S2第二十九章 横須賀の燐光――事件の端緒
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
舞鶴から横須賀まで、直通の路など存在しない。
舞鶴港の埠頭で「初雪」を見送ったその瞬間、老神官は四十年の沈黙を収めた木箱を自らの手で閉じ、振り返って広島弁で一言、こう告げた。
橋本が俺の隣で通訳する。「……『この帳は、確かに記したぞ』。そう言っている」
俺は最後の一片となった禁煙飴を噛み砕いた。ミントと唐辛子が混ざり合った焦げたような味が鼻腔を突き抜け、強制的に意識を覚醒させる。
三万の魂は船に乗った。死神の指輪の紋様は、一ヶ月漬け込んだ墨のように色が褪せていたが、底に沈んだ色は消えていない。三枚のリベット(魂釘)――飛龍、扶桑、青葉――は儀式の末に定着し、俺の掌の皮下には三つの小さな鉄錆の跡が刻まれた。指で触れれば、今もなお痛む。
神代弥生は車窓のガラスに頭を預けていた。目は開いているが、その瞳の奥は空っぽだ。緋袴は脱ぎ捨て、普通の上着に着替えていたが、襟元には神社の松脂の香りが濃く染み付いたまま、彼女の影のように付き纏っている。
「横須賀」
彼女が唐突に口を開いた。眠っている何かを起こさないように、微かな声で。「周さん、霊圧感応儀の昨夜の最高数値はいくらでしたか?」
「知らないな」
「貴方に聞いたんじゃありません。魔法瓶に聞いているんです」
魔法瓶は葉綺安の膝の上にあった。キアンは片方のイヤホンを外し、眉を寄せる。「彼女(牛小琴)が言うには……針が振り切れて、メモリが見えなかったそうよ」
俺は笑えなかった。それは横須賀の霊圧が、計器の許容量の二倍を超えていることを意味していた。
通路を挟んで座る橋本健一は、眠ることなく丘陵の続く公道を眺めていた。その肩は呉にいた時よりはいくらか力が抜けていたが、背筋は真っ直ぐだ。海上自衛官として叩き込まれたその腰の線は、誰にも曲げることはできない。
外祖父の任務を、昨夜、彼は果たしたのだ。だが、彼は何も語らず、俺も何も聞かなかった。
横須賀に到着したのは夕刻近くだった。街はまるで祭りのように賑わっている。俺たちは適当なビジネスホテルに宿を取った。神楽機関からの連絡はまだない。俺は少し考え、全員に自由行動を許可した。
PM 16:45 どぶ板通り・Black Ship
どぶ板通りの看板は、日本語より英語の方が多い。まるで1980年代のアメリカ軍港映画のセットに迷い込み、そのまま更新を忘れられたような街並みだ。俺は通りを歩きながら、シンプルな計画を立てた。ハンバーガーの店を見つけ、一人で座り、何も話さず、三分間だけ脳を空っぽにする。「孤独のグルメ」、横須賀編だ。
だが、路地裏に希が現れた。彼女は煉瓦の壁に背を預け、腕を組んで俺を見ていた。
「ついてきてどうするんだよ」
「腹が減った」
それだけだ。
「Black Ship」の重厚な木製の防音ドアを押し開けると、そこには琥珀色の灯りとバーボンの焦げたオークの香りが満ちていた。数人の米軍兵士がすでに飲み始めている。私服だが、あの座り方と声のデカさは五キロ先からでも判別がつく。俺は隅の二人掛けの小さなテーブルを見つけ、生ビールとダブル・スマッシュ・バーガーを注文した。
ビールが運ばれてくる前に、シキが動いた。彼女は向かいの席に戻るどころか、椅子を蹴り飛ばし、俺の腿の上に跨り(またがり)座ってきた。軽く寄り添うのではない。正面から俺を見据え、両脚で俺の腰を挟み込み、ずっしりと重心を預けてきたのだ。襟元からは山林の乾草と体温が混ざり合った、焦れったい熱気が漂ってくる。
「……自分の椅子に座れないのか?」
「嫌だ。こっちの方が温かい」
俺はこの話題を続けるのを諦めた。
ハンバーガーが届いても、彼女は姿勢を変えるつもりはない。そのまま手を伸ばして一つを掴み、柔らかいバンズに指を食い込ませて、猛然と一口かじりついた。肉汁が横から溢れ出し、褐色の指節を伝って滴り落ちる。彼女は指の間のソースをペロリと舐めとったが、その視線は終始、俺を射抜いたままだった。
俺は生ビールを煽り、彼女の身体から伝わる熱を無理やり胃の底へ押し込んだ。
その時だ。隅のテーブルに陣取っていた米軍兵士たちが、こちらに気づき始めた。
英語だ。声は大きく、隠そうともしない。
「"Hey, look at that. The hell is going on over there?"(おい、見ろよ。あっちで何が起きてんだ?)」
「"Bro, she's sitting on his lap — is that even allowed in here?"(なあ、彼女が奴の膝に乗ってるぜ。この店、そんなのアリかよ?)」
