S2第二十五章 京都――忘れ得ぬ一夜
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
■ PM 23:30 京都西陣、老舗町家「宿木」
この築百年の町家の廊下は極めて狭く、一歩踏み出すごとに鴬張り(うぐいすばり)の床が「ギィ……ガァ……」と、まるで鳥の鳴き声のような音を立てる。空気には微かな炭の匂いと古い木材の落ち着いた香りが混じり合っていたが、この「余所者」たちが足を踏み入れてからは、魔法瓶から漏れ出す鉄錆のような死気が混ざり、家全体が非現実的なほどに冷え込んでいた。
庭に面した浴室は、濃厚な檜の湯気に満たされている。近代的なホテルの機能的なシャワーとは違い、そこには巨大な円形の檜風呂があり、水面には数片の柚子が浮かんでいた。
「……ちっ」
新田唯は、全裸のまま湯船の縁に身を預けていた。狙撃手である彼女の肢体には、無数の小さな傷跡と長年の銃撃訓練で培われたタコが刻まれている。彼女は今まさに湯船に浸かろうとしている神代弥生を見やり、その冷徹な瞳に初めて物理的な敗北感を浮かべた。
弥生が静かに湯に身を沈めると、熱気が彼女の疲れた顔を瞬時に朱に染めた。巫女装束という拘束から解き放たれたその「重厚な長老」たちは、水面下で重力の偽装を失い、波紋に合わせて驚異的な、あるいは制御不能なほどの広がりを見せていた。半透明の蒸気の中で、それは月光に照らされた二つの雪丘のように揺らめき、呼吸のたびに水面を揺らしては檜の縁を叩く。
「神代さん……そんな身体で、本当にまともに戦えるのか?」
新田は自身の平坦で筋肉質な胸元を見下ろし、「この世は不公平だ」と言わんばかりの、職業的な嫌悪感を露わにした。
「こ、これは……生まれつきで……」
弥生は恥じらいのあまり顔の半分を湯に沈めた。水面下のその「神域の容積」は、姿勢の変化によってさらに押しひしがれ、檜の香気と共に息の詰まるような官能の熱量を放っていた。
傍らでは、林雨瞳が優雅に手ぬぐいで鎖骨を拭い、霧の中で紅い瞳を明滅させている。葉綺安は黙って天井を見上げ、身体に染み付いた硝煙の臭いを熱湯に委ねていた。エリス、小葳、田中美玲たちがひしめき合うこの「泥落としの儀式」は、殺気立っていた「鋼鉄班」の防線をも、この瞬間だけは柔らかな桃色の平穏へと液化させていた。
深夜、廊下
俺は庭に面した縁側に座っていた。右手の黒い瘴気は、深夜の冷気の中でいっそう禍々しく映る。風呂から上がった弥生が、薄手の白い浴衣を纏い、湿り気を帯びた髪のまま俺の隣に静かに腰を下ろした。
「周さん、抑え込むのではありません」
弥生は囁くような声で言い、俺の左手をそっと自分の丹田へと導いた。
「この死気に、『こいつを蝕む価値はない』と思わせるのです。貴方はただの……出口のない瓶に過ぎないのだと」
彼女のリズムに合わせて二度、三度と深呼吸を繰り返す。血管を突き刺すような寒気が体内を巡り、それがやがて、不思議なほどに和らいでいくのを感じた。
「……まるで幽霊を担いでる(ペテンにかけてる)みたいな理屈だな」
俺は火のついていない煙草を咥え、自嘲気味に笑った。
「ええ、その通りです」
弥生は真剣な眼差しで俺を見つめ、微笑みもしなかった。「騙し通せば、それは鎮まります。それが『引渡し(いんど)』の本質なのですから」
やがて人々は散り、町家は深い静寂に包まれた。死んだように静まり返った深夜、鴬張りの床が誰かの寝返りの気配を拾い、幽かに「ギィ……ガァ……」と鳴り響く。
二階の虫籠窓に寄りかかり、月光に銀白く照らされた瓦を見つめるキアンの姿があった。彼女は極めて小さな声で、古風で跳ねるような、南部の農村特有の哀切を帯びた旋律を口ずさんでいた。
「何を歌っているのですか?」
廊下で通りかかった弥生が、優しく問いかける。
「……わからない」
キアンは振り返らず、空虚な瞳のまま答えた。「おばあちゃんが畑仕事の時に歌っていたのを、二節だけ覚えてるの」
そう言うと、彼女は月光の下で受難する石像のように、再び沈黙へと沈んでいった。
