S2第二十八章 おくりびと――帰ろう、戦はもう終わった
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
■ 舞鶴港、旧岸壁
この時間は、陽気が最も衰え、陰陽が交錯する丑三つ時だ。
海霧は埠頭の上で固形に近い乳白色へと凝縮し、行囊を抱えた三万の影が霧の中で音もなく列をなしている。その極限の死寂は、厚いコンクリートの床をも呻かせんばかりの重圧となっていた。俺は味のなくなった禁煙飴を噛み、桟橋の縁に立って、右手の指輪の重みを感じていた。港全体が、ようやく「正しい人間」が来たことを悟ったかのような、微かな期待を俺に向けている。
「各員、開壇――!」
老神官の掠れた叱咤が濃霧の中に響き渡った。白衣を纏った四人の神職たちが、埠頭の四隅に注連縄の巻かれた忌竹を打ち込む。老神官は重々しい「反閉」の踏舞を舞い、広瀬訛りの混じった古神道の祝詞を唱え始めた。一文字一文字が喉の奥から絞り出される。八十年前、果たすことのできなかったあの約束を、今、声の限りに一字ずつ返していく。
彼の手印が結ばれるにつれ、淡紫色の幾何学的な符文が白砂の地から立ち昇った。冷酷なほどに精密なその構造は、透明な鋼鉄の防護柵となって、舞鶴港の乱れた霊場を強引に繋ぎ止める。
埠頭の中心。
神代弥生は、老神官に加護を授かった新しい緋袴の巫女装束を纏っていた。彼女の振る神楽鈴が、寒風の中で耳を刺すほどに清らかな音を奏でる。彼女は両手を合わせ、古の、それでいて重厚な漢字の律動を帯びた呪文を口にした。
「天清地霊、魂は本位に帰せ……急急如律令!」
二つの異なる儀式系統が、この瞬間に激突した。
老神官の古語が「路を拓き」、弥生の漢字呪文が「魂を引く」。紫の幾何学符文と金の漢字流光が交差し、重なり合う。それは反発し合うどころか、数百年回り続けてきた二つの歯車が、この午前三時半、初めて完璧に噛み合ったかのようだった。霧の向こうの水平線まで、一本の霊力回廊が貫通する。
日本の路、台湾の魂、朝鮮の名前、東南アジアの草鞋。数百年対話のなかったシステムたちが、この古びた埠頭で強引に一つの儀式へと組み込まれた。
端的に言えば、俺の得意分野――「クソみたいな後始末の統合」だ。
俺はその光の長廊(廊下)を見つめ、右手の死神の指輪が雷鳴のごとく震えるのを感じていた。
夜明けが迫るにつれ、気温は氷点下まで叩き落とされた。懐にある「臨時引渡許可証」が、自燃せんばかりの激しい赤光を放つ。七十二時間のタイムリミットが、その最後の余命を燃やし尽くそうとしていた。
「――バン! バンッ!」
結界の中心で、金属が跳ねるような鈍い音が炸裂した。葉綺安と希が、同時に魔法瓶の蓋を開けたのだ。
黒く濃縮された死気が噴き出し、馬三娘が黒い革靴を鳴らして緩慢に姿を現した。黒髪ストレート、姫カット、JK制服、そして返り血の跡。だが、彼女の手から錆びついた西瓜刀は消え、代わりに三メートルに及ぶ漆黒の長矛――千里追魂矛が握られていた。無数の怨魂が咆哮を上げるその武器は、真の戦場においてのみ彼女が振るう代物だ。
続いて、シキの瓶から刺すような白光が爆ぜた。
牛小琴が、純粋な巨大霊体として現臨する。実体ではない。無数の光子で構成された偉容ある虚影が、舞鶴の海面を両足で踏みしめ、その頭部は厚い雲層を突き抜けていた。港に落ちる巨霊の影は、どのタワークレーンよりも重苦しい。彼女が港湾を見下ろし、双眸から吐き出される白光が日本海を真っ二つに照らし出した。
「刻が来た。周士達、路を拓け」
三娘の掠れた、官僚的な冷徹さを帯びた声が広場に響き渡り、直後に牛小琴の雷鳴のごとき咆哮が重なった。
「引渡――!!」
俺はこの二柱の門神を見上げ、右手の指輪の黒光りを決然たる死寂へと変えた。
「了解だ、姉御たち」
俺は右手を、海面に佇む沈黙の「初雪」の艦橋へと突き出した。
「船が来たぞ。――客を乗せろ!」
初雪、艦首を開け
海面の霧が、百メートルの巨霊・牛小琴の放つ白光によって強引に引き裂かれた。光と影の極致が交錯する中、八十年の鉄錆を纏った「初雪」の艦橋が、依然として埠頭と深海の間に横たわっている。それは、いかなる魂の越境をも拒む鋼鉄の防波堤のようだった。
