S2第二十六章 渡海魂碟――冷徹なる京都
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
■ AM 07:30 京都西陣、老舗町家「宿木」
蟲籠窓から差し込む朝の光が畳の上に落ち、規律正しい影の列を作っている。
俺は死神の指輪に目をやった。朝の光の下で、それは不気味なほど静まり返っていた。昨夜のあの芯まで凍えるような寒気は、あの野性的な「修復儀式」によって、その大半が蒸発してしまったかのようだ。
……まさか、発作が起きるたびに誰かを探さなきゃならないってわけじゃないよな。
俺は首を振り、不浄な邪念を脳内から追い出した。
布団に手を触れるとまだ余熱が残っていたが、あの小豹――希はとっくに起き出しており、尻尾の先ほどの名残も残していなかった。俺は身を起こし、静かな庭を眺める。縁側では橋本健一と老高の中年コンビが、二日酔いの哀愁を漂わせながら黙々と煙草を燻らせていた。庭の松の木はただそこに佇み、誰を裁くこともなく静まり返っている。
「周さん……おはようございます」
神代弥生が温水の入った桶を抱えてやってきた。彼女は昨日の紺色のニットワンピースに着替えていたが、その頬は朝特有の赤らみを帯びている。それは化粧品で作られたものではなく、熱い湯に浸かった後の、身体の芯から滲み出るような温度だった。昨夜、隣の部屋で一晩中「壁の音」を聞かされる羽目になった彼女は、今や俺とまともに目を合わせることすらできず、視線を俺のベルトよりもかなり低い安全圏へと落としていた。
「……おはよう」
俺は気恥ずかしさに顔を赤らめ、慌てて水を受け取ると、誤魔化すように尋ねた。「ユートンたちは?」
「林さんは……朝早くから、あの『偽スパイ』の様子を見に行かれました」
弥生は声を潜めて言った。「彼女、こう仰っていましたわ。『これ以上、有益な情報が出てこないのなら、もっと本腰を入れた尋問を試しても構わない』と」
俺は顔を拭った。
やはり、女を最もよく知っているのは女ということか。昨夜の尋問も彼女に任せておけば、俺がわざわざ悪役を演じる必要もなかったんだ。湿った手ぬぐいで眠気を拭い去ると、左手の掌に残る野性的な感触が蘇る。それは死神の指輪の冷気よりも生々しく、そして厄介だった。
「おい、周士達!!」
葉綺安がドアの縁に寄りかかり、あの沈黙する魔法瓶を提げて立っていた。今日は黒のハイネックセーターを纏い、その佇まいは鞘から抜かれた剣のように冷徹だ。昨夜、月光の下で田舎の鼻歌を歌っていた脆さなど微塵も感じられない。ヤンデレ属性のリセットは完了したらしい。今日の彼女には鋭角な部分しか残っていなかった。
「林雨瞳が聞き出したわ。候補となる神社がいくつかある」
彼女は魔法瓶を俺の腹に突き立てるように押し当てた。「着替えなさい。出発よ」
PM 10:30 京都、賀茂大森神社
第一の目的地。
朱塗りの大門は塗り直されたばかりのように新しく、結界の気配は傲慢なまでに清浄だった。
「怨念が深すぎる」
白衣を纏った老神官は顔も上げず、閉ざされた門越しに「当方はゴミ捨て場ではない」と言わんばかりの口調で淡々と告げた。
「これほどの穢れを霊場に引き入れれば、当社の三百年積み上げた結界が損なわれる。貴殿が必要としているのは霊場ではない。根を持つ導き手だ」
朱の門の前に立ち尽くす俺の右手で、死神の指輪がその「公式な拒絶」に呼応して激しく震えた。三万の老郷たちの囁きは、喉を絞められたように沈黙する。この高等神域の凛烈な気場の前では、彼らはあまりに卑怯で、「不潔な」余所者に過ぎないのだ。
「ちっ」
俺は飴を噛み砕き、喉を焼くような辛味を味わいながら冷たく鼻を鳴らした。
「京都の公式窓口様は、水一杯も出さないってわけか」
俺は背を向け、それ以上一言も発さなかった。
PM 13:00 京都、京皇大宮
「申し訳ないが、当宮は本国の土地に籍を持つ魂のみを受け入れている。貴殿が連れている霊には、日本国籍がない」
その言葉は、先ほどの冷淡な朱の門よりも残酷だった。
少なくとも賀茂大森は「能力」の問題として断ってきた。だがここは「資格」の問題だと言い切ったのだ。
彼らは八十年待った。この地で血を流し、服役し、死んでいった。それなのに、死後八十年経ってから「籍がない」という一言で門前払いを食らった。これは宗教の問題ではない。八十年間、誰も埋めてやれなかった空白の欄――「国籍」という名の死結が、彼らと帰郷の道の間に、事も無げに横たわっていた。