奧へと続く廊下では、林雨瞳と希が畳を挟んで対峙していた。ユートンは微かな灯りを頼りに呉港の霊圧記録を整理し、シキは魔法瓶を抱えたままうたた寝をしている。時折、馬三娘の掠れた官僚的な呟きが瓶の口から漏れ出し、「所有権」に関する愚痴をこぼしていた。聞き取れはしないが、その声は空気を物理的に押し潰すほど重い。
エリスとアピスはとっくに折り重なるようにして寝入っており、老高と小葳は部屋の隅で、画面のブルーライトに照らされながら明朝のためのデータ処理に追われていた。
「……う、ううっ」
薄暗い物置部屋では、ちまきのように縛り上げられたあの「偽スパイ娘」が、微かで怯えきった抵抗の声を漏らしている。その細かな雑音を除けば、邸内には他に異常はなかった。
俺は一通り見回った。自衛隊の「鋼鐵班」は、外側の和室を占拠し、存在を消したかのように静まり返っている。スマホを確認すると、時刻は真夜中を過ぎたところだった。
弥生が言った言葉が、抜けない刺のように脳裏にこびりついている。
『騙し通せば、それは鎮まります』
真夜中、町家、大浴場付近
俺は廊下に立ち、ずっと火をつけずにいた煙草を指先でへし折ると、角にある灰皿へと放り捨てた。
もういい、十分だ。この古都の、あまりに優しすぎる静寂の波長にこれ以上身を委ねていたら、俺は今夜、何も手につかなくなる。ただ縁側に座ったまま、夜明けまで風に吹かれているだけになってしまう。
大浴場の入り口に立つ。町家特有の総檜造りの風呂は、古雅な趣に満ち、湯気がもうもうと立ち込めていた。俺は泥棒のようにあたりをキョロキョロと窺い、あの「猛者揃いの女連中」が寝静まったのを確認すると、素早く服を脱ぎ捨てて中へと滑り込んだ。冗談じゃない。せっかく日本に来ておいて、まともに風呂も入らずに帰れるか。公費での慰安旅行なんて、これが最初で最後かもしれないんだからな。
「ふぅ……」
熱い甘泉に全身を沈めると、右手の死気が熱に中和され、一時的に麻痺していく快感が襲う。包帯の隙間から熱湯が染み込み、芯を突くような、快楽に近い疼きをもたらした。久しぶりの感覚だ――戦闘でも、死気でもない。ただ単純に、生きているからこそ感じられる「熱」だった。
目を閉じて休息に浸っていた、その時だ。外の引き戸が不意に鳴った。
「ギィィ……」
どうせ老高か、橋本あたりの野郎どもだろう。
「士達……中にいるのか?」
聞こえてきたのは、少し疲れを帯びながらも、野性味に満ちた女性の声だった。
しまった――希だ。
「ま……待て! 開けるな! 入ってくるな!」
俺は仰天して、危うく湯船から飛び出しそうになった。
だが、遅すぎた。
「ガラッ」
彼女には弥生のような遠慮も、新田唯のような硬直した衝撃もなかった。短く切り揃えられた黒髪には山風の香りが微かに残り、檜の蒸気の中でその存在は異様なほど野性的に映った。長年、険しい山嶺を駆け抜けてきたその肢体は、雌豹のごとき流麗な美しさを放っている。それは計算されたしなやかさではなく、汗と山道で鍛え上げられた、捕食者特有の引き締まった緊張感だ。一筋の筋肉も無駄がなく、それでいてこの檜の空間においては、どんな芸術品よりも俺の呼吸を奪い去った。
彼女は長い脚を伸ばし、山あいの渓流を越えるかのような迷いのない動作で湯船に跨り入ってきた。野性的な曲線が狭い水域を圧迫し、水位が一気に縁を越えて溢れ出す。鎖骨を打つ熱い波に、俺は思わず息を呑んだ。水の熱さではない。彼女の熱だ。
「……おい、シキ! この桶は二人用じゃないぞ!」
「黙れ。私が入れと言えば入るんだ」
シキは俺の真向かいに腰を下ろすと、挑発的に脚を伸ばし、俺の膝を自身の足裏で踏みつけた。その力は決して強くはないが、正確だった――領土を宣言する釘のように、俺の最後の防衛線に臆することなく打ち込まれる。蒸気に乗って、森林と汗が混じり合った彼女特有の香りが立ち上る。それは深山のすべての気配をこの狭い檜の空間に凝縮したかのような、濃厚な芳香だった。
水位が上がったことで、弥生のような過剰さこそないが、強靭な張りと弾力を備えたその「双丘」が、水面に揺られながら俺の胸元で露わになる。時には水面下に潜み、曖昧な熱影となり、時には呼吸に合わせて微かに浮き上がり、水滴を纏って灯りの下で抗いがたい光沢を放つ。俺の視線はその光沢に、留まるべきではない一秒を費やし、狼狽しながら逸らした。だが、その温度はすでに瞳から胸へと焼き付き、さらに下へと――熱湯に浸かり麻痺していたはずの身体の奥底へと、野火のように燃え広がっていた。