「"Fuckin' Japs, man. They're everywhere."(クソジャップめ。どこにでもいやがる)」
「"Hey buddy, you speak English? I said, whatcha doin' with that girl?"(おい相棒、英語はわかるか? その女と何してんだって聞いてんだよ)」
俺はビールジョッキを置き、英語で、声を荒らげることなく返した。
「"Yeah. I'm eating a burger. She's eating a burger. You're ruining both."(ああ。俺はバーガーを食ってる。彼女もバーガーを食ってる。お前らはその両方を台無しにしてる)」
数秒の沈黙が流れた。
「"…You Japanese?"(……お前、日本人か?)」
「"Taiwanese."(台湾人だ)」
「"Oh."(そうか)」
別の、少し低い、三杯ほど引っ掛けた後の哲学的な声が続く。
「"Taiwan's the good guys, right?"(台湾は『良い方(味方)』だよな?)」
「"Depends on who pays the bill tonight,"(今夜のツケを誰が払うかによるな)」
俺はそう言って、再びバーガーを手に取った。
「"Shut up now."(今は黙ってろ)」
彼らは本当にそれ以上、何も言わなかった。
バーガーの出来は悪くなかった。バンズの表面はカリッとしていて、パティの肉汁は分厚く、ピクルスの塩気と酸味も申し分ない。希は俺の腿に跨ったまま、手掴みで食い続け、指節でソースが乾くのも全く気にする様子はなかった。
窓の外、港の方角の空――夕陽が沈みきった場所に、極めて淡い燐光が海面を移動しているのが見えた。
俺は黙って食事を続けた。
今夜は、俺の出番じゃない。
PM 22:15 どぶ板通り・某公園の公衆トイレ付近
「Black Ship」を出た時、横須賀の雨は止んでいたが、空気には冷徹な生鉄の匂いが混じっていた。
シキの手が俺の上着のポケットに潜り込み、五本の指が包帯を巻いた俺の右手を強く握りしめた。三枚のリベットの痕が、海港の霊圧に呼応して一度だけ跳ね、指先から冷気が這い上がってくる。
「士達、貴方の手がすごく冷たい」
俺は答えなかった。
彼女は俺を強引に引きずり、路地裏の公衆トイレへと連れ込んだ。
薄暗い灯光の下、壁の落書きは湿気でぼやけている。木製のドアがギィと鳴り、彼女は背後で鍵を落とした。
俺は言った。「シキ、待て――」
だが、彼女が体当たりするようにぶつかってきた。
後になって何度も考えたが、どうしても思い出せないことがある。――俺は一体いつから、「待て」と言わなくなったんだろうか。
彼女に言葉を封じられた瞬間でも、背中が冷たいタイルに叩きつけられた瞬間でもない。もっとずっと前、自分でも気づかないうちに、「待て」と言うべき思考の断片が、静かに沈んでいってしまったのだ。
水底に沈む石のように、音もなく。
彼女の重みは真実だ。体温も真実だ。首筋に吹きかかる山林の気配を纏った吐息も、すべてが真実だった。
外からブーツの音が聞こえ、ドアが開く音が続く。酔ったアメリカ兵が隣で用を足し始めた。
「誰かいる」俺は彼女の耳元で囁いた。
彼女は止まらなかった。
そして俺も、本気で止めようとはしなかった。
思考がまた沈んだ。さらに深く。
外の男が仕切り板を叩いた。"Occupied?"(入ってるのか?)
俺は声を殺した。暗闇の中で死神の指輪が一瞬だけ光ったが、その色は判然としない。灰色でも赤でもない、名もなき何かの色だった。
数秒後、足音は遠ざかり、入り口のドアが閉まった。
静寂が戻ってから、俺はあることに気づいた。
横須賀の夜は、燃え方がおかしい。
早すぎる。激しすぎる。俺らしくない。
だが、俺はその思考を追いかけることはしなかった。
事が済んだ後、俺はトイレのドアを押し開き、街灯の下に立った。ポケットから巻紙と煙草の葉を取り出し、指先で一本巻いて、火をつける。
辛味のある煙が夜の闇に昇っていく。
シキは壁に寄りかかり、頬に赤らみを残したまま、充実した瞳で俺を見ていた。
「またハンバーガー、食べる?」と彼女。
「食べるわけないだろ」俺は深く煙を吸い込み、港の方角を見つめた。「女俠様、命だけは助けてくれ。俺はもう帰って寝る」
「え? 一緒に寝るのか?」
「……」
俺は灰を落とし、歩き出した。
港のほうでは、燐光がいまだに移動を続けていた。
俺の知ったことじゃない。
今夜のうちは、まだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




