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第四章:尻ぬぐい ―― 民生東路の怪異

「いいか坊主、お前がバイクを回せ。場所はここだ。まずはニウの姉御に会う。セーフハウスに俺たちの『得物えもの』があるからな。」

馬三娘マー・サンニャンがスマホの画面を突き出してきた。

そこにはGoogleマップの座標と並んで、あるInstagramのアカウントが表示されていた。フォロワーは数万人。フィルターで塗り固められ、加工され尽くした甘ったるいインフルエンサーの自撮りが並ぶ。その顔は、間違いなく俺の目の前にいるこの「肉体」のものだった。

俺は数秒間、その写真を見つめ、頭皮が痺れるのを感じた。一体、どんな世の中だ。

「借り物の肉体だ。元主はアイドルだったらしい。」

馬三娘は俺の困惑を見透かしたのか、油圧プレス機のような力で俺の頭を叩いた。「四の五の言わず、さっさと出せ。」

座標を頼りに辿り着いたのは、民生東路にある古びた教会だった。

夕陽が沈みかけ、余暉が尖塔を疲弊した橙色に染めている。馬三娘はブランド物のバッグから黒い血の付着したリモコンを取り出し、無造作に駐車場のゲートを開けた。

「中に停めな。」

バイクを停め、教会の裏手にある剥げかけた緑色のドアを開ける。

その瞬間、台北の湿った熱気は消え去った。

代わりに襲ってきたのは、脳を削るような、一定不変の電磁ノイズだ。まるで音叉を頭蓋骨に突き刺されたかのように、不快な振動が耳の奥に浸食してくる。

そこにはコンクリートも鉄筋もなかった。視界の果てまで続く、染みだらけの黄ばんだ絨毯。蛍光灯の無機質な白光の下で、それは胃をむかつかせるような色を呈していた。

空気は滞留し、過熱した古い蛍光灯から漏れ出すオゾンの焦げ臭い。

「都市伝説は知っているか、坊主。」

馬三娘は物理法則を無視したその空間へと足を踏み入れる。「ここは元々存在しなかった場所だ。お前たち現世うつしよの住人の執念が、言葉を重ねて作り出した世界の余白。……お前たちは確か『バックルーム』と呼んでいたな。備品を置くのにちょうどいいんだ。」

あの有名なネット怪談バックルームを倉庫代わりにしているのか? 俺の脳は処理落ち寸前だった。


蛍光灯のハミングが耳を削る中、俺は彼女の影を見た。壁に伸びた影は細長く、その先端は不気味に枝分かれし、巨大な馬の首(馬面)の輪郭を形作っていた。

彼女は部屋の中央に置かれた錆びた鉄製デスクへと歩み寄る。

ニウの姉御、客を連れてきた。得物を出しな。これから哀れな不法残留者に会いに行く。」

その時、デスクの陰から後室の壁を震わせるほどの怒鳴り声が響いた。

「おっ、馬一春マー・イーチュン! 帰ったか!」

湿り気を帯びた影のような三娘とは正反対の、荒れ狂う活火山のような熱気。それが、彼女の相棒――「牛頭ごず」こと牛小琴ニウ・シャオチンだった。

「その『真名』をいい加減に扱うなと何度言えばわかる!」

馬三娘の怒声が響く。

「へへっ。あんたが最近噂の『脂身あぶらみ』……じゃなくて『大貴人』だね?」

牛小琴が豪快に笑う。半分が火傷の痕に覆われたその顔は、凶悪なまでの威圧感を放っていた。

彼女は黄色い壁をリズミカルに叩く。壁が肉塊のように蠢き、裂け目から重厚な金属ラックが引きずり出された。

標的ターゲットはアルファ。バチカンの法皇庁ほうおうちょうが仕損じ、俺たちに押し付けてきた『尻ぬぐい(不始末)』だ。ランクはBマイナスからBプラス。派出所は既に祭壇を築き、土地神と協力して結界を展開している。」

