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S2第三十章 事件の兆候

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

昨夜・横須賀港外縁・名もなきパトロールルート。

たった一人だった。

それは勤務明けの自由時間。彼は私服に身を包み、給料日直後の若い米兵なら誰もがそうするように、八十年代の黴臭い空気が漂う横須賀の路地を歩いていた。スマホのバッテリー残量はわずか15%。付近のハンバーガーショップがまだ開いているか、うつむき加減に検索を続けていた。GPSの最後のログは、ベースのゲートから約七百メートル離れた小路――海防堤に張り付き、街灯もなく、ただ錆びついた消波ブロックに打ち付ける波の鈍い音と、まとわりつくような腐ったコンクリートの臭いだけが漂う場所だった。

翌朝、巡邏隊が岩場の隙間から彼のスマホを発見した。

スクリーンは無傷だったが、バッテリーはとうに尽きている。午前零時十二分に送信された最後のショートメッセージは、ルームメイトに宛てたものだった。

「"Yo, im gonna be back late."(よう、帰りは遅くなる)」

その瞬間を境に、この生命が現実世界に刻んでいたすべての座標は抹消された。

四十八時間後、彼は付近の病院の救急外来に姿を現した。外傷は一切なく、意識は不気味なほど鮮明だった。当直の医官が人だかりをかき分け問診を始めようとしたその時、彼はただ天井を凝視し、ひび割れた河床のような唇から、人生最後となる「人間の言葉」を絞り出した。

「"The water... was so cold."(水が……冷たすぎる)」

直後、彼の喉の奥から歯車が噛み合うような異音が響いた。

それきり、二度と口は開かなかった。


【視點:機密報告書】

送信単位:米海軍第七艦隊・横須賀海軍病院(USNH Yokosuka)/霊能脅威モニタリング班

受取単位:在日米軍司令部(USFJ)/神楽機関横須賀連絡所

日付:AM 03:15

事件コード:「Concrete Dirge」(コンクリートの挽歌)

機密レベル:TOP SECRET/NOFORN

1. 臨床ステータス更新

被災者、ジョンソン上等兵(PFC Johnson)はAM 01:45、「特殊対応病棟」に緊急移送された。現在、当該員の身体と防波堤コンクリートとの融合率は87%に達している。医療チームが工業用ドリルを用いた物理的分離を試みたところ、接触の瞬間にジョンソンは人間の声帯の限界を超えた高周波の絶叫を放った。ドリルが穿った傷口から血は流れず、代わりに煤煙の臭いと百年前の海軍重油が混ざり合った粘り気のある黒泥が噴出した。

2. 異常生理現象

高解像度X線スキャンの結果、ジョンソンの皮膚表面に規則的な金属の隆起を確認。皮下組織が何らかの鋼鉄構造によって強引に置換されている。初期分析によれば、当該物質の分子配列は1905年、明治時代の戦艦「三笠みかさ」に用いられた造船用鋼材(クルップ鋼)と完全に一致した。被災者の肺胞は乾燥したモルタルで完全に充填されており、理論上は即死の状態にあるが、生命兆候は何らかの「幽閉された狂気」を伴い、生理的常識を逸脱した高頻度で作動し続けている。

3. 環境音響記録

AM 02:30、特殊病棟の壁面が集団共鳴を開始。隣接する空室三部屋の白い壁表面に、予告なく数十もの半透明で歪んだ顔の輪郭が浮上した。いずれも明治期の水兵の特徴を有している。録音機器は、この「壁の中の住人」たちが錆びた鉄が擦れ合うような重層的な声で、繰り返し低吟するのを捉えた。

「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力」




AM 07:15 横須賀よこすか・メルキュールホテル 12階

神代じんだい 弥生やよいが部屋のドアを押し開けた時、俺は乱雑なダブルベッドの上で死体のように横たわっていた。右手の包帯から漏れ出す鉄錆の臭いが、室内に澱んだ熱気と混ざり合う。手のひらの魂釘ソウルネイルが疼いているのか、それとも横須賀という街そのものが断末魔を上げているのか、もはや判別すらつかない。

俺の腰には、シキが獲物を仕留めた豹のように跨ったまま眠りに落ちていた。

その光景が網膜に飛び込んだ瞬間、弥生の視線は床に散乱した男女の衣類から弾かれるように逸らされた。彼女は手元の報告書を穴が開くほど見つめ、その耳の付け根は見る間に真っ赤に染まっていく。神域容積しんいきようせきと形容すべき質量を持った双丘が、荒い呼吸に連動して重々しく上下していた。

