115.猿でもわかるバージョン 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
血と灰を洗い流すのに、十分もかからなかった。
急いだからじゃない。この場所に、ゆっくり湯に浸かるような空気がそもそもないからだ。お湯は途切れ途切れで、肩に当たる感じは薄いブリキ板みたいに頼りない。石鹸の匂いじゃ、火薬と機械油の臭いは消えない。指の関節の擦り傷は、水が触れただけでズキンと刺した。
俯いてざっと確認する。肉が削げてないこと、頭もまだ回ってることを確認して、それで水を止めた。
清潔なシャツと上着とズボンに着替える。ブーツだけはさっきまでのまま。縁のあたりに、工場から持ち帰った黒い汚れがこびりついてて、ブラシでも落ちない。磨く気にもなれなかった。
カミラを探しに行く頃には、基地の照明は夜勤モードから昼間の当直モードに切り替わっていた。廊下はさっきより明るい。人も増えている。空気の中にはコーヒー、薬品、金属、消毒液の匂い。それから——さっきまで戦ってた連中特有の疲労感。顔にぶら下がってるんじゃなくて、歩くスピード一人一人にべったり貼りついている感じのやつ。
ブリーフィングルームの前には、衛兵が二人立っていた。
二人とも俺の顔は知っている。止めはしない。ただ、トントンと二回ドアを叩いて、中から応答が返ってくるのを待ってから、脇にどいた。
ドアを開けた瞬間に、普通の話じゃないとわかる。
テーブルの上には地図が広げてあるわけでもない。戦闘報告が山積みになっているわけでもない。あるのは三つだけ。
ひとつ、F.A.B.R.I.K.から持ち帰った数枚の技術資料。封は切られているが、きれいに伸ばし直されて、灰色のペーパーウェイトで押さえられている。
ふたつめ、手書きのリスト。たぶん死傷者と物資消耗の一覧。
みっつめ、火の点いていないライターがひとつ。カミラの手元に置かれている。
彼女はテーブルの向こう側に座っている。相変わらずの濃いグレーの軍服。上着は着替えたらしい。髪は結い直されている。顔色はいいとは言えないが、目は冴えている。一晩中起きてたくせに、こっちが「やっと終わった」と力を抜きかけた瞬間に、もう一発撃ち込んでくるタイプ、そういう顔つきだ。
マレクが彼女の右後ろに立っている。林雨瞳は左側の壁際に座り、手元にはノート。俺が入ってきたのを見ると、視線だけ少し上げて、沈黙。ヴィクトリアもいる。彼女は座らず、反対側の壁にもたれかかり、手にはハードカバーのファイル。表情は格納庫の時と大差ない。疲れてはいるが、噛みつく元気はまだ残っている、そんな顔。
この配置は、なかなかよくできている。
取り調べみたいでもあり、値踏みでもある。
俺はドアを閉め、テーブルの前まで歩いた。
「俺に用か。」
「あなたも、来るつもりではいたでしょう。」カミラが言う。
「お互い、時間の無駄はやめとこうって話だ。」
彼女は軽くうなずく。余計な前置きはしない。テーブルの上の図面の一枚を裏返し、それを俺の前に押し出した。
シュトゥルムシュライターの胸部主反応炉区画の断面図。
読めるのは半分もない。だが、これがどれだけの値打ちものかを理解するには、それで十分だ。
「さっき、あなたたちが持ち帰った第一陣の資料を、一通り照合させたわ。」彼女は言う。「オリジナルの設計図、部分的なメンテ図、キャリブレーション記録、武装コンフィグ表、代替素材の記録、起動プロシージャ、シャットダウンプロシージャ。それから、後期改修の注記と思しきものが何枚か。欠落は多い。でも、量としては十分。」
「で?」
「だからこそ、ひとつ確信したことがある。」彼女は顔を上げ、俺を見る。「あなた、自分の手の中に何を握っているか、わかってる。」
「大まかにはな。」
「それならいい。」彼女は背もたれに少し体を預ける。「私は、無邪気なふりをする相手と条件交渉するのが嫌いなの。」
俺は椅子を引いて腰を下ろした。
「で、何の話をしたい?」
「まずは現実。」彼女は言う。