彼女は俺に重いプロテクターを投げつけ、そして、ずっしりと重い「何か」を差し出してきた。

俺の手の中にあったのは、サブマシンガンだった。

地獄の執行官が収霊に使う武器が、銃火器? 世界観がバグりすぎてやしないか。

「今時、いつまでも刀や剣を振り回しているとでも思ったのか?」

馬三娘がポンプアクションの散弾銃を構え、乾いた音を立てて装填する。

俺たちは、「神は愛なり」とデカデカと書かれた白い福音車バンに乗り込み、戦場へと向かった。脳の皮質が剥がれ落ちていく感覚がする。

民生東路三段。

結界の境界線では、数歩先で日常が流れているのに、この路地の中だけは古い冷蔵庫のようなカビ臭い沈黙が支配していた。

土地神が警官の肉体をジャックし、事態を繋ぎ止めている。

「坊主、お前は後方で観戦してな。死に急ぐんじゃないよ。」

牛小琴がタクティカルマスクを上げ、二人は豹のような速さで階段を駆け上がっていく。

直後、空気を切り裂く轟音が響いた。アサルトライフルの連射音と、雷鳴のような散弾槍の重低音。

「ルーキー! ターゲットが下に逃げたぞ! さっさと撃ち殺せ!」

足元に撒いたばかりの純白の粗塩が、見る間にどす黒く変色し、炭化していく。

「――まずい。」

俺は背中の銃を引っ掴み、振り向いた。

五官の失せた肉塊が、ヘルメット越しに腐敗臭を放ちながら迫る。黄金色の蟲がその顔の上で蠢いていた。

「生贄……お前か……?」

俺は呼吸を止め、銃口をその混沌の真っ芯に押し当てて引き金を引き絞った。

「ダダダダダッ!!」

特製の塩弾しおだんが至近距離で炸裂する。火薬で熱せられた塩の粉末が、怪異の肉を内側から焼き潰し、黒い煙を上げた。

怪異はガラスの割れるような悲鳴を上げ、酸に溶ける泡のように崩壊して消えた。

「大丈夫かい、少年。」

牛小琴が俺を小猫のように持ち上げる。背後では馬三娘が階段を降りてきたが、その右頬には不自然な腫れがあった。……激戦を物語っている。

「教会の聖水だ。一気に飲み干せ。……憑依の予防だよ。」

彼女は風邪薬でも渡すような素っ気なさで、プラスチックのボトルを突き出した。

窓の外では、民生東路を行き交う車の音が絶え間なく響いている。

この都市は何も知らず、何も気に留めることはない。

俺の脳の皮質が、最後の一枚まで剥がれ落ちていく感覚がした。

「……自分が何をしたか、分かっているのか?」

二階で楊世傑ヤン・シージェを見送り、地下室の凍てつく長廊下を戻る途中、角を曲がったところで牛小琴ニウ・シャオチンが激昂している現場に出くわした。

「あいつは『大貴人だいぎじん』だぞ。てめえの玩具じゃねえんだよ、クソアマ! 数百年に一度の極上品だ、誰だって掌の上で大事に転がすもんだろが!」

「玩具にしてるつもりは……」

馬三娘マー・サンニャンの声が角の向こうから漂ってくる。二日酔いの後のような、粘り気を帯びた、語尾をずるずると引きずるような、ひどく甘ったるい声音こわねだった。

「ただ……あまりにも、香ばしかったから」

前言を撤回する。あいつは俺を玩具になんてしていない――もっとタチの悪い「極上のエサ」だと思っていやがる。

「坊主、こっちへ来い!」

牛小琴の怒号に、俺は手に持った聖水瓶を落としそうになった。彼女の顔にある、ケロイド状の火傷跡が激昂で赤黒く充血し、灯りの下で一層おぞましく蠢いている。

「今後、こいつには地府じふの配給しか食わせるな。人間に『陽気ようき』を吸わせる癖をつけさせるのは、ヤクを打つのと同じだ。今日のB級妖魔を見たか? 過剰摂取で理性が焼き切れ、成れの果てがあのザマだ。陽気は陰魂いんこんにとっての強心剤だが、魂が霧散しそうな時にだけ許される禁忌だ。これ以上甘やかすんじゃねえぞ」

……大体の事情は察しがついた。

馬三娘がオフィスか車の中で俺から陽気を「密かに」吸い取った結果、戦場であの薬物摂取にも似た恍惚ディープ・トランス状態に陥り、意識が朦朧としてあんな失態を演じたわけだ。

つまり俺は、地府の連中から見れば、最高純度のメタンフェタミンか何かってことか?

