S2第三十二章 九分間の停滞
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
AM 07:15 横須賀・メルキュールホテル 12階スイートルーム
鉄錆の臭いの中で目を覚ました。
右手の掌に潜む魂釘は不気味なほど大人しく、跳ねることも噛み合うこともなく、冷え切った廃鉄のように静まり返っている。代わりに全身の骨を襲うのは、装甲車に轢かれた翌日に襲ってくるような鈍い痛みだ。
胸の上に重みを感じた。
ずっしりとした、それでいて聞き覚えのある白檀の香りが鼻腔をくすぐる。
林 雨瞳が俺の腕の中で丸まっていた。泥水と煙草の臭いが染み付いた俺のシャツを羽織り、ボタンをちぐはぐに留めた姿で。彼女はまだ眠りの中にいて、目尻には乾いた涙の跡が残っている。普段の傲慢で冷徹な表情は消え失せ、肋骨の上で刻まれる吐息は、どこか急き立てられるようで、それでいて俺に縋り付いているかのようだった。
俺は動かなかった。
「……周士達」
彼女は熱に浮かされたように呟き、ゆっくりと目を開いた。その「火眼金睛」に火は灯っておらず、焦点は虚空を彷徨っている。霊力の過負荷による一時的な失明だ。彼女は狼狽えながら手を伸ばし、俺の頬に指先が触れたところで、ようやくその動きを止めた。
「ここにいるぞ」
「昨夜は……」彼女は声を枯らし、俺の首筋に顔を埋めた。「あんたに毒されたに違いないわ。あんたと同じ……最低のクズになったんだから」
「そいつは光栄だ」俺は応じた。「診察代なら昨夜のうちに完済済みだ」
彼女は笑わなかったが、俺を突き放すこともしなかった。
AM 08:30 レストラン
ユートンの手を引き、レストランへと足を踏み入れる。
彼女はサングラスをかけ、足取りはどこか危ういが、背筋だけは真っ直ぐに伸びている。一時的に視力を失っていようとも、この女は揺らぎを他人に見せることだけは断じて許さないのだろう。
テーブルを囲んでいた面々の反応は、驚きを超えて集団フリーズだった。
老高の口に咥えられたタバコの灰がコーヒーの中に落ち、「チッ」と音を立てる。彼は目を細め、俺とユートンの間を二秒ほど視線で往復させると、一言だけ吐き捨てた。
「……どうやら死地を脱したようだな、周老弟」
「ああ。おかげで腰が使い物にならねえがな」
俺は野郎同士にしか通じない不遜なジェスチャーをしてみせた。
橋本 健一と鋼鉄班の面々は一斉に起立し、気まずそうに顔を背ける。ベーコンを咀嚼する音すら憚られるような空気だ。
窓際に座っていた希は、ユートンが俺の手を握っているのを死ぬほど睨みつけていた。彼女は鼻をひくつかせ、何かを嗅ぎ取ると、皿の上のベーコンを憎々しげに噛み砕き、沈黙を貫いた。
「老周、あんたの匂い、温かくなった」シキは不服そうに目を細める。「でもその氷女、今はすごく弱そう」
「彼女には休息が必要なだけだ。昨夜は雨が酷かったからな」
右手の釘が、平穏かつ微かな噛み合わせの音を立てた。
朝食の空気は相変わらず歪だったが、昨日までの爆発寸前の殺気は消えていた。代わりに漂っているのは、説明のつかない狂気じみた共犯意識だ。どうせ全員地獄の中にいるのなら、いっそ一緒に焼かれようぜ、というような。
神代 弥生から最新の報告書を受け取り、俺は問いかけた。
「米軍側からの支援要請は?」
「ありません。二つの事案とも内輪の問題として処理されました。過度の飲酒か、あるいは不明な薬物の使用。……洋服を着た人々にとっては、幽霊よりも『海を見て記憶を飛ばした』とする方が、まだ説明がつくのでしょうね」
弥生はそう言いながら、頬を微かに赤らめた。
「神楽機関は?」