その壮大な社殿を見つめる俺の胸に湧き上がったのは、怒りではなかった。それはもっと深い場所にある、音のない疲弊だった。
あいつらが、これほどまでに揃って沈黙するのを初めて見た。
橋本健一は門前に立ち尽くし、微動だにしない。彼の先祖は呉で戦死した。そこは日本の土であり、日本の魂だったはずだ――だが今、その重厚な木門は彼の目の前で、極めて優雅な所作をもって、緩やかに閉ざされた。
「尉官……我々ですら、入れてもらえないのですか?」
佐藤拓巳の声は涙に濡れ、地を這うように低かった。
橋本は長い沈黙を守った。サングラスの奥の瞳は読み取れないが、軍刀を握る指の関節は、骨が透けるほどに白く強張っていた。
PM 17:30 京都、水琴神社
いくつの門を叩いただろうか。
扉が閉まる音はどれも同じ響きで、繰り返される「申し訳ございません」という言葉は吐き気がするほど丁寧だった。口の中の禁煙飴は三個目に入れ替わり、右手の指輪の共鳴は次第に弱まっていく。まるで長い待ち時間の果てに、自分は道を選び間違えたのではないかと自問し始めた男のように。
やがて俺たちは、このうらぶれた神社に辿り着いた。
看板すら古び、「水琴神社」の四文字は歳月に磨かれて輪郭を留めるのみ。香火の気配は薄く、庭の石灯籠には苔が蒸し、参道の松は天の光を細かな断片に切り裂くほど高く伸びている。ここは京都というより、時間に忘れ去られた吹き溜まりのようだった。
一人の老神官が、震える手で神代弥生の差し出した申請書類を受け取った。彼の視線が、魔法瓶の上で丸三秒止まった――好奇心ではない。確信だ。
「……馬様のご依頼かな?」
彼は三娘に会う必要などなかった。その錆びついた鉄の匂いを知っていたのだ。死んでいた空気が、この瞬間、体温を持ち始めた。
老神官はしばし沈黙し、書類を膝に置くと、霧に包まれた遠い山々を見上げた。独り言のような低い声が漏れる。
「1945年、広島から一人の娘が訪ねてきたことがあってな。呉で動けなくなっている魂がたくさんいる、助けてあげてほしいと。……当時の私は若く、力及ばずとお断りしてしまった」
彼は一呼吸置き、赤らんだ老いた眼を細めた。
「今や私は老いた」
彼は書類を押し戻し、静かに告げた。「……返さねばならん。あの時の借りをな」
煩雑な手続きも、特別な儀式もなかった。ただ、その一言だけ。半世紀以上も胸の底に押し込められ、誰かが受け取りに来るのを待ち続けていた約束だ。
引渡しの文案は通り、引魂船の準備も整った。
次は、明日の舞鶴だ。
PM 21:00 京都、水琴神社・裏庭講堂
老神官は俺たちのために、神社裏手の講堂を開放してくれた。ホテルのような暖房はなく、古い木造建築特有のしんとした冷気と、明滅する数台の紙灯籠があるだけだ。
「今夜は不自由をかけるな。明朝、バスを手配して舞鶴へ向かうとしよう」
右手の死神の指輪から聞こえる「声」が変わった。
鋭い慟哭ではなく、無数の人々が囁き合うような穏やかな喧騒。それは哀号ではなく、ただの話し声だった。俺には理解できない言語が、いくつも重なり合っている。
「周さん……彼ら、夢を託そうとしています」
弥生が俺の傍らに跪き、目を閉じた。睫毛が微かに震え、涙が音もなく頬を伝う。彼女は誰かの声を代弁するかのような、静かな口調で言った。
「家にいる人たちに伝えたいのだそうです……ようやく船に乗れたのだと」
俺は彼女の頬の涙の跡を見つめたまま、何も言えなかった。
右手を指輪に押し当てる。共鳴は尖った刺から呟きへ、そして最後には疲労と期待だけが残った深い呼吸へと変わっていく。八十年の待機が、今夜、ようやく一つの形を結ぼうとしていた。
PM 21:30 水琴神社、物置部屋
俺は物置部屋へと足を運んだ。
彼女はもう抵抗しなかった。おそらく夕方までに泣く力さえ使い果たしたのだろう。拘束を解くと、彼女は隅にうずくまったまま膝を抱え、乱れた髪の隙間から床をじっと見つめていた。
老神官が彼女に熱い茶を差し出した。彼女は両手でそれを包み込み、一口も飲まず、ただその温もりを求めているようだった。
そして彼女は、庭の景色を目にした。
その影たちは、講堂の方角に向かって一つ、また一つと、緩やかに、そして深く頭を垂れていた。幽霊ではない、怨霊でもない――それは色褪せたヘルメットを被り、古びた作業服を纏った男たちが、生の最後に見せるような、静かな感謝を捧げている姿だった。
彼女の手にある茶碗が、危うく床に落ちそうになった。