「三晩もあれば抜ける」牛小琴は手品のようにポケットから蝋燭と線香の束を取り出し、俺の手に押し付けた。「数日はこれだけを食わせろ」

「は?」

「はあ、じゃねえよ。あいつは幽霊なんだ。忘れたか?」

牛小琴は呆れたように目を剥いた。俺は一瞬言葉を失う。数週間の共同生活で、あの国民的アイドルの皮囊うつわの下に、一体どんな怪物が棲みついているのか、確かに忘れかけていた。

「いいか、二度と陽気を与えるなよ」

牛小琴は急にわざとらしく周囲を伺い、俺の耳元に口を寄せて、声を潜めてこう付け加えた。

「……陽精ようせいも、ダメだぞ」

「おい! いい加減にしろ!」

俺は顔を真っ赤にし、この不真面目な老鬼差ロウキサイをドアの外へと突き出した。

牛小琴が去った後、俺は一部屋を空け、ドアの隙間や窓枠に霊体を抑え込む符呪ふじゅを隅々まで貼り付けた。馬三娘の透過逃亡を阻止するためだ。部屋の中央には、ガタつく折り畳みテーブルを置き、彼女の位牌と供花、果物、そして一本の沈香じんこうを立てた。

俺は部屋を出て鍵をかけ、ドアの枠に最後の一枚の封印を施した。

一晩目は、死のような静寂が続いた。

二晩目――。

俺は「最高級の事故物件じこぶっけん」というものが、一体何を意味するのかを骨の髄まで叩き込まれた。

建物全体が、規則正しく震動し始めたのだ。基礎の下に、死にかけの巨大な心臓が埋まっていて、それが執拗なまでの頻度でドクン、ドクンと鼓動を打っているかのようだった。

照明が明滅を繰り返し、鼓膜をつんざくような炸裂音を立てる。符を貼ったドアを除いて、家中のあらゆる戸棚や引き出しが、狂ったように開閉を繰り返しては激突する。まるで壁の裏側に潜む何かが、あらゆる出口を絶え間なく試しているかのようだった。

暗闇の中、時折、人間の喉から発せられたとは思えない、引き裂かれるような絶叫が響く。

それは馬三娘が、魂に刻み込まれた、あの純粋な陽気の快感――その「残滓ざんし」と血みどろの闘争を繰り広げている音だった。

俺は廊下の床に座り込み、封印されたままのドアに背中を預け、その声を一晩中聞き続けていた。

四日目の早朝。台北特有の、どんよりとした灰色の光が窓ガラスから射し込む頃、扉の向こうから極めて微弱な声が届いた。それは、紙やすりで何度も擦り減らされた弦が、辛うじて音を立てているかのようだった。

「おい……開けなさい、周 士達(ジョウ・シーダー)

彼女が俺の名前を呼んだのは、これが初めてだった。

「おい」でも、「小僧」でも、「若造」でもない。揶揄いも、計算も、彼女が普段自分と他人を隔てるために纏っているあらゆる虚飾が剥ぎ取られた――そこにあるのは、死線を越えた者だけが共有する、対等で徹底的な疲労感だけだった。

俺はおそる恐ろしい、ドアの封印を剥がした。冷や汗をかいているかのように湿った木製の扉を押し開ける。

部屋に充満した古い線香の臭いは、もはや凝固しているかのようで、肺に吸い込むたびに微かな抵抗を感じさせた。馬三娘は折り畳みテーブルの傍らに座り、まるで墨汁の池から引き揚げられた直後のように、濡れた黒髪を青白い首筋に張り付かせていた。俺の視線は、彼女のうなだれた輪郭を辿り、上方へと移動した。

――そして、凍りついた。

現世シャバのいかなる言葉をもってしても、その視覚的衝撃を正確に記述することはできない。強いて言うなら、伊藤潤二が描く「富江」だろうか。至高の美の中に、醜悪な増殖物が強制的に弾け出したような――惹きつけられる美しさと、逃げ出したいほどの嫌悪感が同時に突き刺さる、矛盾した衝動。

馬三娘の整ったアイドルの顔、その右側の額から上にかけて、暗紅色の肉塊が激しく蠕動ぜんどうしていた。それは腫瘍ではない。湿った産毛を纏い、充血した眼球を突き出した「畸形の馬の頭」が、繭を破るようにして彼女の側頭部から這い出し、音もなく咆哮していた。まるで別の意識が、彼女の皮膚の下から強引に押し寄せ、溢れ出そうとしているかのように。