「依然として高みの見物です」
俺は報告書を指先で弾き、弥生に耳打ちした。
「ユートンの火眼金睛が一時的にイカれてる。霊力の使いすぎだ。……お前に『清浄の儀』を頼めないか? 貸しにしておいていい」
弥生の瞳が輝き、背筋が伸びる。「お任せください、それくらい造作もありません」
隣に座るユートンの、コーヒーカップを握る手が強張った。
「周士達、あんたの貸し借りは、ずいぶん広いのね」
「医者の不養生ってやつさ」
窓の外、海霧の向こうに、戦艦三笠の輪郭が昨日よりも鮮明に浮かび上がっていた。
AM 10:30 横須賀・三笠記念艦
八百円の入場料を払い、ようやく足を踏み入れた。
甲板に降り立った瞬間、右手の釘が「ガチリ」と重い音を立てた。まるで古い知人の家を思い出したかのような反応だ。昨夜、ユートンの紅い光で浄化されたとはいえ、ここにある百年の死気は一夜で洗い流せるほど甘くはない。指先から伝わってくるのは、煤煙の混じった凍てつくような寒気だ。
館内には、乾燥した紙パルプと生鉄の臭いが充満している。東郷平八郎の写真が無愛想に壁に並び、ガラスケースの中にはZ旗のレプリカと断裂した砲身のモデルが鎮座している。説明パネルは日英中の三ヶ国語で、1905年の対馬沖海戦がいかにアジアの運命を変えたかを、淡々と書き連ねていた。
皇国の興廃、この一戦にあり。
「周、これってどういう意味?」
葉 綺安が隣に並んだ。白いフーディーを着た彼女は、どこからどう見ても台湾から来たありふれた観光客だ。だが、彼女が近づくにつれ、西瓜刀の錆びた冷たい臭いが浮き上がってくる。体内に宿る馬三娘が、この船の空気に不快感を示しているのだ。
「意味か、」俺は甘ったるい唾を吐き捨てた。「『国の存亡は、この戦いにかかっている』ってことさ」
「それで、その後はどうなったの?」綺安は小首をかしげる。その清らかな瞳には、微かな皮肉が混じっていた。
「その後?」俺は舷窓の外へ視線を向けた。数百メートル先には、第七艦隊の泊地が見える。「その後、あっちにはアメリカの空母が居座り、この『軍神』はコンクリート漬けの観賞植物に成り下がった。今は外人兵士たちが記念写真を撮るための背景壁さ」
綺安の体内で、馬三娘が耳を劈くような冷笑を漏らした。その霊圧の余波で、綺安が持っていたパンフレットが危うく手から零れ落ちそうになる。
土産物コーナーで、綺安はZ旗がプリントされた『見敵必戦』のマグカップを選び、校外学習に来た女子高生のような笑みを浮かべた。
『こんな敗北者の酸っぱい臭いが染み付いたガラクタ、買うんじゃないよ。さもないと、あたしが真っ二つに叩き斬ってやるからね!』
馬三娘の声が空気に波紋を広げる。それは、俺と綺安にしか聞こえない呪詛だ。綺安はそれを無視して、淡々と会計を済ませた。
俺はそのマグカップと、遠くに鎮座する核動力空母を交互に見やり、熱を帯びた右手を抑えながらその場を後にした。
PM 12:30 どぶ板通り・某海軍カレー店
看板はひどく錆びついているが、店はまだ息をしていた。
店に入るなり、希が角のボックス席を占拠し、行儀悪く足を広げて座った。彼女は鼻をひくつかせる。「老周、ここ、匂いがきついよ」
「きつくて正解だ。こいつは『軍艦』の匂いだからな」
俺は特製海軍カレーと、ジョッキの生ビールを注文した。
運ばれてきたカレーには、どれも小さな紙製のZ旗が突き刺さっていた。綺安は楽しそうにその旗を引き抜き、さっきのマグカップの縁に刺そうと試みる。
『そんな子供騙しを近づけるんじゃないよ! 屈辱だわ!』
馬三娘の霊圧が激しく波打ち、隣のテーブルにいた数人のアメリカ兵が同時に肩を震わせた。彼らは不可解そうに自分の首筋をさすっている。