別の紙を押し出してくる。死傷・消耗リスト。文字は簡潔。数字は容赦がない。
「昨夜の一戦で、うちは十一人が戦死。重傷六。中軽傷二十七。外部の監視ラインが二本、再構築が必要。安全ノードを三カ所、移転しないといけない。弾薬庫の対装甲備蓄は、ほぼ三分の一が吹き飛んだ。それから、潜伏と中継と観測に使っていた旧工場の拠点一つ。あの一帯は、これから敏感なエリアになる。」
彼女は、その紙を指の関節でコツコツと叩いた。
「これが、コスト。」
「慈善事業じゃないって、忘れるなってことか。」
「違うわ。」彼女はまっすぐに俺を見る。「昨夜、私たちが取り返してきたものは、一つとしてタダじゃない。そのことを、忘れないでほしいの。」
部屋の中が、二秒ほど静かになる。
林雨瞳がノートのページを一枚めくる。口は出さない。マレクは動かずに立っている。ヴィクトリアは視線をテーブルの図面に落としたまま、誰が最初に「本題」を口にするか待っているみたいだ。
俺はうなずいた。
「よし。現実の確認は終わり。じゃあ、値段の話だ。」
カミラの口元が、わずかに動いた。
「いいわ。」
彼女はライターを手に取り、指先で半回転させてから、また置く。
「あの機体は、今、私の基地に置いてある。冷却も、警戒も、封印も、吊り架も、整備スペースも、弾薬供給も、運搬も、秘匿も、全部うちの人間とリソースで回してる。戦術アセットとして見れば、A.K.-DUCHの管制リストに載せるのが妥当な代物。」
「だが、今のあんたじゃ、俺たちみたいにもう一回あれを戦場に出すことはできない。」俺は言う。
彼女は否定しなかった。
「続けて。」
「機体を持ってるからって、それを使いこなせるとは限らない。」俺はテーブルの資料に目をやる。「オリジナルの設計図、メンテ記録、操作プロシージャ、エラーの読み方。それがなきゃ、あれは、あんたがたまたま檻に押し込んだだけの野獣だ。見た目は凶暴。だが、すぐに『勝手に触るのは怖い鉄の塊』になる。」
マレクの眉がわずかに動いた。怒ったのではない。図星だと思った反応。
カミラの表情は相変わらず、平坦だ。
「それで?」
俺は肘をテーブルにつき、僅かに前のめりになる。
「今のあんたには、三つ同時に足りてない。データ。データを読める人間。それから、次にあれを動かせるようにする人間。」
今度ばかりは、カミラもすぐには返してこなかった。
これが言い争いじゃないのは、彼女にもわかっているからだ。
これは、シャーシ——土台の話だ。
彼女が欲しいのは、機体。それ以上に、知識。
そして、ヴィクトリアは、その二つのちょうど中間に挟まっている。
「何が欲しいの?」彼女は問う。
ここまで来れば、話はかえって単純だ。
「シュトゥルムシュライターの実戦使用権だ。」俺は言う。
ブリーフィングルームに、音はない。壁の隅で、通気ダクトが低く唸っているだけ。
カミラが俺を見る。林雨瞳も、こっちを見る。マレクの表情は変わらないが、明らかに集中が増した。ヴィクトリアは壁にもたれたまま動かないが、「次の一言がバカかどうか」を待ってるような空気がある。
口火を切ったのは、カミラだ。
「『使用権』って言葉、便利よね。」彼女は言う。「もっと正確に言ってくれる?」
「いいぜ。」俺は言う。「所有権は要らない。機体があんたの基地に置いてあってもいいし、資産リストにあんたの名義で載ってても構わない。ただし、実戦投入の際は、こっちの優先権を認めろ。つまり、今後、うちとあんたの間で『共同目標』と認めた作戦に限り、シュトゥルムシュライターはまず俺たち側が使う。」
「パイロットは、あなた?」彼女が訊く。
「そうとは限らない。」俺はヴィクトリアの方を見る。「そいつを生きて帰らせられるやつが乗る。」
ヴィクトリアが、ついに口を開いた。
「正解。」
カミラが、さらに問う。「で、今いちばん中に座るべきなのは、誰だと?」
ヴィクトリアの表情は変わらない。
「今の時点なら? アタシしかいないでしょ。」彼女は言う。「そのうち気が向いたら、他のやつに『自爆しない運転』くらいは教えてあげてもいいけど。」