三娘は千里追魂矛を提げ、湿った岸壁の縁に立った。その血塗られた双眸が霧を射抜き、回転を止めたマストを凝視する。海風に姫カットを揺らし、彼女は数秒の沈黙の後、鋼鉄の残響に向けて、掠れた、だが生死を超越した哀愁を帯びた声で冷たく言い放った。
「戦は終わったぞ、小娘。この船は兵を運ぶのではない。故郷を想う者を運ぶのだ。……貴様、いつまで道を塞いでいるつもりだ?」
その一言は、鋼鉄の意志を挫く最後の一片の羽となった。
海面の沈黙していた艦影が、三娘の問いかけに激しく震えた。装甲板を覆っていた深海の塩蝕が、牛小琴の白光に晒され、乾いた血の塊のようにパラパラと剥がれ落ちていく。
船身を横たえ、防衛と監視を担っていたあの「門番の構え」が、音を立てて崩壊した。初雪は重厚な艦体を緩慢に旋回させ、燐光を帯びた波紋を幾重にも広げていく。全員が息を呑んで見守る中、その鋼鉄の孤狼は、修長な艦首を埠頭へと向けた――すべての武装を解き、帰人を迎えるために両腕を広げた客船のように。
その瞬間、初雪は大和の遺憾を守る番人であることを止めた。彼女はこの引渡し(いんど)の旅における、最初の一歩を記す跳板となったのだ。
桟橋、発向
「初雪」が艦首を埠頭に固定すると同時に、牛小琴の白光と神代弥生の金の呪文によって編み上げられた幻の桟橋が海面へと伸び、鋼鉄の残響たる甲板へと接続された。
沈黙を守り、行囊を抱えていた三万の影たちが、この瞬間に微かな、だが深淵な胎動を見せた。
狂乱した押し合いなどではない。それは潮汐のごとく緩やかで、秩序立った移動だった。ボロボロの作業服を着て、草鞋を履いた男や少年たちが、一人、また一人と頭を垂れ、手にした木箱や布包みを強く握りしめる。そして重い足取りを踏み出し、故郷へと続く白光の道へと歩みを進めていく。
「집으로 돌아가고 싶어……(家へ帰りたい)」
桟橋のあちこちから、その囁きが沸き起こる。震える声、おやすみを告げるかのように穏やかな声。それらはやがて一つの暖流となり、発光する初雪の甲板へと流れ込んでいく。
だが、すべての影が動いたわけではなかった。
埠頭の暗い片隅、錆びついたクレーンの影の下。数十、あるいは百を超える影たちが、依然としてその場に留まっていた。ボラード(係留柱)に腰を下ろす者、剥がれ落ちた壁に背を預ける者。空虚な眼差しでこの壮大な引渡しを見つめながらも、一歩も動こうとはしない。
俺は足を引き止める彼らを見つめたが、呼びかけることも、誘うこともしなかった。
ここでの月日が長すぎて、「帰りたい」という想いさえもが瘡蓋になってしまったのか。あるいは、命を奪ったこの港が、八十年の歳月を経て彼らにとって唯一馴染みのある場所になってしまったのか。
俺に彼らの決定を下す資格はない。俺は救世主になんてなるつもりはない。ただの引導人だ。
俺はただ沈黙して桟橋の縁に立ち、右手に熱を帯びた「臨時許可証」を握りしめ、自身の身体でこの門を支え続けた。路を拓き続けるために。
「行かないのか?」
老高がワンボックスカーに寄りかかり、煙草の煙を静かに吐き出した。残ることを選んだ魂たちを見つめるその瞳には、敵味方を超えた、墓守としての理解が宿っていた。
「路はそこにある。行きたい奴だけが行けばいい」
俺は味のなくなった禁煙飴を噛み、日常茶飯事でも語るかのような平淡な口調で言った。「残るのも、あいつらの選択だ」
後ろに立つ神代弥生は、長時間の結界維持によってその「負重の身体」を激しく消耗させていた。緩やかな呼吸のひとつひとつに、荘厳な疲労が滲む。彼女は留まる影たちを見つめ、その瞳に一瞬だけ哀憐の色を浮かべたが、最後にはただ静かに合掌し、通り過ぎる魂のひとつひとつに音のない祝祷を捧げていた。
橋本健一、乙案
埠頭は一本の見えない霊圧の境界線によって、正確に二分されていた。
南側は、三万の異邦の魂が帰郷する白光の世界。北側は、日本本土に属する、氷のように冷徹で粛粛たる「内務処理」の場だ。
俺は埠頭の反対側、影の中に立つ橋本健一に目をやった。極めて不格好なあの私服のレザージャケットが、今は山のような重厚さを纏って見える。
彼の前方には、全く異なる影たちが立っていた。旧帝国海軍の軍服を纏い、戦闘帽を被り、壊れた軍楽器を背負った日本籍の亡魂たち。彼らに行囊はない。あるのは真っ直ぐに伸びた背筋と、拭いきれぬ執念だけだ。海面に佇む半透明の、金の光を放つ「日本側監督神」は、体温のない審判の石像のごとく沈黙し、この日本内部の葬儀を冷ややかに凝視していた。