「うるさい。これ以上騒いだら、あんたの西瓜刀の隙間にこの旗を詰め込んでやるから」綺安は虚空に向かって冷たく言い放つと、カレーを口に運び始めた。
俺は皿の上の紙旗を無造作に丸め、辛味の強いルーの中に沈めた。
右手の釘は振動を止め、代わりに重苦しい鈍痛へと変貌していた。錆びた歯車が完全に固着したような、嫌な感覚。激しく跳ねるよりも、この「息を潜めている」状態の方がよっぽど不安だ。何かのタイミングで、一気に噴き出すための溜めのように思えてならない。
「士達、何を見てるの?」俺の異変に気づいたのか、テーブルの下でシキが俺の膝をぎゅっと締め上げた。
「……このカレーを見てるだけだ」
だが、俺の視線は隣のテーブルに注がれていた。大笑いしながら酒を煽るアメリカ兵たち。だが、その笑い声は空のペール缶をかき回しているような空虚な響きを帯び、彼らが振り向く動作には、極めて微細な「金属的なカクつき」が混じっていた。
綺安の指先が無意識にマグカップの縁をなぞっている。水筒の中の馬三娘は不気味なほど静かになり、その狂暴だった霊圧は一本の鋭く冷たい針となって、空間の「ある一点」を射抜いていた。
「三娘が言ってるわ。この場所の風、塩辛くなったって」
葉 綺安が低い声で漏らした。
「塩辛くて正解だ。そいつは死人の汗の臭いだよ」
俺は立ち上がって会計を済ませ、店を出た。
横須賀の通りは相変わらずの繁華を見せ、米軍のパトロール用ハンヴィーが重低音を響かせて低速で通り過ぎていく。だが、耳を澄ませば聞こえるはずだ。そのエンジン音の背後で鳴り響く、数百人の人間がコンクリートの中で同時に歯をぎしぎしと鳴らすような、極微細な軋みを。
「行こう、ホテルへ戻るぞ」俺は熱を帯びた右手を抑え込んだ。「林 雨瞳のほうも、そろそろ『面白いもの』が見えてきているはずだ」
米軍基地襲撃報告書(第三日追跡)
発信元: 米海軍第七艦隊・基地総合監視センター (BITC)
宛先: 在日米軍司令部 / 戦略情報局
日時: AM 04:30
事案コード: 「The Still Water(ザ・スティル・ウォーター/静水)」
格付: LEVEL 2 OBSERVATION(二級観測中)
1. 異常映像記録
AM 03:17、防波堤北側のペリメーター・カメラ 7-C が光学的な異常を検知。九分間にわたり、監視区域内の波の運動が完全に停止した。デジタル処理による鮮明化分析の結果、海面の分子構造が一時的に「結晶化」した疑いがあり、研磨された鋼鉄のような視覚的特徴を呈している。
2. 異常変位
静止した水面上において、全長約120メートル、全幅約20メートルの低音シグナルを持つ物体の移動を観測。当該物体にはスクリュー音および熱源反応が認められず、その移動軌跡は1905年に戦艦三笠が横須賀港に入港した際の航路と完全に一致する。
3. 現場人員の状態
当直に就いていた兵士計12名に対し、事後一斉医学検診を実施した結果――
核心体温が平均1.5度低下。
現場のすべてのデジタル通信機器に一時的な電磁パルス干渉を確認。
一部の兵士が所持する腕時計の秒針に九分間の停止が認められた。
4. 処置提言
技術班によるカメラのメンテナンスを推奨。影響を受けた兵士には心理アセスメントを実施。
内部備考(非公式、オペレーターによる手書き):
拡大スクリーンショットを確認した際、水面下からこちらを見ている「何か」が存在した。
明治時代の水兵帽を被った連中だ。
かなりの数だ。
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