身体は嘘をつけない。
腰のラインから下で、密やかに、そして困惑するような変化が起き始めていた。俺はただ湯船の縁を固く掴み、重心を整えるふりをして必死にそれを隠し通すしかなかった。
「私を見ろ、周士達」
彼女は上体を伏せ、自らの重心をすべて預けるように覆いかぶさってきた。それは試行ではなく、宣告だった。
濡れた黒髪が滝のように流れ落ち、彼女の肩から鎖骨にかけて散らばる。それは俯く角度に合わせて俺の視界を侵食し、逃げ場を奪う網のように展開された。鼻先が触れ合うほどの距離。鋭い隼のごとき彼女の双眸は、今は燃える琥珀のように光を宿している――それは穏やかな燃焼ではない。山を丸ごと焼き尽くすような、周到に準備された野火の熱量だ。
唇の端に彼女の吐息を感じる。熱い湯気と、その奥にある彼女自身の体温。俺の鼓動は、肋骨の裏側で体裁の悪いリズムを刻み始めた。絶体絶命の窮地に追い込まれ、狂ったような跳ねる鼓動で、辛うじて自分が主導権を握っていると自己暗示をかけている……そんな無様な有様だった。
俺は、何も言えなかった。
「忘れるな、貴様の命は私のものだ。使命を果たすまで、勝手に死ぬことは許さない」
彼女の声は掠れ、山林の中でしか育まれないような低周波の共鳴を帯びていた。一文字一文字が胸腔の奥から絞り出され、熱い湯の中に、俺の耳道に、そして俺が完全に放棄した最後の場所へと沈んでいく。
そして、彼女はさらに距離を詰めてきた。
姿勢を傾け、俺の胸板にぴたりと押し当てられたその温かな柔らかさは、極めて侵略的な熱量を伴っていた。それは山林を焼き尽くす野火のように、準備ができているかなどお構いなしに、皮膚から直接内側へと焼き付いてくる。神代弥生の持つ、窒息しそうなほど神聖な重量感とは違う――希のは、もっと荒々しい山津波だ。手を伸ばして止めようとすれば、逆に飲み込まれてしまうような抗いがたい力。滑らかでありながら強靭な弾力を備えたその圧迫感に、俺の背中は檜の壁に強く押し付けられた。熱水の中で、俺の左手の掌に収まった彼女の腰は、鋼鉄のように引き締まっていながら、絹のように滑らかに指を滑らせる。「掴む」べきか「溺れる」べきか、俺の指先はもはや判断能力を失っていた。
理智が崩壊する寸前、脳裏にはただ一つの言葉だけが残った。
――今夜ばかりは、冷静なふりなんてできそうにない。
「シキ……ここは山じゃない。逃げ場なんてないぞ」
俺の声は自分でも驚くほどに嘶き、左手はこの荒れ狂う野火をさらに一寸、深く懐へと引き寄せた。
「誰が逃げると言った?」
シキは口角を狂おしく吊り上げ、猛然と俺を深い水域へと引きずり込んだ。
その瞬間、浴室の重力は消失した。戦場の硝煙も、霊魂の重荷もない。ただ霧と甘泉の中で激しく交錯する、二つの肉体があるだけだ。それは声なき、それでいて驚天動地の「使命の完遂」だった。肌が擦れ合うたびに火打石がぶつかり合うような衝撃が走り、急促な喘ぎが木造の壁に反響し、桶の縁から溢れ出す熱水は、二度と取り消すことのできない決然たる宣誓のように床を叩いた。
湯は絶え間なく溢れ出し、鴬張りの床を濡らしては、細かな呻きのような音を立てる。
沈黙を守る古都・京都の中心で、この狭い浴室だけが、俺たちが死に抗い、命を一時的に浪費できる唯一の塹壕となった。
海潮のような最後の一波が静かに引いていくと、シキは俺の肩に顔を埋めた。汗と水滴が混じり合い、野性と温存が溶け合った熱浪が漂う。彼女の指はいまだに俺の右手を固く繋ぎ、死神の指輪をその掌の中に包み込んでいた。まるでこの「戦い」の果てに、生者の焦熱をもって、あの三万の霊魂たちの寒気を焼き払い、故郷へと続く道を切り拓こうとするかのように。
京都の夜は、依然として冷たく静まり返っている。
だが、この湯は、黎明が訪れるまで冷めることはないだろう。
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