水琴神社の老神官が木杖を突きながら橋本の傍らへと歩み寄り、その耳元で「血脈」と「責任」に関する古の密語を低く囁いた。
橋本は振り返らず、何も答えなかった。彼はただ緩慢に右手を伸ばし、軍刀の柄を力強く握りしめた。
その瞬間、彼の広い肩が寒風の中で微かに震えるのを俺は見逃さなかった。直後、目に見えぬ戦艦をその背に背負ったかのように、彼は極限の孤独と、圧倒的な死寂の中へと沈み込んでいった。
「周さん……」弥生が俺の傍らに立ち、海風にかき消されそうなほど細い声を漏らした。「橋本尉官は……あの『憤怒』のすべてを、自分一人で引き受けようとしています」
彼女は言葉を切り、その瞳には哀憐と敬佩、そして代わりの利かない重荷を背負う者への沈黙の承認が宿っていた。特定の血筋にしか、終わらせられない戦がある。
「これはあいつの戦いだ、弥生。俺たちが口を出すことじゃない」
俺は懐にある三枚のリベットを、右手の指先で強く押し潰した。
二度と、あの重苦しい後ろ姿を振り返ることはしなかった。
三枚のリベット、墜つ
水平線の彼方、鉛色の雲を切り裂くように、極めて微かな紫がかった魚白の光が漏れ出した。
「天・地・神・明……路を導け――!!」
神代弥生の神楽舞が、最も狂おしく、そして凄絶な頂点へと達した。彼女の手にある神楽鈴が霧を粉砕し、旋回するたびに緋袴の中の肢体が、限界を超えた霊力出力に激しく震える。体力はとうに底を突き、呼吸はふいごのように重く、襟元から漂う白檀の香りは寒風の中で白霧となって凝結する。それは彼女の最後の生命エネルギーが、芯の最後まで燃え尽きようとしている証だった。
「――オンッ」
俺は右手を開いた。死気に侵食され、無数の遺憾を詰め込んだ鋼鉄のリベットが、同時に掌を離れ、宙へと緩慢に浮かび上がった。
「扶桑」のリベット。スリガオ海峡の猛火の残響を纏ったそれは、最初に動力を失い、コンクリートの埠頭へと重々しく叩きつけられた。――「ゴンッ」、という鈍い音。それは、ある戦史のページを誰かが静かに閉じたかのような潔さだった。
続いて「青葉」のリベット。不屈の執念を宿したその残骸は、空中で何度か旋回し、微かな軍歌の共鳴を遺して、次に堕ちた。
最後に残ったのは、「初雪」に属する一枚。
それは俺と、海面に浮かぶ艦橋の間で、最も長く留まり、最も緩やかに回転していた。八十年守り続けたこの冷たい港湾を惜しむかのように。あるいは、乗艦の列に並ぶ老郷たちに、最後の別れを告げるかのように。門番の最後の一瞥は、侵入者ではなく、自らが守り抜いた人々へと向けられていた。
「チリン――!!」
金属が砕け散るような、清らかで空虚な響きが、死寂の舞鶴港の中心で炸裂した。
そのリベットはついに最後の執念を解き放ち、俺の足元へと静かに転がった。
初雪
静寂。
三秒の沈黙は、あらゆる轟音よりも重かった。
そして、天が動いた。
あの清冽な響きが広がった瞬間、舞鶴港の湿った温霧がぴたりと静止した。一枚、二枚……羽毛のように白い氷晶が、漆黒の雲層から音もなく舞い落ちてくる。
今年、日本海側に降る最初の「初雪」だった。
「……雪ね」
葉綺安が手を伸ばし、震えの止まった掌に雪片を受け止める。その声に昂ぶりはなく、長い待機の果てにようやく辿り着いた平安だけがあった。
海面では、巨大な引渡船が雪の中でゆっくりとタラップを収めていた。帰国証を手にした三万の魂と、次第に輪郭を失っていく「初雪」の艦橋を乗せ、光り輝く、もはや冷たくはない深淵へと音もなく滑り出していく。
「周さん……」
弥生が脱力したように俺の胸へと倒れ込んできた。任務を完遂した後の極度の弛緩。彼女の体重は、もはや自力で立っている気力さえ残っていないことを如実に伝えてくる。俺は片腕で彼女を支え、何も言わなかった。
空っぽになった埠頭を見つめる。
右手を苛んでいたあの死気は、初雪が舞い落ちた瞬間に、跡形もなく消え去っていた。
指輪はそこにある。
だが、その中は、初めて空っぽだった。
「老郷、達者でな」
雪のカーテンの中に消えていくあの巨大な船を見送りながら、俺は右手に、久しく忘れていた「生者」の温もりを感じていた。
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