫が、規則正しく地面を叩く。顔を上げると、そこには林 雨瞳リン・ユートンが立っていた。黒いロングコートが海風にたなびき、その双眸は漆黒の闇の中で紅い燐光を宿している。

彼女は無言のまま、雨に濡れ、無様に横たわる姿を冷徹に見下ろしていた。傘を握るその指先は、白く強張っている。

「私はきっと、呪われているんだわ」

彼女の声は、降りしきる雨よりも冷たく、凍てついていた。

「自分に一万回も言い聞かせたわ。あんたのことなんて放っておけって。……なのに、どうしてもできない」

沈黙が落ちる。

周士達ジョウ・シーダー、あんたは本当に――最低のクズね」

「ああ、違いない」

俺は血の混じった唾を吐き捨て、裂けた唇で不敵に笑った。「救いようのない、大馬鹿野郎さ」

右手の掌に潜む魂釘ソウルネイルが猛然と収縮し、全身を痙攣させるような激痛が走る。だが、それも一瞬のことだ。痛みはすぐに引き、空虚な余韻だけが残った。

豪雨の中、雷鳴と雨音に混じって、喉の奥に押し殺された何かが微かに漏れ出す。

雨瞳リン・ユートンは背を向けなかった。深い紺色の長傘が風に傾き、俺というクズを、彼女の砕け散った誇りもろとも、このわずかな影の中に閉じ込めた。


PM 23:55 横須賀よこすか・埠頭外周の公衆便所

コンクリートの建物に足を踏み入れた瞬間、雨音はこもった響きへと変わった。空気の中には消毒液の刺激臭と、こびりついた尿の臭い、そして濃厚な生鉄の錆びた臭いが立ち込めている。

一番奥の個室へユートンを押し込み、木製のドアを蹴るようにして閉めた。「ガンッ」と、立て付けの悪い錠が掛かる音が響く。

「ジョウ・シーダー! あんた、正気なの――」

彼女の両手が俺の胸を突き放そうとする。アルコールと、別の女の残り香が染み付いた俺の薄汚い身体を拒絶するように。だが俺は無言のまま、血の味のする口づけで彼女の言葉を封じた。

彼女の抵抗は激しかった。背中に爪が食い込み、数筋の血痕が刻まれる。

だが、彼女は声を上げなかった。

それが林 雨瞳という女だ。どれほどの怒りに震えていても、他人に弱みを見せるような声は決して漏らさない。その意固地なまでの矜持は、以前と何ら変わっていなかった。

ある一点を境に、彼女の抵抗が瓦解し始めた。それは俺を許したからではない。三笠みかさの瘴気が彼女の血の中まで侵食し、溜まりに溜まった感情の火山が、最も不浄な場所で出口を見つけてしまったからだ。

彼女は俺の首に腕を回した。自暴自棄なのか、それとも運命を認めたのか。

これは救済などではない。横須賀の泥沼の中で、二つの壊れた魂が、無理やり繋ぎ合わされたに過ぎない。毒素を孕み、亀裂だらけのまま、ひどく脆く。

どれほどの時間が過ぎただろうか。狭い個室に残されたのは、雨音と、乱れた呼吸だけだった。

ユートンは俺の腕の中で力なく項垂れていた。紅い光が明滅するその瞳は伏せられ、燃え尽きる直前の残り火のように、今にも消え入りそうだった。

俺も、何も言わなかった。

右手の釘からはどす黒い泥が滲み出しており、痛みは続いていたが、その鋭さは鈍い疼きへと変わっていた。何かが、もっと深い場所へ沈んでいったような感覚。それは二度と、取り戻せないもののように思えた。


當日深夜・橫須賀よこすか基地外緣・海岸防波堤

登場人物は三人。

勤務時間が終わり、どぶ板通り(Dobuita Street)で夕食を摂るという、ありふれた計画。だが、港の岩礁地帯に差し掛かった時、海兵隊員の一人が突如として足を止め、こう漏らした。

「海を見ていきたいんだ」

後に残りの二人が語った回想によれば、それは「提案」などではなかった。それは、百年前から残されていた死の命令デッド・オーダーを淡々と執行するかのような、空虚な響きだったという。

それから二時間、月光に照らされた岩礁の上で、三人は立ち尽くした。海に向き合い、両手は力なく垂れ下がり、その立ち姿は打ち立てられたばかりのコンクリート像のように硬直していた。冷たい飛沫が便服を濡らしても、彼らの瞳は水平線の燐光に釘付けにされたまま、瞬き一つしなかった。

パトロール中の警官が放った強光ライトの照射を受け、彼らはようやく、切れたゼンマイが繋がったかのように激しく震えた。

「大丈夫だ……ただ、海を見ていただけだ」

三人が、全く同じ抑揚、全く同じ間隔で答える。古い蓄音機に刻まれたレコードを再生したかのような、非人間的な一致だった。

基地に帰還後、彼らは十八時間に及ぶ昏睡に落ちた。医療官が瞼をめくると、体温はショック死寸前の34.2度まで低下していたが、その呼吸だけは、岩場を打つ波のように不気味なほど安定していた。


米軍基地襲撃報告書(第二次追加記録)

発信元: 米海軍第七艦隊・横須賀基地憲兵隊 (MP) / 医療センター

宛先: 在日米軍司令部 (USFJ)

日時: AM 01:25

事案コード: 「Frozen Sentinel(フローズン・センチネル/氷結の歩哨)」

格付: UNCLASSIFIED // FOR OFFICIAL USE ONLY

1. 事案概要

米軍兵士三名が非番時に「異常集団行動」を惹起。薬物反応およびアルコール摂取の痕跡なし。海岸線にて120分以上にわたり集団静止。

2. 臨床的初期診断

体温異常: 全員に中等度の低体温症(Hypothermia)が認められるが、寒冷に対する感覚を完全に喪失。

記憶断層: 当該120分間の行動論理について、全被疑者が説明不能。

後遺症: 覚醒後、「水」および「金属の打撃音」に対し激しい生理的拒絶反応を示す。

3. 内部調査備考(BITC)

初期分類は「集団的非行(Group Misconduct)」。新型のサイキック薬物による影響を疑うが、特筆すべき点として、全員の軍靴の裏から明治時代の生鉄なまがね屑および海軍用重油が検出された。

4. 警告

事案発生地点は上等兵ジョンソンの「コンクリート化(水泥化)」現場と扇形に対応。三笠みかさの霊圧干渉範囲は、時速1.2キロの速度で基地中枢へ拡張中。

処置: メンタルケア対象として経過観察。再度「集団看海(集団での海視)」現象が発生した場合、基地の警戒レベルをフェーズ2へ引き上げる。


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