「彼ら……貴方に、お礼を言っているの?」
彼女の声は、消え入りそうなほどに小さかった。
「礼なんて知るかよ」
俺は門の縁に寄りかかり、火のついていない煙草を咥えながら、「たまたま通りかかっただけだ」という口調で言った。
「あいつらが礼を言ってるのは、八十年も待たされたこの一件が、ようやく終わるってことに対してだ」
彼女は、その影たちを長い間見つめていた。
やがて、懐からカメラを取り出すと、それを床に置き、俺の足元へと押し出した。
「全部、この中にあるわ」
彼女が言った。
「貴方たちを京都で撮った、すべてのデータよ」
俺はカメラを一瞥したが、拾い上げはしなかった。ただ、短く頷いただけだ。
「助かる。……行けよ。門の外に、駅まで送る者が待ってる」
翌日 AM 08:30 京都、水琴神社・講堂
埃の積もった格子窓から朝の光が差し込み、長い木机の上に幾筋もの線を描いていた。机の上には、湯気の立つ白粥、透き通るように漬かった沢庵、そして焼き立ての厚揚げ――老神官が「粗膳」と呼んだそれは、ここ数日で俺たちが口にした中で最も安らかな食事だった。
誰も、口を開かない。
その沈黙は抑圧ではなく、奇妙な充足感によるものだった。胃が満たされているからではない。昨夜目にした、あの深く頭を下げる影たちが瞼の裏に焼き付いていて、余計な言葉が出てこないのだ。
橋本健一と老高は、昨夜の地図の読み込みで充血した目をこすりながら、黙々と粥を啜っていた。新田唯は清潔な軍用コートに着替え、神代弥生の頬にかかる後れ毛を、細やかな手つきで払ってやっている。その動作はあまりに優しく、いつもの冷徹な彼女とは似つかわしくなかったが、茶化す者は一人もいない。今日という日の後、弥生がさらに重い戦いに臨まねばならないことを、全員が知っていたからだ。
「食べ終えたら、発つとしよう」
上座に座る老神官は箸を置いたまま、黒い瘴気に蝕まれつつも昨夜の静寂で落ち着きを取り戻した俺の右手を見つめていた。彼は懐から、朱肉の温もりを残した古びた「水路魂契」を取り出し、ゆっくりと机に置いた。
「名分は与えた。路も拓いた」
彼の声は、磨り減った石臼のように掠れていた。
「この三万の子らを、水琴の家は八十年守り続けてきた。……今日、貴殿に託そう」
彼は庭に向かって声を張り上げた。
「中根! 裏の古い車を出せ!」
結び AM 09:00 出発
裏庭から、眠りから覚めた獣の唸りのような、古いエンジンの爆音が響いた。京都の朝の静寂を、その咆哮が切り裂いていく。
老神官は、見送りなどしなかった。
彼は「水路魂契」を丁寧に折り畳んで懐にしまうと、古びた木箱を手に取った。中には儀式用の祭具が詰まっている。角の磨り減り具合からして、少なくとも四十年は使い込まれたものだ。中根が箱を持とうと手を伸ばしたが、彼はそれを制した。
「これは、自分で持つ」
彼は車へと歩み寄り、ステップに足をかける前、一度だけ水琴神社の境内を振り返った。無表情ではあったが、その瞳の奥で何かが一瞬だけ煌めいた。それが涙であったのかどうか、誰にも判別はつかなかった。
そのまま彼は車に乗り込み、橋本の隣に腰を下ろすと、木箱を膝に抱えて目を閉じた。
誰も問い詰めはしなかった。全員が悟っていたのだ。この老人は「見送り」に来たのではない。彼は「主催者」なのだ。日本側の引渡し儀式は、日本側の資格を持つ者が執り行ってこそ、初めて成立する。八十年守り続けたこの男が、最後の大役を他人に譲るはずがなかった。
弥生が彼の歪んだ襟元を直し、深く一礼した。老神官は目を開けぬまま、小さく「うむ」とだけ応じた。
俺は最後に、神社の境内を見つめた。
石灯籠の苔も、松の木も、昨夜影たちが立っていた場所も、そこには何もない。ただ陽光が空っぽの地面を照らしているだけで、まるでもともと誰もいなかったかのようだ。
だが、俺の右手の指輪の中では、三万の声がかつてないほど静まり返っていた。
消えたのではない。待っているのだ。
「行くぞ」
俺は弾薬箱を担いで車に乗り込み、禁煙飴を噛み砕いた。バックミラーの中で、京都の景色が遠ざかっていく。朱の鳥居、苔むした石灯籠、霧に隠れた遠い山々。
車内には音楽もなく、エンジンの振動と老神官が目を閉じて唱える祝詞の低音、そして指輪の中にある三万の静かな待機音が、一つに溶け合って流れていた。
舞鶴まで、あと十八キロ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