「ジョウ・シーダー……」

馬三娘がゆっくりと目を開ける。普段の深い瞳は、今は静電気のノイズが走るモニターのように、無数の黒い点に覆われていた。

「一度、地府へ戻るわ。陽界の陽気は、私の魂には刺激が強すぎた……今の状態ではフォームを維持できない」

彼女の声は平坦だった。あらかじめ決めていた予定を淡々と告げるかのように。

「憑依を解除する。この『容器』は……しばらく貴様に預けるわ」

俺が口を開く暇もなかった。

窒息しそうなほどの圧迫感が、唐突に霧散した。

限界まで張り詰めていた弦が弾けたような、虚無の余韻が空気に残る。蠕動していた馬面の肉腫は、馬三娘の意識と共に、音もなく、綺麗さっぱり消え去った。直立していた身体は支えを失い、骨を抜かれた操り人形のように、がっくりと椅子に崩れ落ちた。

「は? ……マジかよ、おい!」

俺は入り口で呆然と立ち尽くした。

ちょっと待て――。さっきまでの「共に苦難を乗り越えた感動」を返せ! これのどこが責任ある撤退だ。完全な「悪性ネグレクト」じゃないか!

「……んっ……?」

五秒も経たないうちに、その「容器」がゆっくりと目を開けた。

その瞳を見た瞬間、俺の喉に息が詰まった。澄み渡り、茫然自失とした、まるで深い夢から覚めた直後のような純粋な困惑――それは、馬三娘のあの、すべてを見透かすような灰色の瞳とは、決定的に違っていた。

彼女はカビの生えた壁や符呪だらけのドア枠を見渡し、最後に視線を俺の顔で止め、感極まったように口を開いた。

「天使様は……どこですか?」

俺は危うく血を吐くところだった。

おいおい、やっぱりやってやがったな。台湾のどんなニッチな民間信仰でも、牛頭馬面を拝むなんて聞いたことがないと思えば――「天使」にパッケージを偽装して、この子の信心と肉体を食い物にしていたのか。一体、どれだけの期間、彼女を騙し続けてきたんだ。

「あー……その、」

俺は喉を鳴らし、人生で最も不細工な表情で、人生で最も不細工な嘘を吐いた。

「『あの方』なら、急な公務でちょっと天国まで戻られたよ。……たぶん、数日もすれば帰ってくると思うぞ」

少女は期待に満ちた瞳で俺を見つめている。

俺の良心が、今、猛烈な火で焼かれている。


テレビの中では、黒髪ロングの少女が紅茶のティーバッグを掲げ、レンズに向かって透き通るような――実在感を疑うほどに清純な笑みを振りまいていた。

「毎朝の元気のために――」

甘ったるいキャッチコピーが空気に溶け出す。画面の右下には、彼女の芸名が躍っていた。――ステラ(Stella)。

俺はテレビを消した。

画面が消える直前の最後の一筋の光が、ソファに座る「それ」を照らし出した。テレビの中と瓜二つの肉体。

少女は静かに座っていた。両目は空洞うつろで、中身をくり抜かれた人形のように、壁のどこにも存在しない一点を見つめたまま、微動だにしない。その死んだような凝視に、背筋が凍る。幽霊に対する恐怖ではない。中に人間が残っているのかさえ定かではない「モノ」に向かって語りかけなければならない、その根源的な不安だ。

俺は平静を装い、タバコに火をつけた。深く吸い込み、吐き出した紫煙が符呪ふじゅの間を緩やかに漂う。

「……差し支えなければ、君の名前を教えてくれないか? それと、最後に覚えていることは何だ?」

数秒の沈黙。

やがて、彼女はゆっくりと首をこちらへ向けた。頚椎が、長い間使われていなかった蝶番ちょうがいのように、微かにギギ……と軋んだ音を立てる。瞳の奥に残っていた血色が引いていき、代わりに、背筋が寒くなるような「狡猾さ」が宿り始めた。それは覚醒というより、打算だ。暗闇の中に長く放置されていた者が、目の前の環境を再評価する時の、あの冷徹な計算。

彼女は立ち上がり、猫のような足取りですり寄ってきた。動作は優雅だが、その優雅さの裏には刃が隠されている。

「私は『シャイニング・スター』のステラ」彼女の声は、蛇が這うように低く、軽い。「本名は、葉 綺安イェ・キアン。……おじ様は?」

「ジョウ・シーダーだ。ただの会社員だよ」

「ただの人間……ですか」

彼女は嫣然えんぜんと微笑んだ。定規で測ったように正確な笑顔。だが、その笑みは瞳には届いていない。彼女の視線は俺の顔から壁を這い、ドア枠をなぞり、一つひとつの符呪の上で一秒ずつ停止した。そして最後には、まま母のような執拗なまでの「刺」を伴って、俺の元へと戻ってきた。