かなりトゲのある言い方。
だが、誰も反論はしない。
事実だからだ。
カミラは指先を図面の束の端に置き、紙の角を軽く押さえる。
「あなたは、資料と引き換えに使用権を取ろうとしてる。」彼女は言う。「交渉としては筋が通ってる。でも、それだけじゃ足りない。」
「どこが足りない。」
「どこもかしこも、よ。」彼女は言う。「データっていうのは、ただの紙束じゃない。その先に延びる技術チェーン全体への入口。もしそれを、『一回分の出撃権』とだけ交換するなら、安売りしすぎ。」
「じゃあ、どういう勘定にしたい。」
カミラは、すぐには答えなかった。
立ち上がって、壁際のブラックボードのところまで歩いていく。そこはまだ何も書かれていなかった。彼女はチョークを取って、四つの語を書き出す。
機体
資料
技師
後勤
それから、こちらを振り向く。
「この四つ、どれが欠けても成立しない。」彼女は言う。「今あなたが握ってるのは、二つ目と、三つ目の半分。私は、一つ目と、四つ目の大部分を握ってる。どっちも、単独では全部を呑み込めない。だから『どっちが全部持つか』じゃなくて、『どう分けるか』を決める。」
この女は、よくわかっている。
装備じゃなく、権力の話をだ。
俺はその四つの字を見上げ、黙ったままでいる。彼女は続ける。
「まず、機体。本体は、ここに置く。」彼女は言う。「これは動かせない。セキュリティ、秘匿、整備スペース、警戒、人員のスクリーニング。全部こっちで責任を負う。それについての議論の余地は、ない。」
「いい。」俺は言う。
「次に、資料。完全なバックアップ権は、こっちが持つ。原本は階層分けして保管していい。あなたたちの人間が読んでもいい。その代わり、うちの人間も読む権利がいる。メンテマニュアルから改修注記、操作プロシージャ、キャリブレーション記録まで、全部。」
「原本の階層保存はいい。完全バックアップ権も交渉の余地はある。」俺は言う。「だが、そっちの好きな兵隊が、好きなページを好きなタイミングで触っていい、って話にはしない。」
「だからこそ、三つ目。技師。」カミラはヴィクトリアを見る。「彼女に、主導権を渡す。」
ヴィクトリアが鼻で笑う。
「アタシが欲しいからじゃなくて、事実としてそうなるだけ。」
「わかってる。」カミラは彼女と張り合わない。「彼女を第一技術責任者にする。簡略マニュアルの作成、エラー判定、基礎メンテ手順、操作ロジックのリライト。全部、彼女の主導でやる。」
「それと分解検査の権限。」ヴィクトリアがひと言足す。
「含めるわ。」カミラは即答する。
そして、四つ目の語の横に、またチョークを走らせる。
「後勤。」彼女は言う。「弾薬、吊り架、補給、燃料、外部冷却、運搬、保管場所の封鎖。こういうのは、あなたたち数人じゃどうにもならない。戦場での使用権が欲しいなら、平時の維持コストは、うちのシステムに乗せるしかない。」
俺はうなずく。
「つまり、縛りつけたいってわけだ。」
「『たい』じゃない。」彼女は言う。「もう、縛りついてるの。昨夜、あなたたちがあれをここに運び込んだ瞬間から、ずっと。」
俺は椅子の背にもたれた。
彼女の言うことは正しい。これは騙し合いじゃない。現実の話だ。
シュトゥルムシュライターは、拳銃じゃない。トランクに突っ込んで持ち運べる代物でもない。あれには倉庫が要る。吊具が要る。冷却設備が要る。弾薬が要る。整備員が要る。専用の運搬プラットフォームが要る。そのどれも、俺たち数人でどうにかできるレベルじゃない。
だが、「縛られている」ことと、「丸投げする」ことは別だ。
俺はカミラを見る。
「じゃあ、こっちからもう一つ、条件を足す。」
「聞きましょう。」
「専用の運搬車両が要る。」
今度は、先に反応したのはマレクだった。一瞬だけ、こちらを見る。
カミラはといえば、あらかじめそう言われるのを知っていたような顔だ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