ジョウさん、米軍基地の方が――」

「言え、」俺は微動だにせず応じる。「この小豹は寝起きが最悪なんだ。声のボリュームを下げろ」

弥生は深く吐息を漏らし、報告書をサイドテーブルに叩きつけると、スマホの画面を俺に突きつけた。

神楽機関かぐらきかんの最高層、九条院からのショートメッセージだ。

『周殿へ。横須賀の件については、当局の正式指令が下るまで待機せよ。一切の干渉を禁ずる。弾丸をもう少し遠くまで飛ばせておけ。――神楽機関 九条院』

俺は鼻で笑い、スマホを押し戻した。

「弾丸を遠くまで飛ばせ、か……」弥生の声が湿っぽく掠れる。「周さん、昨夜の兵士の融合率はすでに八十七パーセントに達しています。彼らは、このまま見殺しにしろと――」

「"Yeah, I get it."(分かってるさ)」俺はベッドから這い出し、錆びた金属が擦れ合うような声で言った。「金を出し、泥を被るのは俺たち台湾人だが、手柄は日本政府が総取りする。その手のクソッタレな政治劇ドラマは嫌というほど見てきた」

俺は巫女さんの肩を軽く叩いた。

「行こうか、巫女様。米軍の連中がパニックを起こしてこの街を更地にする前に、まずは腹ごしらえだ」


AM 07:30 横須賀・メルキュールホテル 5階レストラン

横須賀の朝陽が窓から白いテーブルクロスに降り注いでいるが、この場に満ちた火薬の臭いを払拭するには至らない。

士達シーダー、おはよう」

雨瞳リン・ユートンが俺の正面に陣取っていた。サングラスの奥で火眼金睛かがんぎんせいの紅い燐光が明滅している。彼女が親しげに呼べば呼ぶほど、その瞳の中の炎が臨界点に近いことを意味していた。彼女は口角だけを不自然に吊り上げ、長い指先でコーヒーカップの縁を一定のリズムで叩いている。

「昨日の夜は、ずいぶんと『楽しく』過ごせたようね?」

俺は無言で立ち上がり、皿を持ってビュッフェへ逃げた。ベーコン二本、スクランブルエッグ、そして山盛りのマッシュポテト。炭水化物でこの致死レベルの気まずさを喉の奥へ押し込もうと試みる。

「容疑者は黙秘を貫いています。どうしますか、ガオ刑事?」

林暁葳がどこからか持ってきた高輝度タクティカルライトを俺の顔に照射する。昭和の取調室を気取った悪趣味な演出だ。

老高と橋本はしもと 健一けんいちは視線を交わし、黙って俺にグラスを掲げた。その目には、地雷原に足を踏み入れた同志への深い同情が込められていた。

「いい加減にしろ」俺はフォークを投げ出し、ユートンを正面から睨んだ。「昨夜は自由行動だったはずだ。俺はバーで偶然シキに会って、一緒にハンバーガーを食って死気を抑えていただけだ。それをよってたかって吊るし上げるのか?」

「ほう? ただの『偶然』と『セラピー』だったわけね?」

右手の手のひらで、あの魂釘ソウルネイルが肉を噛んでいた。太陽穴の脈動が激しく打つ。一晩中蓄積された、アルコールと死気が混じり合った不浄な熱火が、ついに決壊の出口を見つけ出した。

俺は顔を上げ、彼女を正面から射抜いた。

「お前はただの元カノだ。俺がどこで誰と寝ようが、いつからお前に指図される立場になった?」

たった一言。

それは演説などではなく、剥き出しの剃刀だった。

シキまでもが呆然とした。テーブルの下で落ち着きなく蠢いていた彼女の足が、凍り付いたように縮こまる。

老高ラオガオは煙草を揉み消した。橋本はしもと 健一けんいちは、この場で切腹でもしかねないほど深く俯いている。

雨瞳リン・ユートンが立ち上がった。その動作は、崩落を待つ氷山のように緩慢で、不気味だった。

サングラス越しでも分かる。その奥の紅い光が、激しく震えていた。レストランの気温が瞬時に十度は下がった。それは「瞳中火どうちゅうか」が極限の屈辱によって叩き消された後に残った、死の灰の冷気だ。

周士達ジョウ・シーダー……あんた、変わったわね」

彼女の声は、羽毛のように軽かった。

だが、その「火眼金睛かがんぎんせい」に映る俺は、単なる浮気者の野良犬ではない。この街の悪意に、魂を少しずつ蝕まれていく「異物」に見えているはずだ。

椅子の脚が床を削る不快な音がレストランに響き渡り、彼女は背を向けて去っていった。

俺は席に座り込んだまま、口に放り込んでいた禁煙飴を粉々に噛み砕いた。右手に目を落とすと、釘の周囲の皮膚がどす黒く変色している。

こんなのは、俺のスタイルじゃない。普段はどれだけクズを演じていても、雨瞳ユートンにだけは、あんな言葉を吐くはずがなかった。

「……今のあんた、すごく熱いよ」

シキが首をすくめ、俺の腕に触れてきた。彼女の体温を初めて拒絶したいと思った。それは錆びた鉄線で締め上げられるような、不快な熱さだった。

「あんたの魂、腐った臭いがしてる」

「黙って食え」







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