「普通の人間が、家に『圧殺符あっさつふ』をベタベタ貼るかしら? 黒犬の返り血に浸した麻縄をインテリアにする人間がどこにいるの?」

彼女の口角が吊り上がる。「ジョウさん……私に、何をするつもりだったのかしら?」

心臓が跳ね上がった。

普通、憑依から覚めた人間の反応は、うずくまり、泣き、ここがどこかを問うものだ。だが彼女は違う。目覚めて真っ先に行ったのは環境の『スキャン』であり、脅威の評価。そして、俺がもっとも返答に窮する急所を見つけ出し、正確にそこを刺し貫いた。

「……初めてじゃないな、君」

問いかけではなく、確信を持って俺は言った。

「当たり」

彼女がすり寄ってくる。耳元に触れる吐息は温かいはずなのに、その気配に背筋が凍る。「さあ、教えて。貴方と馬三娘マー・サンニャンはどういう関係? パートナー? それとも……冥婚めいこんでもした死人の夫?」

「俺とあいつは……一種の共生関係、というか。……えんみたいなものだ」

口にした瞬間に後悔した。

「縁? ――ふざけんじゃないわよ!」

さっきまで優雅な国民的アイドルを演じていた顔が、次の瞬間、跡形もなく崩壊した。

彼女は脱兎のごとく飛びかかり、細い指を鷹の爪のように俺の喉笛に食い込ませた。その力は、彼女の華奢な体格からは到底考えられないほど強大だった。

――馬三娘めめんの神力が、筋肉の記憶マッスルメモリーとして残っている。

「警告しておくわ。馬三娘に近づかないで。あの方は私の救世主、私だけのものなの!」

彼女の瞳の中で、頭皮が痺れるような『何か』が燃え盛っていた。怒りではない。怒りよりもさらに深く、暗い何か。「誰一人として、あの方を独占することは許さない!」

……この女、イカれてやがる。

憑依の後遺症なんかじゃない。これは病的なまでの、狂信的な崇拝だ。

喉を締め上げられ、視界が赤く染まる。だが生理的な優勢はまだ俺にある。俺は力任せに彼女の手を振り払い、その脆弱で狂った肉体をソファへと突き飛ばした。

「この……キチガイ女が!」俺はむせび返りながら怒鳴った。

だが彼女は、手負いの獣のように再び弾かれたように飛び出してきた。人間の関節構造を無視したような、不気味な軌道。回避すら間に合わなかった。

気づけば俺は床に押し倒されていた。葉綺安イェ・キアンが俺の上に跨り、雨あられのごとく拳を振り下ろしながら、泣き叫ぶ。

「返して! あの方を私に返してよ!」

俺の顔に滴る涙は、氷のように冷たかった。生きた人間の体温ではない。おそらく、憑依されていた期間に蓄積された負の感情が、今一気に決壊したのだろう。

だが、そんな分析をしている余裕はなかった。彼女の指先はすでに頸動脈を捉えている。

俺は今、本気で考え始めていた。「国民的アイドルに絞め殺される」という最期は、果たしてアリなのか、という問題を。

その時、リビングの隅から嘔吐おうとを催すような陰風が吹き荒れた。

倒れていた位牌が「ガタッ」と独りでに起き上がる。二本の赤い蝋燭が火もつけずに自燃し、むせ返るような惨緑色エメラルド・グリーンの火花を散らした。リビングの影という影が、不健康な色に染め上げられていく。

そして、その影が現れた。

黒いセーラー服を纏い、錆びついたスイカ包丁を握りしめた少女がソファの傍らに立っていた。映画『呪怨』の伽椰子のように首を傾げ、その視線を葉綺安イェ・キアンからゆっくりと俺の顔へと移す。一秒の静止の後、彼女の口角が吊り上がった。

「あら、もういい仲になったのかしら? 私のことは気にしないで、続けなさいな」

馬三娘マー・サンニャンは惨緑色の火影の中で、冷ややかな笑みを浮かべて追い打ちをかけた。

「女の首を絞めるのが好きな男は見てきたけれど、女に絞められるのが好きな男は初めて見たわ。ジョウ・シーダー、貴様は『エム』なのかしら?」

「マー・サンニャン……ッ!」

俺は真っ赤から紫へと変わりつつある顔で、喉の奥から絞り出すように助けを求めた。「助けろ……ッ! 貴様の狂信者に殺されるところだぞ! 軽口叩いてる場合か!」

馬三娘は鼻で笑った。

彼女が片手を軽く払う。蜘蛛の巣を払うような何気ない動作。だがその瞬間、俺の上に跨っていた葉綺安が、仔猫のように軽々と引き剥がされた。馬三娘は身を屈め、俺が今まで一度も見たことのない表情を浮かべた。冷淡でも計算でもない、強いて言うなら「慈しみ」に近い何か。彼女は震える葉綺安を優しく抱き寄せた。

「もう大丈夫よ、いい子ね。……私が戻ったわ」

俺は床に倒れ込み、激しく咳き込みながら酸素を求めた。胸の中は行き場のない怨念でいっぱいだった。

偏愛だ。これは紛れもない、露骨なまでのエコ贔屓ひいきだ。俺には親のかたきのように当たるくせに、このイカれた女には実の姉のように優しいなんて。

だが、馬三娘の手にあるあの錆びついたスイカ包丁を一瞥いちべつし、その言葉を飲み込んだ。

そうだよ、俺はヘタレだよ。文句あるか。

数瞬の後、馬三娘の姿が一筋の、生臭く甘い黒煙へと変わった。煙は葉綺安の鼻腔と口へと緩やかに吸い込まれていく。煙が霧散した後の空気には、硫黄と古い香が混じったような残臭が漂っていた。それは、霊体と肉身が交わる際のもっとも原始的な融合。儀式めいた神聖さは微塵もなく、ただただ不気味なほどに静かだった。

やがて、葉綺安の身体は落ち着きを取り戻した。

彼女が再び目を開けた時、そこにあった清純な困惑は消え去っていた。代わりに宿っていたのは、あの馴染み深い冷淡さ――馬三娘の瞳が、葉綺安の眼窩がんかに収まっている。その強烈な違和感こそが、俺にとっては「正常」な光景だった。

「あいつに出会った時、」

彼女はテーブルの上の水差しを掴んで、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。荒々しく口元を拭い、ようやく口を開く。

「あいつは自殺しようとしていた……というか、もう半分あっち側へ行っていたわ。あんな些細なことで死なせるのは惜しいと思ったし、何よりあいつはまだ『陽寿ようじゅ』が尽きていなかった。天寿を全うせずに死んだ者への罰は重いわよ。『冤死城えんしじょう』――あんな場所に、あの子を落としたくはなかった」

彼女の口調は平坦だった。まるで他人の事務手続きを説明するかのように。

「そういう悲劇的な裏事情バックストーリーは理解したよ」

俺はソファを支えに立ち上がった。首に残る指の跡がいまだにズキズキと痛む。

「だが、さっきの食い殺さんばかりの形相はどうだ。……あと二分遅かったら、この部屋は立派な『事故物件』になっていたところだぞ。馬三娘マー・サンニャン、これだけは釘を刺しておく。もしあの子を制御しきれないっていうなら、次に憑依おろしを解く時は、悪いが麻縄で縛らせてもらうからな」

馬三娘は面倒そうに手を振った。

「分かっているわ。イェちゃんとはよく話しておくわよ」

彼女は俺に視線を向けた。

「もう十一時過ぎよ。明日も仕事なんでしょ? さっさと寝なさいな」

言い捨てると、彼女は符呪だらけの客間へと姿を消し、「バンッ」と音を立ててドアを閉めた。

俺はリビングに立ち尽くし、行き場のない不満を腹の底に抱え込んだままだった。

結局、窓を全開にして、深夜の台北の街に向かって立て続けに三本のタバコを吸った。

階下の民權東路みんけんとうろには、まだ数台のバイクが走り去る音が響いている。向かいのコンビニの明かり、通り過ぎるデリバリーのバイク――。保温箱に貼られたフライドチキンのロゴステッカーすら、泣きたくなるほど「普通」だった。

タールとニコチンが死の恐怖を無理やり押し込める。だが、それはあくまで押し込めただけで、消えたわけじゃない。

夜が明けるまで、家の中には、あの客間から漏れ聞こえる微かな寝息だけが満ちていた。

あまりにも静かで、まるで最初から何も起きていなかったかのように。


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